意に宿るは回帰か天望か(1)
人が精神的・肉体的病に侵された時、意図せず声を失う事がある。それは不意に訪れ、そこに芽生える感情は驚きや諦めなど様々な形となる。
生命誕生の瞬間から備わる身体機能の一つである声同様、魔力も生まれながらに備わる身体機能の一つ。その魔力を失ったウィルナはあらゆる負の感情を抱いた。
最たるものは不安と恐怖心。
ウィルナの視界には必死になって荷物を纏める人達や、馬車に馬を連結している人達、子供達を馬車の荷台に抱きかかえていく女性達の姿が捉えられていた。
ウィルナもヴィガやネイロと休息地に着いた後、三人で移動準備の加勢に入った。
全てはバーキス兵との戦闘を避ける為。それぞれが視界に映る大切な人達を守る為、必死に移動準備に取り組んだ。
だが、ウィルナは自身の現状を再認識させられた。それはウィルナが目に留まった木樽に駆け寄り、腕を回して持ち上げようとした時だった。
まだ半分程度残っている木樽の中身は水。腰の高さほどの木樽は両腕で抱え込む程度の大きさだった。
だが動かない。ゴロゴロと横移動は出来るが、昨日までは軽々と持ち上げられた木樽が持ち上げられない。
魔力を確実に失った事を実感させられたウィルナは、顔を歪めて必死に涙を堪えた。
魔力を失って悲しいとか悔しいとかの次元を超えた無力感。
敵意に抗い続ける事を可能にさせていた唯一の力の源を失った。今から訪れる敵意に対抗する手段も失った。そのせいで、今いる人達を守れない無力感が濁流のように押し寄せた。
「無理するな。それは俺に任せろ」
ネイロはウィルナの返事を待たずに横から肩を入れて木樽の前に立ち、腰を落として軽々と持ち上げ歩き去った。
ネイロ達獣人には魔力が無い。だから魔力を失うという喪失感が想像出来ない。それでもウィルナの悲痛で痛々しい姿を見ていられなかった。
獣人達も四台の馬車に荷物を積み込み、ベリューシュカから細かい指示を受けながら馬を連結していった。
誰もが体を動かし続ける中、ウィルナは何も出来ずに立ち尽くした。
魔力が無くても出来る事は沢山あった。しかし、入る隙間が無かった。無力な自分が立ち入る場所は無いように思えた。
「少し良いか」
呆然と立ち尽くしていたウィルナの背後を男達が取り囲んで声をかけた。
声に振り向いたウィルナの正面にはダルドの元部下十三人。皆がウィルナの倍以上の年齢を思わせる皺をその顔に刻み、初老男性の左頬には大きな二本傷も見られた。
全員が質素な服装を緑や茶や黒灰色のマントに包み込み、左右どちらかの腰には服装に似つかわしく無いロングソードが装備されていた。
一度は全力の魔槍を殺意に任せて発動した手前、ウィルナは振り向いて視線を送った男達に何も返事が出来なかった。何を言えばいいのか分からない。何を言われるかも分からない不安に体は硬直した。
「お前の事や村の事は聞いた。遅くなったがここに謝意を。申し訳ない」
二本傷の初老男性が代表してウィルナに謝罪を述べ終わると共に、屈強な顔立ちの十三人全員が一糸乱れぬ動きで頭を下げた。
男達の真摯な想いは、深々と下げた頭を上げるまでの時間にも現れた。その姿は異質で、大人達が子供一人に頭を下げ続けるようにも見えた。
周囲には男達の家族がいた。愛妻や愛娘、厳しくも優しく誇り高く育て続けた息子達もいた。愛する家族には見せたくなかった過ちを犯した証拠となる謝罪。
だからこそ周囲も手を止めてウィルナ達に目を向けた。
ウィルナはそんな男達を視界に捉えても、幼い頃見た忌まわしい記憶から救われる事は叶わなかった。憎しみだけが降り積もり、それはやがて男達と自分を隔てる氷壁のように聳え立っていた。
「僕が貴方達を許す事はありません。僕はあの時の恐怖や絶望から逃げられないんです」
ウィルナは弱々しく答えた。そして俯いた。
ウィルナの心には憎しみ以上の悲しみが押し寄せた。大切な人や居場所全てを壊し尽くした者達を許せるはずは無い。それでも憎しみ続けるのは疲れてしまった。
「でも、僕は魔力を無くしました。だから貴方達に復讐する事も無いです」
ウィルナの言葉は自身にも言い聞かせた言葉でもあった。魔力が無ければ力に頼って暴走する事も無い。魔力を失ったのは辛いが、憎しみの連鎖は断ち切る事が出来たと思えた。
