鮮血の因果律に叫ぶ寒月の断罪(4)
周囲の自然を色鮮やかに彩る真上からの陽光が晴天の空に燦然と輝き、真冬の季節感を喪失させる暖かさを運んでくる。
視界の先にはどこまでも広がりを見せる広大で深緑豊かな草原が陽光に光り輝く。
それを見守るかのような林の木々が立ち並び、紅黄に色づいた枝葉の先が微かに揺れて手を振るようにも見える。
ウィルナがゆっくり瞼を上げて見た外の世界は美しくもあり、残酷でもあった。一人でいると、広がる世界が圧し潰してくる圧迫感と孤独を痛感させる。
重苦しい気分のままに深く太く吐き出した吐息は、自分の体から活力を奪い去っていくかのように感じられた。
ウィルナは体を包み込んだ毛布の端を両手で掴み、自身を強く抱きしめるように引いた。それは孤独に抗うように、この世界に自分が存在している事を再確認するように、きつく強く無意識に行われた。
「エイナお婆さん。僕は一体どうすれば良いのですか?何が正しい事なんですか?――僕は過去の選択を間違えすぎたんですか?」
ウィルナの独白は虚しく流れ、語り掛けたエイナの眠る石の墓標に体を預けて小さくなった。
ウィルナはこれまで、隔絶された狭い世界で自由気ままに生きて来た。些末な不安無く心穏やかに過ごしてきた。
一人で辛い時期も確かにあった。それは魔獣達との戦闘時と深手を負わされた戦闘後。
迫り来る魔獣の脅威は約半月の期間を占めて確実に襲来した。過酷な環境で生きる為、苦痛と恐怖に耐えてトレスと二人、必死に戦い抜いた。
辛いと思わせる原因は単純明快。『自分が弱いから』
繰り返される日々は生死を分ける貴重な時間。一秒の無駄が死に直結するかもしれないという明確な恐怖心。
直視可能で実体験を伴う死の恐怖は、ウィルナの意識内で強烈に燃え盛る生への渇望に転換された。
――だから必死に戦い続けた。
――自分が思い描く強い自分になる為に己を鍛え続けた。
一人でも寂しくはなかった。横にはトレスがいてくれた。記憶の中の弟妹の笑顔が生きる活力になってくれた。だから運命に抗い続ける事が出来た。
一秒すら無駄にする事無く過ごした半年後には、狭い世界の覇者として君臨していた。
不安要素が取り払われたと自覚した時、トレスと共に只々無邪気に草原を駆け回った。悠々自適な生活は開放感を与えてくれた。
好きな時に食べ、好きなだけ惰眠を貪り、天気の良い日には草原に体を預けて大の字になり、陽光をその身に浴びて暖かさを感じながら昼寝した。
そして胸に抱く希望を叶えるため意気揚々と踏み出した外の世界は、残酷にもウィルナの心を引き裂き続けた。
心を深く傷つける原因は、全て他人がもたらす人間関係というしがらみ。魔獣との戦いとは違い、独力では抗いようの無い無数の爪痕が心に刻み込まれた。
希望を抱いて踏み出した広い世界は残酷過ぎた。
思えば外の世界に飛び出して約一月、何度嗚咽を漏らしたか分からない。何度涙が頬を伝う感覚を認識したのか数えきれない。
『帰りたい』
世界を拒絶したウィルナの意識にはその言葉だけが繰り返された。世界がここまで辛く厳しい苦難を与え続けるとは考えもしなかった。
隔絶された狭い世界に戻りたい。誰とも接する事無く、只々平穏に暮らしたい。この世界からの逃避を願わずにはいられない。
今の自分を見たら弟妹は何と言うだろう。二人にだけは嫌われたくない。血の繋がりは無くても長男としての立派な姿だけを見せていたい。
その意識が負い目となり、顔を合わせる事すら拒絶させる。
目的への道が閉ざされた今、ウィルナは生きる意味すら見失いかけた。そもそも生きる意味も、なぜ生きているのかさえも初めて考えたが答えが得られない。
毛布に包まる両膝を両腕で抱えて体を丸めた。顔を上げる気力すら無く、頭は自然と両膝にぶつかった。
孤独を恐れたウィルナはそれでも孤独がマシだと思える世界に絶望し、瞳を閉じつつ時間の経過だけを感じ続けた。
「もうすぐ昼だぞ」
草を踏む足音が近寄って来ていたのは聞こえていた。声から唯一獣化した獣人青年だった事も認識した。
だが返事をする気力が無い。頭を起こせない。
