犬目線、ときどき毒舌。柴犬たちの人間観察エッセイ、開幕。
ボクは茶色の柴犬。
名前はまだ・・・なかった。
正確に言えば「ぐんま1号」という、なんとも無感動な名札がガラスケースの前に貼ってあった。
それはボクを呼ぶための名前というより、値札の隣に添えられた、ちょっとした飾りのようなもので、ボクを識別する為の記号のようなものだ。
三ヶ月と少し前。生まれてすぐの頃は、ボクの周りには兄弟がわんさかいて、みんな輝いていた。
ふわふわの毛並み、つぶらな瞳、店員のお姉さんの「きゃー可愛い!」の声。あの頃は良かった。
問題なのは、犬という生き物には「旬」があるということだ。
子犬の可愛さのピークは驚くほど短い。
生後二ヶ月からせいぜい三ヶ月。その黄金期を過ぎると、途端に「ちょっと大きくなった犬」に成り下がる。
ボクはその黄金期を、ガラスケースの奥で、ただただ、ぐっすり寝て過ごすという戦略ミスによって、まるまる無駄にしてしまったのだ。
気づいた時には、隣のケースの子犬が次々と貰われていき、ボクだけが取り残されていた。
「この子まだいたの?」
「ちょっと大きくない?」
「柴犬って言っても、なんか顔つきが鹿っぽい」
鹿・・・・・。
ボクは生後四ヶ月にして、すでに鹿顔の烙印を押されていた。
店員さんたちの態度にも微妙な変化があった。
最初は「柴ちゃん、可愛いですよ〜」と積極的に売り込んでいたのが、次第に「こちらの棚も見てみませんか」と、さりげなくボクのケースから客の視線を逸らすようになった。
売れ残りは、店にとっても居心地の悪い存在らしい。
そしてある日、耳に挟んでしまった。
「柴ちゃん、そろそろ限界かもね……」
「保護団体に相談する?」
「いや、その前にセールで・・・」
セール。
ボクは、値札に貼られる「50%OFF」のシールを想像して、ガラスの中で身を縮めた。犬にも危機察知能力というものはある。この「限界」という言葉のニュアンスが、あまり良い意味でないことくらいはわかる。
あの頃のボクは、生まれて初めて「命」というものの手触りを意識した。
もちろん四ヶ月の柴犬が難しい言葉で考えていたわけではない。ただ、お腹の奥のほうがきゅっと冷たくなるあの感覚。それは間違いなく、恐怖だった。
そんな、いよいよ後がなくなってきたある土曜日の午後。
一家族がペットショップに入ってきた。父親らしき人、母親らしき人、そして小学生くらいの女の子。女の子は店内をぐるっと見渡すなり、まっすぐにボクのケースの前で立ち止まった。
「あ! 茶色の柴犬!」
ボクは正直、期待するのをやめていた。
何度もこのパターンで裏切られてきたからだ。「
あ、可愛い で立ち止まって、「でも大きいね」で去っていく。もう慣れっこだった。だから今回も、どうせダメだろうと、半分諦めた目でガラス越しに女の子を見返しただけだった。
ところが女の子は、ボクから目を離さず、ニコニコしながらボクを眺めている。
その様子を見ていた店員さんが慌てて飛んできて「実はこの子、少し月齢が経っておりまして、その分お値段のほうも・・・」と早口で説明し始めたのを、父親が手で制した。
「ちょっと、抱かせてもらっていいですか?」
「は、はい。もちろんですよ」
店員は、あわてて、ボクをゲージから出し、自分の膝に載せた。
ボクは何の準備もなく、店員の膝に乗せられ、「いったい、何されるんだ!」という恐怖で完全に萎縮してしまっていた。
ボクは、恐怖のまま、店員から女の子の膝に移され、女の子は、耳を引っ張ったり、鼻をツンツンして、まるでぬいぐるみをいじる様に、ボクを触り始めた。
それを見ていた母親が、「おとなしそうね」と勝手な事を言う。
冗談でしょ、恐怖で身体が動かないだけなんですけど・・・
「育てていける自信ある?」
父親が女の子に尋ねる。
「うん!」
女の子は元気に返事する。
隣のブースでは、小さな男の子が「これ、いい!」といって、ミニチュアダックスフントを欲しがっている。
「犬と遊ぶのは1日1時間だけだからね。それが守れる?」
「・・・うん・・・」
これが、その母親と男の子との会話だった。
「そうですね。1日1時間くらいならだいじょうかな?」
店員がお追従のようにそう言った。
それを聞いていたボクを抱いている女の子の父親は、その店員に詰め寄りそうな形成を見せた。
母親は、あわててそれを制した。
父親は、店員に対してこう言った。
「あの親子に、君たちは命を預かるんだ。犬はおもちゃじゃない。って、はっきり言いなさい」
と小声で詰め寄った。
店員は、困った顔をしたが、それを聞いたボクは、この家族と暮らしたいと、初めて感じた。
小さな箱に入れられ、車にのって数十分。
ボクは、その女の子の家に連れて行かれた。
キャリーバックから出されたボクは、自由に歩ける、その空間を黙って見つめ、クンクンと空気の匂いを確かめた。
女の子は「今日からよろしくね」ボクの頭を優しく撫でた。
キョロキョロと周りを見渡し、危険物が無いかを確かめていたボクに、父親は言った。
「君の名前は、タンタン だ」
不思議なことに、女の子も母親も反論せず、タンタン、タンタンとボクを呼び始めた。
この家は、この家族は、父親の一言で何事も決まるらしい。
こうしてタンタンは、その日のうちに新しい家族の家で暮らすことになった。
後に「ポンポン」という白柴のライバルの存在を知り、平穏どころではない日々が始まるとは、この時のタンタンはまだ、知る由もなかったのだが。
つづく




