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【後編】取り戻せない

  


「妃殿下のお支度が遅れている! 妃殿下はどうなさっているのだ!?」


メイナード殿下の側近が、声を上げながら部屋に入ってきた。

侍女のアンナはただ頭を下げている。


「妃殿下はどこにおられる!?」


「ドレスをお召し替えになるとおっしゃって、クローゼットルームに入られました」


「それはいつだ」


「この部屋にお戻りになってすぐのことです」


「もう二時間も経っているではないか! 晩餐会がもう始まってしまう。メイナード殿下を呼んでくるから誰も動くな」


バタバタと側近が出て行き、しばらくすると殿下と共に戻ってきた。


「いったいどうしたというのだ!」


「妃殿下がもう二時間も前に、クローゼットルームに入ったきりだと言うのです」


「クローゼットルームに?」


メイナード殿下は苛立ちを隠そうともせずに扉を開けようとしたが、鍵が掛かっているのか開かなかった。


「こんなところで何をしている! 具合が悪いのなら医師を呼べばよいだろう。これから宮中晩餐会が始まるのだ。もう来賓の方々も見えて、君も挨拶に出なければならないのだぞ!」 


中から返事はなく、物音もしなかった。

恐ろしいほどの静けさが、クローゼットルームの扉の隙間から流れ出てくる。

メイナード殿下はドンドンと扉を拳で叩いた。


「誰か、この扉を壊してもいいから開けてくれ!」


騎士たちが体当たりをしたり、剣の柄で鍵を叩いたりした。誰かが椅子を持ってきて扉にぶつけた。何度も何度も椅子でクローゼットの扉を叩き続けてようやく穴が開いた。

そこから騎士が手を入れて、鍵を開いた。


「私が入る、他の者は下がって待て」


メイナード殿下がクローゼットルームに入ると、短い声を上げた。


「……そんな、まさか……」


そう呟いてよろけて壁に手をついた。


侍女は許可も出ていないのに、クローゼットルームに入っていく。

するとそこには、口と鼻から血を流し、下着姿で何かを抱いて丸くなっている妃殿下の姿があった。どうみてもお亡くなりになっている。

クローゼットルームに入られてずいぶん時間が経ち、おかしいと思いながら侍女は動かなかった。侍女は第一王子妃殿下の邪魔をしたくなかったのだ。

メイナード殿下はよろけながらクローゼットから出てきて、力が抜けたように座り込んだ。


「……医師を、誰か医師を呼んでくれ……どうすればいい、晩餐会に来賓が集まっているというのに、もう始まる時刻だというのに、どうしたらいいのだ……」


メイナード殿下はお立ちになれないようだった。

側近はどこかへ走っていった。


ヒューゴー第二王子殿下の結婚晩餐会は、『体調不良の第一王子妃殿下に第一王子殿下が付き添っていらっしゃるためお二人は急遽不参加となった』と、説明したそうだ。

晩餐会が終わるまで、第一王子妃が亡くなったことについては国王陛下のみに知らされ、王妃殿下にも、主役であるヒューゴー第二王子殿下にも伏せられたままだった。




***




晩餐会の後片付けをしていた従者たちも居なくなった深夜の王宮の応接ルームに、陛下、王妃殿下、メイナード第一王子殿下、ヒューゴー第二王子殿下、今日から王子妃となったキャロライン、そしてトリスタン第三王子殿下が、死人のような顔で集まっている。

第一王子妃のいつも傍に居た侍女のアンナが呼ばれていた。

メイナード第一王子殿下が口火を切ると皆が思っていたのに、心ここに在らずという顔で俯いたままなので、陛下が侍女のアンナに言った。


「おまえが見たもの、聞いたものをすべて話すのだ。長くなっても構わない、むしろ余すことなくすべてを話せ」


「畏れながら申し上げます。今の私はうまくお話をできますかどうか分かりません。発言が不敬罪に問われることを恐れています」


「おまえの話の責任はすべて私が持つ。これなら誰も文句はないだろう」


「ありがとう存じます。では──」


侍女のアンナは大きく息を吸った。



「私は第一王子妃殿下を死に追いやったのは、ここに居る王族の皆様全員だと思っています。その中でも……王妃殿下とメイナード殿下の責任は大きいと存じます。そして第一王子妃殿下が今日死を選ばれたそのきっかけは、キャロライン様です」


