表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

推しの先輩を恋愛小説にしたら、本人にバレました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/08

『推しの先輩を恋愛小説にしたら、本人にバレました』

 導入

 私は恋愛ライトノベルを書いている、コミュ障気味の作家だ。

 新しい担当編集とLINEを交換したとき、表示された名前を見て三秒ほど固まった。

 蓮見怜?

 それ、私の小説の男主人公の名前なんだけど?

 日本の同姓同名率って、そこまで高かったっけ?

 原稿の修正で午前三時まで起きていた私は、頭がぼんやりしていて深く考える余裕もなく、原稿を送ったあと、そのままベッドに倒れ込んだ。

 翌日の昼。

 目を覚ました私は、LINEに届いていた一通のメッセージを見て、完全に固まった。

 蓮見怜『佐倉詩乃。君は僕を、小説の中で何回妄想した?』

 その瞬間、私は東京湾に沈みたくなった。

 1

 目が覚めたのは、翌日の昼だった。

 カーテンが少しだけ開いていて、隙間から差し込む陽射しがまぶしく、目の奥がじんわり痛い。

 私は寝ぼけたままスマホを手に取り、いつもの癖でLINEを開いた。

 一番上に表示されていたメッセージで、私は本気で人生を終わらせたくなった。

 蓮見怜『佐倉詩乃。君は僕を、小説の中で何回妄想した?』

 画面を見つめたまま、寝起きの頭がまず真っ白になる。

 二秒後、私は勢いよくベッドから跳ね起きた。

 蓮見怜。

 同姓同名じゃない。

 本人?

 その瞬間、私の原稿の中身が脳内で次々と爆発した。

 入学式でクールな先輩が堂々と告白する場面とか、禁欲的な編集者がヒロインを資料室に追い詰める場面とか、黒髪の推しがヒロインの耳元に唇を寄せる場面とか、「逃げるなら、君ごと僕の物語に閉じ込める」みたいな台詞とか……。

 助けて。

 これを知らない編集者に見られるだけなら、まだ「創作上の都合です」と言い張れた。

 けれど、その編集者が男主人公のモデル本人だったら、それは創作ではない。

 自白である。

 私は最後の望みにすがりながら、震える指で返信した。

 佐倉詩乃『蓮見編集、誤解です。名前はただの偶然で……』

 メッセージを送った直後、相手からすぐに一文字だけ返ってきた。

 蓮見怜『へえ?』

 さらに言い訳を続ける前に、トーク画面へ数枚のスクリーンショットが送られてきた。

『桜丘高校・東京同窓生LINEグループ』

『東都大学文学部・講演会連絡グループ』

『青嵐文庫・作家連絡グループ』

 最悪だ。

 共通グループという名の証拠品。

 蓮見怜『これも偶然?』

 蓮見怜『桜丘高校二〇一七年度入学、佐倉詩乃さん。君の小説、細部がやけに具体的だった。言い逃れは難しいと思うよ』

 私は画面を見つめたまま、目の前が真っ暗になった。

 終わった。

 完全に終わった。

 佐倉詩乃『蓮見編集、すみません。でも本当に変質者ではありません』

 そう送ってから、私は土下座スタンプも添えた。

 数秒の沈黙。

 蓮見怜『それを言うと、余計に怪しいってわかってる?』

 私は枕に顔面から突っ込み、心の中で絶叫した。

 数分後、観念してスマホを裏返す。

 佐倉詩乃『蓮見編集、すみません。変質者みたいなことをしてしまいました』

 今度は、蓮見怜から返事はなかった。

 たぶん、私を罵倒する言葉を選んでいるのだろう。

 あるいは、この危険作家を別の編集者へ引き継ぐ手続きを始めているのかもしれない。

 その午後、私はずっと落ち着かなかった。

 しかもその日は静岡の実家にいて、両親も家にいた。暴れることも叫ぶこともできず、食卓では首根っこをつかまれた河童みたいに、ただ機械的にご飯を口へ運んでいた。

 夕食後、私は自ら進んで食器を片づけた。できる娘みたいな顔でにこにこし、どうにか両親を商店街の散歩へ送り出すことに成功した。

 玄関のドアが閉まり、足音が遠ざかる。

 私は手についた泡も洗い流さないまま、スマホに向かって叫んだ。

「Siri、怜衣にLINE通話して!」

 三森怜衣は高校時代からの親友で、私が高校から大学まで蓮見怜に片思いしていることを知る、世界で唯一の人間だ。

 数回の呼び出し音のあと、通話がつながった。

 私は画面も確認せず、そのまま泣きついた。

「怜衣! 終わった! 私、本当に終わった!」

「新しい担当編集が誰だったと思う? 蓮見怜だよ! 高校の頃からずっと片思いしてる、あの蓮見怜!」

「私、彼をモデルにして男主人公を書いてたのに、本人にバレたの!」

「どうしよう、私の怜様が……!」

 最後の一言は、少女漫画のヒロインが死に際に愛しい人の名を呼ぶような、無駄に悲壮な響きになってしまった。

 電話の向こうは、長い沈黙に包まれた。

 やがて、誰かが低く咳払いをした。

 その声は冷静で、澄んでいて、しかも聞き覚えがありすぎて、私の頭皮が一瞬でしびれた。

 私は手の泡を洗い流し、慌てて拭いてからスマホを手に取った。

 画面に表示されていたアイコンは、三森怜衣ではない。

 黒いロングコートを着た男の人。

 名前は、はっきりとこう表示されていた。

 蓮見怜。

 私「……」

 世界なんて滅びればいい。

 今すぐ。

 できれば、私ごと。

 2

 時間が一時停止したみたいだった。

 私は台所の流しの前で石化し、スマホをもう少しでシンクに落とすところだった。

 この役立たずのSiriは、いったいどうやって「怜衣」を「怜」と聞き間違えたのか。

 長い沈黙のあと、電話の向こうから声がした。

「蓮見怜だけど」

 知ってます。

 もう、嫌というほど知っています。

 それなのに、その声を聞いた瞬間、私の心臓は情けないほど大きく跳ねた。

 五年前、初めてこの声を聞いたのも、こんなふうに何の準備もできていない瞬間だった。

 あの年の春、私は桜丘高校の一年生として入学式に出た。

 体育館には新入生がぎっしり座っていて、新しい制服の布の匂い、木の床の匂い、そして舞い込んできた桜の花びらの匂いが混ざっていた。

 蓮見怜は三年生の優秀生徒代表として、壇上に上がった。

 彼が現れた瞬間から、私の目は彼から離れなくなった。

 桜丘高校の濃紺の制服を着た彼は、黒髪がすっきり整っていて、背筋がまっすぐだった。壇上へ向かう足取りは速すぎず遅すぎず、まるで呼吸にまで自分のリズムがあるみたいだった。

 彼はマイクの前に立ち、少しだけ頭を下げた。

「三年の蓮見怜です」

 落ち着いた声だった。

 けれどそれは、春に降る最初の雨みたいに、何の前触れもなく私の胸に落ちてきた。

 その日から、私は彼を丸五年好きでいる。

 電話越しの蓮見怜の声が、私を現実に引き戻した。

「それで、用件は?」

 私の脳は高速回転を始めた。

 社会的に死にかけた人間は、ときどき信じられないほどばかげた生存本能を発揮する。

 私はひらめいた。

 そして、全力で酔っぱらいのふりをした。

「わあ、怜衣! 蓮見怜と一緒にいるの? 連れてきて! 今日は朝まで飲むから!」

 向こうが二秒ほど黙った。

「……昼間から変な酒でも飲んだ?」

 そう言って、通話は切れた。

 私は台所の床にしゃがみ込み、膝を抱えた。

 自分の人生には、もう続きがなくてもいいと思った。

 その夜、三森怜衣は新幹線に乗って私の実家まで来てくれた。

 玄関に入って最初の一言が、これだった。

「高校から大学まで、静岡から東京まで追いかけたくせに、一度もちゃんと話しかけられなかった、あの蓮見怜?」

 私は絶望的な気持ちでうなずいた。

「彼の水泳授業を見るために、自分が一番苦手な水泳を選んだ、あの蓮見怜?」

 私は両手で顔を覆った。

「外付けHDDに講演動画を何テラも保存してる、あの蓮見怜?」

「黙って」

「しかも匿名で本まで贈った、あの蓮見怜?」

「そう!」

 私は彼女の追及を遮った。

「その人。私の人生で、推しの先輩は彼一人だけ」

 私は蓮見怜が好きだ。

 でも、どうしようもなく臆病だった。

 私はいつも、遠くからこそこそ近づくことしかできなかった。

 彼は集団行動が好きではなく、体育の選択授業では水泳しか選ばなかった。だから私も歯を食いしばって水泳を選んだ。水に入ると怯えた河童みたいになるくせに。

 彼が東都大学で文学講演に出るときは、私は広報部の撮影班に紛れ込んだ。自分はただ写真係です、という顔をして。

 ライトの下で話す彼を、客席から見上げるたびに、彼は遠い月みたいだと思った。

 そして私は、その客席に散らばる小さな星の一つにすぎなかった。

 私が本当の意味で彼に近づいたのは、たった一度だけ。

 彼が高校三年生だった年だ。

 その頃、蓮見怜はしばらく学校を休んだ。

 戻ってきた彼は、以前とは別人みたいだった。

 もともと彼は口数の多い人ではなかったけれど、昔は少年らしい清らかさがあった。けれど休んで戻ってきたあとは、全身を暗い雲に覆われたみたいで、目元から光が消えていた。

