自由の天秤とその先の代償(6)
ウィルナは辿り着いた西区北側に神秘的な聖域とも言える安心感を抱いた。
通って来た地区は全てが炎に包まれ、石材建築ですら瓦解延焼していた。しかし一つの通りを挟んだ西区北側は、風に舞い上がる火の粉が飛散しても完全に無傷。雨の空と晴れの空の境界に立っているような風変わりな意識を感じさせた。
「ここまで被害が拡大する前に先を急ぐ。目的地は近い。無警戒になるが走ろう」
先頭を行くヴィガは真後ろ横を歩くウィルナに目配せして頷き、背後で歩いている魔族達五人に告げた。
ヴィガのウィルナへの頷きには、ヴィガ自身が改めるべき魔族達への認識を再確認させ、魔族達も種族関係なく同胞と認めると意識した為。
実際、ヴィガが振り向いた魔族達五人は、全員が誰かを抱きかかえてここまで歩いてくれていた。
「寝ている子供達を抱えたままで走らせる事は済まない。だが、この先に父親代わりの人がいる。どうかお願いする」
ヴィガは振り返って足を止め、魔族達に頭を下げて頼み込んだ。相手は魔族集団の先頭を歩き、ベリューシュカを抱えたティナ。ヴィガにはこの地区だけが無傷で放置されている事に違和感を感じ、武器屋の主人の育ての親、ダルナクことダルド・ケイディールとの合流を急く気持ちが止めれなかった。
「私達の事は心配しなくて良い。子供達を起こしたりはしない。」
「感謝する。走れば十分と掛からず到着する」
ヴィガは魔族達に再度頭を下げて礼を伝え、先頭を切って夜道を駆け出した。
ヴィガとベリューシュカ以外は黒の装備一式でフードも深く被り、黒一色の集団の先頭を普段着のヴィガが赤く輝く巨大な月夜の下を先導した。
通りを数ブロック進むと通りに出て情報交換している住民も数人見かけるようになり、中には荷物を抱えている人や、馬車に積み込みをしている人も見かけた。その光景がヴィガに過度の不安と疑念を抱かせる。
(――やはり異常だ。この地区だけには魔獣の襲撃すら未だ無い。しかも今現在都市脱出の準備中という事は、極短時間でこの都市が陥落したという事。敵の正体が掴めない)
ヴィガは急く思いで走る速度に勢いを付けた。到着時刻次第ではダルドとすれ違いになる可能性もある。今のタイミングを逃せば二度と会えなくなる気がした。ダルドが家で無事に滞在している事だけを願い、駆け続けた。
「よぉー。遅かったな。どこかでくたばったかと思ったぞ。まぁ冗談だ。それは無いとは思っていた」
その声はダルドの家間近の地点。中央区からダルドの家に向かうなら常に通る道で、その角を曲がった直後だった。
「エイベルさん。無事だったんですね」
「エイベル――」
エイベルの下に駆け寄るウィルナに先を越されたヴィガは、走る速度を緩めてやがて立ち止まった。
「ウィルナ、お前も無事で何よりだ。それがお前の連れている魔獣か」
単身で姿を見せたエイベルは、愛用のグレイブを杖代わりに一歩踏み出し、トレスに顔を向けた。
「はい。この子が僕の家族の一人でトレスです」
トレスを見た誰もが見せる驚愕の表情一切を浮かべず、只々寡黙に冷静にトレスを見つめたエイベル。
「他の仲間はどうした。お前は今日どこにいた」
ヴィガが不安と猜疑心を込めて落ち着いた声でエイベルに質問した。ヴィガの不安はエイベルが単身でこの場に姿を現した事。何よりこの状況で些細な動揺すら見せず、綺麗すぎるグレイブの刃が気になった。
ここに来るまでに魔獣や襲撃者との戦闘があった筈。トレスの絶対的な感知能力を以てしても二度の戦闘を強いられた。エイベルが騒ぎの前から一人で此処にいて、待っていたとは考えにくかった。待っていた理由も理解が出来ない。それらは一重に被害者側では無く、加害者側に立っている事を示唆していた。
「どういう意味だ。いや、隠す必要も無いか」
ヴィガへのそっけない返答は、望まない予測回答と裏切り行為に対する痛烈な無念を抱かせた。
「エイベルから離れろ。こいつが一連の事件の首謀者だ。そうなんだな、エイベル」
ヴィガの声は押し留めた憤りのせいで低音が強調され、その声に反応したウィルナは呆然と立ち尽くしてエイベルを見つめた。
ウィルナはエイベルに『違う』と断言して欲しかった。
ウィルナにとって、エイベルやその仲間達は外の世界で初めて出来た戦友。今日は既に、恩人と友人を同時に失った。そしてエイベルの返答次第では戦友すら失う緊張で鼓動は高鳴った。
「悪いなヴィガ。お前が真実を知っても俺はやれないし、お前に用も無い。シュリストの居場所を伝えに来ただけだ」
不敵な笑みを浮かべたエイベル。その視界には剣の柄に手をあてて抜こうとしていたヴィガが捉えられていた。そしてエイベルは左手のグレイブを、都市の炎に焼かれて染まる朱色の夜空に掲げた。
「一体どういう事だ。説明しろ。バルムト卿を陥れた陰謀もお前か?」
