気炎に燃える悪意の影(6)
降りしきる雨による急激な体温低下。風邪に負けて高熱をだした体。
そこに加算された出血による貧血と、それに起因する別な意味の悪寒。
ウィルナは負傷箇所が悪すぎたため、肩口の止血を手で圧迫するだけにして諦めていた。単純に布が無い。縛れない。消毒出来ない今、適当な布を傷口に入れ込み、押さえつけて止血すれば破傷風の危険も懸念され、その場凌ぎの後を考え諦めた。
ウィルナも人並みに高熱も傷の出血も激痛も全てが辛い。
が、そこまで。即死するわけではないので無理やり気力で動き続けた。
(体が重い。熱い。寒い。出血が止まらない。トレス。どこだ)
戦闘直後適当な屋根に跳躍し、屋根伝いにトレスを追いかけたが見当たらない。トレスに限って不覚を取る事は無い筈だが焦燥感だけが募り、心労が更なる負荷となり心身を圧迫する。
弱々しい足取りで先を急ぐウィルナが不意に感じた世界の明確な回転。
今では脆弱となった足腰に焦る気持ちが順応できず、防御魔法を付与した体と屋根板がそれぞれの特徴で音を打ち鳴らす。濡れた板張りの傾斜に足を滑らせたウィルナは、三階の屋根から体を滑らせ足から滑落していった。
(あぁ。水が飲みたい。止まない雨にうたれ続けても喉が渇く)
ウィルナは何の抵抗も示さず屋根板の滑り台を滑り落ちた。
(良かった、下に人はいない)
無抵抗に滑り落ちた裏通りの石畳。やかましい防御魔法の金属音が響き渡る。体を猫のように捻り、四つん這いで着地する事で落下の衝撃を分散して不細工な着地を決めた。
(おおおおぉ。久々痺れた。少し頭がすっきりした気がする)
「何だ。何の音だ!?」
「きゃああああ」
「どうしたっ。だいじょぶか!」
「人が空から降って来たぞ」
スッと立ち上がったウィルナは前後を数人の通行者に囲まれる形で注目を浴び、通行者はその肩口から真っ赤に染まった左腕の服を含めて各々が奇声を上げた。
「驚かせてすいません。これで失礼します」
ウィルナは挙動不審な通行人一同に会釈をしてから石畳を歩き出した。
しかし足を止めた通行人は驚愕と怪訝な眼差しを向け続けた。
その理由は血に染まった服と、落ちた建物含め今いる周囲全てが倉庫群。
木造の壁には窓も換気のための小さな開口部すら無い一枚の壁。
「あいつ何処から落ちて来た。この屋根か?十メートルはあるぞ」
「私見ました。なんで平気で歩けるの?」
「泥棒なのかしらね。酷い怪我してません?」
小声で好き勝手口にする通行人。訝しむ視線には布製品で身を包むウィルナから聞こえる軽やかな金属音に対する疑問も含まれた。歩き去るウィルナも視線を感じ、雨音にかき消される事も無く全部聞こえたが全てを無視した。
長居は無用。言葉も無用。
(人が多いいな。どこから屋根に戻るか。この先は城壁か)
ウィルナは通路を曲がって人のいない通路を探して歩いた。
トレスは必ず近くに居る筈だし屋根の上のはず。
下から見上げても埒が明かない。
しかし雨の中でも行き交う人の量は多く絶え間ない。
(まいった。さっきの人の誰かが騎士団に僕の事を話してもおかしくない。早く離れないと騎士団の追跡があれば発見される事になる。これ以上目立ちたくないんだけどな)
人混みを避けるために倉庫群の大き目な通りを避け、角は勘で適当に選んで歩き続けて見つけた小道。人通りの少ない裏路地をようやく見つけたと思った矢先。
「そのまま歩け。こっちを振り向くな。さっきの魔法も使うな。ほらっ」
「ひいっ」
ふらつきながら歩くウィルナの背後から、不意に聞こえた男の声と女性の微かな悲鳴。振り向くなと言われても、素直に従う理由は無いので足を止めて振り向いた。
「何の用ですか」
「振り向くなと言ったはずだ。こっちを向くな」
憤慨したした感情に混ざる明確な動揺を声に乗せた男は、ウィルナよりも多少幼く見える少女の肩に右腕を回し、その首筋にフードの中に潜めたダガーを出して光らせた。
「あの魔法を使えば盾の女も死ぬ。下手な動きをしても女は死ぬ。理解したら歩け。おぉっと、体から出るその変な音も消せ」
ウィルナは防御魔法を消滅させ、男に背を向けて歩き出した。
少女は男に回された腕で、浅くなったフードの中の顔が恐怖に支配されていた。無関係ならウィルナが巻き込んだ圧倒的理不尽を与えてしまったと感じ、少女への贖罪のため男に素直に従った。
「その女性を傷つけたら殺さずに生き地獄をくれてやる」
ウィルナは怒りに沸騰する感情そのままに、思いついた言葉を背後の男に告げた。