 私は心配だった。

 ある日の休み時間、体調が悪いふりをして、三年生の教室へこっそり行った。そして彼の机の上に、一冊の文庫本を置いた。

 私の好きな日本作家の小説だった。少し憂鬱で、でもとても優しい物語。

 あのときの彼に、合うかもしれないと思った。

 名前は書かなかった。

 ただ、付箋に一言だけ残した。

「すぐに元気にならなくていい。今日を乗り越えられただけで、十分すごい」

 それが五年間で唯一、私が蓮見怜の人生に残した痕跡だった。

「運命じゃん!」

 三森怜衣がいきなりテーブルを叩き、私を回想から引き戻した。

 私は知能を心配する目で彼女を見た。

 彼女は目を輝かせている。

「何年も好きで、一言も話しかけられなくて、卒業したらもう終わりだと思ってたんでしょ? それが今、彼があなたの担当編集になったわけでしょ?」

「つまり何?」

「縁結びの神様が、さすがに見かねたってこと!」

 私は反論しようとした。

 けれど聞いているうちに、少しだけ筋が通っているような気がしてきた。

 それから数日間、私はずっと落ち着かなかった。

 蓮見怜は私を別の編集者へ回すだろうか。

 もうブロックされただろうか。

 編集部内で「要注意作家リスト」に入れられただろうか。

 そんな不安で胃が痛くなりかけた月曜の午前、彼からメッセージが届いた。

 蓮見怜『修正点は文書にコメントで入れてある。水曜までに直して送って』

 そのメッセージを見て、私は泣きそうになった。

 まだ生きていける。

 3

 私は深呼吸して、文書を開いた。

 蓮見怜のコメントは多かったが、意地悪ではなかった。

 主に構成の問題を指摘していて、展開が平坦すぎること、感情のフックが弱いこと、ヒロインの行動理由をもう少し補強する必要があること、いくつかの甘い場面は少し後ろに回したほうがいいこと、最初から距離を詰めすぎないことなどが書かれていた。

 語調はとても専門的だった。

 けれど最後の一つのコメントだけ、私はしばらく見つめ続けた。

『生活経験が足りない。細部に注意』

 どういう意味?

 生活経験?

 どの生活経験?

 私は原稿を最初から最後まで何度も読み返したが、彼がどこを指しているのか分からなかった。

 二日後、構成面の修正を終えた私は、やはり気になって彼にメッセージを送った。

 佐倉詩乃『蓮見編集、「生活経験が足りない、細部に注意」というコメントの意味がよく分かりません。どのあたりをどう直せばいいか、具体的に教えていただけますか?』

 送信すると、トーク画面の上に「入力中」と表示された。

 私は祈るような気持ちで待った。

 やがて、蓮見怜から返信が来た。

 蓮見怜『たとえば、設定上、ヒロインは身長一五八センチ。平地で身長一八四センチの男主人公に強引にキスするのは無理がある』

 顔が熱くなった。

 彼は続けて、長文を送ってきた。

 蓮見怜『こう変えられる。酔った勢いで飛びついた私は、身長が足りず、そのまま蓮見怜の胸にぶつかった。顔を上げると、冷たい横顔がすぐそこにある。悔しくなった私は、つま先立ちをして、彼の喉元に軽く歯を立てた。頭上から、押し殺したような吐息が落ちてくる』

 私「……」

 一瞬で想像してしまった。

 そして、情けないほど顔が赤くなった。

 この文章を、蓮見怜本人が無表情で打っているのだと思うと、なおさら恥ずかしい。

 彼はどうしてそんな顔で、こんな文章を打てるのか。

 私がまだ動揺から戻っていないうちに、スマホがもう一度震えた。

 蓮見怜『それから』

 胸がぎゅっと縮む。

 まだあるの?

 蓮見怜『温泉旅行の場面で、ヒロインがコンビニで男主人公の替えの下着を買っている。男主人公のモデルが僕なら、XL以上にして。Lは小さい』

 どん、と頭の中で何かが爆発した。

 これは、言っていいことなんですか?

 二十数年の人生で、これほど時間を巻き戻したいと思った瞬間はない。

 五分前に戻って、生活経験について質問した自分を全力で止めたい。

 蓮見怜『似たような細部がほかにもある。自分で直して』

 私は真っ赤な顔で、震えながら返信した。

 佐倉詩乃『はい』

 送信後、私は布団に潜り込み、声にならない悲鳴を上げた。

 両親に聞かれていたら、締め切りでついにおかしくなったと思われただろう。

 その日から、蓮見怜との仕事上のやり取りは、非常に奇妙なものになった。

 表向きには、彼は私の担当編集だ。

 しかし実際には、彼のコメント一つ一つが、私の羞恥心を正確に刺してくる刃物みたいだった。

 そして私は、社会的に死にそうになりながらも、次のメッセージを待ってしまう。

 この話を聞いた三森怜衣は、私以上に興奮していた。

「ほら、言ったでしょ! 脈あるって!」

「担当編集が、わざわざ自分の喉元をどう噛ませるか教える?」

「詩乃、これは縁結びの神様が赤い糸を直接手渡してくれたんだよ!」

「せっかく担当編集になったんだから、距離を詰めるチャンスでしょ!」

 私はしばらく黙ってから、ゆっくりとうなずいた。

 蓮見怜との接点を保つため、私は昼夜を問わず原稿を書き始めた。

 問題は、蓮見怜が仕事ではあまりにも公私を分ける人だということだ。

 彼は真面目に原稿を読み、真面目にコメントを入れ、真面目に私の水増し部分を叱ってくる。

 この空気は、恋愛にはまったく向いていない。

 出版社の前で正座して説教を受けている気分になる。

 だから私は、別の方面から攻めることにした。

 推しの先輩を落とすにも、まずは情報収集である。

 4

 第一戦、Instagram。

 蓮見怜のアカウントは非公開。

 敗北。

 第二戦、note。

 投稿はすべて文学や歴史、哲学に関する読書メモで、タイトルはどれもやたら堅い。一見すると大学教授の仕事用アカウントだ。

 再び敗北。

 第三戦、X。

 出版社のイベントと新刊情報をリポストするだけで、私生活の匂いが一切ない。

 惨敗。

 第四戦、LINE VOOM。

 空白。

 四戦全敗。

 私は畳の上に倒れ込み、天井に向かって深いため息をついた。

 この男の私生活は、江戸城並みに守りが固い。

 報告を聞いた三森怜衣は、呆れたように私を見た。

「あなた、ばかなの?」

「高校の同窓生なんだから、思い出で攻めればいいでしょ」

 私は勢いよく起き上がった。

 その手があった。

 その日のうちに、私は怜衣を連れて東京の神保町へ向かった。

 神保町の古書街は、私が初めて校外で蓮見怜に会った場所だ。

 高校一年生の夏、学校では部活動の公開日があった。

 人混みだらけの行事が苦手すぎた私は、早々に学校を抜け出し、電車で神保町へ来た。

 夕方、古書店の女主人は、私がしばらく店に居座りそうだと見るや、にこにこしながら私をレジ奥に座らせた。

「お嬢ちゃん、ちょっと店番してて。ご飯食べてくるから」

 私が反応する前に、彼女は手を振って出て行ってしまった。

 仕方なく、私はレジの奥で本を読んでいた。

 それでも視線は、どうしても店の外へ向いてしまう。

 そのときだった。

 桜丘高校の制服を着た蓮見怜を見つけたのは。

 彼は店の前を通り過ぎるとき、私の制服に気づいたらしく、二度ほどこちらを見た。

 私はすぐに視線を落とし、真剣に本を読んでいるふりをした。

 胸の中だけが、駅から走ってきたみたいに激しく跳ねていた。

 彼が遠ざかってから、ようやく私はそっと顔を上げた。

 そして、彼が角を曲がって、小さく目立たない古書店へ入っていくのを見た。

 昔の私は、神保町の中ほどにある「青春堂書房」まで行くのが精いっぱいだった。

 けれど今日は、さらに奥へ進む。

 三森怜衣が私の腕を引いた。

「通り過ぎてない?」

 私は路地の奥の角を指さした。

「蓮見先輩、昔よくあの店に行ってたの」

 古書店はまだそこにあった。

 入口には色あせた木の看板が掛かり、ガラス窓の向こうには古い雑誌と絶版の文庫本が積み重なっている。

 店内には白髪混じりの老人が一人、老眼鏡をかけて椅子に横たわるように本を読んでいた。

 私たちが入っても、彼はまぶたを少し上げただけで、何も言わなかった。

 代わりに、足元にいたシャム猫が優雅な足取りで入口までやって来て、私たちに向かって一声鳴いた。

 三森怜衣はすぐに小声で、猫を撫でてもいいか、写真を撮ってもいいかと老人に尋ねた。

 老人は片手をひらひら振った。許可らしい。

 私はしゃがみ込み、シャム猫のこげ茶色の背をそっと撫でた。

 心の中では、別のことを考えていた。

 蓮見怜もここへ来るたび、この猫を撫でたのだろうか。

 私もこの店に来たことを知ったら、彼は少しでも親近感を覚えてくれるだろうか。

 普段の私は、ルームメイトから「SNS砂漠」と呼ばれるほど投稿しない。Instagramも一年に二度更新すれば多いほうだ。

 その日、私は珍しく写真を投稿した。

 添えた言葉は一つだけ。

『久しぶりの神保町』

 九枚の写真には、古書街の看板、黄昏の街灯、店先の木の看板を入れた。

 最後の一枚は、あのシャム猫のアップだ。

 投稿したあと、私は落ち着かず何度も更新した。

 すると、蓮見怜はいいねを押しただけではなかった。

 彼から電話がかかってきた。

 5

「森川教授の店にいるの?」

 森川教授?

