気炎に燃える悪意の影(1)
横に線を引く多数の薄雲に遮られた月明かりは極めて微弱。
その微かな月明かりに照らされ、寒色の闇濃く胎動する城塞都市コンスフィッツ。
細い通路に乱立する木造建屋の内、数件に存在する通り側の小さなガラス窓からの弱々しい光が、寒々しい真冬の路地に唯一の光源として暖かく差し込み、夜の都市の顔をその路地に静寂をもって体現する。
ウィルナがレザーロングブーツの靴音を鳴らして歩く石畳は、西区北側の所謂貧民街。薄暗い通りには、ウィルナ以外にも数人の歩行者が様々な靴音を鳴らしながら、それぞれが向かう場所へと歩みを進めていた。
時間的には仕事を終了し、昼間の喧騒とは一線を画す夜の帳の静寂の中、ある者は家に、ある者は宿に、ある者は仲間達と酒場に。ウィルナも周囲の疎らな人々に混ざり、目的地に向かい軽快に歩き続けた。
「あった。この角は覚えてる。確かここを曲がって」
ダルケイに教えられた道順と微かな記憶を頼りに、宿屋を視界に捉えるべく角を曲がり、ようやくエイナとベリューシュカの待つ安宿を発見した。この安宿に辿り着くまで、道に迷った結果として二時間以上無駄に歩き続けたが、疲れは微塵も感じない事は勿論、遅くなってしまった現在でも気分は晴れ晴れしい。
(やっとか。エイベルさんに貰ったお金、どれ程の金額か分からないけどきっと喜んでくれる。そうだ、ベルの欲しい物を買う分だけ貰わないと。二人とも晩御飯食べてるかな?)
ウィルナは見覚えのある通りを進み、やっと辿り着いた安宿を、その入口の扉を目に、様々な感情に満たされた。
それはまるで地元に帰って来たかのような安心感。実家に帰省した時のような満足感。それらは一重にエイナとベリューシュカ、二人の存在が安宿と周囲から感じる感情の昇華を促していた。
ウィルナは木造の古びた外開きの扉を軋む音を伴って大きく開き、半数以上の木造四角のテーブル席が、他の客で埋まっている一階部分酒場店内に入店し、板張りの床を数歩歩いて立ち止まった。
店内は数個のランタンの明かりで照らされ、笑い声の混じる喧騒と、提供されている様々な食事の香りを覆い隠す程の、アルコールの強い匂いに満たされていた。
(二人はいないか。部屋でゆっくりしてるのか。晩御飯まだなら一緒に食べたいな)
ウィルナは大勢で賑わう店内を見回したが発見出来ず、二人を求め酒場の奥に見える木造階段を目指して歩き始めた。
軋む音を上げる階段を上がり、二階の同じく音を鳴らす板張りの廊下を移動した。借りてある部屋の前まで踏み鳴らす木床の小気味良い音が奏でられ、やがて出入り口のドアノブに手をかけたがその手を離した。
(小さい頃、村のおじさんに言われてたんだった。部屋に入る際は先ずノック。女性がいるなら必ず。これが男の生き様だとか紳士たるべしだとか。多分した方がいいかな?)