「わ、私!? 知らないわ、あなた何なの? 失礼過ぎるわ! 私は被害者なのよ? 大切な結婚式の日に嫌がらせみたいに死なれたのよ! これから記念日ごとに死んだ人を弔わされるのよ!」


「一度だけ言う。侍女以外の者は誰も、侍女が話をやめて椅子に座るまで、私が指示を出す以外その口を開いてはならない。王子妃よ、次にその口を私の許可なく開けばここから追い出す」


陛下の言葉に青くなったのは、キャロラインではなくヒューゴー第二王子殿下だった。自分を被害者だと言い、人の死を嫌がらせだと口にしてしまうのは、王子妃としての資質が問われる。


「侍女よ、続けよ」


「はい。第一王子妃殿下は結婚式で、三代も前の王妃様が作られた古臭い形の、黄ばんで染みだらけで重たいドレスを、丈も短いまま着せられました。

小さな虫が湧いているのか、第一王子妃殿下は全身に真っ赤な湿疹ができて、この二年どんどんそれが広がりました。

御医師に見せられてはどうでしょうかと、畏れながら何度も進言いたしましたが、第一王子妃殿下は、そこまでではないわとおっしゃるばかりで、かゆみに耐えるために塩を揉み込んでいらっしゃいました。

あれだけお身体の広範囲に赤く広がっている湿疹にメイナード殿下が気づかれなかったということが、二年が過ぎてもお世継ぎができないと第一王子妃殿下が責められていた原因なのではと、不敬ながら思っておりました。

欲しい指輪があると、第一王子妃殿下がこの二年で初めて勇気を出してメイナード殿下にお伝えした時、殿下は災害の被災者の民を引き合いに出して妃殿下をお叱りになりました。

メイナード殿下が却下なされた指輪は私の給金で買って、第一王子妃殿下に差し上げました。

使用人がためらいもなく買えるくらいの金額の指輪でした。具体的には、三千ギルダムです。その三千ギルダムの指輪を着けると、ぶかぶかでぐるりと回ってしまいました。第一王子妃殿下は声を上げてお泣きになりました。


今日のキャロライン様のウェディングドレスは、約六百万ギルダムだとキャロライン様の侍女が吹聴しています。キャロライン様は誰かと違って愛されている、愛されている妃殿下の侍女になれて良かったと、私ども第一王子妃殿下の侍女に向かって言うのです。

真っ白で美しく流行りの素晴らしいドレス姿のキャロライン様を見て、第一王子妃殿下はどうお感じになったことかと思うと、胸が張り裂けそうになります。

国王陛下、王妃殿下、メイナード殿下、亡くなった第一王子妃殿下のお名前をご存じでしょうか。ヒューゴー第二王子殿下、トリスタン第三王子殿下はいかがでしょうか」


せっかく口を開いてもいい場面なのに、互いの顔を信じられないものを見るような目で見ながらも、誰も何も言えなかった。

皆の視線はメイナード殿下に集中しているのも無理もない、夫が妻の名を知らないなどということがあるわけがないのだ。

いつも落ち着いているメイナード殿下が頭を掻きむしっている。


「本当に信じられません……。この国の第一王子殿下の妻の名前を言えないのですか! あなたの妻ですよ、あなたがドレスを押し付けていた義理の娘ですよ、あなたたちの義理の姉ですよ……。

伝統だ、格式だ、貴重なものだと黄ばんで丈の合っていない虫が湧いたウェディングドレスを着せて迎えただけのことはありますね! 