 私は反射的に、レジの奥にいる老人を見た。

 この気難しそうな古書店主は、教授だったらしい。

「は、はい」

 緊張のあまり舌を噛みそうになった。

 蓮見怜は余計な挨拶をせず、すぐ本題に入った。

「森川教授から本を一冊受け取ってきてくれる?」

 私は背筋を伸ばした。

「もちろんです、蓮見編集!」

 電話の向こうが、一瞬静かになった。

「蓮見でいい」

 心臓が爆発しそうになった。

 四捨五入すれば、これは関係の進展では?

 あとで知ったことだが、森川教授はかなり変わった人で、本を何より大事にしている。店にある絶版本は、配送中に傷むのが嫌だからと絶対に郵送しない。本人の手にしか渡さないのだという。

 でも蓮見怜は大学卒業後に出版社へ入ってから、神保町へ行く時間がほとんどなかった。年末に戻る頃には、店も休みに入っている。

 こうして、その本は私の手に渡ることになった。

 これは、大学生になってから一番楽しみな新学期だったかもしれない。

 東京には、蓮見怜が待っている。

 正確に言うと、彼が待っているのは本なのだけれど。

 帰京する日が決まると、私はすぐ蓮見怜に知らせ、青嵐文庫のビルの下で会う約束をした。

 その日の午後、私は絶版本を入れた白いリュックを背負い、約束の二十分前に飯田橋の出版社ビルへ着いた。

 九月の東京は、まだ容赦なく暑かった。

 ビルの外の植え込みのそばで、私は緊張しながら行ったり来たりしていた。

 少し経つと、背中に汗がにじんでくる。

 蓮見怜に少しでもよく見られたくて、家を出る前に自分なりのナチュラルメイクをしてきた。

 しかし東京の太陽は、乙女心というものをまったく理解していない。

 蓮見怜がビルから出てきたとき、私は両手で必死に顔をあおいでいた。熱中症寸前のペンギンみたいに。

「佐倉?」

 彼の声を聞いた瞬間、私は動きを止め、振り返り、できるだけ華やかで上品な笑顔を作った。

「蓮見編集、こんにちは」

 蓮見怜は私を見て、何かを飲み込んだような顔をした。

 近づいてくると、眉がほんの少し上がる。

「外は暑い。中に入ろう」

 私はおとなしく彼の後ろについてビルへ入った。

 ロビーは冷房が効いていて、ようやく生き返った気がした。

 休憩スペースに座ると、蓮見怜はポケットからティッシュを取り出して私に渡した。

 私は感動してそれを受け取り、汗ばんだ額と鼻先を拭いた。

 そして、ティッシュについた白いファンデーションと黒いマスカラの跡を見て、動きが止まった。

 さっきの蓮見怜の微妙な表情を思い出し、心が冷えていく。

 終わった。

 メイクが崩れていた。

 私はさっき、孔雀が羽を広げるような顔で彼に笑いかけていた。

 でも彼に見えていたのは、たぶん溶けかけのパンダだった。

 私はそっと下を向いた。

 もう人間を名乗る資格もない気がした。

 蓮見怜は私を見て、淡々と言った。

「化粧室は突き当たりを左」

 私は全力で走った。

 洗面所の鏡の前に立った瞬間、自分のひどさを知った。

 眉はにじみ、ファンデーションは白いところと黄色いところに分かれ、鼻先には黒い線までついている。

 目を閉じて、深呼吸した。

 佐倉詩乃、本当にやってくれた。

 推しの先輩と初めてまともに会う日に、災害級のメイク崩れで登場するなんて。

 外出時に化粧直しをする習慣がなかった私は、ポーチに何も入れていなかった。

 結局、私は悲しみに暮れながら顔を全部洗った。

 戻る途中、蓮見怜の背後を通りかかったとき、彼がInstagramを見ているのがちらりと見えた。

 画面には、スタイルのいいギャル系インフルエンサーが映っていた。メイクは完璧で、服装も大胆だ。

 彼はその投稿にいいねを押した。

 私は足を止めた。

 そういうタイプが好きなの?

 思わず、自分のあまりにも平坦な胸元を見下ろした。

 私は黙って本を差し出した。

「蓮見編集、本です。では、私はこれで」

 蓮見怜は本を受け取ったが、私を呼び止めた。

「今はまだ勤務時間中だから、食事には誘えない」

 落ちかけた心に、彼は続けて言った。

「週末、時間ある?」

 私はぱっと顔を上げた。

「あります!」

「何が食べたい?」

「何でも食べます!」

 言った瞬間、舌を噛み切りたくなった。

 蓮見怜は額に手を当て、肩を小さく震わせた。

 笑っている?

「じゃあ、土曜日に」

 私は出版社ビルからしょんぼり出た。

 外に出てから、自分の頬をこっそり二回たたいた。

 あなたは豚なの?

 何でも食べますって何?

 6

 その夜、私は得た情報を三森怜衣に報告した。

 彼女は三秒だけ沈黙し、その場でバストアップパッドを注文してくれた。

 荷物が届いた日、私は恥ずかしさのあまり、それを祭壇にでも置きたくなった。

 試着して鏡の前に立ち、しばらく考え込む。

「怜衣姉さん、これ、さすがに分かりやすくない? 彼、前回の私を見てるんだけど」

 ビデオ通話の向こうで、三森怜衣はきっぱり言い切った。

「あなた、普段だぼだぼの服しか着ないでしょ。胸があっても分からないタイプだから大丈夫。男はそこまで細かく見てない」

 私はあまり信じていなかった。

 でも、それ以上に自分を信じていなかった。

 そうして土曜日の夕方、三森怜衣とルームメイトたちの熱烈な協力により、私は見事に渋谷系ギャルみたいな女子大生へと変身した。

 黒のショート丈トップス、タイトなデニムスカート、濃いめのアイメイク。イヤリングはライブに行くのかというくらい光っている。

 玄関に立った私は、見れば見るほど逃げ出したくなった。

「この服、ちょっと短すぎない? やっぱりパーカーに戻す……」

 振り返った瞬間、ルームメイト三人が腰に手を当てて入り口をふさいだ。

「胸を張って!」

 私はびくりと肩を跳ねさせ、観念して外へ出た。

 努力の甲斐あって、その日、車で迎えに来た蓮見怜は確かに私を何度か見た。

 私は少し自信を取り戻した。

 彼が選んだのは、表参道に新しくできた創作料理の店だった。友人の店らしく、開店祝いも兼ねて行くらしい。

 店の前には開店祝いの花が二列に並び、香りが夜風に混ざっていた。

 そこを通ったとき、鼻が少しむずむずした。

 蓮見怜は辛いものが好きだ。

 私も辛いものが好きだ。

 味の好みが合うおかげで、雰囲気は自然と和らいだ。

 あのくしゃみさえ我慢できていれば、これは完璧な夕食になったはずだった。

 残念ながら、我慢できなかった。

 日が落ちると気温が急に下がった。

 私はそもそも薄着で、しかも窓際に座っていた。外から風が入るたび、鼻の奥のかゆみがじわじわ広がっていく。

 よりによってその瞬間、私はアボカドのタコライスを一口運ぼうとしていた。

 喉から鼻腔へ、むずむずした感覚が這い上がってくる。

 私は強い意志で、それを必死に押さえ込んだ。

 だめ。

 向かいには蓮見怜がいる。

 テーブルには美しい料理が並んでいる。

 今日は私はギャルなのだ。

 ギャルは推しの先輩の前でご飯を噴き出したりしない。

 次のデザートが運ばれてきた。店員さんが、桜の花びらを飾ったクリーム菓子を私の横からテーブルへ置く。

 花びらが鼻先をかすめた。

 終わった。

 さっき抑え込んだかゆみが、再び勢いを取り戻す。

 さらに窓の隙間から、意地悪な夜風が吹き込んだ。

「はくしゅん!」

 私は反射的に顔を横へ向け、腰を折り、両手で口元を押さえた。

 アボカドと米粒が指の隙間からこぼれ出る。

 テーブル全体が、死んだように静まり返った。

 蓮見怜が静かにスプーンを置く。

 店員のお姉さんが、非常にプロフェッショナルな低い声で言った。

「お手洗いは、お客様の後ろ、突き当たりを左でございます」

 私は顔を覆ったまま立ち上がった。

「ありがとうございます」

 洗面所から戻った私は、沈黙したまま席に着いた。

 蓮見怜は白いシャツを差し出してくる。

「車に置いてあった着替え。羽織って。冷えるから」

 私は赤い顔でそれを受け取った。

 心の中では、勝手にいろいろな展開を想像し始めている。

 彼の次の一言――「風邪を引くと更新に響く」は、聞こえなかったことにした。

 7

 小説の配信が始まってから、反応は思ったよりよかった。

 その月の原稿料も、なかなか悪くなかった。

 私はシャツを返す口実で、蓮見怜に食事をごちそうすることにした。

 東都大学の西門近くに、古い串焼き居酒屋がある。坂道の奥の路地に隠れるようにあって、秘密基地みたいな場所だ。

 そこの焼き鳥と辛い牛すじ煮込みは、大学周辺でもかなり有名だった。

 蓮見怜みたいな高嶺の花は、絶対に行ったことがないだろうと思った。

 私は少しもったいぶって、「すごく辛くておいしい店に連れていきます」とだけ伝えた。

「辛い」と聞いた瞬間、彼はわりとすぐに承諾した。

 前回の経験があったので、今回はバストアップパッドをつける手つきもかなり慣れていた。思い切ってオフショルダーの服まで選んだ。

 出かける前、私は洗面所の鏡に向かって自分を励ました。

「佐倉詩乃、蓮見怜を落とせ!」

 東都大学の西門の外は道が入り組んでいる。坂道、コンビニ、小さな神社、狭い路地がごちゃごちゃに交差していた。

 私は蓮見怜を連れてあちこち曲がり、ようやくその串焼き屋の前にたどり着いた。

 案内役としての自覚を胸に、私は堂々と胸を張って小さな店へ入った。歩きながら、看板料理について熱心に説明する。

 蓮見怜は後ろから私を見て、どこか面白がるような目をしていた。

 でも私は、それを「感心している」と解釈した。

 ちょうどそのとき、若い店員のお兄さんが厨房の暖簾をめくって出てきた。

 彼は私たちを見るなり言った。

「あれ、久しぶり」

 私はきょとんとした。

 覚えられている?