次の瞬間左肩に鋭い痛みが走り、衝撃と熱を共に感じて姿勢を崩した。
「っぐ・・・」
多少の前傾姿勢となったウィルナの背に突き立てられたダガーは引き抜かれ、再び襲った激痛に口を堅く結んで耐えた。雨水とは違う微かな温もりを感じる血液が腰を通過していく。
「俺がお前をいつでも殺せる事を忘れるな」
男の声が苛立つ感情の炎を烈火へと拡大させるが、ウィルナには手が出せないこの状況は一方的な不利。女性の微かな悲鳴はベリューシュカを連想させた。巻き込んだ可能性が高い以上は全力で守ると決め、歩きながら打開策を模索した。
(駄目だ。先程の戦闘で情報を与え過ぎた。かなり離れて前を歩かされている事も厄介だ。反撃の隙が無い)
豪雨の中、長時間指示に従い寡黙に歩き続けるウィルナ。行き交う通行人が怪訝な目線を出血の酷いウィルナに向ける。しかし全員がウィルナを避け、道をあけて離れて歩き、声をかけた者は皆無。全員が心配したのは自身の身の安全。ウィルナに関わる事を避けた。
ただ周囲は寡黙に景観を変えていった。建築群はその全てが石造りで巨大。記憶に新しい都市中央区の景観を連想させる大通りは、豪雨の為か閑散とする人の少なさ。
男の指示で長時間歩いた先の石造りの大きな邸宅は、周囲の建造物とは一線を画す豪華さを誇る重厚な存在感。土地勘の全く無いウィルナは現在地を把握出来ず、大きな外壁に設置された両開きの大きな鉄門前で立ち止まった。
現在地が把握できない理由と長時間歩いた理由は、男が通過した地点を再度通る指示を数回出した為。似た様な建築物が乱立する都市。ウィルナにとっては迷路も同然だった。しかし騎士団連中に出会わなかった事は幸いだった。もしかしたら騎士団を避ける為か。とも考えたほどだった。
「開けて入れ。まだその位は出来るだろ」
男の言葉通りでウィルナの出血は酷く半死半生の状態。上着の白のギャンベゾンは白と赤の二色で染められていた。そして右手を当てた黒の鉄門はかなりの厚さと重さ。両足に力を込め、倒れ込むように右腕・右肩で押した。
押しあけるごとに軋む音を立てる蝶番。開ける視界に真っすぐ伸びる石材の通路と、緑溢れる庭園が大きく広がる。
「そのまま進め。奥に見える屋敷まで」
ウィルナにとっては初めて立ち入った豪邸とも言える建物と敷地の広さ。歩く石の歩道は長方形の石材が道幅広く埋め尽くし、敷地の中央部を奥に見える大邸宅まで直線で結んでいる。その雨に濡れても尚色あせない乳白色の通路の両側を、真冬の翠が湖面の様に広がり風雨に揺れている。
ウィルナにはこれほどまで巨大な家に住みたいと考えた動機を理解出来ないが、住むために膨大な金額が必要である事は理解出来た。
(ベルーシュカさんから話に聞いていた金持ち連中とかいう奴らか。騎士団の奴らに金を渡して襲わせたのはこいつらか。ここにいる奴が一連の黒幕か。くっく。向こうから来たなら都合が良い。ここにいる奴を皆殺しにする)
ウィルナが口角を弱々しく上げて固めた決意とは裏腹に、その惰弱な意識は死人の様な顔と足取りに現れた。流れ出る血は止まる事が無く、二ヶ所の傷から感じる激痛は絶え間ない。それでも消えかかる意識は強い睡魔に襲われている感覚。ここまで歩いて来れた事すら奇跡に近い状態になっていた。
「ここでいだろう。ほらよっ」
三人が立ち止まった地点は入口鉄門と屋敷までの中間地点となる石材通路上。
少女を解放して報酬を渡し、左手を口に当てて大きな口笛を鳴らした男。男の意味不明な言葉と軽い金属音に動作音で立ち止まり、男に振り向いたウィルナ。
「死にそうじゃない。でも恨まないでね」
跳ねるような軽快な足取りで少女が微笑みかけた。少女は男から貰った金貨二枚を右手に握りしめ、満面の笑みは雨にうたれるフードの中で輝いた。
「早く仕事に戻れ。さっさと消えな」
「じゃあね、かっこいいお兄さん。死んでも呪ったりしないでよ。金持ちになったら付き合ってあげてもいいからね」
(これは、――騙されたのか。あぁ、これがお芝居ってやつか。初めて見たお芝居がこれか。笑えない冗談だよ。ふふっ。まぁ良い。うん・・・。良かった。あの子は僕に巻き込まれたわけじゃ無かったんだ)
屋敷裏手に駆けて行く少女を目に、多少の安堵を覚えたが気力体力ともに限界が近い。虚ろな目には光無く視点も疎ら。揺れる視界は立ち続ける事すら困難な両足にも起因した。体を支えきれずにふらつき揺れてしまう世界と視界。
(駄目だ。安心するな。気を抜くな。これからだろ!)