メイナード殿下、大雨で土砂に家を流された民の為に奔走していると第一王子妃殿下におっしゃいましたね。私はお傍でそれを聞き、泣きたい気持ちになりました。

第一王子妃殿下の心の中は、土砂のような悲しみで埋まっていらっしゃいました。民には寄り添っても妻には寄り添わないとおっしゃったようなものでした。

伝統と格式なら、キャロライン様にも負わせなければならなかったのではないですか? どうして新しいドレスを作ったのですか? 

メイナード第一王子殿下は土砂で家屋を流された民のお話で、ヒューゴー第二王子殿下とキャロラン様をお諭しにはならないのですか?

三千ギルダムの指輪が欲しいと、第一王子妃殿下が言った時には叱ったのに、六百万ギルダムのホワイトドレスと五百二十万ギルダムの真っ赤なドレスを作られたヒューゴー第二王子殿下には兄として叱らなくてもいいのですか?

その金でどれだけの民が救えるでしょうか。

王妃殿下はどうしてキャロライン様には、思い出のドレスをお譲りしなかったのですか?

ご自身が伯爵家のご出身でいらっしゃるから、公爵家から嫁いだ第一王子妃にあのような嫌がらせをするのは痛快でしたか? 

あなたたちが、全員で寄って集って名前も覚えていない第一王子妃殿下を殺したのです!!

あなたたちが殺した妃殿下はセラフィーナ様とおっしゃいます。

セラフィーナ様は、この先もご自分だけが伝統と呼ぶ嫌がらせのような古い物を押し付けられていくことに絶望なさった。

それで押し付けられたドレスを脱ぎ捨て下着姿になって、それしかセラフィーナ様の物はなかったので、下着だけをまとって、王妃殿下から戴いた指輪の中の毒を飲んで亡くなりました。

尊厳を守る毒だそうですね。

セラフィーナ様は、内側にカビの生えたドレスで晩餐会の場でキャロライン様と比べられ尊厳を踏みにじられることのないように、王妃殿下に戴いた指輪の毒を飲んだのです。下着姿で赤子のように丸まって。

何度でも言います。あなたがた王家の方々が、王家の亡霊をセラフィーナ様に着せて殺したのです。

……でも私も同じです。良かれと思って、小鳥の指輪をプレゼントしました。

せめてその手に、一つくらいご自身の希望の物をと思ったのです。

その指輪をはめて声を上げて泣いたセラフィーナ様は、一介の侍女に憐れまれたこともまた、絶望の一つだったことでしょう。

今なら、私のしたことはとても失礼なことだったと分かります。

ですから私は私のしたことへの責任を取ります」


そう言うと侍女のアンナは隠し持っていた薄いナイフで躊躇いもなく自分の首を掻き切った。血しぶきが、生きた骸のような顔をした者たちに飛び悲鳴が響いた。

応接間の中へ人がなだれ込んでくる。

生きている者たちは死んだような顔をして、死んだ者が穏やかな顔をしていた。




***




こんな時でもいつもと同じように朝は来た。


国王陛下の命で、昨夜侍女が自死した時に居た者たちが末子のトリスタンを除いて呼び出された。昨夜は侍女があんなことになり、全員が自室に戻るように命じられた。その続きがこれから行われるのだ。

誰もその陛下の命に背くことはできなかった。

重い空気で押しつぶされそうな中、陛下はまず王妃殿下に向かって口を開いた。


「何故、第一王子妃だけに王妃の持ち物を押し付けた」


「わたくしも! そうやって譲られましたわ! 同じことを第一王子妃にしただけの何が悪いのですか!」


「王妃は他にドレスをたくさん作っていただろう? 我々の挙式後の晩餐会でのドレスは、新しく作った物だったはずだ。その後も何かと言えばドレスを作っていたではないか」


「……ドレスがたくさんあって……どれも一度くらいしか着ていなかったので、第一王子妃に活用、してもらおうと……」


「それを嫌がらせというのだ! 自分は一度着ただけで次のドレスを作り、息子の嫁にはそれを許さず自分の要らなくなった古いドレスを押し付ける。今後死ぬまで王妃のドレスを新たに作ることは許可しない。