 私、一度しか来たことないのに。

 次の瞬間、店員の視線が私を越えて、後ろの蓮見怜へ向かった。

「彼女?」

 私は固まった。

 店員は心底うれしそうに笑った。

「やっとお前の番かよ! 卒業してどれだけ経ったと思ってるんだ」

 私は訳が分からず、振り返って蓮見怜を見た。

 彼は否定しなかった。

 むしろ、私を見て小さく笑った。

 私はためらいながら口を開く。

「私は――」

 言い終わる前に、肩に手が回された。

 蓮見怜は半ば私を押すようにして席に座らせた。

「まだ有効?」

 彼が店員に尋ねる。

 店員は大笑いして、布巾をひらひら振った。

「有効に決まってるだろ! ハイボール一杯目サービスな!」

 そう言って、厨房へ戻っていった。

 私は訳が分からず、目で蓮見怜に説明を求めるしかなかった。

 蓮見怜は声を低くした。

「この店は、大学時代の同室四人組と馴染みがあるんだ。一度、ルームメイトの一人が彼女を連れてきたら、店長が酒を一杯おごってくれた。その後、ほかの二人も彼女を連れてきて、そのたびにおごられた。ちょっとした儀式みたいなものだ」

 彼は少し間を置く。

「僕だけずっと連れてきてなくて、よく笑われてた」

 彼は私の肩に軽く触れた。

「バラさないで。面子があるから」

 私は彼を見つめ、思わず笑ってしまった。

 文学部の秀才である彼が、こんな子どもっぽいことをするなんて思わなかった。

 その笑いで、空気は一気にやわらかくなった。

 私はここぞとばかりに、彼の大学時代の話をいろいろ聞いた。

 蓮見怜も、決して人間離れした存在ではなかった。

 彼もルームメイトとふざけて親子ごっこをし、夜更かしして野球の試合を見て、ゲームに負けながら悪態をついたらしい。

 この目立たない小さな店に座っていると、彼は遠い月ではなく、手を伸ばせば届きそうな人に見えた。

 そろそろ少し、身体的な距離を詰めてもいい頃では?

 私は笑いながら、酔ったふりをして彼の肩に寄りかかろうとした。

 けれど近づくたびに、どうしても怖くなって戻ってしまう。

 たぶん、まだ酔いが足りないのだ。

 そう思って、私はもう一杯飲んだ。

 さらに一杯。

 もう一杯。

 それでも足りない気がして、なかなか手が出せない。

 そうしているうちに、本当に酔った。

 翌朝目を覚ますと、私はシェアハウスのベッドに寝ていた。

 頭が一晩中木魚で叩かれたみたいに痛い。

 体を起こすと、ベッドのそばにあの白いシャツが掛かっていた。

 あれ?

 返してない?

 こめかみを押さえながらベッドカーテンを開けると、リビングにいた三人のルームメイトが、一斉に複雑な目でこちらを見た。

「な、何?」

 室長が黙って紙袋を差し出した。

「昨日、蓮見怜があなたを送ってきたとき、これを持ってた」

 私は紙袋を受け取り、中を一目見た瞬間、雷に打たれたようになった。

 中には、あのバストアップパッドが入っていた。

 終わった。

 私は顔を覆った。

 このところ、ギャルを真似るために肩も腰も脚も出して、毎回気合いを入れて出かけては、毎回盛大に気まずい結末を迎えている。

 蓮見怜の態度は、相変わらず冷たくも熱くもない。

 そのうえ、今回はこんな大失態だ。

 城壁みたいに厚いはずの私の面の皮も、ついに砕けた。

 たぶん、私には無理だ。

 8

 残暑が過ぎると、東京の気温は急に下がった。

 まるで、どん底に落ちた私の気分みたいに。

 ルームメイトの家族が愛媛から蜜柑を一箱送ってきてくれたので、私はこたつのそばに陣取り、毎日ひたすら食べた。

 悲しみを食欲に変えた。

 あの酔っぱらい事件以来、必要な仕事の連絡以外、私は蓮見怜に自分から連絡していなかった。

 彼からLINEが来ても、できるだけ短く返すだけにしていた。

 月末のある日、青山先生から突然メッセージが届いた。

 青山先生は、高校三年間の国語の先生で、私が一番尊敬している担任でもある。先生というより、第二の母みたいな存在だった。

 東京で教育研修があるから、ついでに東京で勉強したり働いたりしている昔の生徒たちに会いたい、ということだった。

 私はもちろん即答で承諾した。

 食事の場所は、神楽坂の有名なしゃぶしゃぶ店だった。

 手土産の袋を持って個室の扉を開けた瞬間、私はその場で固まった。

 蓮見怜が座っていた。

 脚を組み、少し顎を上げて、まるで私の驚きぶりを楽しみにしていたみたいだった。

 私は反射的に自分の胸元を見下ろした。

 今日はゆったりしたパーカー。

 堂々と平坦である。

 いや、どうせ彼はもう知っている。

 そう思い直し、私は腹をくくって中へ入った。

 忘れていた。

 青山先生が一番誇りに思っている教え子といえば、何度も話に出てきた蓮見怜だった。

 中年の女性教師には、たいてい生徒の話をするのが好きという共通点がある。

 青山先生がよく話していたのは、ある年度にいた男の子のことだ。成績がよく、文章もよく、スピーチも上手で、冷たそうに見えて実は礼儀正しい。

 その「ある男の子」が、蓮見怜だった。

 青山先生は少し遅れて到着し、東京大学に合格したばかりの娘さんも連れていた。

 母娘を離れさせるのも変なので、もともと蓮見怜の向かいに座っていた私は、奥へ少し移動することになった。

 結果、蓮見怜の隣に座ることになった。

 最初、食卓には少しぎこちない空気が流れていた。

 けれど食べているうちに、青山先生の話は止まらなくなった。

 私は相づちを打つのに忙しく、自分の手元の辛いタレがいつの間にかごまだれに替わっていることに気づかなかった。

 不思議に思って隣を見ると、蓮見怜が低い声で言った。

「口角、切れてる。辛いのは控えたほうがいい」

 私は目を瞬かせた。

 どうして気づいたの?

 最近、蜜柑を食べすぎて、口元が荒れていたのだ。

 食事が終わると、青山先生は楽しそうに私へ尋ねた。

「詩乃、彼氏はいるの?」

 私は首を横に振った。

「好きな人は?」

 私は少し迷い、思わず蓮見怜を見た。

 彼はまるで自分には関係ない、という顔をしている。

 私はむっとして、すぐに矛先を変えた。

「青山先生、蓮見先輩にも聞いてください。私より二年長く独身ですよ」

 青山先生はにこにこしながら言った。

「怜のことは、知ってるわ」

 胸がぎゅっとした。

 知っているって何を?

 彼の好きな人?

 それとも、なぜずっと独身なのか?

「何を知ってるんですか?」

 しかし青山先生は聞こえなかったふりをして、時間を見た。

「あら、もう八時。ホテルに戻って休まないと。年には勝てないわね」

 そう言って、荷物をまとめて立ち上がった。

 帰り際、先生はわざわざ蓮見怜に言った。

「怜、詩乃を学校まで送ってあげて」

 私たちは青山先生母娘を地下鉄の駅まで見送った。

 電車がホームに入ってきて、風が私の髪を乱した。

 先生が行ってしまうと、私はすぐ逃げ出そうとした。

 しかし、後ろ襟をつかまれた。

「そんなに急いでどこへ行くの?」

「わ、私、送ってもらわなくて大丈夫です」

 蓮見怜は淡々と言った。

「先生の命令だから」

 言い返せず、私は彼の後ろをおとなしくついて歩いた。できるだけ存在感を消そうとする。

 しばらく歩いたところで、彼が突然尋ねた。

「最近、どうしたの?」

「何がですか?」

「僕に冷たい。慣れない」

 私は言葉に詰まった。

 そんな直球、あります?

「冷たいわけじゃないです。ただ……どう向き合えばいいか分からなくて」

 前を歩いていた彼が、急に立ち止まった。

 私は止まりきれず、危うく彼の胸にぶつかりそうになった。

 顔を上げてにらむと、彼は笑っていた。

「今、こうして向き合ってるじゃない」

「?」

「こういうほうが、かわいい」

 頭の中が一瞬、空白になった。

 今、かわいいって言った?

