第7話 ぼくはガラケーです
翌日。
依頼を無事に片づけた俺には、いつもの日常が戻ってきた――ように見えた。
クラスの空気も驚くほど静かで、水槽を壊した件で白い目を向けられることもなかった。矢島と久保田は露骨に俺を避けていたが、それもむしろ好都合。
俺はぼっちだ。嫌われ者のほうが、心地いい。
……そう思っていたのだが。
放課後、掃除当番。
俺は黒板消し担当を押しつけられていた。みんなは雑巾で床を拭いたり、机を運んだり、わいわいとグループで作業している。もちろん、俺に声をかける者はいない。
――が、俺は知っている。黒板消しは、サボり効率が最強だ。
ぱんぱん、と二回窓の外で叩けば、それだけで、仕事をしたことになる。
他のやつらが汗を流して雑巾を絞る横で、俺はひとり涼しい顔。
孤立? いやいや、これはむしろ“労働の最適化だ。
「……貴志くん」
不意に声をかけられて振り向くと、小日向が雑巾を手に立っていた。頬にはうっすら汗。
彼女は俺をじっと見上げて、首をかしげた。
「黒板、もうとっくに綺麗だよ……ちゃんとやってるふり、してない?」
「ふりじゃない。結果がすべてだ。黒板は白い、俺は潔白」
「……屁理屈」
小日向は呆れたようにため息をついた。
「みんな頑張ってるのに……貴志くんだけ楽してるの、不公平だよ」
「不公平じゃない。分業だ。俺は黒板担当、お前は床担当。持ち場を全うしてるだけだ」
「……でも、ほんとはもっと叩けるでしょ? 二回じゃなくて、十回とか」
「それは努力って言うんだ。俺は最適解を選んでる」
「……最低解、の間違いじゃない?」
ぐさり。小さな声なのに妙に響く。俺は黙って黒板消しをもう一度、窓の外で叩いた。
ぱん、ぱん。
小日向は小さく笑った。
「やればできるんだ。……ちょっと安心した」
その笑顔に、不覚にも目を逸らしてしまう。
「別に。証拠作りだ」
そう言いながら、俺は黒板消しを強く握りしめた。
――ほんの数分のやり取りだったのに、不思議と胸の奥にざわめきが残った。
だが、そのざわめきがすぐにかき消される出来事が、このあと待っていた。
掃除を終え帰宅準備をして廊下へ。すると、背後から「貴志くん」と呼ぶ声。振り返らずとも分かる。小日向だ。小走りの足音が近づいてきた。
「……今度はなんだ」
俺は素っ気なく返す。
「ごめん。さっき教室じゃ言えなかったから」
「教室で?」
眉をひそめる俺に、彼女は一瞬迷ったあと、言葉を絞り出した。
「このあいだは……ありがと」
頬をかすかに赤らめ、ぺこりと会釈。怒っている様子はないらしい。安堵したのも束の間、彼女の眉は切なげに下がる。
「でも……ああいうの、もうやめてね。自分を傷つけるの」
「傷ついちゃいない」
即答すると、彼女は目を泳がせ、困ったように視線を落とした。
「……そういう強がりが、一番心配なんだよ」
小さな声は、廊下のざわめきにすぐにかき消されていった。
「悪かった。もし傷つけたなら謝る。けど、もうやるなは聞けない」
「どうして。お金のため?」
「ああ」
「そんなに……欲しいの?」
幻滅した色。カチンと来る。
「勘違いするな。欲しいんじゃない。必要なんだ」
娯楽の小遣いとは違う。生活と、妹の将来がかかってる。必要なら俺は嫌われ役でも悪魔でもやる。白い粉は売らないが。
怯むと思った小日向は、逆に一歩詰めてきた。近い。パーソナルスペースが崩壊する。
「なら……わたし、力になれないかな?」
上目づかい。俺が一歩退く。
「なれないわ」
口が滑った。お姉口調。彼女は吹き出す。
「じゃあな」
離れようとすると、腕をつかまれた。
「ライン、交換しよ?」
「は? なんで」
「なんでって言われると……困る。けど。友だちになりたい、から」
「俺は思わない」
「でも、わたしは思う」
揺れない。八重桜が言っていた。おとなしく見えるけど、芯が強いと。
「小日向。俺、ガラケーだぞ」
「うそ。教えたくないだけでしょ」
面倒だ。ポケットから実物を出して見せる。彼女は目を丸くする。
「うそ、ほんとに……」
「Eメールだ。やり取りする相手なんて母親と妹くらいだし、電話で足りる」
「……友だちとの連絡は?」
「俺が友だちいるように見えるか」
決め顔で言って自分で刺さる。涙が出る。男の子なのに。
「じゃ、番号とアドレス。教えて」
観念して交換した。
「来栖くん。こんなところにいたの」
背後から声。八重桜がこちらへ。小日向は慌ててスマホをしまう。
「二人が一緒は珍しいわね……正確には、来栖くんが誰かと一緒が珍しい、かしら」
「いちいち言い直すな」
「邪魔だったかしら?」
「ううん。大丈夫。今、終わったところ……」
小日向は小声で早口。背を向ける。
「で、用件は」
「喜びなさい。新しいお仕事よ」