それでも蹂躙された村や大好きだった人達の笑顔が思い描かれ、復讐心を捨てきる事への罪悪感は精神を圧迫し続けた。
「そろそろ出るぞっ!」
騒々しい周囲にダルドの声が一際大きく轟き、男達はウィルナに少しだけ微笑んで歩き出した。『出る』という意味を理解したウィルナも、その後に続いて歩き出した。
向かう先には二つの集団が形成されており、一つはダルドとヴィガ、メレディア、ギャリアンの四人。もう一つは若い男達で構成された小さな集団。
そこに歩み寄る十三人に若い男性達は疎らに駆け寄り、細かいグループが乱雑に立つ集団へと形を変えた。
若い男性達の中にはウィルナと同世代程度の青年も数人含まれ、それぞれが親子関係である事を理解した。
青年達の多くが一般人。これが初陣となり、死と隣り合わせの戦場がもたらす絶大な恐怖を身近に感じて必死に堪えていた。
ある者は唇を噛み締め、ある者は剣の柄を固く握りしめ、ある者は震える肩を掴んで必死に止めようとしていた。そんな息子達の肩に手を置いた者。優しく語りかけた者。引き寄せて強く抱きしめた者。
この場にいる全員が家族の為に人柱として敵に立ち塞がる覚悟を宿していた。そしてダルドはそれぞれが思いを息子に伝え終わった頃合いを見て口を開いた。
「敵は五百だ。内わけは軽装騎兵百に重装歩兵四百。接敵まで五分も無い。俺達が防壁となって時間を稼ぐぞ」
「まぁ副団長は他国の奴らから憎まれ続ける有名人。敵さんがほっといちゃくれないでしょうな」
「五百か。俺達二十三人では抜かれますな」
「だからいつも通りだ。ギャリアンの煙幕弾を使用して主力歩兵を強襲する」
「いつも通りだな。副団長は突撃しか命令せん」
「はは、そう言うな。主軸の敵歩兵を徹底的に潰す。騎馬兵は無視して、リフレクションだけの対応で済ませるぞ」
「敵の指揮官をどれだけ早く潰せるか。時間との勝負か」
ダルドと十三人が作戦会議をしている最中、簡単な人数確認を行ったヴィガは計算間違いに気が付いた。
「待ってくれ。二十三人の中に俺は入ってないのか?ダルドさん、俺を置いて行くつもりですか!?」
ヴィガの声でメレディアもハッとなったかのようにダルドを見た。ダルドは責任感が強く、自他に厳しい人だった。他人の子供に戦わせて二人を外すわけがない。
「説明してくれるんでしょうね、副団長」
メレディアの睨みつける鋭い眼光に、流石のダルドも後退して仲間達に助けを求める視線を送った。この期に及んで親心が勝ったなどとは口が裂けても言えない。
「ん、ん――。あれだ」
メレディアの威圧感に気後れしたダルドは巨体を揺らし、その視線を認識した十三人の男達は苦笑した。男達もダルドの親心に気付いていたが、それで良いと感じていた。
この場を切り抜けた後にも世界は毒牙を向け続ける。大切な家族を守りたい気持ちは、大切な家族の未来に必要不可欠な存在となる力を宿すメレディアとヴィガに託された。
ダルド一人が辛辣な表情を浮かべてオドオドし続ける中、苦笑を続ける親達に代わり前に進み出たのは二十歳を多少過ぎた位の青年二人だった。
「俺達の事は気にするな。俺の妹が結婚したんだ」
「相手は何と俺の弟だ。俺より早く結婚しやがった。くっくっく――。二人の幸せを守る。命を張るにゃあ十分すぎる理由だろ」
「後ろはお前だから任せられるんだ」
「そういう事だ。皆を頼んだぞ!」
そう口にした青年二人は仲良く肩を組んで笑いあった。その笑顔は恐怖が薄れて消え去り、希望だけが宿って輝いていた。他の青年達も戦場に向かう理由を口々に、何故戦いに赴くのかを再確認して恐怖に打ち勝とうと努めて奮い立った。
「みんな――。俺は」
ヴィガは友人達から別れの笑顔と言葉を受け取るが、返す言葉が見つからない。どの様な表情で最後を見送るべきなのかさえ分からない。
「そんなに思いつめた顔を見せるなよ」
そう口にした年配男はダルドの元部下の一人。まん丸な顔に見合う恰幅の良さ。と言うには丸すぎる体。
「見ろよこの腹!幸せ太りがここまででかくしちまったよ。はっはっは」
男は息子達の肩に両腕を回してヴィガに笑顔を絶やす事無く陽気に語りかけ、丸々とした太鼓っ腹をポンポン叩いて皆を盛大に笑わせた。
「俺は――」