 私はしどろもどろに言った。

「私、てっきり、あなたはああいうのが好きなんだと……」

 両手で胸の前を示し、それから腰の後ろも示した。

「ああいう、感じの」

 蓮見怜の顔に、初めてはっきりした疑問が浮かんだ。

「どれ?」

 私は気まずそうに言った。

「この前、Instagramでギャル系の人にいいねしてたじゃないですか。ああいうタイプが好きなのかなって」

 彼は二秒ほど沈黙し、ようやく理解したようだった。

「あれ、僕の叔母」

 私「え?」

「服の店を始めたから、家族に宣伝を頼まれただけ」

 私はぽかんと口を開けた。

 そして、驚きと喜びが一気にこみ上げた。

 そういうことだったのか。

 その夜、東京の月はとても明るかった。

 月明かりが蓮見怜の黒髪に落ち、髪の一本一本まで淡く光っているように見えた。

 彼は私を見下ろし、目元にかすかな笑みを浮かべていた。

 私はふと思った。

 もしかして、私にもチャンスがあるのかもしれない。

 9

 その日から数日間、私は浮かれきっていた。

 原稿を書く速度まで倍になった。

 以前の私は、無理してギャルを演じるのに疲れ、彼もそれを見て違和感を覚えていたのだと思う。

 誤解が解けた今、私はむしろ自然体でいられた。

 そして原稿の相談を口実に、堂々と蓮見怜をからかい始めた。

 佐倉詩乃『蓮見編集、キャンプの場面を入れたいんです。ヒロインが猪に襲われて、男主人公が助けるのはどうですか?』

 蓮見怜『それは恋愛小説じゃなくて山岳サバイバル』

 佐倉詩乃『じゃあ、男主人公がヒロインにキスマークをつけるのは? 配信平台ってそんなに厳しいんですか?』

 蓮見怜『だめ』

 佐倉詩乃『ビリヤードの場面がどうしても書けません。細部が足りないし、やっぱり知らない分野を書くのは難しいですね』

 蓮見怜『教える』

 私は画面を見つめ、勝利の笑みを浮かべた。

 わざとである。

 蓮見怜は冷静な性格で、サッカーやバスケットボールみたいな熱血集団競技を好まない。

 水泳以外で彼が好きなのは、ビリヤードだ。

 紳士的に見えて、どこか不良っぽさもあるその遊びは、彼にとても似合っていた。

 土曜の午後、私たちは池袋のビリヤード場で待ち合わせた。

 彼は学生時代からそこに来ていたようで、慣れた様子で私を中へ連れていった。

 扉を開けると、常連らしきお兄さんたちがこちらを見て、すぐに彼へ声をかけた。

「お、怜。何本か勝負するか?」

 そう言ってから、彼らは私に気づき、分かりやすく目を見開いた。

「今日は彼女連れ?」

 いくつもの視線が私の上を行ったり来たりして、私は気まずくなって蓮見怜の後ろに隠れた。

 蓮見怜は受付に言った。

「奥の部屋で」

 そして、冷やかす人たちを無視して、私を連れていった。

「スヌーカーやろうぜ!」

 後ろからお兄さんが叫ぶ。

「今日、調子いいんだよ!」

「無理」

 蓮見怜はキューを選びながら私に言った。

「ルールは少し分かる?」

 私はうなずいた。

「じゃあ細かい説明は省く。構えと手の形から」

 彼は右手でキューを持ち、前腕を軽く支え、上腕は力を抜いている。動きは無駄がなく、きれいだった。

「右手は強く握らない。左手はブリッジを作る。人差し指と親指で締めて、残りの三本は開く」

 最初、私の視線は彼の説明に沿って動いていた。

 しかし、だんだん別のところへ逸れていく。

 指が長すぎる。

 彼が持つと、キューまでほかの人より短く見える。

 指先から腕へ視線を上げると、前腕の筋肉の線がきれいに流れていた。握って緩めるたび、手首の骨が浮き、青い血管がうっすら見える。

 照明の下で、彼の左手は関節まではっきりしていて、白い玉みたいだった。

「こつん」

 額に軽い痛みが走った。

 我に返ると、蓮見怜が不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。

「構えの説明をしているのに、手ばかり見てどうするの」

 言い訳を考える前に、彼はわずかに意地悪く唇を上げた。

「また何を妄想してた?」

 くっ。

 見抜かれた。

 私はもう弁解するのをやめ、彼のキューを奪って、見よう見まねで台に身を乗り出した。

「こう?」

 蓮見怜が一瞬黙る。

 次の瞬間、彼の右腕が私の横から伸びてきて、私の右手の少し後ろを握った。

 触れた瞬間、私は緊張のあまりキューを折りそうになった。

「力を抜いて」

 声が耳元に落ちる。

「手をもう少し後ろへ」

 彼は左手を台につき、私のすぐ横へ身をかがめた。均一な息が頬をかすめる。

 頭に血が上っていく。

 脳内の映像はすでに、耳元の囁き、止まらない心拍、曖昧な照明、鎖骨へのキスまで早送りされていた。

「震えてるけど」

「だ、大丈夫です」

「耳も赤い」

「あ、暑いだけです」

 彼は知らないのだろうか。

 耳元で話してはいけないことを。

 それがどれほど危険なのかを。

 膝から力が抜けそうになった。

 蓮見怜はふっと笑い、一歩離れた。

 私は一気に力が抜けた。

 けれど、手にキューを持っていることを忘れていた。

 気が緩んだ瞬間、キューのバランスが崩れ、そのまま足の甲に落ちた。

 私はその場にしゃがみ込んだ。

 入り口のほうから、こらえきれない笑い声が聞こえる。

 さっきの常連たちが面白そうに見ていた。

 ビリヤード台の下に潜り込みたかった。

 蓮見怜は何事もなかったように私を立たせ、続けて教えてくれた。

 キューの持ち方、狙い方、突き方。

 彼にこれ以上恥をかかせないため、私はできるだけ雑念を追い払い、真剣に覚えた。

 一時間もしないうちに、少し形になってきた。

 指が痛くなり始めた頃、蓮見怜がようやく休憩にしようと言った。

 開け放した部屋の入口に、先ほどのお兄さんがふらりと現れた。隣にはきれいなお姉さんもいる。

「怜、せっかく彼女連れなんだし、ダブルスで勝負しようぜ?」

 別の人がすぐ乗ってくる。

「そうそう。ダブルスこそ腕が試されるって」

 蓮見怜は彼らを横目で見て、私にキューを渡した。

「一回、実戦」

 私はおずおず尋ねた。

「ダブルスって、どうやるんですか?」

 彼は身をかがめ、小声で説明した。

「僕が一回、君が一回。僕が入れて、君も入れられれば、続けて打てる」

 確かに難しい。

 自分が球を入れるだけでなく、相手が打ちやすい位置に白球を止めなければならない。

 私は緊張した。

 何しろ、私は始めて一時間の初心者だ。足を引っ張るに決まっている。

 蓮見怜は私の不安を見抜いたように、声を低くした。

「安心して。君が一番打ちやすいところへ送るから」

 入口のお兄さんがすかさず言った。

「そうそう! 怜は人を気持ちよくさせるのが上手いから!」

 私は顔を赤くしてにらんだ。

 何その危険な言い方!

 試合が始まると、相手のお兄さんが力強くブレイクした。十六個の球が花火のように散った。

「コン」

「コン」

 二つの球が続けてポケットへ落ちた。

 その後も、私たちは二、三球差で追う展開が続いた。

 台上の球が少なくなるにつれ、私は焦り始める。

 お兄さんはさらに火に油を注いだ。

「お嬢ちゃん、そんなに真剣な顔しなくても。怜はここの連勝将軍だからさ。負けるところなんて滅多に見られないんだよ」

 焦ったのが悪かった。

 私の番になり、楽に入るはずの球が、ポケットの縁をかすめて外れた。

 さらに悪いことに、白球までポケットに落ちた。

 相手の二人が歓声を上げる。

 二、三球差だった距離が、一気に広がった。勝負はほぼ決まりだ。

 最後はきれいなお姉さんが八番を入れた。

 相手の二人はうれしそうにハイタッチする。

 私は腕を下ろし、重いため息をついた。

 蓮見怜が隣に立ち、肩を軽くたたいた。

「遊びだから。気にしなくていい」

 お兄さんは去り際に笑った。

「また勝負しようぜ、ははは!」

 私はうつむいたまま何も言わなかった。

 だめだ。

 次は必ず、彼のために勝つ。

 10

 肩を落としてシェアハウスへ戻ると、なぜかみんなリビングにいた。

 三人がそろって座り、まるで裁判でも始めるような雰囲気を作っている。

 私は驚いた。

「な、何?」

 室長の目が、好奇心できらきら光っていた。

「詩乃、正直に言いなさい。いつの間にそんな関係に戻ったの?」

 私は固まる。

「どんな関係?」

 上のベッドのルームメイトが顎に手を当てる。

「黙ってるなんて、進展早すぎない?」

 もう一人が声を潜めた。

「持って行ったの?」

 私はきょとんとした。

「ビリヤードって何か持って行くものあるの?」

 室長は私を引き寄せ、念入りにドアを閉めた。

「とぼけない。七兄が、あなたたちがあのビルに入っていくのを見たんだから」

 あのビル?

