第26話 人質
私ね、いま少々よろしくない相手に脅されているの。名前は藍染桃花。二年A組、おだんご頭がトレードマーク。顔はまあまあ、声はでかい、交友関係は広い――つまり、うるさいタイプよ。私が女の子にちやほやされるのが癇に障るらしくて、前から何かと絡んでくる。「可愛い顔ってだけで調子に乗ってると、そのうちファンクラブなんて消えるわよ」って。ご忠告ありがとう、って感じ。鏡に言ってなさい。
ふだんは雑音として処理していたんだけど、今回は少し事情が違うの。私、生徒手帳をうっかり落としたのよ。そこへ藍染さんがニコニコでご登場。いつも悪態しか吐かない人間が満面の笑みで手帳を差し出してきた時点で、嫌な予感しかしなかったわ。
案の定よ。
「八重桜さん、あなた――みかんのこと、好きなの?」
って。
心臓が一回、礼儀正しく停止したわ。理由は明白。私の生徒手帳には小日向さんの写真が入っていたの。苦労して手に入れた、私の宝物。
ええ、来栖くん、その引き気味の顔、やめてくれる?
好きな子の写真を手帳に入れるのは、人として自然な営みよ。非常に健全。問題は、健全な私の秘蔵が、彼女の手に渡ったこと。
で、写真は奪われた。人質よ。これから彼女はそれを盾に、私にあれこれ命令してくるはず。私は彼女の犬よ。写真を人質にされたら、私は彼女の足も舐める覚悟――でも、できれば、そうはなりたくないわね。
来栖くん、あなたにお願いは二つ。
一つ。藍染桃花から私の写真を無傷で奪い返して。データでもコピーでもなく、元本。わかるわね。
二つ。彼女が二度と同じ真似をしようと思わないくらい、きっちり天誅を。社会的に、合法的に、効果的に。噂ひとつの置き方、視線の外し方、タイミングの潰し方――その辺りはあなたの得意分野でしょう?
報酬は相場でいいわ。成功したら上乗せ、失敗したら……そうね、罰金百万円で。冗談よ。たぶん。さて、来栖くん――あなたの出番。
「……というわけ。お願い出来るかしら?」
「報酬は?」
まずはそこからだ。善意はタダじゃない。俺のは特に。
「そうね。あれは私の宝物だし、十万は約束するわ」
初手十万。強すぎるカードをいきなり切ってきやがった。二、三万から釣り上げるつもりで舌を湿らせていた俺の交渉術は、開幕で役目を終えたらしい。
「その額で問題ない。やり方は、俺に一任ということで」
「ええ、もちろん。期待しているわ、来栖くん」
八重桜は涼しい横顔で頷く。指先で髪を払う仕草までいちいち絵になるのが腹立たしい。ともあれ、契約成立。俺の脳内家計簿に十万の仮入金が走る。
「ねぇ、琴音ちゃん。その報酬って、お金以外はダメなの?」
横から彩空。勘弁してくれ。いま繊細な財務の話を――。
「お金以外? たとえば、なにが欲しいのかしら?」
八重桜が、面白い玩具を見つけた猫みたいに目を細める。
「友達」
想定外の単語に、俺と八重桜が同時に固まった。彩空は真顔だ。スマイルを封印した、相談員モードのやつ。
「彩空。お前はなにを言ってる」
「お兄ちゃんの友達。琴音ちゃんがなってください」
「……理由、聞いてもいいかしら?」
「だってお兄ちゃん、どうせ学校でボッチでしょ。みかんさんは優しいから、友達って言ってくれてるけど、あれ情でしょ。情はいつか切れるの。だったら、切れにくい契約を結ぶのが家族の務めです」
言いながら、彩空はちゃぶ台の上で指をトントン。交渉人の目つきだ。やめろ、妹に合理化される兄の孤独ほど恥ずかしいものはない。
「ええ。捨てられるわね。むしろ早く捨てられてほしいわ」
八重桜、毒舌が過ぎる。相変わらず直球で心臓を刺してくるタイプ。
「ただし――」
彼女は顎に指を添え、わざとらしく考える間を置いた。