「はい。どちら様でしょうか?」
ウィルナのノックの音に合わせて老婆の声が答え、数歩の足音が屋内の扉へと移動した。
――誰だ。二人とも知らない。
扉を小さく開けたのは高齢の老人。小さな部屋の奥には老婆がウィルナを訝し気に眺めていた。
慌てたウィルナは硬直し、脳内にある海馬体を全力で稼働させた。
が、全ての記憶に間違いは無く整合する。宿はここ。部屋もここ。
「すいません。八日前からここを借りていた知り合いを訪ねて来たんですが」
ウィルナは肥大化して荒ぶる心臓の鼓動を感じながら丁寧に尋ねた。先ずは謝罪。間違いなく何の関係も無い高齢の二人。二人からしてみれば、ウィルナを善人か悪人か判別する所から始まる。
「お爺さん。こんな時間だし入ってもらえば。悪い人では無さそうだし、何か事情があるの?」
小部屋に設置された小さなベットに腰掛けた老婆がウィルナに問いかけた。その声はエイナ同様落ち着いた声、やんわりとした仕草。ゆっくりとした口調には優しさが過分に含まれていた。
「遠慮せんで良いから。晩御飯は済んだのかい?まだなら一緒にどうかね」
お爺さんは扉を大きく開き、ウィルナに優しい笑みと頷きを持って部屋に招き入れた。しかしウィルナには悠長にしている時間は皆無。トレスの様子も心配で、早く迎えに行ってあげたい上、二人とはぐれた可能性が極めて高い。
「有難いですが、知り合いが心配です。お二人に迷惑をお掛けするつもりはありませんでした。けどお二人がいつからこの部屋に滞在してるかだけでも教えてください」
ウィルナは開け放たれた部屋の扉を進まず、大きく頭を下げて僅かな情報すら欲した。
「そうか。仲間とはぐれたんだね。私らは会った事はないよ。それとここには今日の昼から泊まってる。少しでもお前さんの役に立てたなら良いんだけども」
「有難うございます。それではこれで失礼します」
「お待ちなさい。これ持ってお行き」
左足を一歩踏み出し、急いで体の向きを変えたウィルナに、お婆さんから声がかかり呼び止められた。目的は一目瞭然。大事そうに抱えた紙の包みを渡す為だった。
「遠慮しなくて良いよ。中はパンとチーズだけしか入っとらんから。遠くに住むかわいい孫に会ったような、良い気分にさせてくれたお礼だよ。すぐに仲間達と合流できると良いな。外は寒い。体に気を付けなされ」
「困ったらいつでも戻っておいで。後三日はいるからね」
(――あぁ、そうか。二人とも初めて会った他人の僕に、食事と一夜の宿を与えてくれようとしていたのか・・・)
老人は老婆から紙の包みを受け取り、ウィルナの手を取って包みを手渡した。その仕草は優しく、同様に老人二人はともに穏やかな笑顔をウィルナに向けていた。
「有難うございます」
ウィルナは他人の好意を受け取り、圧倒的な善人をエイナやベリューシュカ以外にも発見し、自分が二人に出来る何かを懸命に考えた。しかしその恩義に報いるための答えは皆無。
感謝しかない。感謝の念を伝える事しか出来なかった。
ウィルナは包みを受け取り、深く頭を下げ、やがて見送る二人の笑顔に背を向けて歩き出した。
――僕を置いて宿を出た理由。考えろ。部屋に二人の荷物すら無かった。
二人に置いて行かれ、ウィルナの焦る気持ちは老人二人から受け取った手の中に存在する包みという贈り物への感謝の念で抑え込まれ、宿を出る一歩一秒すら無駄にする事無く思考に没頭した。
エイナとベリューシュカを、村まで安全に送り届けるとウォレス達に約束した。
二人もその約束を知っている。まして最近盗賊に襲われた二人が、危険な旅を承知でウィルナを置いてどこかに行く理由があるはずだ。
――僕を待てない理由が出来た。宿を変える必要が出来た。宿を延長せず、都市のどこかで滞在している。・・・何かの問題に巻き込まれた。
ウィルナは足早に宿を出て、建物横にある敷地内の狭い通路から裏手の厩舎まで急いだ。その思考は常に最悪を想定して巡り続ける。そうでもしなければ生き残れない環境で育った故。
そして事態は最悪な状況である事を認識せざるを得なかった。
ウィルナは宿屋の裏手にある小さな広場に、エイナの馬車が留め置かれているのを発見した瞬間急激に世界が広がり、その中での孤独をその身に感じ、背後から得体の知れない何かが覆いかぶさって来た錯覚と悪寒に捕らわれた。
「君の主人はどこに行ったんだろう。待ってて、御飯貰って来るから。いや、ダルケイさんの所に行こうか。水だけ持ってくるよ」
エイナの馬の鼻先に手を当てて囁いた。その声は儚さと寂しさだけで創り上げられた声だった。




