第33話 シャッターチャンス
「悪い、小日向。これは藍染には黙っていたかった話しかもしれないが、この際だから言わせてもらう」
俺は静かに口を開いた。胸の奥で迷いが燻っていたが、もう隠してはいけないと思った。
「藍染。お前、この前“軽音楽部には誰も入部しない、って言ってただろ。でも、実際は違うんだ」
「えっ……?」
藍染の目が揺れ、小日向は一瞬だけ俺を見て、言葉を止めて欲しそうに眉を寄せる。でも、俺は続けた。
「軽音楽部は今、入部募集をかけていない」
「どうして……? 募集かけないと……部がなくなるんじゃ……」
藍染は素直に不安を口にする。
俺は息を整え、真っ直ぐに告げた。
「そうだ。小日向の代で終わるかもしれない。それでも――部は、お前が戻ってくることを信じてた。存続よりも、藍染、お前と一緒にやりたいってな」
その瞬間、小日向が小さく息を呑む。
俯いた横顔には、止めたかった、でも本心では聞いて欲しかった――そんな複雑な思いがにじんでいた。静けさを帯びた瞳が、藍染にそっと向けられる。
「……桃ちゃん。私ね、ずっと……待ってたんだよ。戻ってきてくれるって」
言葉は抑えめなのに、熱は確かに宿っている。
藍染は目を見開き、それからふっと笑った。張り詰めていた糸が切れ、憑き物が落ちたように、柔らかい笑みが顔に広がっていく。冬の青空のように澄んだ表情だった。
「……そうなんだ。私、信じてもらえてたんだね」
小さな声だったが、どこか嬉しそうで、優しかった。
俺はその横顔を見つめながら、胸が少し熱くなっていた。
こいつらはもう、俺の言葉なんかなくても繋がってる。なのに、俺はただ心配して、空回りして――でも、二人の笑顔を見ていると、それでも良かったんだと思えた。守りたいって気持ちは、間違ってなかったんだ。
「良かった。これで来年以降、最悪二人でも活動出来るね。部活としては残らないかもしれないけど……私、それでも構わないよ」
小日向は少し不器用な調子で微笑む。
「……みかんは一人でも大丈夫でしょ。ギターだし、ソロでも――」
藍染が照れ隠しのように笑って言う。
「……桃ちゃん。それ、嫌がらせ?」
小日向はむっとした顔で返し、二人の間に小さな笑いが生まれる。
「ごめん、ごめん。悪かったわ」
藍染は苦笑して頭を掻く。そのやり取りを見て、俺は首を傾げた。なんの話だ? と思ったが、まあ、今は口を挟むまい。
けれど八重桜は違った。逃さず問いを突きつける。
「なに。小日向さんはソロ活動が嫌なのかしら?」
その一言に、小日向は肩をすくめ、気まずそうに視線を逸らした。答えを出せずに沈黙が広がる。堪えきれなくなった藍染が助け船を出すように、小さく咳払いした。
「……その、みかんはあんまり歌、上手くないのよ」
「なんだ。音痴なのか?」
俺が突っ込むと、途端に小日向の顔色が変わり、目を大きく見開いて俺を指差した。
「音痴じゃない! 歌が上手くないだけだよ!」
必死の否定に、逆に確信が強まる……どう考えても、それはほとんど同じ意味だろ。ここまでムキになるってことは、相当なんだろうな。
場の空気が和み、藍染はついに肩の力を抜いたように笑い出した。
その笑みは、吹っ切れた人間だけが持つ優しさに満ちている。小日向もまた、頬を赤らめつつも楽しそうに笑い返していた。
俺はその姿を見ながら、胸の奥が温かくなっていた。
――ああ、やっとだ。ここまで険悪になっても、二人は結局、笑い合える関係に戻れるんだ。そう思うと、これまで必死に間に立って守ろうとした自分が、少し報われた気がした。
そんな俺の横で、八重桜は静かに二人を見つめていた。
いつもの皮肉めいた顔ではなく、珍しく目を細めて、柔らかい笑みを浮かべている。まるで、母親が子どもの成長を見守るような眼差しだった。
――こんな優しい顔で笑えるんだな、こいつ。
「な、なにかしら」
「いや、別に」
一瞬、目が合った途端、八重桜はほんのわずかに躊躇するように視線を逸らした。その刹那の揺らぎを、俺は見逃さなかった。だが次の瞬間には、もういつもの冷静な仮面をかぶり直していた。
そんな時、藍染が小日向との会話を切り上げ、こちらへ歩み寄ってくる。足取りは軽く、先ほどまでの重苦しい雰囲気が嘘のようだった。
「ごめんね。今まで意地悪して……たぶんね、私、ヤキモチ焼いてたのかもしれない。あなたとみかんが仲良しだから……でも驚いたわよ。みかんが、学年一の美人って呼ばれる八重桜さんと、そんなに親しかったなんて」
藍染は少し照れたように笑いながら、近くにいた小日向へ視線を振る。
しかし当の小日向は、きょとんと首を傾げていた。
「えっ? なんの話?」
「なんの話って……あなた達、生徒手帳にお互いの写真を入れ合ってるんでしょ?」
「写真……?」
さらに小日向はぽかんと口を開け、首を傾げた。
