意に宿るは回帰か天望か(5)
吐息が熱い。体が重い。空は蒼に澄み渡っているというのに、左半身は雨に打たれたかのように濡れていた。
辺境北部街道の素朴な自然の翠を背景に、視界左半分が朱に染まり揺れる脳を安定させるため右手で額を抑えたが無駄だった。
赤く染まる視界は眼球の毛細血管が破損し、内出血して眼球を赤く染め上げていたからだった。
額を抑えた右手はベタつく血液が嫌な感触を与え、同時に、そして明確に激痛を認識させてくる。
ウィルナはふらつく足元だけでは立ち続ける事が出来ず、両膝をついて草原に崩れた。
「こんな時に貧血。血を流し過ぎたのか。――落ち着け。呼吸しろ。ゆっくり立ち上がるんだ」
揺れて歪む視界では物体の輪郭が湾曲交錯し、形の詳細を脳が認識できない。しかし視覚が認識した色だけは認識出来た。
周囲から溢れ出すように巻き上がる金属音は、敵味方双方が激しくぶつかり合う戦場からもたらされた。
剣戟音に始まり、死力を尽くし雄叫びを上げて戦う戦闘音が明確に鼓膜を刺激し、視認出来ないウィルナに焦燥感となって押し寄せた。
「皆は。子供達やヴィガさんは・・・」
ウィルナは思いを言葉に乗せて周囲を見渡した。
開けた草原を進む街道の一本道が無数の死体で埋め尽くされ、始まった歩兵同士の乱戦。正確には単身意気揚々と敵集団に突撃したメレディアと敵重装歩兵のぶつかり合い。
「しっかり!後退しましょう。敵集団が抜けて来ます」
ウィルナの傍まで駆け寄り、負傷しても尚握り続けているグレートソードを脇に置いてウィルナに寄り添ったユーイル。
ユーイル自身の負傷を意に介さず、ウィルナの肩に手を当てて負傷箇所を圧迫している。
服の上からではウィルナの正確な負傷具合を判断しかねた。しかし不味い状態であると出血量で漠然と理解し、馬車のある後方、仲間達の場所まで後退して傷の手当てをと考えた。
「僕は大丈夫です。このくらいいつもの事でした」
ウィルナは視点の合わない目線を上げてユーイルに返答し、自身のロングソードを杖代わりに立ち上がる。
ウィルナの揺れる視界は時間経過で回復し、視覚で認識可能となった戦場を見回して驚愕するしかなかった。
「イル姉さんも右腕の傷大丈夫なの?酷い出血よ!?」
戦場へと数歩進んだウィルナの背後でメシュイラが姉のユーイルに声をかけた。落ち着きのあるユーイルと違い、妹のメシュイラの声は姉を心配する感情を過分に含んだ。
「私は大丈夫だから。イラも怪我は大丈夫なの?」
「私の事は心配しなくて良いからっ」
ウィルナは獣人姉妹が交わす言葉を背に感じ、自分の目を疑った。
ウィルナにとっての闘争とは互いの存在と尊厳を懸けて行い、互いが宿し身に付けた全てを正面から正々堂々相手にぶつける神聖なモノだった。
素直に襲って来る魔獣。全力で迎え撃つウィルナ。そこに姑息な手段は存在せず。だからこそ魔獣に敬意を示した。命を繋ぐ為の行為に誇りを持てた。そこに意義と意味は確かに存在していた。
「これが戦い?これが戦争?――これが人間のする事か?」
ウィルナが認識した情報は自身の知識経験から乖離し過ぎていた。
メレディアの背を追うように突撃した集団。彼らは避難民達からなる一般人。戦闘訓練すら受けず、剣すらまともに握った事の無い者達も数多く含まれていた。
そんな彼らを大人数で取り囲む敵集団。背後から剣で切り裂き、槍で貫いた。
少数の敵に多数でぶつかる。攻撃する時は背後から。囲んでしまえば複数で同時攻撃。全ては戦略だった。敵を倒し、自身が今いる戦場から生きて抜け出す為だった。
「止めろ。――止めてくれ」
二度と折れない、立ち止まる事も無いと誓ったウィルナは悲痛な心境を吐露した。
広い世界で少数だとしても、笑顔で会話できる人達に出会えると思っていた。そして出会えた存在は笑顔を交わす事無く無残に散った。
子供達に笑顔を宿してくれた人達の今は、血に塗れ草原に突っ伏していった。