 私は遅れて思い出した。

 池袋のあのビルは、一階がカフェ、中層にビリヤード場と茶室、そして最上階の大きな看板には――

『にゃんじeスポーツホテル』

 私は説明しようとした。

「私たちはビリヤード場に行ったの」

「七兄もビリヤード場に行ってたのよ」と室長が言った。「でも見なかったって」

 七兄こと、七瀬真琴は、私たちのシェアハウスで一番格好いいルームメイトだ。

 短髪で中性的、服装もさっぱりしていて、遠目には多くの男子よりも格好よく見える。

 名前に「七」が入っているので、みんな彼女を七兄と呼んでいた。

 私は泣きたくなった。

 蓮見怜は私が恥をかかないよう奥の個室を取ってくれた。最初はドアが開いていたけれど、ちょうど七兄の視界から外れていたらしい。あとから例の二人が入ってきて、ついでにドアを閉めてしまった。

 この誤解は、東京湾に飛び込んでも洗えない。

 しかし私はすぐに重要な点に気づいた。

「七兄、ビリヤードできるの?」

 七瀬真琴は淡々と答えた。

「少しだけ」

 私はすぐ彼女に飛びつき、腕を抱え込んだ。

「教えて! お願い! 一週間の鬼特訓、飲み物代もご飯代も私が払うから!」

 七兄は私に絡まれすぎて、結局うなずいた。

 それから数日、私は毎日のように七兄を連れてビリヤード場へ通った。

 あのお兄さんはほぼ毎回そこにいて、私に気づいたらしく、何度もこちらを見ていた。

 七兄の教え方は、蓮見怜よりも細かかった。

 右腕を安定させるため、肘を支えて力の入れ方を教えてくれる。

 難しい角度では、体の向きを調整してくれる。

 何ゲームかやるうちに、少しずつ感覚がつかめてきた。

 ある日の練習後、私は七兄の手を引いて受付へ飲み物を買いに行った。

 入口まで来たところで、ふいに一人の人物が立っているのに気づいた。

 蓮見怜。

 彼は風衣のポケットに両手を入れ、入口にじっと立っていた。表情はない。

 目が合った瞬間、私は七兄の手を離し、その場におとなしく立った。

「蓮見……」

 彼は私を見て、氷みたいな声で言った。

「出て」

 言うなり、背を向けて歩き出す。

 私は七兄に小さく謝り、急いで追いかけた。

 背後では冷やかす声が上がった。

 誰かが口笛を吹く。

 あのお兄さんの声が特に大きかった。

「ほらな、怜、落ちたって言っただろ!」

 エレベーターホールまで追いかけたのに、蓮見怜の姿は見えなかった。

 足が長い人はこれだから。

 そう思う間もなく、横の非常階段の扉が開いた。

 長い腕が伸び、私の手首をつかみ、中へ引き込む。

「蓮見!」

 非常階段は薄暗かった。

 彼はいつものように、いや、いつも以上に不機嫌そうな顔で私の前に立っていた。

「あの男は誰?」

「違います違います、女の子です! 私のルームメイト!」

 彼の顔はさらに暗くなった気がした。

「女の子が好きなの?」

「違います違います! 私はまっすぐです! 真っ直ぐ!」

 慌てて否定する。

 彼は目を細め、私の混乱を楽しんでいるようだった。

「ずいぶん近かったけど」

「あれはビリヤードを教えてもらってただけです!」

「僕が教えるって言ったよね」

「で、でも前回負けたから」私は小さく言った。「ちゃんと練習して、次はあなたを勝たせたくて」

 蓮見怜の表情がわずかに止まった。

 私は焦って言葉を重ねる。

「本当に私はまっすぐです! あなたも知ってるでしょ、私がす、す……」

 好きです。

 その三文字が喉に引っかかって出てこない。

 彼が一歩近づく。

「最後まで言って」

 私は唇を噛んだ。心臓が胸を突き破りそうに鳴っている。

 彼は私が好きだと知っているはずだ。

 彼をモデルにして、あれだけの小説を書き、しかも全部バレているのだから。

 知らないはずがない。

 それなのに彼は私の前に立ち、少しだけ身をかがめ、わざわざ私の口から言わせようとしている。

「言って」

 私は覚悟を決めた。

「あなたが好きなんです!」

 非常階段に、一瞬だけ静寂が落ちた。

 頭上の人感センサーのライトがふっと消えた。

 暗闇の中で、私の心音だけがやけに大きく聞こえる。

 蓮見怜が低く笑った。

「これから、君のビリヤードは僕だけが教える」

 私は呆然とした。

「それと」彼は少し間を置いた。「君の男主人公は、蓮見怜だけにして」

 頭が真っ白になる。

 どういう意味?

 独占欲?

 告白?

