第28話 八重桜の怒り
「なによ、みかん。あなたには関係ないでしょう」
藍染は視線だけで切りつける。声量は上げない。抑えた低さが逆に鋭い。教室のざわめきが一拍、吸い込まれた。蛍光灯の白が、黒板の粉っぽさを強調する。
「関係あるよ。桃ちゃん、八重桜さんが嫌がることしてたでしょ」
小日向は一歩、前へ。胸の前でそっと指を組む。柔らかな仕草なのに、瞳の芯は揺れない。
「だから、あんたに関係ないでしょ!」
藍染の声が跳ね、教室の空気が一段冷える。
雑談のざわめきが吸い込まれ、視線が一斉に突き刺さった。背中がむず痒い。群衆の好奇心ってやつは、いつだってガソリンだ。
「ちょっと、桃花。まずいって」
取り巻きが袖を引くが、藍染は止まらない。まぶた一枚も揺れない顔で、わざと教室中に届く音量に上げる。
「てかさ、みかん。あんた最近、調子乗ってるじゃない。前は休み時間ずっと一人で金魚の水槽替えてたくせに。来栖に助けてもらってから、出しゃばるようになったわね」
「別に出しゃばってるつもりはないよ」
「出しゃばってるでしょ……どうせ好きなんでしょ、この来栖って男のこと」
パチン、とクラスのどこかでシャープペンの芯が折れた音した。
「ちょっと、藍染! ふざけたこと抜かすんじゃないわよ」
離れていた八神がたまらず、前に出てくる。今にも胸ぐらを掴みそうだ。
「ふざけてないわ。最初にちょっかい出してきたのは、みかんの方でしょ」
「それは、あんたが八重桜さんを無理強いするからでしょ—」
「無理強いなんてしてない! お願いしたの……ね、八重桜さん?」
藍染がすっと顎を向ける。
俺も無意識に息を呑んだ。ここで否定が入れば一気に消火できる……のに。
「ええ。そうね」
八重桜は頷いていた。表情は氷のまま、睫毛だけが影を作る。そして、八神と小日向へ冷静に視線を移す。
「小日向さん、八神さん。あなた達、なにを勘違いしているのかしら」
……嘘だろ。ここで藍染の肩を持つ? 写真を握られてるからか。
胃のあたりがすっと冷えた。俺の知ってる八重桜は、たとえ自分が不利でも小日向が矢面に立てば、毒舌の一つや二つ——場合によってはハイキックまで飛ばすやつだ。誰にも見せない不器用な一途さがあって、他人には氷点下でも小日向の前では時々ネジが一本抜ける。そういうところが、意外と——嫌いじゃなかった。
なのに、なんでだよ。
「八重桜さん。あんた、小日向がせっかく守ってやったって言うのに」
八神の声は震えていた。噛み殺した怒りが滲む。
「八神さん。それは有難迷惑ってものよ。私は誰も守って欲しいなんて頼んでいないわ」
淡々。溜息一つ。視線は少しも揺れない。冷たい言葉が教室の床を滑っていく。
胸の内側で、何かがガリッと削れた。見たくなかった瞬間を、正面から見せられた感じだ。
「綾、ありがとう。もう、大丈夫だから」
俯いていた小日向が、ぎこちなく顔を上げる。頬がまだ赤い。
「ごめんね。八重桜さん。余計なことして」
ぺこり、と頭を下げる小日向。——けれど八重桜は、返事をしない。目も合わせない。
その無視が、いちばん痛かった。
俺の中の『こうあって欲しい八重桜』が、ばきっと音を立てて剥がれ落ちる。
幻滅――って言葉が、こんなに生々しい温度で喉に引っかかるとは思わなかった。
「てかさ、みかん。あんた、まだ軽音楽部にいるの?」
空気を切るような藍染の一言。
「うん。いるよ」
小日向の返事はまっすぐだった。藍染が一瞬だけ目を泳がせ、すぐ鼻で笑う。
「入部希望ゼロなんでしょ。悪いこと言わない、やめなさい。こないだの演奏会も散々。三年抜けたら廃部よ。あんたの腕なら、こんな学内お遊戯会じゃなくて外でも通用するでしょ」
「桃ちゃん。それでも私は……この学校で音楽をやりたいの」
視線と視線が真っ向からぶつかる。そこでチャイム。
「ふん、バカね。その頑固さ、必ず後悔するわよ」
捨て台詞を置いて藍染は出ていく。
情報は取れた。が、胃には妙な苦みが残った。
「八重桜さん」
ざわめきが薄れる中、八神が机際に立つ。眉間はきゅっと寄り、怒りで赤いのか、悔しさで滲んでいるのか、頬が少しだけ火照って見えた。
「私ね、あなたと友達になりたいと思ってた。最初は、美人だけど愛想なくて可愛げゼロ。つまらない人って決めつけてた。でもサッカー部のときのあなたは本当に格好よかった。同じ女として尊敬した。なにより……みかんの前で見せる、あの優しい顔が好きだった。だから、絶対いい人だって思ってた」
「八神さん。それは買い被り過ぎ。私は悪い人間よ」
淡白な一刀。
「……残念よ」
八神の目からさっと光が引く。噛みしめた奥歯で頬が強張り、肩がすとんと落ちた。小さく息を吐き、伏し目のまま席へ戻っていく背中が、やけに細く見える。
俺も席に引き上げようとしたところで、腕を掴まれる、いや、正確には絞られた。腱がきしむほどの圧。めちゃくちゃ、痛い。
見下ろせば、八重桜。白い指、薄い青筋、きれいに塗られた爪。目は笑っていないどころか、獣みたいに血走っている。
「来栖くん。写真はもういいわ」
吐き捨てるような囁き。続けざまに、鋭く。
「先に藍染を叩き潰す。あの団子頭、まるごとむしり取ってやるわ」
毒が、いつもの温度に戻っていた。皮肉で、冷酷で、容赦がない。
さっきの無表情の氷像じゃない。内側でちゃんと煮えたぎっている八重桜だ。
胸の奥の棘が、少しだけ抜けた気がした。
「……了解。段取りは任せろ」
俺が低く返すと、彼女はやっと指を離す。残った指痕がじんじん痛む。
でも、今はその痛みが、妙に心地いい。