「これが世界か。これが人間か!」
ウィルナの視線は敵集団先頭の騎馬した一人の敵に向けられた。
「敵が来る!やるよイラ!」
「分かってるよ姉さん。私が前に出るからウィルナさんと後方に」
ウィルナにも背後の姉妹の会話は聞こえていたが、認識出来ない言葉は音として認識されていた。しかし簡易的な止血を互いに行い、ウィルナの横へと駆け寄ってきた事で、二人の会話を認識する事が出来た。
「二人とも、あの敵は強い。後退しましょう」
ウィルナはメレディア達を飲み込んでも速度を緩めず、前進を続ける敵集団を視界に捉えて声を上げた。
これが人間視点。弱者視点。威勢良く突っ込んでも傷一つ与える事も出来ない。久しくウィルナが忘れていた雑魚視点。無力なウィルナがどう足掻こうと絶対的弱者は何も出来なかった。
この世界には圧倒的強者の魔族が存在する。
二本の角を頭部に有して白銀の髪を揺らし、闇夜に光る紅眼で睨まれれば人間種は生を諦める程の存在。
しかし人間種の中にも突出した魔力と才能を有して生まれ育つ者達も稀に存在した。そんな人達を英雄と呼んだ。
「歩けるか、お前達っ。敵部隊に飲まれる前にここを離れるぞ。孤立すれば生き残れんぞ」
ウィルナの傍まで黒馬の手綱を引いて馬を走らせ、白馬から草原に降りて声をかけたのはヴィガだった。
「私達は大丈夫です。ウィルナさんが」
ヴィガの声に返事を返したユーイル。視線は迫り来る敵歩兵集団を捉え続けた。
「二人は無理してでもこいつに乗れ。俺が手綱を引いて走らせる」
ヴィガはユーイルとメシュイラに指示を送った後、ウィルナの横まで進んでウィルナを肩に担ぎ上げた。
「ヴィガさん。歩けますよ?僕」
戦場という場の空気に当てられ、不快感と自身の無力さ故の自己嫌悪に支配されていたウィルナは、意識して落ち着いた声を出した。
ヴィガの存在を認識した瞬間、外部からの心労の波は心に防波堤が出来たように弱まった。ウィルナにとって大切な存在となっているヴィガに、これ以上負担をかけたくなかった。
「歩けても馬には乗れないだろ。いいからじっとしてろ」
ウィルナに声をかけて白馬に跨ったヴィガの視界は高く広く広がった。
敵部隊の先鋒と激しくぶつかった避難民達第二陣。
敵部隊中央付近まで斬り込んだメレディアと数人の若者たち。
敵部隊に飲み込まれ、倒れて動かなくなった者達。
此方に斬り込んで来た敵部隊の最前線には、騎馬した敵部隊指揮官が剣を振るっていた。
ヴィガは瞬時に自身の記憶からその人物を特定。メレディアを探した。
(あいつは六聖連座の一人。只の先遣隊では無いと分かってはいたが、――まさかだ)
この国にも英雄と呼ばれる者達がいるように、西のバーキスにも英雄が存在していた。ウィルナもその存在を認識して強者と認めたヴィガと同世代の若者。
一年前、西のバーキスとの戦争で剣を交えてヴィガが敗北した相手。負傷したヴィガを護り後退するために多くの仲間達が敵に倒された。
敗戦国のバーキスにおいて世界がその武勇を認め、英雄としての実力を世界に示した男。忌むべき因縁の相手だった。
しかし今のヴィガには興味すら無い存在。それ以外に最悪を視認してしまった。その場にいてはならない存在を確認した瞬間、激しい悪寒が全身を駆け巡る。
「誰でもいいっ。獣人達を!ライカンスロープ達を守れっ!!!」
焦燥感をそのままに、声を荒げたヴィガ。
ヴィガに担がれ世界が逆さまに映る中、ウィルナは小さな人狼達を目にした。
十二体の小さな人狼達は避難民達第二陣の人達を援護する形で前線へと押し上げられ、敵部隊と交戦状態に入っていた。
その前線にはメレディアとすれ違って交差した六聖連座の敵国英雄。
「獣人達を守れ!退がらせろ!誰が犠牲になろうとも守り抜けっ!!!」
ヴィガは湧き上がる恐怖心を必死に抑え、むしろ恐怖心を原動力としてさえ投入して声を荒げた。
獣人の男達は既に獣化して敵部隊に突っ込んでいった。残された獣人達は女や子供達だけだった。