自分で活用するがいい。あれから背も伸びていないのだから丈を直す必要もないだろう、使え」


「そんな……」


「メイナード、おまえはどうして自分の妻にただの一度もドレスも宝飾品も作ってやらなかったのだ」


「……王家の格式ある物を、母上がくださったからです。伝統を身に着けていくのが王子妃のあるべき姿だと、そう思っておりました……」


「ならば今後そなたには、私の着た物を下げ渡そう。二十年前に作ったフロックコートも残っている。

五十年前のおまえの祖父の物も探せばあるのではないか? 

伝統を身に着けるのがあるべき姿なら、第一王子が率先してそうするがよい。

第一王子の装飾費を今後ゼロにする。だがもう増えないぞ、私も今後、服を新調することはない。

そんなことをセラフィーナ妃は望んでいないだろうが、どうして新たな物を作れようか」


「……陛下の二十年前のお召し物に、おじい様の物を……私が……」


メイナードは驚いた顔を隠しもしなかった。父や祖父が二十年も五十年も前に作らせた服を自分が着るという事実がうまく呑み込めない。

だが、それを自分の妻に強要していたのだ。

メイナードは父にそう言われて初めて、伝統の継承の名にかこつけて、古い服しか与えないということの本質を初めて理解できたのだった。


「ヒューゴー、第二王子妃の予算を遥かに超えるドレス代だったと従者の間にさえ噂が流れるほどだったというが、どういう見解でそうしたのか」


「それは……キャロラインが希望したからです……。一生に一度の晴れ舞台だと……」


「第一王子妃は、その一生に一度の晴れ舞台で、黄ばんだドレスを着せられたのだ。今後キャロライン妃の装飾費はゼロとする。子爵家から出す分には構わない。ドレスや宝飾品は、王妃が渡したものが第一王子妃のところにある。それも自由に使ってよい。