「友達って、どの等級? 顔見知り、昼休み同席、下僕――あら、ごめんなさい、口が滑ったわ。最低限の定義が要るのよ」
「放課後に声をかけ合うくらい。困ったら助けるくらい。あと、お兄ちゃんが孤立してたら、たまに横に立ってくれるくらい。高望みはしない」
彩空はきっぱり言い切る。俺の尊厳がコンビニの袋みたいにカサカサ鳴った。
「うん。現金十万+友達(下限保証)。パッケージ契約ね」
「下限保証って言い方やめろ」
「じゃ、こうしましょう。依頼が成功したら十万。おまけに、最低限の友達くらいは、契約上お付き合いしてあげる。失敗したら……あなた、床を舐めなさい。彩空に嫌われるから」
「あははは。床舐めるくらいじゃ、嫌いにならないよ」
「あなたの兄愛、とてつもないわね」
「だからね、琴音ちゃん。お・ね・が・い」
彩空がウィンクして、胸の前で指をちょんと合わせる。あざとさ全開だ。
「八重桜。どうした? 妹に気を遣わず却下してくれ」
俺が促すと、八重桜は横目で一瞥し、髪を指でくるくる。
「いえね。私だって、あなたの友達になるの、やぶさかではないのよ」
わずかに目が泳ぐ。
……まさか俺に気が――。
「だって、あなたと友達になっておけば、小日向さんに自然に近付けるし、面倒な女の子も寄って来にくい。私にメリット、多いわ」
はい利用目的、即開示。友達ってなんだっけ。
「琴音ちゃん!」
彩空がぴしっと指を立てる。怒るのかと思いきや、うるっとした目で首をぶんぶん。
「それでもいいから、友達になってあげて」
……兄の威厳、ゼロ。
「バカ野郎。友達なんかいらない。今うちに必要なのは金だ」
強めに返すと、彩空はこめかみを押さえてため息。
「は? なに金、金って……うちが貧乏みたいに聞こえるんだけど?」
「いや、貧乏なんだよ」
「知ってるよ? でも言い方って大事。人生は総合点だよ。お金じゃない」
畳みかけるように、彩空が身を乗り出す。
「とにかく十万なんて大金、ぽんと受け取っちゃダメ! 一回でも味しめると、コツコツ筋が落ちるの。これ、私の経験則」
心臓がひとつ跳ねた。図星はやめろ。
空気を切るように、八重桜が視線を返す。
「報酬の件は後。――来栖くん、やってくれるの? くれないの?」
十万ならやる。だが、友達契約は意味不明……横で彩空がにっこり、逃げ道を塞ぐ天使顔。
「ああ、やるよ」
口が勝手に先に出た。
喉の奥にもやが残る。報酬は本当に金だけで済むのか。
彩空は満面の笑みで親指を立てる。
「はい決定。琴音ちゃん、最低限でいいから、契約友達ね?」
八重桜は肩をすくめ、薄く笑う。
「いいわ。最低限の友達。失敗したら――床でも舐めておきなさい。彩空に嫌われるから」
「あはははは。床舐める程度じゃ、嫌いにならないよ」
「すごい兄愛ね……もしくは、すでに来栖くんの評価が底辺なのかしら」
それはたぶん、後者だと思うよ、うん。
彩空はくすっと笑い、すぐ真顔で俺の袖をくい、と引いた。
「お兄ちゃん。ほんとに無理なら、助けてって言うこと。それが友達の最低条件」
彩空の言葉に、俺は素直に頷けなくて、ついプイッと目を逸らした――が、次の瞬間、テーブルの向こうから湯気の立つココアがそっと押し出される。
「ほら、あったかいの。まずはそれ飲んで、ね?」
小さな手が笑っている。俺は観念してマグを受け取り、ひと口。甘さが喉を通って、固かった胸の奥がゆるむ。
「……検討しておく」
かすれ声でそう返すと、彩空は「うん、合格」と親指を立てた。横で八重桜が、聞こえるか聞こえないかの声で「いい子ね」と笑う。
悪役でも、帰る場所はちゃんとあった。湯気と笑い声が混ざるこの狭い部屋が、今夜はいつもより少しだけ、あたたかかった。