獣人達が獣化すれば誰が誰だかは区別が難しい。それでも大きさから子供達である事は理解していた。そしてミスア達四人の子供達の姿が見えない。間違いなく十二体の内のどれかだった。
ヴィガの悲痛な声を認識したウィルナは言葉を失った。
幼い獣人達の先頭集団が敵部隊に衝突し、互いが鮮血を巻き上げる。互いの後続もそれに続いて激しい音が空気を震わせた。
獣化した獣人達は幼くても人間種を圧倒する力を有する。
だからこそ人はライカンスロープを恐れ、魔物・魔獣の様に扱った。
そして敵として迫る重装歩兵集団は戦闘訓練を積み重ねて来た騎士集団。それも六聖連座に名を連ねる者の近衛兵。兵士一人一人が強者として襲来していた。
ウィルナとの約束を守るために獣化して戦闘渦中へと飛び込んだ子供達四人。それに続いた他の獣人達が八人。
「仲間の為に命を懸けて全力で戦う。僕は・・・子供達を誇れば良いのですか?」
子供達はウィルナとの約束を、命を賭して守ろうとしていた。しかしその約束は子供達を拘束する呪いとなってしまった。
善戦を続ける幼い獣人達も分断孤立させられ、それぞれが命を落として草原に赤を加飾した。
「子供達を殺したのは敵か自身の言葉だったのか」
ウィルナは感情を押し留めて呟いた。無力な自分が憎らしい。それ以上に人間が憎らしい。
敵に目を向ければ、敵も歪な戦場で生き抜こうと必死に戦う姿と表情が見て取れた。
敵も何処にでもいる只の人間だった。剣では無く、酒でも注いだグラスでも交わすべきだった。戦場では無く、酒場などで言葉と酒でも酌み交わせば笑い合えるはずだった。
何のための殺し合いか理解が出来ない。奪った命の対価は存在しない。奪われた側に憎しみの感情を植え付け、憎しみの連鎖を始めるだけだった。
「戦争って、戦いってこんなに辛かったのですね」
ウィルナの冷たい声を聴いたヴィガは全てを諦めた。
魔族と出会い、言葉と時間を交差させたヴィガはこの世界を理解していた。
この世界に神はいなかった。魔物や魔獣、それに魔族が存在しても魔王は存在しなかった。
魔王と成り得る力を有する魔族達。しかしヴィガが接した魔族達から邪な悪意は感じなかった。それどころか人間種に愛憎一切の感情を見せない魔族達。
ヴィガは昔、通りで見つけた野良猫を見つけて頭を撫でようと手を伸ばした。しかし警戒した野良猫はヴィガの手を引っ掻いた。
魔族にとっては人間種が野良猫同然。出会って手を引っ掻かれた程度で、出来る力があろうとも絶滅まで追い込もうとは考えない。
人間種から魔族と呼ばれる種族は、人とは違う目線と思考を有する。その存在はヴィガから見れば神にも等しい力を有し、それ故か人の理解の最果てに存在しているように感じられた。
「成るべくして成ったのか。この世界・・・人の世界は終焉に向かうのみなのか」
ウィルナにとって大切な多くの命を失い過ぎた。奪われ過ぎた。ヴィガの左肩に担ぎ上げているウィルナが声を押し殺して泣いている。
ウィルナは全てを受け入れる事しか出来なかった。誰の命が奪われようと何もできない。守ると交わした約束は果たしきれなかった絶望感へと変貌した。
「この世界は歪んでいる。悪夢そのものなんだ。誰かが夢から起こしてあげないと」
ヴィガはウィルナの言葉を耳にしながら何も答える気にはなれなかった。
ヴィガの隣で屈託の無い笑顔を見せていたウィルナは影を潜めた。優しさに満ち、純粋純白だった故に受け入れてしまった人間の負の側面。
悪意を宿すのは人間のみ。悪魔へと落ちるのも人間種。
鮮血に舞い散る無数の命が草原にたゆたう煉獄で、これが世界だと認識した魔族にも比肩する力を有する一人の人間種。
魔王がこの世界に誕生した瞬間だった。
体調崩して更新が遅れました。久々過ぎて言葉が出なくて筆も止まりました。長い一章ももうすぐ終了。季節の変わり目は風邪に気を付けよう。