泥酔状態のようにゆらゆらと雨にうたれ続けるウィルナの周囲を、三十人弱の男達が足早に大きく取り囲んでも、うつむいた顔を上げる事が出来ない。敵に囲まれる時点で開始すべき戦闘準備の防御魔法展開すら出来ない程に力無く衰弱していた。
「分かっていると思うけど、君の御友人は私達の友人が丁重にもてなしている。先程の君の戦いを聞いたよ。それに以前、奴隷の少女を命がけで助けたそうじゃないか。そこで私が思いついた君への招待状は喜んでもらえたかな。我ながら良い趣向だと思うが気に入ったかい」
(なんだこいつ。何を陽気な声で語っている。こいつの口を割れば良いという事か)
ウィルナがおもむろに向きを変えて見つめた声の出所は、円形で取り囲む男達の邸宅側から歩いて来ていた。武具一切を身に着けない代わりに傘をさして雨を凌ぎ、上等な生地である事は一目で判別出来る服装品と高価な装飾品に飾られた二十代中後半の男。武装し周囲を取り囲んだ男達とは唯一違う浮いた存在。
「ほんとは君が連れている魔獣が欲しかったんだけど、君で良いから力を貸してくれるね。君は一部で有名人さ。魔獣を連れた少年。私が先に確保出来て良かった」
(魔獣。トレスか。・・・どこで知った。奴隷の少女・・・あの時の西区の休息地。・・・二人ともごめん。僕が、全部。ああぁ、全部僕のせいじゃないか!)
理解した瞬間意識は覚醒し強烈な感情に支配された。それは自己嫌悪と罪悪感。全身が震えだして熱くなる感覚を覚えた。心臓は今から活動を始めたように激しく鼓動し、何かが体の内部を暴れ回っている錯覚を感じた。
都市では常に馬車内部に隠していたトレスを不憫に感じ、休息地の焚き火の輪に加えて広場にいた人間達に見られた。その時、騒ぎを起こした魔獣から、奴隷の少女を単独で助け出して目立ってしまった。自身が発端となり、奴隷の人達を殴る男達と多少のもめ事を起こした。その相手が盗賊団の一部だったと後から知った。
全ては自身が良かれと決断して取った行動。その選択の結果に生じた責任。
(二人とも、必ず助け出します。こいつらはこの場で殺す)
溢れ出した自身への怒りはその矛先を即座に変えた。敵として存在を視認した目の前の男達全員に、強烈な殺意へと変換されて向けられた。
「出血が酷いようだね。ここで死なれたら困るんだ。大人しく従ってくれるね」
男は雨に濡れる事もいとわず両手を広げ、満面の笑みを浮かべて爽快且つ軽快な口調で語りかける。それがウィルナには気に食わない。周囲には短弓に矢を番えていつでも引き絞り、ウィルナを射殺す準備をしている連中も数人いた。この状況での会話自体全てが気に入らない。
「二人の安否確認が先だ。無事を確かめさせろ」
「それは無理だよ。だが一切手を付けず来賓として丁重に扱っている。これは信じてもらうしかないよ」
「何をさせたい」
「明後日開かれる地下闘技場で私のために戦ってほしいんだ。君なら人気者になれる。大金持ちにだってなれるし、地位と名誉も同時に手に入れる事が出来るさ」
「正確な場所と時間は。規模と相手は」
「それは勿論お楽しみだよ。時間は夜に開催されるから」
「場所はこの都市内か」
「君もしつこいなぁ。心配性なのかい?貴族と一部の上流階級のお金持ちが集まる優雅な場所さ」
「扱える武器は。魔術の使用制限は。殺し合いなのか」
「怪我の具合のせいかな?何も心配ない。こいつらに包帯くらいは撒いて貰いなよ。後は明後日まで我が屋敷の地下牢で静養すると良い」
(知り得た情報はここまで。もういいか)