自称悪魔と言い張る無邪気だった同世代は無反応。獣人青年も同情心を抱くほどの何かをウィルナの姿から感じた。
「ほら」
獣人青年は、エイナの墓標に寄りかかり小さくなっているウィルナの隣に腰掛けて再び声をかけた。
ウィルナはその声に反応して顔を上げた。
目の前には取っ手の無い木のコッブ。白い湯気が一定距離舞い上がっては揺れて霞んで消えていく。
「君か。ありがとう」
ウィルナは差し出されたコップを両手で受け取り、毛布がはだけて多少冷たい空気を体感させる。
覗き込んだコップの中は綺麗な透明。水を沸かしただけの白湯だった。だけど暖かい熱を両手に感じさせる。
外の世界に出てからというもの、食事や睡眠時間さえ削って行動し続けた。その認識を感じながらすすった白湯はやはり白湯だった。
それでも一口の白湯が喉を潤し、腹部に到達しながら伝える暖かさに口元は緩んだ。
「ありがとう」
ウィルナの感謝の気持ちは誰かに側にいて欲しかったから。同時に誰も傍に来てほしくも無かった。
人は安らぎを与えると同時に苦悩も運ぶ。大切な人が出来たからこそ失った時の苦しみも格段に強まった。
「俺の名前はネイロ。お前が契約と言ったんだ。相手の名前くらいは憶えとけよ」
獣人青年はぶっきらぼうに会話を繋ぎ、視線は広がる草原の先に向けられ続けた。
「ネイロ。そうか――。僕はウィルナ――」
ウィルナは言葉に詰まって口を閉ざした。言葉の代わりに涙が溢れ出した。
ヴィガが教えてくれた獣人達との心の距離を測る指標。確実に体感出来る親近感。
ウィルナはネイロがその名を口にしてくれた事が堪らなく嬉しかった。
過去の選択の多くを間違えて来たと思っていた。それでもネイロの存在が、全てが間違いでは無かったのだと思わせてくれる。
ウィルナは孤独の中でも他人の存在に救われる事を知ってしまっていた。だからこそ失う恐怖が思考を埋め尽くす。
溢れ出す恐怖心は自身の無力感に繋がり、溢れ出す涙が止められない。
「皆が待ってる」
ネイロの口を尖らせた言葉は相変わらずぶっきらぼう。だがウィルナには同情心で優しくされるより、ずっと耳障りの良い言葉だった。
そして昨夜、皆の場所から離れた理由を思い出した。
真冬の微弱な寒風が優しく髪を揺らす中、焚き火を囲んで談笑する人達全てが不安を内に秘めていた。
皆がダルドを頼り、ダルドと共に家を捨てて城塞都市から流れて来た避難民。その数は百を超え、ダルドの元部下の家族親族友人家族で構成されている。
避難民となった以上、安定した生活は当分望めない。馬車七台に積んできた今ある食料もいずれ無くなり、冬という季節が精神的な重圧や負担となって圧し掛かる。
そしてもう一つの種族である獣人達も同じく焚き火を取り囲み、微かな笑い声を上げながら休んでいる。
その中で離れた場所の一つの焚き火を囲む一団が、無言の時間を過ごしていた。
「――お前の村を襲撃したのは、間違いなくガウェインの部隊だ。あいつが姿を消したのも八年前。時期も合う」
そう口にしたダルドは決闘で開いた傷口の処置を受け、向かいに座り押し黙るウィルナを眺めた。
皆が木箱を椅子代わりに腰掛ける。その中でウィルナだけが膝上で組んだ両手を見つめ続けて頭を上げない。
他人の思考も本心も、誰もが正確に推し量れるものじゃない。
ダルドが生涯の友と呼び合うガウェインが犯した罪をどれだけダルドが謝罪しようと、ウィルナが救われる事も無い。
「だったらお前達がキーガーラ卿を殺したんじゃないのか!何で帰って来ないんだ!」
ウィルナの知る情報をすり合わせ、ダルドが過去に結論を出した直後だった。メレディアの苛立ちを過分に含んだ言葉が、ウィルナ含め全員を凍り付かせた。
この場に座るダルドやギャリアンにヴィガと発言したメレディア。全員がガウェインを良く知り、大切に思う人達だった。
だがメレディアの発言から感じる怒りには、ダルドさえ素直に同意同調するどころか否定感さえ滲ませた。
「最初にウィルナ達を襲ったのはキーガーラ卿じゃないですか!」
焚き火の爆ぜる音だけが一団を取り囲んだ数秒後、ベリューシュカが正論を武器にメレディアに声を荒げた。