 私はぼんやり彼を見上げた。

「つまり」彼の声が少しやわらかくなる。「僕も君が好きだってこと」

 幸せが突然すぎて、私は反応できなかった。

 非常階段は暗い。さっきついていたライトは消えたままで、私たちはどちらも動かないから、灯りも戻らない。

 蓮見怜との距離は近かった。

 息づかいが聞こえるほどに。

 私はふいに、小さな声で言った。

「蓮見編集、こういう場面って、キスシーンを入れるところじゃないですか?」

 彼は軽く笑い、身をかがめた。

 私はその瞬間、しゃがみ込んだ。

 彼の唇は空を切る。

 私は膝を抱え、下から彼を見上げた。

「ねだった甘さなんて、甘くないです」

 蓮見怜は暗闇の中で、数秒黙った。

 それから、ため息をついた。

「佐倉詩乃」

「はい?」

「君は本当に人を困らせるのがうまい」

 11

 付き合い始めて最初の一週間、私はほとんど幽体離脱したような状態だった。

 私に彼氏ができた。

 彼氏は蓮見怜。

 高校から大学まで、入学式から文学講演まで、水泳授業から出版社まで見つめ続けてきた、あの蓮見怜。

 私は彼と付き合っている。

 その事実があまりに現実離れしていて、毎朝起きるたびにLINEの固定トークを確認しなければならなかった。

 蓮見怜『起きた?』

 蓮見怜『今日の原稿、遅らせないで』

 蓮見怜『朝食は食べた?』

 よし。

 夢ではない。

 彼は相変わらず、ロマンチックな空気を壊すのがうまかった。

 付き合ったからといって、彼が急に甘えたがりの彼氏になることはなかった。

 たいていの時間、彼は今まで通り、冷静で抑制の効いた蓮見編集だった。

 ただ、原稿へのコメントに、たまに私情が混ざるようになった。

 たとえば、私がヒロインが恥ずかしくなって逃げる場面を書くと、彼はこうコメントした。

『ここはもう少し感情を進めてもいい。逃げるだけでは解決しない。現実でも同じ』

 たとえば、私が男主人公がヒロインのメッセージを返さない場面を書くと、彼はこうコメントした。

『男主人公の行動として不自然。好きな相手からメッセージが来たら、わざと無視はしない』

 私はそのコメントを長いこと見つめた。

 そしてスクリーンショットを三森怜衣に送った。

 三森怜衣からは、画面いっぱいの悲鳴が返ってきた。

 恋をしたら、人は少し大人になるものだと思っていた。

 結果、私はまったく大人にならなかった。

 むしろ妄想癖が悪化した。

 以前はこっそり妄想するしかなかった。

 今は合法的に妄想できる。

 しかもその妄想を原稿に書き、本人に読ませることまでできる。

 もちろん、その結果は本人からの正確すぎるコメントである。

 ある夜、私は男女主人公のデート場面を提出した。

 電車の中でヒロインが眠ってしまい、男主人公が彼女を見つめ、額にそっとキスをする。

 自分ではかなり純情に書けたと思った。

 しかし蓮見怜のコメントはこうだった。

『男主人公が本当にそれをするなら、彼女が起きないことを確認するべき。でないと犯罪に近い』

 私は腹を立ててLINEを送った。

 佐倉詩乃『どうしてそんなに少女心がないんですか?』

 蓮見怜『編集者だから』

 佐倉詩乃『じゃあ、彼氏としては?』

 向こうが少し黙った。

 蓮見怜『彼氏としてなら、君がもたれて眠れるようにする』

 顔が一気に熱くなった。

 次の瞬間、彼からもう一通届く。

 蓮見怜『でも、寝ている間にキスはしない』

 感動しかけたところで、さらにもう一通。

 蓮見怜『起きているときにする』

 私はスマホを枕に伏せ、ベッドの上で三回転がった。

 この男、反則すぎる。

 12

 付き合って一か月の記念日、蓮見怜は私を横浜へ連れていってくれた。

 夕方のみなとみらいは、とてもきれいだった。

 海から吹く風には、かすかに塩の匂いが混じっている。遠くの高層ビルには明かりがともり、観覧車がゆっくり回っていた。夜空に浮かぶ、色とりどりの指輪みたいだった。

 観覧車を見た瞬間、心臓がいやな音を立てた。

 来た。

 恋愛小説の定番デートイベント。

 観覧車。

 乗った以上、物語の法則に従えば、頂上で何かが起こるに決まっている。

 私は自分の靴先を見つめながら、緊張で手のひらに汗をかいていた。

 チケットを買って戻ってきた蓮見怜が、私を見た。

「高いところ、苦手?」

「違います」

「じゃあ、どうして震えてるの」

「寒いんです」

 彼は自分のマフラーを外し、私の首に巻いた。

 淡い洗剤の匂いに、彼の気配が混ざる。私はその匂いに包まれ、ますます緊張した。

 観覧車はゆっくり動き出した。

 ゴンドラが少しずつ地上から離れ、みなとみらいの明かりが足元に広がっていく。

 私は片手で手すりを握り、もう片方の手は蓮見怜に握られていた。

 彼の手は温かい。

「あと一分で頂上」彼が言った。

「うん」

 私は下を向いたまま、呼吸さえ大きくできなかった。

「詩乃」

「うん?」

 声に誘われて顔を上げる。

 そこにあったのは、彼の温かい唇だった。

 その瞬間、街の音が遠のいた気がした。

 彼のキスは、普段の彼とはまったく違っていた。

 蓮見怜はいつも冷静で、抑制的で、言葉にも距離にも余白を残す人だ。安全圏の外に立っているような人だった。

 でもこの瞬間、彼は片手で私のうなじを支え、もう片方の腕で腰を抱き、私たちの間に残っていた最後の隙間を消した。

 触れるだけだったキスが、少しずつ深くなる。

 逃げ道を探す間もなく、彼の体温だけが近づいてきた。

 頭の中は真っ白で、私は本能的に彼の服をつかむことしかできなかった。

 ゴンドラが頂上を通り過ぎるとき、車体が軽く揺れた。

 驚いた私は、彼にしがみついた。

 彼は低く笑ったが、離してはくれなかった。

 息の仕方が分からなくなり、私が本当に苦しくなり始めた頃、彼はようやくゆっくり離れた。

 そのとき、観覧車はすでに下り始めていた。

 私は彼の胸に顔を埋め、大きく息を吸った。

 しばらくして、ようやく遅れて疑問が浮かんだ。

「ど、どうしてそんなに慣れてるの?」

 蓮見怜が私を見下ろした。

「何が?」

「その……キス」

 彼は二秒ほど黙った。

「独学」

 私は顔を上げてにらんだ。

「それ、どうやって独学するんですか?」

「小説はたくさん読んでいる。描写が詳しければ、参考資料になる」

 私はむっとした。

「誰と練習したんですか?」

「一人で」

「一人でどうやって?」

 蓮見怜の表情に、ようやく少しだけ気まずさがにじんだ。

 彼は軽く咳払いをする。

「想像」

 私はぽかんと彼を見た。

 ここまで言った以上、もう隠す意味がないと思ったのか、彼はさらに詳しく説明した。

「君がぺらぺら話しているときに、小説の描写を思い出して、それを目の前の情報と組み合わせて構成していた」

 私はしばらく黙った。

「それ、妄想ですよね?」

「……」

 私は勢いよく身を起こした。

「認めて、蓮見怜! あなたも私を妄想してた!」

 蓮見怜は窓の外へ顔を向けた。観覧車の明かりに照らされた耳の先が、かすかに赤く見える。

 私は初めて知った。

 冷淡な推しの先輩も、照れるのだ。

 その瞬間、少しだけ彼にキスしたくなった。

 しかし私が動く前に、観覧車は止まった。

 外では係員さんが、にこやかに扉を開けていた。

 私「……」

 ねだった甘さは甘くない。

 ねだり損ねた甘さも、かなり苦い。

 13

 僕は蓮見怜だ。

 認める。

 僕は佐倉詩乃を妄想したことがある。

 五年前に。

 高校三年の最後の数か月、家ではいろいろなことが起きた。

 祖母が亡くなり、父が再婚し、母にもすでに新しい家庭があった。

 大人たちはみんな、僕のためだと言った。

 けれど、あまりにも気遣いに満ちた目で見られるたび、自分が余計な存在になったように感じた。

 僕は自分から学校へ戻りたいと言った。

 もうすぐ受験前の追い込みだから、授業をあまり休むわけにはいかない、と。

 本当は分かっていた。

 ただ、優しすぎて居場所をなくす家から逃げたかっただけだ。

 学校に戻ると、みんな僕にとても丁寧だった。

 冷たいのではない。どう接していいか分からない距離があった。

 同級生は問題を聞きに来るし、先生は進度を気にかけてくれる。

 でも誰も家庭のことには触れなかった。まるで僕が、ひびの入った陶器で、少し触れただけで割れてしまうものみたいに。

 彼らを責める気はない。

 ただ、疲れていたのは確かだ。

 ある休み時間、校庭から戻ると、机の上に一冊の文庫本が置かれていた。

 表紙には付箋が貼ってある。

 そこには僕の名前だけが書かれていた。

 それ以外に、署名も目印もない。

 本は朱川湊人の『桜の秘密基地』だった。

 付箋の内側には、もう一つだけ言葉があった。

「すぐに元気にならなくていい。今日を乗り越えられただけで、十分すごい」

 僕はその言葉を見たまま、しばらく動けなかった。

 不思議だった。

 その頃、多くの人が僕を慰めてくれた。

 強くなれ、と言われた。

 いつか全部過ぎていく、と言われた。

 時間が解決してくれる、と言われた。

 でもその付箋だけは、すぐに元気にならなくてもいいと言ってくれた。

 悲しんだままでいることを許してくれた。

 ただ今日を乗り越えるだけでいいと、言ってくれた。

 僕はその本をくれた人に感謝した。

 最初は、青山先生が置いたのだと思った。

 職員室へ礼を言いに行くと、先生は少し驚いて、自分ではないと言った。

 では誰だろう。

 本をくれた生徒は、ほかに何も残していなかった。見つけてほしくないのだろう。

 それでも、僕はその人の姿を想像せずにはいられなかった。

 優しそうな長い髪の女の子かもしれない。

 笑うと目尻が下がる短髪の子かもしれない。

 あるいは、たまたま僕の様子を見て、ただ親切でそうしてくれただけかもしれない。

 五年後、その人が自分から僕の前に飛び込んでくるとは思わなかった。

 しかも、僕の記憶の中のイメージを完全に壊す形で。

 頭の中が色つきの妄想でいっぱいの、インドア作家だったとは。

 もともと僕は、恋愛ライトノベルを担当していたわけではない。

 青嵐文庫の女性向けレーベルが人手不足で、臨時に手伝うことになった。

 僕はまだ若手で、こういうとき一番使いやすい立場だった。

 数週間だけ手伝い、次の新人編集が来たら元の部署へ戻るつもりだった。

 その週に、佐倉詩乃の原稿を見た。

 ある女性編集者が笑いながら僕を呼んだ。

「蓮見、ちょっと見て。この男主人公、蓮見怜っていうの」

 最初は軽い気持ちで読み始めた。

 けれど読み進めるほど、妙だと思った。

 桜丘高校。

 休学。

 匿名の本。

 水泳の授業。

 東都大学の文学講演。

 入学式での男主人公の挨拶の内容まで、僕の記憶と重なりすぎていた。

 僕はその原稿を引き取った。

 そして、彼女の担当編集になった。

 作者のLINE名は、佐倉詩乃。

 その名前を見たとき、大学時代のぼんやりした記憶が浮かんだ。

 文学講演の客席に、いつも最後列近くでカメラを構え、ピントを合わせるふりをしている女の子がいた。

 本人はうまく隠れているつもりだったのだろう。

 でも、僕が目を上げるたび、彼女は見えた。

