気炎に燃える悪意の影(3)
ウィルナは城塞都市の外壁を目指して飛ぶように駆けていた。
しかしそれは束の間、やがて多少の早歩き程度まで速力を落として歩き続けた。
多少の角度を歪に付けた細い裏路地。馬車一台が通行人とすれ違える程度の道幅。周囲は薄暗く、月明かりや通りに面した小窓から差し込む光源は、その存在を闇に希薄させるかのように弱々しい。
それでも数人の通行人が行き交う暗闇の路地裏と、交差する更なる路地裏の複数。
疾走するウィルナを通行人全てが驚いた顔で認識し、ウィルナもこれ以上問題を増やさない為、何が原因で問題に発展するか分からない為に減速せざるを得ないと考えた。
(あまり目立ちたくない。人が多くいる今、只の通行人として行動するべきだ)
ウィルナは外の世界に出て理解した事がある。
この世界に存在する大多数の人間は善人でもなければ悪人でもない。
この天秤は容易に傾く儚い空想。
他人と関われば関わる程、本来の目的である弟と妹を探すための時間が削られてゆく憤り。つまりすれ違う大多数の人間達が、自分と無関係ながらも問題の種と成り得る不安分子にしか見えない焦り。
ウィルナにとっての善人とは、育った村の人達と同じ思考回路を持ち得た人達。
他は有象無象の生命体。
その他との接触一切を断つために只の一般人であろうとし、自身の存在を目立たせない様に他の一般人の中に溶け込ませて歩き続け、漸く辿り着いた巨大な外壁。
(トレスを見送った場所は向こうか)
ウィルナは巨大な外壁を横目に大通りに入り、壁を越えやすい高さまで登る為の建物を探して歩いた。
大通りの道幅は十メートルは大きく越す。外壁も道幅以上の高さで聳え立ち、外壁上部の回廊には騎士団が均等に配置され、松明を手に巡回している兵士数名も存在している。
ある程度大通りを進んだウィルナは、再度路地に進路を取って入った。
更に奥の路地裏まで角を曲がり進み続け、周囲を確認して木造三階の屋根まで各所の足場を跳躍する事で駆けあがった。
(時間が早いからか人が多すぎる。夜の闇が強いとはいえ、白い上着は目立つな)
三階屋根部分にある石造りの煙突裏に腰を屈め、服の色から目を反らし、城壁の警備兵達の行動を観察した。そして城壁に沿う形で伸びる大通りに点在する通行人の影。
(まいった。見られたくはない。警備してる人に見つかったら怒られるかな)
ウィルナは自身の存在が多少目を引いている事を自覚していた。
それは他人から寄せられる稀有な視線。
真冬でマントやローブやコートを着用せず、厚い生地とはいえ、白のギャンベゾンのみという他には見ない防寒着の少なすぎる服装故。
都市に暮らす人々の服装は十人十色。
しかし真冬の最中、薄着とも判断できるウィルナは完全に浮いた存在。
余りにも目立つ服装のウィルナは、大きな城塞都市と言えど簡単に探し出せる程に、情報を周囲にばら撒いていた。
それでもウィルナは現状の事態に陥るまで、寒さも稀有な視線を感じる事も気にする事はなかった。しかしエイナ達を人さらいや何者かが悪意を持って連れ去っていた場合は問題だ。目立つ服装により、こちらの動きを相手に察知され易くなる可能性が高い。
今現在も闇夜の中でも目立つ白の上着で行動が起こしにくい事態に陥り、煙突裏に息を潜めて機会を伺い続けた。
(ここは陽動。適当に城壁の建物でも壊して集まってもらうか。――って焦るな、落ち着け。戻る時に警備が厚くなると困る。トレスを連れて戻って来ないと)
ウィルナは煙突の裏に身を潜め、機会を待った。今はそれしか出来ない。
が、数十分もすれば好機は訪れた。
