妖狐
その日の夜。
凛月は、哪吒に付き添ってもらって、本町常務の自宅を見張っていた。
時間はかかるだろうが、旭子が、なんとか自分の心をコントロールできると信じたい。だとしても、霊の獣らしきものに心を煽られてしまったら、元の木阿弥になりかねない。
獣に気配を悟られないように凛月が隠形印を結ぶと、常人の視覚で捉えることができなくなった。「摩利支天隠形法」を使ったのだ。忍者が姿をくらます場合に使うあれである。
このためには、摩利支天の真言である「おん あにちや まりしえい そわか」を108回唱える必要があるのだが、緊急時には間に合わないため、あらかじめ唱えておくのだ。
時は過ぎ、丑三つ時となった。
「来たぞ!」と哪吒が緊張した声を発した。
今日は朔の日の翌日の二日月で、視界はとても暗く、目では視認できない。
(霊感で感じるのよ……)
凛月は集中した。
巫女のような装束を着た美しくうら若き女性が、堂々とこちらへ向かって歩いてきている。
凛月は、それが邪悪な気配をまとっていることを感じることができた。
「あれは?」
人間に変化できる物の怪は、かなり格上のものに限られる。
「妖狐だ。たぶん500歳を過ぎた気狐だな」と哪吒が答えた。
凛月は、不安になって哪吒を見たが……。
やはり、ピンチにならないと力は貸してくれないようだ。
そして、あと50メートルほどに近づいたとき……隠形していたこちらの存在が悟られた。
気狐は、狐火を放ってきた。
凛月は、とっさに刀印で五芒星を描く。
「禁!」
狐火は五芒星の結界にはね返される。
すると、気狐は狐の姿に転じ、空を飛んで逃走していく。
凛月というよりは、哪吒の存在を格上と感じ取ったのだろう。
「しょうがねえなぁ……」
哪吒は、蓮の花や葉をあしらった意匠の衣装で、武装した姿に転じた。
「おい。おぶされよ」
「ええっ! そんな恥ずかしい……」
「そんなこと言ってる場合かよ。逃げられちまうぞ」
凛月が哪吒にしぶしぶおんぶされると、彼は風火二輪と呼ばれる焔を吹く車輪に乗って空を飛んだ。その勢いはすさまじく、あっという間に気狐に追いつきそうだ。
さすがに住宅街の真上で争うわけにもいかない。
哪吒は、気狐を郊外の方へと追い詰めていく。
そして、住宅のない荒れ地にさしかかったとき……。
哪吒の混天綾(水を操る力を持った赤い布のような武器)がスルスルと伸び、気狐を拘束した。たまらず、気狐は地面に落下する。
哪吒は、凛月を地面におろすと言った。
「今のうちにやれ!」
(もう……最後までやってくれればいいのに……)
凛月は「不動金縛り法」を行う。
九字を切り、内縛印を結び、不動明王の中咒を唱える。
「なうまくさんまんだ ばさらだんせんだ まからしゃだそわたや うんたらたかんまん」(あまねく金剛尊に帰命いたします。恐るべき大憤怒尊よ。打ち砕きたまえ。フーン、トラット、ハーン、マーン)
この先も長い手順を踏んで、曼荼羅を守護する諸天の加護によって包囲網を完全なものとした。
本来であれば、この先は護摩を焚いて浄化するのがよいのだが、ここではそうもいかない。替わりに、不動明王の中咒を108回唱える。
すると、邪気を抜かれて、気狐は清浄な姿へと戻った。
◇◆◇
那加社長は決断をした。
前から出ていた東京営業部を設ける話を前倒しにして、そのトップに本町専務を据え、遥斗に補佐をさせたのだ。
勤務地が離れて顔を見ることがなくなれば、旭子の心も落ち着くのではないかと考えた末のことだった。
彼女を煽る存在もいなくなったし、これでおそらくは生霊が出ることはなくなるだろう。
そして京華には、少しショックなことがあった。
遥斗の恋人の金髪美女が、仕事も何もかも投げうってアメリカから駆けつけてきたのだ。
さながら、令和版「舞姫」といったところか。
彼女は美しいのみならず、人柄も良く、仕事もできるパーフェクトなレディだった。
京華は逆立ちしてもかないそうもない。
結局、京華の淡い思いは泡沫のごとく消え去った。
彼女は、もともとお調子者で、夢見がちなところがあった。
この際、自分の心の内を見つめる良い機会になったのではないかと凛月は思った。
落ち込んでいる京華に凛月は誘いをかけた。
「うちのお寺で月輪観の教室をやっているんだけど、無料だから来てみない。気持ちが落ち着くよ」
「どんなことをやるの?」
「みんなで般若心経を唱えてから、月をかたどった掛け軸の前で月と一体になることを感じながら瞑想するの」
「えっ! でも私、お経なんて知らないし……」
「そんなの適当よ。雰囲気でむにゃむにゃ言っていればいいのよ」
「へえ。そうなんだ。じゃあ、一度様子を見にいこうかな」
月輪観は、思ったとおり効果があった。
そして京華は、落ち着きを取り戻すことができた。
また、人としても一皮むけて成長できたのかもしれなかった。
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