その様子に反して、八重桜の表情は一瞬で凍り付いた。いつもなら氷のように冷静な顔なのに、この時ばかりは完全に動揺し、バッと藍染の胸倉を掴み上げる。
「あなた……それ、なんの嫌がらせ?」
「えっ! な、なに? 私、まずいこと言った? だって……八重桜さんが、生徒手帳にみかんの写真を入れてるって――あ、あれ……言っちゃいけないやつだった?」
藍染は胸倉を掴まれて狼狽え、テンパった勢いで余計なことを口にする。その瞬間、八重桜の顔はさらに引きつり、藍染は墓穴を掘るように続けてしまった。
「ち、違うのよ小日向さん! 私、別に……小日向さんの写真を使って、い、いかがわしいことなんてしてないから!」
……完全にアウトだ。藍染は必死に弁明しているつもりだが、むしろ逆効果でしかない。その場にいた俺も思わず頭を抱えそうになった。藍染は呆れたようにドン引きし、小日向は事態を全く飲み込めずに、ただ目をぱちくりさせていた。
――空気が一瞬にして凍り付いた。
「八重桜さん。なんだかよくわからないけど、一緒に写真撮らない?」
「えっ?」
思いがけない小日向の提案に、八重桜は目を瞬かせて間の抜けた声を漏らした。
「生徒手帳に写真を入れてくれるなら、二人で撮った写真にしようよ。私も八重桜さんと撮った写真欲しいし。ずっと、八重桜さんとは友達になりたいと思っていたから」
「友達……」
その一言を噛みしめるように、八重桜の唇が震える。小日向が「あっ、ごめん。迷惑だったよね。私みたいな奴」としょんぼり肩を落とした瞬間、八重桜は慌てて首を振った。
「とんでもないわ! 友達になりましょう。むしろ、いつでも親友。いえ、恋人にランクアップしてもらっても構わないわ」
前のめり気味に言い切った八重桜に、小日向は「八重桜さん、面白いこと言うね」と吹き出したように笑う。
――ああ、そっか。小日向は全部、冗談だと思っているのか。八重桜の必死さが伝わらないのは、ある意味、彼女の救いかもしれない。
「いいわね。じゃあ、八重桜さん。スマホ貸してよ。私が撮ってあげる」
藍染が失態を挽回するかのように率先して声を上げる。八重桜は素直にスマホを渡した。
「あれ。セキュリティかかってる」
「0718よ」
「えっ、それ言っちゃうんだ……八重桜さん、ほんと面白いね」
藍染は引きつった笑みを浮かべる。内心「面白い」で片付けていいものか葛藤している顔だ。
「0718って……八重桜さんの誕生日かなにか?」
小日向が小首を傾げて問う。
「ええ、そうよ」
「じゃあもうすぐだね! 今度プレゼントさせてよ。八重桜さんにはいろいろお世話になってるし。なにか欲しいものある?」
間髪入れず、八重桜は艶やかに微笑んだ。
「あなたが欲しいわ」
「あははは。八重桜さん、本当に面白いね」
――小日向はまだ冗談扱い。だが、八重桜の瞳は冗談ではなかった。
その落差に気づく俺は、思わず胸の奥でざわつく。笑い飛ばしてくれる小日向に救われている一方で、八重桜の真剣さが空振りする様はどこか痛々しい。
藍染は気を利かせ、噴水をバックに構える。俺もその場を離れようとしたところで――。
「来栖くん。あなたもいらっしゃい」
八重桜が手招きする。
「お前……八重桜か?」
「なにを訳の分からないこと言ってるのかしら?」
いやいや、せっかくの小日向との2ショットの機会に俺を混ぜる意味が分からない。むしろ、小日向が空気を読まず「貴志君も一緒に」と言って八重桜が止める展開の方が自然だろうに。
「小日向さんも、構わないわよね?」
「えっ、うん……構わないよ」
小日向はちらりと俺を見てから、恥ずかしそうに目を逸らした。その仕草だけで心臓を掴まれるような感覚になる。
「来栖。もう、いいから入っちゃいなよ」
藍染に背中を押され、逃げ場をなくして歩み寄る。小日向が真ん中、俺と八重桜が左右。藍染の「はい撮るよー」の声とともにシャッターが切られた。
その直後――。
「ふふ……これで三人のスリーショット完成ね。あとは……夜にでも撮り直しましょうか。もっと濃厚な構図で」
……やっぱり、こいつは頭ぶっとんでる。けれど、その真っ直ぐすぎる気持ちが滑稽で、同時に羨ましくもあった。
小日向は意味がわからず、ポカンとしたままだからセーフだが、俺だけは気づいている。八重桜は本当に壊れてる。でも、それ以上に必死なんだ。小日向を想う気持ちが、理性を押し流している。
そして俺自身も、胸の奥で複雑な感情が渦巻いていた。ただ――笑っている小日向を見ているだけで、それで十分だと思ってしまう自分がいる。欲張らず、ただその笑顔を守れたら、それでいい。
その時、ふと小日向がチラリと俺を見つめてきた。
「……来栖くん」
唇が小さく動く。けれど、その先の言葉は声にならなかった。
小日向はほんの少しだけ迷ったように口を噤み、代わりに微笑を浮かべる。
その笑顔がなにを意味するのか、俺にはわからない。
ただ、胸の奥に妙なざわめきだけが残った。