(何だ?全員が監視塔内に引き上げていく。寝るのかな?そんなまさか。だが今だ)
自身に薄氷を踏み拉く音と共に防御魔法を構築展開し、身体強化魔法を最大限まで発動。自身こそが放たれた攻撃魔法であるかの如く、屋根から城壁へと疾走跳躍して上部の回廊に回転着地。そのまま外壁上のデコボコした鋸壁の隙間から外を見下ろした。
(すごいなトレス。かなり高いのに躊躇なく飛んでたよ)
ウィルナが外壁上部の隙間から見下ろした地形は一帯が草原。奥に林が広がる。
発見されたくないウィルナは一瞬で意を決し、走り込んで城壁を飛び越えた。
勢いそのまま慣性の法則に従い、ウィルナは足、膝、腰、丸めた背中と順に受け身を伴う回転着地を草原で行い、最後に頭を覆っていた肩と肘から両手をつき、勢いそのまま両腕の力で大きく飛び跳ねて両足から前傾姿勢で再度着地。
走りながら片手を草原について体勢を立て直し、そのまま林に向かい僅かな金属音を置き去りにして疾走した。
(防御魔法付与して良かった。あの衝撃、真っ直ぐ落ちたら死ねるよ)
ウィルナが背を見せて走り去る城壁からは、変わらない静寂の時が流れる。
林に駆け込んだウィルナはそのまま北に進路を変え、木々や下草をかき分けて全力疾走を継続した。
ウィルナ自身がトレスを見つける事は不可能に近い。逆に走り回れば嗅覚の鋭いトレスが見つけてくれると信じて走り続け、同時に黄金に輝く自身唯一の攻撃魔法である魔槍を、二本構築して追従させた。
(ここまでくれば誰にも見られる事は無い筈だ。後はトレスの嗅覚と視覚を頼りに走り回る)
ウィルナは風向きや地面の高低差などを一切気にせず北の森を駆け抜け続けた。
小一時間程直進で疾走した後、右方へ九十度方向転換。全力疾走を再開継続。
やがて北に延びる街道を横切り、エイナ達と馬車で移動した安らかな過去の日常を思い出し、懸命に駆け続けて再度方向転換。今度は城塞都市方向に進路を変えて疾走を続け、やがて速力を緩めその足を止めた。
「ただいまトレス」
ウィルナの背後から、追従する形で合流した蒼灰銀の長い毛並みを見せるトレス。
ウィルナは片足を地面につけてトレスを出迎え、トレスも応じて纏わりついた。
トレスを抱きしめたウィルナは得も言われぬ感情に突き動かされた。
「無事で良かった」
ウィルナは一言だけをトレスに告げた。
トレスが無事である事は確信していたが、何故か口から出た一言。
ウィルナはトレスの背に両腕を回し、サラフワな毛並みの首元に頭を埋めて抱きしめ続けた。
「エイナお婆さんとベリューシュカさんがいなくなった。探してくれないか」
ウィルナはトレスの首に顔を埋めたままの状態で、か細い声を上げた。
自身が自力で二人を発見する事はまず不可能。
だが、人間とは別次元の能力を秘めたトレスは違う。
優れた五感に加え、魔力感知能力という第六感まで備えた愛すべき家族。
ウィルナはトレスの首筋から顔を上げ、その首筋に優しく手を当てた。
トレスも背にある突起物の棘刺鞭を片方伸ばし、ゆっくりとした動きでウィルナの頬に当てた。人語を理解し、人の持つ感情まで理解するに至ったトレスは、ウィルナの言動に状況を把握して慰めようとしたのかもしれない。
「ロッシュやルルを探しに行くのは、少し後からになりそうだよ」
ウィルナは立ち上がり、その足元にトレスが纏わりついてじゃれて来る。
「頼んだよ。エイナお婆さん達を探しに行こうか」
薄暗い静寂に包まれた森の中、ウィルナはトレスの頭に手を当てて撫で、生い茂る枝葉の隙間から微かに見える曇天の夜空を見上げて大きく息を吐いた。その行動はトレスと合流できた安堵。二人とはぐれた不安の体現。
