第5話 報酬
翌日、十六時。
【キャッツ】のドア札は「CLOSED」に裏返っていた。――また貸切か。余裕があるなら、その分を俺の取り分に回してほしい。ドアベルが鳴ると、いつもの柏木さんが笑顔で迎える。
「来栖くん、いらっしゃい」
常連扱いはまだ慣れない。どうもと会釈して店内へ。窓際のテーブルには、八重桜――と、もう一人。小日向が座っていた。彼女はまん丸の目でこちらを睨んで……いるつもりらしい。パンダ並みに愛嬌が勝ってるけど。
「なんで小日向が」
「この場に欠かせない人材だからよ。座って」
八重桜はブラックを一口、視線だけで席を示す。
「ご注文は?」
「……八重桜。報酬は今日、出るのか」
「ええ。払うわ」
「じゃ、こないだと同じで」
「承知しました」
柏木さんがカウンターへ戻る。八重桜のカップは相変わらずの黒。小日向のカップは――ほぼ白。テーブルにはミルク二つの空、シュガーは四つ消えていた。甘党、確定。もはやカフェオレだ。
「来栖くん。昨日は完璧だったわ。百点」
「それはどうも。じゃ、受け取りを」
「どうぞ」
八重桜が茶封筒を出す。中は一万円札が十三枚。偽札ではない。指先が少し震えた。二か月分の汗が、紙十三枚で置き換わる現実。
「……本当に、いいのか」
「当然よ。あなたはそれだけの痛みを引き受けた」
「誰にでもできるだろ」
「無理。お金を積まれても、普通は評判を手放さない。学校という小さな社会で、空気を壊さないことを選ぶの。あなたは違う――誤解しないで。貧乏だからじゃないわ。性根の問題。遺伝子的に腐ってるの」
親指を立ててくるのはやめろ。褒められてる錯覚を起こす。
「ちょ、ちょっと待って。なに話してるの? それに、なんで八重桜さんが貴志くんにお金を……」
置いてけぼりの小日向が目をぱちくり。頬がうっすら赤い。
「言ってなかったわね。わたしが来栖くんに依頼したの。小日向さんを金魚の世話から解放すること。可能なら、矢島さんと久保田さんに、二度と同じことができない屈辱を与えること。やり方は彼に任せた」
「……じゃあ、昨日の水槽は」
「わざとよ」
小日向の瞳が揺れる。信じられないと零れ、唇が震えた。そりゃそうだ。可愛がっていた金魚だ。ここで火消しするのが普通だが――八重桜は火に油を選ぶ。
「わたしはね、小日向さんが担当外の仕事を背負うのが嫌なの。飼育は矢島さんと久保田さんの役目。それをあなたが引き受けた。しかも率先して」
「……だって。二人、ずっと喧嘩してて……その間に、金魚が死んじゃって。わたしがやらなかったら、全部……」
「いいのよ、死なせておけば」
「……ひどい。命、だよ」
「生き物って、金魚でしょ。大袈裟。来栖くんはあなたの親や友達を殺したわけじゃない。怒りの量、間違えてる」
おい。今、怒られてるのは主にお前の言葉だ。俺は心の中で土下座を準備する。そこへ柏木さんが、いつもの調子で割って入る。
「お待たせしました。ブレンドです。パンケーキは少しお待ちくださいね」
コーヒーの香りが立つ。今日に限って、苦味が一段濃い。気分の問題だろう。
小日向は涙をこらえ、黙って八重桜を見据える。迫力はない。けれど逃げない瞳だ。八重桜は小さく肩をすくめ、前髪を指で払った。
「いやね。わたし、悪役みたいじゃない」
安心しろ。みたいじゃなくて完璧に悪役だ。俺は、ただの小悪にしか見えない。封筒の重みを確かめながら、そう思った。
しばらく無言で睨み合っていたが、八重桜が小さく息を吐いて口を開く。
「小日向さん。学校で飼われる金魚はね、命の大切さを伝える教育用の道具みたいなものなの……『道具』という語はあなたの好みじゃないでしょうけど、学校側の認識は概ねそうよ」
いつになく穏やかな、説明の温度。俺には絶対にしないやつだ。
「正しく世話をすれば長生きする。でも、やり方を誤ったり放棄すれば、すぐに死ぬ。矢島さんと久保田さんも、死んだ金魚を見れば、さすがに心は痛むはず。そこで学ぶの――小まめに世話をしなければ金魚は死ぬ。とても単純で、とても重要なことを」