普段のベリューシュカからは想像もできない声量と勢い。その表情には多少の怯えを見せてもメレディアを睨みつけた。
ベリューシュカにとって、隣に座るウィルナはいつも明るく励ましてくれる存在だった。命の恩人で頼れる存在であり、馬鹿っぽい無知さ加減が人間らしくて好きだった。
そんなウィルナが見る影も無く息を潜め、只々肩を落として思い詰めた表情で苦しんでいる。少しでも助けになりたかった。過去から来る苦悩を少しでも解消したかった。
「落ち着けメレディア。ベリューシュカの言葉通りだ。あいつは命令に従い、襲撃した村で返り討ちに合った。それだけだ」
ダルドの冷やかな言葉はメレディアを更に激昂させた。
「副団長は何を言ってるんですか!だったらこいつの村に何かしらの問題があったという事でしょうが!」
ダルドの斬り捨てたように感じる言葉が癪に障り、メレディアの反論する熱意は殊更過熱した。
「こいつの村に落ち度があると言い切れる証拠は何処にある」
しかしダルドの言葉で、メレディア含めた周囲は再度沈黙した。
この場には襲った側と襲われた側、双方を縛り付けた過去の刃が存在していた。それぞれが苦悩を抱え、変えようの無い過去に拘束されて揺れる炎を見つめ続けた。
ウィルナには何も返せない。
ガウェインという名前すら知らない。命を落としたとしても、襲ってきたから命を落とした。それだけだ。反論する気にもならなければ、目の前に座る関係者を許せるはずも無い。
それでもウィルナが痛感する大切な人達への想いは、ダルド達も変わらない形で胸に秘めていた。最初の刃が振り下ろされた時、憎しみの連鎖は果てしない螺旋を描き始めていた。
だからこそヴィガの事を考えて復讐は諦めた。正確には出来なかった。
仇を目の前に成すべき事を成せないもどかしさ。その矛盾した意識が脆弱な心を切り裂き、体は重く頭痛を感じるほどの重圧を感じさせた。
何よりウィルナは、メレディアの悲痛な叫びに自分を重ねてしまった。自分でも同じ発言をしたかもしれない。怒りをぶつけた筈だと感じて心が抉られたようだった。
ウィルナはこの世界を呪った。辛い。それに尽きた。
これほどの苦痛を心に感じるなら誰とも知り合いたくなかった。一人でいれば自分の事だけを考えていれば良い。そして過去の選択を呪い、何かを選択して行動に移せば失敗する恐怖心に捕らわれた。
そんな暗く沈んだウィルナの心に焼き付いた光景は、焚き火を離れた直後だった。
ミスアとオーストがダルドに駆け寄り、その巨体を競うようによじ登りだした。子供らしい笑い声が周囲に響き、ウィルナが離れた焚き火では殊更大きな笑い声が木霊した。
ヴィガがダルドの負傷を気遣い子供達をいさめようとするが、メレディアがヴィガを静止させた。
メレディアはダルドにも「子供達の為に、その程度の傷くらい我慢してください」と冷たく言い放つ。
そんなメレディアの膝にイズは腰かけて笑顔を見せた。
キーラはギャリアンの横に座り、焚き火の炎を光源として何かの本を熱心に眺めていた。
その光景はダルドが主柱となって形作られていた。ダルドは幼いメレディアやヴィガを引き取り、無償で育て上げた人物。子供達の笑顔が好きだった。
二人が幼い頃、ダルドは高い魔術適正を二人から感じ取り、手始めに自身が使用できる身体強化魔法と防御魔法であるマナスキンを教えた。
当然直ぐには使用できず、ダルドは子供達に見送られながら戦地へと赴いた。
繰り返される血の惨劇の戦場で多くの仲間が倒れ続けた。多くの友人達をその手に抱いて見送り続けた。
一年後に帰還した石造りの素朴な我が家では、二人が抱き着いて出迎えてくれた。そしてマナスキンを会得した事を自慢げに語り、その腕前を鼻高々に披露した。
副団長としてのダルドにとっては、メレディアとヴィガの成長と笑顔だけが心を癒してくれる存在になっていた。
命と精神を削る戦の日々、ガウェインが望む道を進むために支え続け、ガウェインがダルドを支え続けた。
ウィルナはそんなダルドの事を良く知らない。それでも豪快な仕草や率直な物言い、さりげない気遣いなどが好きだった。