森を駆け抜け、やがて木々は疎らとなり林となる。
ウィルナはトレスの前を駆け続け、遠方に聳え立つ城壁を視界に捉えて木の陰に身を潜めた。問題はここからだ。城壁を越えて城塞都市内部に潜入する手段を考えなければ。
トレスがいる今、朝方に開く城門から入都するわけにはいかない。
手段は出た時と同じく外壁を越える。
となれば、よじ登るのみか。
「あそこの壁を越えよう。確かあそこから飛び降りた」
数分城壁の様子を伺っていたウィルナの横でトレスはくつろいで横になり、大きなあくびをしていた最中だった。
「そうだね。もう夜も大分遅い時間か」
ここに来て更なる選択をウィルナは迫られる事になった。
このまま夜闇に乗じて侵入するか。
森に後退して仮眠を取るか。
どちらも一長一短。
結局二人が心配である事からこのまま侵入し、昼間にトレスを隠して休息が取れる人目につかない屋上を、夜間の間に探す事にした。
身を寄せる場所として、思いついた二組。
武器屋のダルケイは信用してないわけでは無いが、トレスに会わせなければ不要な心配の種も撒かれる事は無い。
安宿の老人二人も一瞬脳裏を過ったが、トレスが元凶となる事件に巻き込まれる可能性が少しでもあるなら、頼るべきではないと考えた。
エイナは最初、城塞都市に入都する際にトレスを隠して城門を通過した。
今ではその意図を理解し、トレスを極力人目に晒さないようにすべきであると考えた結果だった。育った村には存在しなかった、あらゆる悪意に対処するために。
「動けるのは夜間だけか。夜のうちに休める場所を探そう。二人の捜索はそれから開始しよう。行こうか」
出る時もだったが、城壁で警備を担当している騎士団員は怠惰、自堕落と言わざるを得ない。ある者は壁にもたれ込んで居眠り。ある者は同僚と世間話。明らかに誰も配置についてない箇所すら散見出来る不用心。
ウィルナの知ることろでは無いが、これが城壁を越える際に警備兵が引き上げた理由。交代要員が来る時間前に、全員が引き上げるという危機感の欠如。
「村の人達とは違うな。この都市の警備は大丈夫なのか?まぁ侵入も脱出も楽だから良いけど。危機感無さ過ぎだろ」
ウィルナは林を出て草原を駆け抜け、城壁外部の壁に背中をへばり付ける形で真上を眺め、独り言を口にした。近くで見ても立派な城壁。一抱えはある石が長方形に成形され、積み重なる接合部には接着剤となる何かが大きな隙間を埋めている。
「この壁、どうやって造ったんだろ。考えた人も、建築した人も凄い人達だな。これは近くで良く見ないと味わえない感動。っと観光に来たんじゃない。登ろうか」
ウィルナが城壁に登る為に手を付けたその時、トレスの触腕である棘刺鞭が腰に巻き付いた。
「どうした?タイミングが悪い?何か問題・・・おぉ」
ウィルナの気の抜けた驚きの声は、日付が変わって多少経過した深夜の宙へと舞い上がった。
ウィルナはトレスの背に両手を添え、トレスは二本の棘刺鞭先端の鋭利な爪先を、城壁の石材結合部に突き立てながら上昇を開始した。
トレスはウィルナの腰に棘刺鞭の付け根付近を巻きつけて抱え上げ、垂直な壁を水平な石畳を歩くかのように上昇し、二本の先にある鋭い爪を交互に突き立て歩き続けるという上昇を繰り返した。
「すごいなトレス」
登る気満々だったウィルナは、今現在宙ぶらりんで何も出来ない状態で手足をブラブラさせた。トレスが見えなければ透明人間の肩に担がれたような不格好な体勢。
ウィルナは自身より胴体も小さければ体重も少ない大型犬程度の大きさのトレスに担がれ、称賛の言葉のみが感嘆の念と共にトレスに贈られた。