親が子に言い聞かせるような速度で言葉が置かれる。さっきまで怒りで膨らんでいた小日向の頬が、しゅんとしぼんだ。
「でもね、その学ぶ機会を潰したのは、他ならぬあなたよ。いち早く死に気づき、誰にも相談せず処理した。さらに、その後の世話まで引き受けた。だから二人は死んだことすら知らなかった。結果として、彼女たちの成長は止まり、そして――来栖くんに公開処刑されたの」
正論で刺して、抜かない。さすがに八重桜。怖いわ。
「……そっか。わたし、余計なこと……しちゃったんだね」
小日向は素直に肩を落とす。たれ目がさらに下がって、たれパンダ化が進行している。視線が合う。とっさに目をそらす俺を、彼女はじっと追った。
「……貴志くん」
「なんだ」
「ひとつ、だけ。どうしても気になること。聞いて、いい?」
「ダメだ」
「……うん。じゃあ、言うね」
聞く気ゼロ。ある意味、無敵だな。
「貴志くんは、わたしが金魚の世話をしなくなるなら、成功……だよね。なのに、どうしてあのやり方? 水槽を割ってから、その場に残ったのは、どうして?」
「意味はない」
短く切ると、八重桜がフフ、と口角だけで笑った。
「無理よ、小日向さん。来栖くんが答えるはずないもの」
そう、それでいい――と思ったところで。
「だから、代弁するわ。推測だけど、ほとんど当たってる。来栖くん、聞き流してて」
おい。止めづらいタイミングで爆弾を投げるな。
「もし、誰もいない教室で、割れていたら、まず起こるのは犯人探しね。体育を抜けた来栖くんが濃厚でも、他人が濡れ衣を着る可能性もある。あるいは、自然に落ちたで有耶無耶にされ、水槽は買い替え――現状復帰。これが最悪」
「……たしかに」
「だから、全員が目撃する瞬間に割ったの。視覚と音で強制的に印象づける。その場に残るのは、説明責任の独占のため。片づけようとする手を拒んだのは、罪悪感の割り勘を防ぐためよ」
当てられて、背中に冷や汗。こいつ、どこまで読んでいた。
「……納得、した。すごい、ね」
「推測よ。でも大筋は合ってるわよね、来栖くん?」
「さあな」
知らぬ存ぜぬは基本戦術だ。
「……あ、もうひとつ」
小日向はカップを置き、首を傾げる。
「どうして、掃除を手伝わせてくれなかったの? お墓も、作らせてくれなかった」
八重桜と目が合う。彼女は愉快そうに、でもどこか嬉しそうに笑った。
「バレると困るから、よ」
「おい、八重桜。それは言うな」
「言うわ。あの金魚は、おもちゃだったの」
「……え?」
小日向の丸い目がさらに丸くなる。視線が俺へ刺さる。窓の外を見る。雲がやけに白い。
「作戦は遂行する。でも、無関係の命は殺さない。来栖くんは生きている金魚を事前に避難させて、割る直前におもちゃを置いた。誰も近づかない前提だったから、ばれない計算。お墓を作ろう、という人が現れるのは誤算。わたしもね、来栖くんがそこまで細工してまで助けるとは思ってなかった」
八重桜が肩をすくめる。思い出し笑いが小さく漏れた。
「……じゃあ、貴志くんは」
「金魚を殺していない。どこへ移したかは知らないけれど」
「……よかった」
小日向の顔がぱっと明るくなる。さっきまでの刺々しさが抜け、店内の空気が少し柔らかくなった。こういう空気は苦手だ。慣れていない。
「パンケーキお待たせしました」
絶妙のタイミングで柏木さん。俺は無言でフォークを入れる。早く食べて、早く帰ろう。
「……貴志くん」
呼ばれて顔を上げる。心臓がうるさい。
「ありがと。……わたしだけじゃなくて、金魚も、助けてくれて」
「別に。金のためだ」
素っ気なく返して、皿へ視線を落とす。手の震えはフォークのせいにした。
同級生に感謝され、笑いかけられるなんて、俺の人生にほとんどなかったイベントだ。今の俺には、刺激が強すぎる。