 学生会や広報部なら、普通は代替わりするはずだ。それなのに彼女は、学部の講演にも、大学全体の講演にも、外部との合同企画にも、ほとんど毎回いた。

 彼女は本当に僕が好きだったのだと思う。

 本を受け取る日、僕は本だけ受け取って帰り、あとでお礼のギフトでも送ろうと思っていた。

 しかし彼女を見た瞬間、考えを変えた。

 淡い緑の大きなTシャツを着て、白いリュックを背負った彼女は、いかにも学生らしかった。

 振り返った顔は汗とメイクでまだらになっていて、慌てた猫みたいだった。

 笑いそうになった。

 洗顔して戻ってきた彼女を見て、ようやく顔立ちが分かった。

 すっきりした輪郭、薄い一重の目、少しすねたように結んだ唇。

 この人が、あの本をくれたのか。

 想像とはまったく違っていた。

 でも、失望はしなかった。

 その後何度か接するうちに、彼女は恥ずかしくなるとすぐ頬が赤くなり、耳まで赤くなることが分かった。

 考えていることも、顔に出やすい。

 僕がギャル好きだと勘違いして、自分を渋谷の街頭スナップみたいに変えてきた。

 慣れていないのに、必死で堂々としているふりをしていた。

 レストランでくしゃみをしてアボカドライスを手の中に噴き出したとき、彼女は今にも砕けそうだった。

 僕がシャツを渡すと、その目だけが一瞬きらりとした。

 分かりやすい。

 そして、からかいやすい。

 串焼き屋で、店員が彼女を僕の彼女だと勘違いした。

 説明してもよかった。

 でも、僕はしなかった。

 そのまま肩を抱いて、彼女を席に座らせた。

 彼女はその動作にひどく驚いたようだったが、必死で平静を装っていた。

 その夜、彼女は酔った。

 酒癖は悪い。

 数杯でふらふらになって、僕のほうへ倒れかけ、途中で自分から跳ね返る。触れたいのに触れられない猫みたいだった。

 やがて、彼女はぽつぽつ話し始めた。

 初めて僕を見たときから好きだったこと。

 本当に変質者ではなく、近づく勇気がないからこっそり後を追っていたこと。

 こんな形ではあるけれど、いつか僕と正面から知り合えるなんて思わなかったこと。

 そして、近づくために自分なりにいろいろ努力したこと。

 話している途中で、彼女はいきなり自分の襟元を引っ張った。

「あなたがギャル好きだと思ったから! 私、盛ったんです!」

 まずい、と思い、僕は急いでシャツで彼女を包んだ。

 それでも彼女はもぞもぞ動く。

 服の裾から、例のものが滑り落ちた。

 あの瞬間、僕は驚くべきか笑うべきか、本気で分からなかった。

 彼女にルームメイトへ連絡させようとした。

 彼女はもじもじしながら、僕の家へ行きたいと言った。

 もちろん、そんな服装の酔っぱらいを家へ連れて帰るわけにはいかない。

 知らない人が見たら、道で酔いつぶれた女の子を拾ったと思うだろう。

 結局、僕は彼女に指紋でスマホを解除させた。

 幸い、画面は分かりやすく、すぐLINEが見つかった。

 開くと、僕のアイコンがトーク一覧の一番上にあった。

 唯一の固定トーク。

 彼女のルームメイトに連絡してから、僕は彼女を支えて校門まで行った。

 迎えに来たルームメイトは、彼女と紙袋を受け取り、「情けない」と一言言った。

 すると彼女は泣き出した。

 すすり泣きながら言った。

「わ、私、できないよぉ……蓮見怜が、くっついてくれないんだもん……」

 その後、彼女は急に僕へあまり連絡してこなくなった。

 不思議なもので、それが少し物足りなかった。

 ちょうど青山先生が東京に来ることになり、僕は恩師に食事をごちそうすると言った。

 そしてついでに、佐倉詩乃も呼んでほしいと頼んだ。

 その日、彼女は大きなパーカーを着て、手土産の袋を持ち、個室の入口に立っていた。

 髪の先から靴の先まで、全身で「どうしていいか分からない」を表現していた。

 彼女が無意識に胸元を見下ろしたのを見て、あの夜を思い出し、また笑いそうになった。

 帰り道、僕はInstagramの件の誤解を解いた。

 彼女は顔を上げ、きらきらした目で僕を見た。

 その目にははっきり書いてあった。

 私、チャンスありますか?

 それから彼女は、明らかに大胆になった。

 原稿を口実に、何度も何度も堂々と僕に見とれてきた。

 僕はそれが嫌ではなかった。

 本当は、もう少し彼女をからかう日々が続いてもいいと思っていた。

 けれど彼女は、僕に危機感を抱かせた。

 ビリヤード場の友人が、何度も写真を送ってきて挑発してきたのだ。

 写真の中で、彼女は短髪の「男」とかなり近い距離にいた。

 相手は彼女の肘を支え、構えを直している。

 さらに彼女は、その人の手を引いて飲み物を買いに行き、まったく警戒していない顔で笑っていた。

 我慢にも限度がある。

 僕は外での取材を終え、同僚を先に帰らせ、そのままビリヤード場へ向かった。

 入ってすぐ、彼女がその「男」の手を引いているのが見えた。

 その瞬間、胸の中に名前のない火が上がった。

 非常階段で、彼女が自分の口で好きだと言うのを聞いて、ようやく気が済んだ。

 それなら、関係をはっきりさせたほうがいい。

 名もないまま、彼女を気にしているのは面倒だから。

 14

 私は佐倉詩乃。

 蓮見怜と付き合って数か月後、私はある投稿を見つけた。

 タイトルは、

『男子のときめきポイントって、本当に意味が分からない』

 コメント欄には、妙な体験談が山ほど並んでいた。

 彼女が片手でペットボトルを開けた姿にときめいたという彼氏。

 彼女のくしゃみが猫みたいでときめいたという彼氏。

 彼女がラーメンを食べる前に髪を結ぶ姿にときめいたという彼氏。

 読み終えた私は、深く考え込んだ。

 その夜、会ったとき、私は真剣に蓮見怜へ尋ねた。

「怜、私にいつときめいたんですか?」

 蓮見怜は向かいで原稿を読んでいた。

 私の質問を聞いて、目だけを上げる。

「本当に聞きたい?」

 私はうなずいた。

「聞きたい」

 彼は本気で数秒考えたようだった。

 そして言った。

「君がバストアップパッドを取り出したとき」

 私「……」

 私は叫びながら飛びつき、彼の口を手でふさいだ。

「わあああ! 言わないで!」

 彼は笑みを浮かべたまま、私の手首をつかむ。

「聞いたのは君だよ」

「入学式での再会とか、古書店の本とか、月明かりの下でときめいたとか、そういうロマンチックな答えを期待してたんです!」

「それもある」

 私は動きを止めた。

 彼は私の手をそっと下ろす。

「でも一番はっきり覚えているのは、あの夜、酔った君が泣きながら、できないって言ったとき」

 私は固まった。

 蓮見怜は私を見つめ、静かな声で言った。

「あのとき、君が本当に、僕に近づくためにずっと頑張っていたんだと分かった」

「どうしようもなく不器用で」

「でも、かわいかった」

 顔が一気に熱くなった。

 彼はさらに付け足した。

「ただし、襟元からあれを取り出そうとした瞬間は、確かに衝撃的だった」

 私は再び飛びついて、彼の口をふさいだ。

「蓮見怜!」

 彼は低く笑い、私の手を握って、自分の腕の中へ引き寄せた。

 私は彼の胸にもたれ、心臓の音を聞いた。

 落ち着いていて、はっきりしている。

 五年前の入学式の日、マイクを通して私の耳に届いた、あの声みたいに。

 ただ、今の彼はもう、手の届かない壇上にはいない。

 私の手が届く場所にいる。

 ふと、自分が最初にあの小説を書いたとき、ヒロインに言わせた独白を思い出した。

 彼女はこう言っていた。

「誰かを好きになるのは、遠くの月を見上げることに似ている。月が自分のために降りてこないと分かっていても、それでも毎日見上げてしまう」

 あのとき私は、私と蓮見怜の距離はずっとそういうものだと思っていた。

 けれど今、月は本当に降りてきたみたいだ。

 私の生活の中へ。

 原稿にコメントを入れてくれる。

 水増しを叱ってくれる。

 蜜柑を食べすぎた私のために、辛いタレをごまだれに替えてくれる。

 観覧車の頂上でキスしてくれる。

 そして、真面目な顔で、私を妄想したことがあると認めてくれる。

 私は彼の胸に顔を埋め、思わず笑った。

「蓮見編集」

「何?」

「次の本も、あなたを書いていいですか?」

 彼は私を見下ろした。

「だめ」

 私は固まる。

 彼はゆっくり言葉を続けた。

「ただし、男主人公がヒロインだけを好きならいい」

 私はすぐに手を上げて誓った。

「もちろん一人だけです!」

「強引なキスも禁止」

「それじゃあ、どうやって物語を進めるんですか?」

「取材には協力する」

 私は瞬きをした。

「どうやって?」

 蓮見怜は答えなかった。

 代わりに、顔を寄せて、私にキスをした。

 今度は、私は逃げなかった。

 ねだった甘さも、ちゃんと甘くなることがある。

 番外編 三森怜衣のつぶやき

 私は三森怜衣。

 佐倉詩乃の高校時代からの親友である。

 そして、彼女の信じられない片思い史の唯一の目撃者でもある。

 私はずっと、佐倉詩乃という人間は変だと思っていた。

 普段はコミュ障で、コンビニ店員に「おにぎり温めますか」と聞かれただけで三秒は固まる。

 それなのに、蓮見怜のことになると行動力が恐ろしく強い。

 彼の水泳姿を見るために、自分が一番苦手な水泳を選んだ。

 彼の講演を撮るために広報部に入り、四年間続けた。

 彼を慰めるために、三年生の教室へこっそり本を置きに行き、名前も残さなかった。

 彼を追うために、自分なら一生選ばなかったであろう渋谷系ギャル風の服まで着た。

 もちろん、最後にはバストアップパッドを落とした。

 この件については、一生笑える自信がある。

 でも正直に言うと、私はずっと、彼女は成功すると思っていた。

 蓮見怜を好きなときの彼女は、本当に真剣だったからだ。

 見た目だけを好きになる、にぎやかな恋ではなかった。

 一人の人を何年も心の中に置き、遠くから見守り、邪魔せず、求めすぎない。

 彼女は臆病だけど、不器用なほど勇敢だった。

 一方の蓮見怜。

 私が初めて彼を見たのは、高校の入学式だった。

 そのときから、この人は攻略難度が高いと分かった。

 冷静で、礼儀正しくて、距離感がある。見た目のいい氷山みたいな人だった。

 後になって、詩乃から彼が自分の担当編集になったと聞いたとき、私の第一反応はこうだった。

 縁結びの神様、やっと出勤したんだ。

 第二反応はこうだった。

 詩乃、終わったな。

 案の定、彼女は初日から本人にバレた。

 翌日には、Siriが「怜衣」を「怜」と聞き間違えたせいで、直接電話までかけた。

 これも、一生笑える。

 でも、笑いは笑いとして。

 あの誤発信がなければ、佐倉詩乃の臆病な性格では、きっとまだ逃げていただろう。

 そう考えると、私の名前はなかなかいい仕事をした。

 だって、私「三森怜衣」がいなければ、彼女と「蓮見怜」の恋愛事故は起きなかったのだから。

 だから、あの二人が結婚するとき、私は絶対に主賓席に座る。

 司会者には、ちゃんと紹介してもらわなければならない。

「こちらが本日のご縁における、音声認識上の最大功労者です」

 佐倉詩乃は、きっとその場で社会的に死ぬ。

 想像するだけで楽しい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