笑みが含みを帯びる。嫌な予感より、先に数字が頭をよぎる。これで説得材料が増える。
「じゃあ、詳しく――」
と言いかけて口をつぐむ。八重桜の視線が別方向へ。そちらを見ると、さっき去ったはずの小日向が、背中を向けたまま立ち止まっていた。
「小日向さん。どうしたの? そこで固まって」
声は不思議そう。ただ、顔は、しめしめという感じ。さっき、わざと大きな声を出したな――聞かせるために。
小日向が振り返る。困り顔。目が泳いでいる。
「……そのお仕事、わたしも、入っていい?」
「なぜ?」
「それは……」
詰まる彼女。八重桜の口元がさらに意地悪く、どこか楽しげに上がる。
「もしかして、来栖くんの仕事を横取り?」
「違う、違う。そうじゃない!」
両手をぶんぶん。俺は疑心が芽生える。
「小日向。俺の仕事を狙って――」
「だから違うって!」
「わたし、お金……興味ない」
「ボランティアのつもり? 逆に気持ち悪いわ」
「貧乏人の俺をバカにしてるのか」
「……何言っても、地雷なんだね」
どん引きの顔。なんだ、逆ギレか。
「まあ、いいわ。ついてきなさい、小日向さん」
「ちょ、八重桜。まさか俺の――」
「落ち着きなさい、来栖くん」
視線ひとつで制圧。刃の角度は一定。
「前にも言ったでしょう。わたしの依頼は、あなたにしかできない。根暗で、捻くれて、コミュ症で、ぼっち。人に恨まれても気にしない来栖くん、限定」
「だから言い直すな」
「ただし――小日向さん。ついてくる条件が二つあるわ」
「……なに?」
小日向は息をのむ。八重桜は、ゆっくり指を二本、立てた。
「まず一つ目。守秘義務。依頼の内容は、他者へ一切口外しないこと」
当たり前の条件なのに、小日向の肩がぴくりと上がる。
「……一つ目、守れる?」
「……うん。守る」
「分かったわ。二つ目――こちらが本題」
八重桜は、めずらしく視線を泳がせ、ポケットからスマホを出した。
「連絡先を交換しましょう。電話番号と、LINEも」
「……それが条件?」
「不満?」
「ううん。意外、で」
「どうして? ガラケーの彼とは交換できて、わたしとはできないの?」
強気な口調の奥に、わずかな焦り。こいつ、自分から聞くのは慣れてないらしい。
「……いいよ。ほんと、意外で。八重桜さんみたいに綺麗で友達多い人が、わたしの番号、欲しがるなんて」
小日向が目を伏せる。卑屈な響きに、八重桜の眉がわずかに寄った。
「小日向さん。どうして、わたしに友達が多いと思うのかしら」
「え……。だって……いつも、人が集まってるし……ファンクラブあるって……噂も」
「勘違いよ。集まってくる子たちは友達じゃない。ただの群れ。ファンクラブも同じ。勝手に作って、勝手に騒いでるだけ」
「……え?」
「……え?」
互いの間で空気が噛み合わない。八重桜はあえて無表情を浮かべ、淡々と問いを重ねる。
「では、あなたの定義を教えてちょうだい。“友達”とはなに?」
「……利害関係なしで……信じ合える関係、だと思う……」
小日向は迷わず答える。弱々しい声に、けれど芯はあった。
八重桜の口元に、わずかな笑みが宿る。
「なるほど。立派な理想ね。じゃあ、もう一度聞くわ――あなたは本当に、わたしに友達が多いと思うの?」
小日向の顔に影が差す。言葉が詰まったその瞬間、俺が口を挟んだ。
「悪いが、その議論は空回りだな。小日向。お前の定義は綺麗だが、幻想だ。
友達の始まりなんて、大抵二つしかない。趣味や話が合うか、利害が一致するか。後者は大人になるほど増える。利益が消えれば、誰だって離れる。家族は戸籍で縛られるが、友情はただの服だ。合わなきゃ、脱ぎ捨てる」
「――要するに、そういうこと」
八重桜が冷ややかに追認する。
小日向は黙り込む。寂しさよりも、不満の色が濃い。今にも噛みつきそうな気配。根は弱くない、むしろ意外と強い。
「まあ……それはそれとして。早く交換しましょう、小日向さん」
「……うん」
俺と小日向は紙に番号とアドレスを書いて渡す。八重桜と小日向はQRコードで一瞬。最先端は速い。
交換を終えると、八重桜は何かを思い出したように、唐突に口を開いた。
「あのね、小日向さん。さっき、あなた……自分を地味で取り柄がないって言っていたけど。私はそう思わない。あなたは、まっすぐで優しい……憧れるくらいに」
「え……ええっ……」
小日向の耳が、みるみる赤くなる。視線が、なぜか俺に向けられた。
「貴志くん……どうしよ……」
「どうもしなくていい」
慌てて暴走を止めながら、俺は複雑な思いに沈む。
小日向は優しい。だからこそ、幼い。融通が利かないところがある。
仕事の現場では理不尽が山ほど出る。そのたびに、きっと受け入れられない。……その優しさが、いずれ足を引っ張る日が来るかもしれない。