そして今はヴィガとメレディアが夫婦に見え、ダルドがお爺さんで子供達がその孫に見えた。ウィルナが望んだ優しい家族のような景色がそこにはあった。
その光景は嬉しく思える反面、悲しい事実を突きつけた。
ダルドとの決闘で、復讐心に駆られていれば見れなかった光景。一歩間違えば確実に破壊した別の今があったのだと考える恐怖心。
『戦いが怖い』『世界が怖い』『自分が何もしなければ皆は幸せになれる』
ウィルナに芽生えた悲痛な意識は集団からの孤立を促し、すり減らし続けた脆い心がすがり付いた先はエイナが眠る場所。そして昼を過ぎた今に至る。
エイベルと約束した深夜の第二休息地は、最早間に合わない時刻を経過した。それでも皆が文句を言わず、ウィルナの帰りを無言で待ち続けた。
一番文句を言いたかっただろうヴィガさえウィルナの心情を鑑みて一人にした。
ヴィガ自身もウィルナと敵対する関係者だと知った時、計り知れない苦悩が押し寄せた。ヴィガにとっても、ダルドとウィルナは天秤では計れない大切な存在となっていた。
そんなヴィガが、ウィルナが縮こまる場所まで駆けていた。
偵察部隊からの知らせを聞いた瞬間、血の気が引く焦りを感じた。
休息地を離れ、林を駆け抜ける最中も無意識に呼吸が荒れた。迫り来る脅威と苛立ちが視界を狭めた。
苛立ちの全ては騙したエイベルに向けられた。時間通りに到着しても迎えたのはバーキス兵だった。
極度に感じる強烈な焦りは、バーキス兵が大小様々な種類の馬車を引きつれて歩いていた事。集団の中には牛や馬に羊などの家畜も多く見られた事。
以上の二点はヴィガを強烈に震撼させた。
兵糧の厳しい真冬の時期、西のバーキスが数万の軍で進軍して来た事が不可解だった。だが答えは簡単だった。
進軍に不必要な家畜の群れ。様々な馬車。全ては北部辺境地帯の村々を襲撃して略奪した戦利品。北から南下してきた理由もそれだと理解した。
加筆するなら城塞都市コンスフィッツ陥落の一報はバーキスも知り得た筈。その情報でバーキス軍は進行速度を一時的に弱める筈だと考えていた。
ヴィガがそう結論付けた理由はコンスフィッツを陥落せしめた第三勢力の存在。
バーキスにとっても第三者が敵対勢力かもしれない相手だと認識警戒し、進軍を停止して情報収集に時間を割くはずだと考えていた。
しかし現状は違った。バーキスの進軍速度が速すぎる要因は、第三勢力では無く繋がった勢力同士である可能性を極端に高めた。
現状を打開するにはウィルナの力が必要不可欠。
「敵襲だ。バーキス兵が北から進軍して来る。数五百。騎兵もいる。どうする、俺達で足止めするか?」
当然避難民のいる自分達が発見されれば襲撃される事態となり、友人知人を失う恐怖を想像したヴィガはウィルナの傍に駆け寄るや否や両肩に手を置きウィルナを揺らして声を荒げた。
ウィルナはヴィガの顔を見ようと頭を上げた。
ウィルナはヴィガのその姿を初めて見た。ヴィガは息も絶えだえに両肩を激しく上下し、不安の色を濃くした表情は辛辣な焦りを言葉以外の方法で表現していた。
だからこそウィルナも緊迫した事態を漠然と認識して答えを導き出した。
「すぐに逃げましょう」
ウィルナは枯れた涙の跡を残し、ヴィガ以上の恐怖心を浮かべた表情で弱々しく答えた。外の世界でまた戦いになる。何が最善か分からないのなら逃げ続けたい。関りたくも無い。
「お前――」
ヴィガはそんなウィルナを呆然と眺めて言葉を失った。
進軍中のバーキス兵の足が速く、未だ移動準備中である皆を逃がす事は不可能に近い。
敵には騎兵も存在していた。敵側にも斥侯として出した兵がいると見ていい。だからこそ進軍速度を速め、自分達にその毒牙を向けようとしているように感じられた。
ヴィガにはウィルナの本心が理解出来ない。
どんな敵にも率先して立ち向い、その心も折れる事は無かった。ウィルナが大切に思う人達の為に戦い続けた姿は失われ、只々怯える少年がヴィガの目に映り込んでいた。
だがヴィガは次の一言で理解した。驚きを隠せずにもいられない。驚きすぎて呼吸を忘れる程だった。
「魔力が――。魔力を感じないんです――」