もちろんヒューゴー、おまえにも私の着た物を回す。メイナードと仲良く分けろ」


皆が押し黙って、陛下の言葉に胸の中で反発した。

だが、それをこれまで第一王子妃だったセラフィーナが一人で二年耐えたのだ。

誰もおかしいと思わなかったことが異常だった。

しかもそのせいで全身に発疹が出ていたのに、塩を揉み込んでかゆみを痛みに変えて耐えていた。


「王家がセラフィーナ第一王子妃にしてきたことを正当化しようとするなら、こういうことになるのだ。

もちろん王である私に一番の責任がある。王家は正しかったか。王妃、メイナード、どうだ」


俯いて答えない王妃より先に、メイナードが口を開いた。


「……正しく、ありませんでした……。これは王家総出で第一王子妃を虐げていたということに他なりません……」


「これから、セラフィーナ妃の父アディンセル公爵に、セラフィーナ妃が亡くなったこととその理由を伝えなければならない。私は、アディンセル公爵に何と言えばいい……。

侍女のことはどうする。王子妃の侍女は伯爵家の娘だ。キャロライン妃の実家の子爵家より爵位は上だ。

その侍女が三千ギルダムの指輪を第一王子が贈るのを渋った代わりに買って贈ったが、セラフィーナ妃は侍女に同情された惨めさに泣いた。その責任を取って侍女は自死した。

ヒューゴー、侍女の伯爵家にその死を何と説明すればよいだろうか。

伯爵家の娘が死を以て自分の責任を果たしたとすると、我々王族は何を以てこの責任を果たせばよいか」


ヒューゴーの身体は震え、答えられなかった。

子供の絵本のように魔法で時を戻す以外に、万事丸く収まる方法など存在しなかった。

自分たちが愚かにも死に追い込んだセラフィーナ妃も侍女も、何をしても戻ってこない事実に、誰もが打ちのめされていた。





***






王領の一番西にある小さな領地でメイナードは僅かな供と蟄居生活を送っていた。

名目上は、セラフィーナ妃の喪に服すためと、突然のセラフィーナ妃の死で心身共に弱ったための療養となっている。

王妃は実家に戻され、事実上の離縁となったそうだが、メイナードは自分の母がしたことも、その真意に気づかなかった愚かな自分も許せないままでいる。


セラフィーナの部屋に入った時のことを、毎日思い出していた。

セラフィーナが亡くなった時に抱いていたうさぎのぬいぐるみは、彼女の母が手作りしたものだそうだ。その耳にかなり強引に、鳥がついた指輪が半分まで嵌められていた。

そっとうさぎから指輪を外し、今はメイナードの左手の小指に嵌めている。

陶器の小さな青い鳥が、金でもプラチナでもないリングに付いていて、小鳥が首をかしげてつぶらな瞳でメイナードを見ている。その小鳥は、素直さと穏やかさを宿したセラフィーナにどこか似ていた。


