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来栖貴志くんは嫌われ者です  作者: 結城智
第3章 軽音楽の謎を追及せよ!
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第28話 八重桜の怒り

「なによ、みかん。あなたには関係ないでしょう」


 藍染は視線だけで切りつける。声量は上げない。抑えた低さが逆に鋭い。教室のざわめきが一拍、吸い込まれた。蛍光灯の白が、黒板の粉っぽさを強調する。


「関係あるよ。桃ちゃん、八重桜さんが嫌がることしてたでしょ」


 小日向は一歩、前へ。胸の前でそっと指を組む。柔らかな仕草なのに、瞳の芯は揺れない。


「だから、あんたに関係ないでしょ!」


 藍染の声が跳ね、教室の空気が一段冷える。

 雑談のざわめきが吸い込まれ、視線が一斉に突き刺さった。背中がむず痒い。群衆の好奇心ってやつは、いつだってガソリンだ。


「ちょっと、桃花。まずいって」


 取り巻きが袖を引くが、藍染は止まらない。まぶた一枚も揺れない顔で、わざと教室中に届く音量に上げる。


「てかさ、みかん。あんた最近、調子乗ってるじゃない。前は休み時間ずっと一人で金魚の水槽替えてたくせに。来栖に助けてもらってから、出しゃばるようになったわね」

「別に出しゃばってるつもりはないよ」

「出しゃばってるでしょ……どうせ好きなんでしょ、この来栖って男のこと」


 パチン、とクラスのどこかでシャープペンの芯が折れた音した。


「ちょっと、藍染! ふざけたこと抜かすんじゃないわよ」


 離れていた八神がたまらず、前に出てくる。今にも胸ぐらを掴みそうだ。


「ふざけてないわ。最初にちょっかい出してきたのは、みかんの方でしょ」

「それは、あんたが八重桜さんを無理強いするからでしょ—」

「無理強いなんてしてない! お願いしたの……ね、八重桜さん?」


 藍染がすっと顎を向ける。

 俺も無意識に息を呑んだ。ここで否定が入れば一気に消火できる……のに。


「ええ。そうね」


 八重桜は頷いていた。表情は氷のまま、睫毛だけが影を作る。そして、八神と小日向へ冷静に視線を移す。


「小日向さん、八神さん。あなた達、なにを勘違いしているのかしら」


 ……嘘だろ。ここで藍染の肩を持つ? 写真を握られてるからか。

 胃のあたりがすっと冷えた。俺の知ってる八重桜は、たとえ自分が不利でも小日向が矢面に立てば、毒舌の一つや二つ——場合によってはハイキックまで飛ばすやつだ。誰にも見せない不器用な一途さがあって、他人には氷点下でも小日向の前では時々ネジが一本抜ける。そういうところが、意外と——嫌いじゃなかった。


 なのに、なんでだよ。


「八重桜さん。あんた、小日向がせっかく守ってやったって言うのに」


 八神の声は震えていた。噛み殺した怒りが滲む。


「八神さん。それは有難迷惑ってものよ。私は誰も守って欲しいなんて頼んでいないわ」


 淡々。溜息一つ。視線は少しも揺れない。冷たい言葉が教室の床を滑っていく。

 胸の内側で、何かがガリッと削れた。見たくなかった瞬間を、正面から見せられた感じだ。


「綾、ありがとう。もう、大丈夫だから」


 俯いていた小日向が、ぎこちなく顔を上げる。頬がまだ赤い。


「ごめんね。八重桜さん。余計なことして」


 ぺこり、と頭を下げる小日向。——けれど八重桜は、返事をしない。目も合わせない。

 その無視が、いちばん痛かった。


 俺の中の『こうあって欲しい八重桜』が、ばきっと音を立てて剥がれ落ちる。

 幻滅――って言葉が、こんなに生々しい温度で喉に引っかかるとは思わなかった。


「てかさ、みかん。あんた、まだ軽音楽部にいるの?」


 空気を切るような藍染の一言。


「うん。いるよ」


 小日向の返事はまっすぐだった。藍染が一瞬だけ目を泳がせ、すぐ鼻で笑う。


「入部希望ゼロなんでしょ。悪いこと言わない、やめなさい。こないだの演奏会も散々。三年抜けたら廃部よ。あんたの腕なら、こんな学内お遊戯会じゃなくて外でも通用するでしょ」

「桃ちゃん。それでも私は……この学校で音楽をやりたいの」


 視線と視線が真っ向からぶつかる。そこでチャイム。


「ふん、バカね。その頑固さ、必ず後悔するわよ」


 捨て台詞を置いて藍染は出ていく。

 情報は取れた。が、胃には妙な苦みが残った。


「八重桜さん」


 ざわめきが薄れる中、八神が机際に立つ。眉間はきゅっと寄り、怒りで赤いのか、悔しさで滲んでいるのか、頬が少しだけ火照って見えた。


「私ね、あなたと友達になりたいと思ってた。最初は、美人だけど愛想なくて可愛げゼロ。つまらない人って決めつけてた。でもサッカー部のときのあなたは本当に格好よかった。同じ女として尊敬した。なにより……みかんの前で見せる、あの優しい顔が好きだった。だから、絶対いい人だって思ってた」

「八神さん。それは買い被り過ぎ。私は悪い人間よ」


 淡白な一刀。


「……残念よ」


 八神の目からさっと光が引く。噛みしめた奥歯で頬が強張り、肩がすとんと落ちた。小さく息を吐き、伏し目のまま席へ戻っていく背中が、やけに細く見える。


 俺も席に引き上げようとしたところで、腕を掴まれる、いや、正確には絞られた。腱がきしむほどの圧。めちゃくちゃ、痛い。


 見下ろせば、八重桜。白い指、薄い青筋、きれいに塗られた爪。目は笑っていないどころか、獣みたいに血走っている。


「来栖くん。写真はもういいわ」


 吐き捨てるような囁き。続けざまに、鋭く。


「先に藍染を叩き潰す。あの団子頭、まるごとむしり取ってやるわ」


 毒が、いつもの温度に戻っていた。皮肉で、冷酷で、容赦がない。

 さっきの無表情の氷像じゃない。内側でちゃんと煮えたぎっている八重桜だ。

 胸の奥の棘が、少しだけ抜けた気がした。


「……了解。段取りは任せろ」


 俺が低く返すと、彼女はやっと指を離す。残った指痕がじんじん痛む。

 でも、今はその痛みが、妙に心地いい。

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