ヴィガに出来る事は仲間の顔と言葉を記憶する事のみ。只々仲間達の笑顔を胸に刻み続けた。
「メレディア、ヴィガ。敵は必ず抜けて来る。お前たち二人が皆を守る最後の砦だ」
そう口にしたダルドは二人に歩み寄り、大きな体に抱き寄せた。二人の感触を肌に感じたのは数年ぶり。小さかった子供達が、気付かない間に強く大きく逞しくなっていた事を実感させた。
ダルドの大きな両手に伝わる二人の感触は人生に意味を見出させ、具現化して触れられる幸せそのものだった。
「二人は俺の自慢の娘と息子だった。――後の事は頼んだ」
やがてダルドは二人から離れ、二人の頭に大きな手を優しく乗せた。小さな頃は頭を撫でられ喜んでいたが、ダルドに映る二人の表情は笑顔からはかけ離れていた。
そしてダルドはウィルナに視線を送り「済まなかった」と一言。
その言葉を最後に、ダルドは人生最後となるだろう、二十三対五百という圧倒的不利な戦場へと足を進めた。元部下の男達や息子達も決意を胸に歩き出した。
それは死への行軍であり、死という概念に至るまでの多大なる苦痛や恐怖にも耐える覚悟を宿した決死隊。青年達ですら恐れは宿しても怯えを見せず、父の背中を追い続けた。
ウィルナの視界の端には隊列を成して行軍して来るバーキス兵。見つめ続けたダルド達の背中は、脳裏に浮かんだ過去のトラウマそのものだった。
あの日、無力な自分を命がけで守ってくれた村人達の大きな背中そのままだった。
ウィルナは理解していた。辛さ故に八つ当たりしていた。子供が大人に我儘を言うようなモノだった。
「ごめんなさい!僕は――っ!」
ウィルナは遅すぎた言葉を詰まらせた。
男達の死は復讐に直結する。だが、息子達は?獣人達を快く受け入れてくれた家族の人達は?という疑問が生じていた。関係者かそうでは無いか。
無論無関係で復讐対象ではなかった。
だったらダルドの話から理解していた村を襲撃してないダルド達は?という疑問が生まれた。その答えが出せないままに、時を無駄にしてしまった。
メレディアの『お前達がガウェインを殺した』という言葉がウィルナの頭を独占していた。ダルドは自分達が『道具』だったと言っていた。それを知った時、確実に芽生えた答えがあった筈だった。
『恨む対象を間違えていたのでは?』『この場の全員が被害者なのでは?』
だが、その答えが導き出された今が遅すぎた。ダルド達は既に離れ、足を止める事無くウィルナに振り向き、微笑だけを残して土色の街道に進み出てしまっていた。
「僕は――。また間違えたのか。なんでこんなに馬鹿なんだ。――くっ」
ウィルナはダルド達に背を見せて走り始めた。自分の心の弱さを呪い、自分に対する怒りが全力疾走という形に押しやった。全力だというのに酷く遅い。体も重い。それでも懸命に走り続けた。
「どうしたの?ここはネイロ達が準備手伝ってくれてるから大丈夫だよ?」
ベリューシュカは血相を変えて慌てた様子のウィルナを心配して声をかけた。が、無反応で返された。
エイナの馬車後方に飛びついたウィルナはそのまま荷台に駆け込み、丸くなっているトレスの横に寝かせてある巨大な極大剣の傍に腰を下ろした。
今の自分は子供じゃない。無力だった昔とは違う筈だ。
その思いと自身に感じる怒りを力に極大剣を掴み上げた。上げようとした。
掴んだ太い柄はどの様な持ち方をしても指さえ回せない。片刃で巨大な刀身に手を当てて膝を入れてもびくともしない。
「くっ。――なんで。――うぅ、だめだよ。僕が守ると決めたんだ。――何で」
ウィルナの溢れ出す感情は涙となって零れ落ちた。堪えきれず嗚咽を漏らした。
ウィルナが両手に装備する黒色ガントレットの指先は、鋭利な獣の爪の様に加工された凶爪。木造馬車を引っ掻く様なガリガリとしたその音は馬車の荷台に虚しく響いた。
ベリューシュカが目にしたウィルナは、溢れる涙はそのままにガリガリと聞こえる音は止む事無く、咽び泣きながらも必死に武器を手に取ろうともがき苦しんでいた。
その姿はとても小さく見えた。とてもか弱い存在に思えた。
ベリューシュカは体を無意識に動かした。
「今度は私が守るから!」
ベリューシュカはウィルナの横に膝立ちとなって強く抱きしめ、その声は荷台を引っ掻くような音だけを止めた。