「言っただろ。ウィルナにシュリストの居場所を伝えに来ただけだ。日付が変更されたか。明日の深夜だ。北街道第二休息地まで来い。そこでシュリストの居場所を書いた地図をやる」
「あいつは俺がやる。今ここで居場所を言え」
「俺は忙しいんだ。これから中央区の城を落としに行くんでな」
エイベルは掲げたグレイブを下げて石畳に突き当て、杖代わりにして後退を始めた。その表情には不敵な笑みを宿したが、頭を捻ってウィルナを眺めた。
「僕はシュリストっていうのに興味はありません。地下闘技場の戦いは完全に僕の負けでした」
ウィルナはエイベルの視線に気が付き、呆然と立ち尽くしたまま無意識かとも思える声を出した。全ては受け入れがたい現実に抗う為の精神自衛措置。思考を止めて受け入れやすい現実の声だけを直視した。
「何を言っている!バルムト卿の命を奪った奴なんだぞ!」
ヴィガの大声にも反応を示さないウィルナは完全に意識を閉ざし、うつむいた顔からは悲愴感が漂っていた。ウィルナには会話から全体像が掴めず、誰が敵で誰に怒りの矛先を向けるべきなのかが分からなかった。
「まったくお前は変わった奴だな。お前なら必ず飛びつく情報だと思ったが。――奴隷の為に涙を流して寄り添う奴も珍しいと感じたが、良く分からん奴だな」
エイベルはふと視線を変えてヴィガの背後に立つ五人の集団に意識を向けた。四人が全員小さな子供を抱き上げ横一列に立ち並び、その背後に少女が少女を抱いていた。
五人全てがフードで顔全体を覆い隠し、その体もマントで隠れて視認出来ない。全ては体形体格から判断した。
「よく聞けウィルナ。お前は明日の深夜に必ず来る必要がある。シュリストは獣人奴隷飼育場の情報を持っている。奴隷を解放するなら今この状況下が一番効果的だ」
エイベルはウィルナと行動を共にしている獣人奴隷の情報も仕入れていた。ウィルナがシュリストとの再戦を望まなくとも獣人の為に戦うだろう事は想像に易かった。
「奴隷の解放――」
エイベルの予測通りに反応を示したウィルナは、心を抉る何とも言い難い痛みを耐えて顔を上げた。背後の魔族達に抱かれて眠る子供達に目を向けた。
ウィルナ自身は十八歳。しかし人付き合い経験が皆無だったウィルナは年齢不相応の精神年齢であり、友人知人の裏切り行為に対する免疫が皆無だっだ。
それでも子供達と交わした約束が彼を立ち直らせた。子供達の家族を見つけると約束した。その望みが微かでもあるのなら行くべきだと考えた。子供達の事を考えた。その一点だけがウィルナに理性と平常心を取り戻させた。
「分かりました。明日の深夜ですね」
ウィルナが返事を返したエイベルは後退を続けており、ある程度の距離を取って立ち止まった。
「全ては明日終わる。今日はこれまでだ」
次の瞬間地響きが轟き、それに気が付いた近隣住民が絶叫じみた悲鳴を次々に上げた。
「ゴルルルルルル――」
闇に半分同化して立ち止まったエイベル。その背後に飛来して来た二足歩行の巨大な魔獣。丸太のような左腕をエイベルに差し出し、それを伝って魔獣の左肩に移動して魔獣頭部の巨大な角を掴んだ。
バゴンという音が魔獣の両手に叩かれた石畳から発生し、その破壊痕を残して音の残響と共にエイベルと魔獣は姿を闇夜に消した。
「やはりエイベルが。そういう事か」
ヴィガは漠然とした一連の事件の回答を得た。西区北側が無事であった理由も今現在確認出来た。全てはエイベルが元凶となっていた。この地区が無事なのはエイベルがそう魔獣達に命令したから。その理由はヴィガの育ての親であるダルドが住んでおり、エイベルも昔からダルドの世話になっていた過去を持っていた。
「全ては明日か。一体どうしたんだ、エイベル」
ヴィガはエイベルが振りまいた災厄の動機が理解出来ず、エイベルと共に過ごした過去を思い出して呟いた。飄々淡々としたマイペースな性格のエイベルは正義感の強い人物像だった。それが今では一都市を壊滅させるまでになり、ヴィガ自身の主であったディロン・バルムト・ガリアリスまで亡き者とした。
「先を急ぎましょう。僕にはやるべき事が出来ました」
ヴィガがエイベルの行動に戸惑い、ウィルナの声につられる形で合わない視点をウィルナに合わせた。そこに映ったウィルナは立ち直りという急速な意識の切り替えを見せた。普段通りの立ち居振る舞いに溢れる自信。その顔に光る双眸には確固たる決意が宿っていた。
「あぁ、そうだな。ダルドさんの家に早く向かおう。貴殿達にも無用の時間を取らせて済まない」
「問題無い。それより子供達を早く横にしてあげたい。」
「そうだな。今はそれが何よりも優先だった」
ヴィガはティナの無表情な声に微笑して返し、先頭を歩き進みだした。目的地は目と鼻の先。歩いても直ぐに到着する距離。しかし距離より旧知のエイベルの事が気になり、走る気力も出なかった。エイベルの『全ては明日』という言葉が不安を搔き立てた。