あのクローゼットルームの奥には、母が押し付けたドレスがぎゅうぎゅうに掛けられていた。それらのドレスを一枚一枚見ていた時、メイナードは何度もむせ込んだ。

セラフィーナが着たウェディングドレスもあった。

黄ばみが酷く、手に取って見ると茶色い細かい斑点がみっしりとあり、そのうちのいくつかは動いていてメイナードは思わず短い悲鳴を上げた。

まさか、結婚式で隣に立っていたセラフィーナがこんな状態のドレスを着ていたとは、まったく気づかなかった。


ヒューゴーの挙式の時に着ていた、深緑色のドレスが脱ぎ捨てられていた。手に取るとカビの臭いがした。ずっと隣にいたのにどうしてこの臭いに気づかなかったのだろう。

首まで立ち上がりのある古い形で、亡くなった侍女が言っていた『王家の亡霊を着せていた』という言葉に、そんな場面なのに納得してしまった。

クローゼットを出ると、手首の内側に、赤い斑点がきれいに二つ並んでいた。


こんなドレスを文句も言わずに着ていたセラフィーナの隣で、自分は真新しいドレスに身を包んだ第二王子妃のことを、『キャロは妖精のようだ』と言ったのだ。

ヒューゴーがキャロラインのことをキャロと呼んでいて、いつの間にか母である王妃殿下もそう言うようになった。そのうち自分にもそれが移っていた。

もちろん他意はなかったが、隣でそれを聞いてしまったセラフィーナはどう思ったのか、考えるまでもない。

セラフィーナの名前を呼ぶ者は誰もいなかった。

夫の自分でさえ、『君』としか呼んでいなかった。

皆から愛称で呼ばれ、真新しいドレス姿を夫であった私が『妖精のようだ』と言ってしまったのは、セラフィーナを『亡霊のようだ』と言ってしまったのと同じだ。

そう受け止めたから、彼女は尊厳を守るために死を選んだ……。


子ができないことも気にはなっていた。

だが、あそこまで露骨にセラフィーナが他の者から言われていたとは知らなかった。

亡くなった侍女が言ったように、全身に赤い斑点が広がっていたことに私が気づかなかったのは本来ならおかしいのだ。

閨事の時、セラフィーナはいわゆる『扇情的な夜着』を着ていたことはなかった。

首までボタンがあって袖も手首まであり、丈の長いシャツのような夜着を着ていた。

月に二日、医師から『今夜はご夫婦の時間を』と言われた時だけセラフィーナの部屋に向かい、ボタンの一つも外すことなく裾をめくって終わらせていた。

今思えば、扇情的な夜着を着ては発疹が見えてしまうし、ヒラヒラしたレースは痛んだ肌では辛かったのかもしれない。

ただの一度でも、セラフィーナをきちんと愛していれば、私は気づくことができたはずだった。


「……セラフィーナ……」


本人にそう呼んだことがなかった名前を、あれから何度も口にしている。

何もかもが遅いのに、失ったものの大きさに立ち上がることができないでいた。

アディンセル公爵は、セラフィーナの死を知って怒りというより茫然自失となっていた。

それも当然なのだが、王家としては怒りを見せてもらったほうがまだ良かった。

今はセラフィーナの兄に家督を譲り、それからアディンセル公爵家は不穏な動きをしている。

肥沃な領地を持つアディンセル公爵家が、これまで王家に便宜を図ってくれていた多くのことを、通常の状態に戻した。

新たに公爵となったセラフィーナの兄の慣れない領地運営というのを言い訳に、おそらく後ろでセラフィーナの父が糸を引いている。

また、セラフィーナの喪が明ければ、アディンセル公爵家の末の妹が隣国の王子に嫁ぐという話もある。

妹には私の弟トリスタン第三王子の婚約者にどうかという話も出ていたが、当然そんな話は露と消えた。

そしてアディンセル公爵家は、亡くなった侍女のブリントン伯爵家と、新たな業務提携を始めたという。周辺貴族がそれに参画する動きもあり、一大勢力となりつつあるうねりを王家は手をこまねいて見ていることしかできない。

セラフィーナも侍女のアンナも自死で、王家の誰かが手をかけた訳ではない。

父は表立って、誰のことも処分はしていない。

父は、『いっそ毒を直接飲ませたのが王妃であったほうが王家のためには良かった』と言ったくらいだった。


でもこの頃の私にはそれもどうでも良かった。

王家が衰退して困るのは、王家の人間だけなのではないか。

私がここで蟄居生活が送れているのも王家の人間だからではあるが、もう自分の生に何の執着もなかった。

妻の名前を呼んだこともなく覚えてさえいなかった事実は、これまで第一王子として何でもうまくこなしてきた事実を内側から破壊した。

穏やかな王子は愚かな王子に置き換わった。

誰かに言われるのではなく、内なる自分が夜毎そう責めてくるのだ。


「……殿下、お茶でも淹れましょう。セラフィーナ様がお好きだったという、ジャムを入れたお茶にしましょう」


白いハンカチを、ここまで付いて来てくれて支えてくれている側近のイーノックが差し出してくれた。このハンカチはセラフィーナが使っていたものだ。

ここへ来る時に、セラフィーナの物で、母から押し付けられたわけでは無さそうな物を、端から荷物に詰めてもってきたのだ。

このハンカチもそのうちの一つで、目尻を押さえる。

この頃はこうして気が付くと涙をこぼしている。


イーノックはここに来ることは出世の道を閉ざされることなのに、付いて来てくれたのだ。

学園時代、私やセラフィーナと同じ歴史専攻クラスだったイーノックは、私がセラフィーナの名を忘れていたことに私以上にショックを受けた。

もちろん言うまでもなくイーノックはセラフィーナの名を知っていたが、ずっと『妃殿下』と呼んでいて自分も殿下の前でセラフィーナ様の名前を口にしたことがなかったと、自分を責めていた。

そのせいでここまで付いてきてくれたのだろうか。

いつでも王都に戻ってよいと言っているが、ここでの生活も悪くないという。

私はそれに甘えて、ここでただセラフィーナをこれ以上忘れないようにするためだけの生活を送っている。

セラフィーナがジャムを入れたお茶を好きだったとは知らなかった。

だがもう忘れない。


私を憎む者でもいい、私の知らないセラフィーナの話をしてくれるのならば、刺す前に何か話してくれるのであれば、誰でも歓迎したい。

私はここで待っている。

アディンセル公爵家の紋章のついた馬車がやってくるのを。

私の知らないセラフィーナの思い出話の後に、私を終わらせてくれることを、私は今日も待っている。

今日も誰も来なかったと思いながら、眠る前に読むことにしている本にしおりを挟む。

淡い紫色のバラを押し花にしたしおりで、これもセラフィーナの持ち物だった。

棘のあるバラは好きな花ではなかったが、セラフィーナが好きだったのなら、これから好きになろうと思っている。






おわり

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