第31話 狂気
「あら。来栖くん、女の子を泣かせてはならないわよ」
肩越しに冷たい鈴の音みたいな声。
振り向くと、木漏れ日を背に八重桜が立っていた。風に前髪がさらりと流れ、目だけが笑わない。隣には小日向――心配と緊張が混ざった顔で、胸の前で指をぎゅっと絡めている。
藍染ははっとして俺の胸倉から手を離し、袖口で慌てて涙を拭った。睫毛に残った雫が一粒、芝に落ちる。噴水の霧が陽に虹を描き、鳩が二、三歩だけ距離を取った。
「なんで、ここにいるんだ?」
俺は八重桜に視線を向ける。
「なんでって、あなたと藍染さんがここにいるからに決まっているでしょ……理由が欲しいなら朝、あなたが藍染さんの下駄箱に手紙を入れるのを見たの。中身を読んで、元に戻しておいたから安心して」
「どこが安心だよ……」
胃のあたりがきゅっと縮む。よりにもよって、このタイミング。最後の一押しの直前に観客が増えたら、舞台は別の芝居になる。
小日向が一歩、俺の前へ。頬は少し紅いのに、目はまっすぐだ。
「貴志くん……一体、桃ちゃんになにしたの?」
眉をきゅっと寄せ、俺と藍染を交互に見比べる。声は責めているのに、視線の端は藍染の震える肩を心配していた。
藍染は顎を引き、悔しさを隠すみたいに口を結ぶ。強がりの膜の下で、呼吸はまだ浅い。
――会話の中身までは拾われていない。噴水の音と、人の往来がうまく遮音になってくれたか。助かった。
「別に泣かせたわけじゃない。ただ――」
「言い訳は三行以内でお願い、それ以上は文学、今は要らないわ」
いつも通りの毒舌。さっきまで張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ緩む。戻ってきたな、こいつの温度。
風が通り、梢がざわめく。俺は心の中で段取りを組み替える。
真実は増やさない。涙は増やさない。必要なのは、写真一枚と、最低限の出口だけだ。
「いや、なんでもないんだ」
本当は山ほどある。けど、これは絶対に小日向に知られちゃいけない。写真を取り返すだけの話じゃない。知った瞬間、あいつの人を信じる力にヒビが入る。最悪、二度と直らない――それだけはダメだ。
金は欲しい。喉から手が出るほど。けど、俺の稼ぎ方で小日向を傷つけるくらいなら、報酬なんて燃やして灰にする。俺は綺麗な人間じゃないし、正義の味方でもない。嫌われ役も、汚れ仕事も飲み込める。ただ一つ、自分で引いた線は踏み越えない。誰かを救うための嘘ならつく。誰かを折る真実なら、闇に埋める。
だからこの件は、八重桜にも言わない。あいつの理屈は鋭すぎて、時々真実を武器に変えてしまうから。俺は上手く抱きしめることも、優しい言葉を並べることもできない。代わりに、矢面に立つくらいはできる。悪役は俺でいい。あいつの視界に、余計な傷だけは映さない。
「藍染。あのことは、誰にも言わない。約束する。だから――今度でいい、あれを返してくれ」
耳元で落とした声に、すぐ横から影がのぞき込む。
「なに、話してるの……貴志くん」
小日向はフードの紐を指先でいじりながら、そっと俺と藍染のあいだを見比べる。伏し目がちのまま、静かなトーンで。
「桃ちゃん。もし貴志くんに意地悪されたら……私、ちゃんと言うから。ボコボコにはできないけど……ちゃんと守るから」
俺、何もしてないのにこの言われよう。まあ、誤解のままの方が今は都合がいい。
「ねぇ、みかん。私が軽音に戻ったら、嬉しい?」
唐突なカムバック宣言。小日向はぱちりと瞬いて――すぐ、頬を赤く染めて目を輝かせた。
「嬉しいよ。ずっと、待ってた……私だけじゃなくて、先輩たちも」
無邪気な笑顔に、藍染は視線を落とし、肩を震わせる。「うっ……うっ……」と嗚咽。
よし、このまま抱き寄せて終われ。写真はあとで回収すれば――と、八重桜に目で合図するが、あいつは怪訝そうに眉を寄せたまま、藍染を観察している。
なんだ、その顔は?
嫌な予感が背を撫でた。
「うっ、うっ……あ、はははははっ」
嗚咽の直後、甲高い笑いが弾ける。見上げた藍染の口元は、さっきまでの半泣きと別人のように吊り上がっていた。
それは深い憎悪で濡れた目。
「ほんと、バカね。みかん。何も知らないで」
まずい。割って入ろうと一歩踏み出すが、一足遅かった。
「このあいだの演奏会。あんたのギターをいじったのも、スピーカー壊したのも、全部、私」
「藍染、落ち着け! なにをいってるんだ!」
肩を掴んで止めに入る。まだやり直せる。今のはカッとなって吐いた虚言だ、そう塗り直せばまだ間に合う。
「来栖。もう、いいの……むしろ、ありがとう。私、みかんがずっとこんな調子だったら、いつかはこの真実を言うつもりだった」
藍染は弱々しく笑って、俺の手をそっと肩から払いのけた。濡れた睫毛が光り、指先はショルダーのベルトを白くなるほど握りしめている。小日向はぽかんと口を小さく開け、状況を掴みきれないまままばたきだけを繰り返した。
「みかん。あんたは――そりゃあ、楽しそうに軽音にいたでしょうね。でも、私は苦痛でしかなかった。文化祭のあと、あんたは持ち上げられた。私は違った。あんたが上手すぎるから、私は陰で貶された。いっそ正面から言ってくれた方がよかったわ。その場で殴れたから」
吐き出すたび、藍染の声に棘が増える。
肩は弓の弦みたいに張りつめ、噛みしめた奥歯が頬に浮いた。あふれてきた黒いものが、ようやく出口を見つけたという顔だ。もう俺の言葉じゃ止まらない。
俺は小日向の横顔から目を逸らす――守りたいのに、今は盾になれる言葉が見つからない。
「それでも諦めなかった。見返してやるって、死ぬ気で練習した……でも、ダメだった。どれだけやっても、あんたに追いつけない。だから、思いついたの。全部、壊せばいいって。演奏会で、みかんに恥をかかせてやろうって」
憎しみに染まった眼差しが、小日向を刺す。藍染の爪が掌をえぐるほど食い込み、肩で息をしていた。
「わかる? みかん。私、あんたの――その、自覚のない優しさが、昔から大っ嫌いだったの!」
最後の一撃は、ナイフみたいに空気を裂いた。
終わった――。
胸の内でそう呟く。藍染の気持ちは、わかる。わかるからこそ苦い。けれど小日向は悪くない。無邪気で、まっすぐで、誰かを貶める計算なんて知らない子だ。藍染、お前だって本当はわかってるはずだ……そう思う一方で、俺自身も同罪だと自嘲が刺す。小日向を守るためだと信じて、くだらない嘘で距離を取ろうとした俺がいま何を言える。




