第25話 尾行
帰り道。小日向の顔を思い出すたび、胸に薔薇の棘が刺さるみたいにちくりと疼く。
やるべきことはやった……やった、はずだ。
無理やりそう結論して玄関を開けた瞬間、どっと疲れが襲ってきた。
「ただいま」
ソファでだらける予定が、先客がいた。
「彩空。悪いがソファ譲れ。今日は慣れないことしたから、めちゃくちゃ疲れた」
「嫌よ。あなたは床に這いつくばってなさい」
いきなり厳しい。こいつ、やきもちか? かわいいやつめ――と、つい頭をぽんぽん。
……あれ、いつもと手触りが違う。彩空の髪じゃない。
違和感から、視線をずらすと――。
「来栖くん。あなた、いつも妹にこういうことしてるの?」
そこにいたのは彩空じゃなく、八重桜だった。
無表情に近い笑み、目だけが冷えている。俺は条件反射で手を引っ込める。向かいでは彩空が腹を抱えて笑い転げていた。裏切者。
「お前、なんでここに」
「それはこっちの台詞よ――で、今日は、何をしてたのかしら?」
質問に質問を重ねるタイプ。最悪の取り調べだ。助けを求めて彩空を見る。
「さっき、みかんさんが帰ったあと、琴音ちゃんが入れ替わりで来たの。面白すぎでしょ?」
入れ替わり。つまり最初から最後まで、尾行フルコース。
背筋を冷たいものが滑った。しかも、みかんさんと、琴音ちゃんの呼び分けは何だ。普通、逆じゃないのか。
「来栖くん、わかっていると思うけど――罰金、百万よ」
「何の話だよ」
「あら、しらばっくれるのね。小日向さんと猫でいちゃついて、将棋でボロ負けして。全部、見てたわ」
尾行確定。しかも実況付き。俺は頭を抱えた。
「いや、いちゃついてないし。将棋は戦略的撤退だ」
「世の中では完敗って言うの。覚えておきなさい、ボッチ探偵さん」
「お兄ちゃん、顔まっか。かわいいー」
彩空が笑ってる。お前はどっちの味方だ。
「というわけで、事情聴取を始めましょう。逃走は不可、弁明は簡潔に。嘘は一文につき一万円上乗せ」
「相場が強欲なんだよ」
「あなたの人生、いつもディスカウントされてるんだから、たまにはプレミアつけなさい」
言葉の刃は相変わらず冴えている。俺は観念してテーブルについた。彩空はにやにやしながら湯呑みを並べ、完全にお楽しみ会の顔だ。
……はぁ。賢明に悪役をやったつもりが、帰宅一分で背徳者扱いか。人生、割に合わねぇ。
それでも、さっきの横断歩道の光景が脳裏にちらつくと、反論の気力は少し萎えた。
八重桜の追及は面倒くさい。彩空の茶化しも容赦ない。だけど、あの作り笑いよりは――ずっとましだ。
「来栖くん――罰金ね」
八重桜は湯呑みの縁に口だけ寄せ、涼しい声で告げた。目は笑っていない。刃物みたいに薄い光が、まっすぐ俺の額を射抜く。
「えっ。罰金百万円ってなに? お兄ちゃん、やっぱり何か悪いことしてるの?」
彩空が、ソファの肘掛けに顎を乗せて目を丸くする。
「ええ、そうよ。あなたのお兄さんね、私の意中の女を奪ったの」
八重桜はさらり。息をするみたいに爆弾を投げる。
「女って、みかんさんのこと? あれ、でも琴音ちゃん、女の子だよね」
「ええ。女の子よ」
「えっ? 琴音ちゃんって、もしかしてレズっ子?」
「違うわ。両刀よ。を好きになるのに性別は関係ないわ」
キリッと眉を引き上げ、言い切る横顔。お願いだから、妹の前で教育的指導みたいな下りを挟むのはやめてくれ。
「八重桜。勘違いするな。俺は小日向を奪ってなんかいない。詳しくは言えないが、今日は付き合ってほしいと言われて、付き合っただけだ」
「はあ、自己評価だけは高いのね。僕は興味ないけど向こうが頼むから、仕方なく――それを自慢だと思っているなら下劣。謙遜のつもりなら致命的。どちらにせよ、気持ちが悪いわ、消えてしまえばいい……冗談よ、生きて働いて、きちんと私に返済しなさい」
言葉の角が美しく研がれている。刺さるのに、切れ味を褒めたくなるのが腹立たしい。
「お兄ちゃん、酷いよ。みかんさん、あんなに可愛くて性格いいのに! 幻滅、意気地なし、変態」
彩空まで三連コンボ。最後の三つはただの悪口だぞ。
「――もういいわ。仕事の話をしましょう」
八重桜は小さく吐息を落とし、膝上のスカートの皺を指先で整える。その仕草まで無駄がない。
「ちょ、ここでか? 彩空がいる」
「問題ないわ。彩空にはすべて話したもの。来栖くん――あなたが妹を高校に行かせるため、私の下僕に成り下がったことまで」
さらりと毒。目尻だけがわずかに笑った。
……突っ込みどころは満載だ。だが大筋は合っている。
ただし、下僕の一語、そこは却下させてほしい。
八重桜の言うことは、相変わらず他人の体温を一度下げる。
彩空が受け止めてくれたから笑い話で済んだものの、角度を誤ればトラウマ一直線だ。
それにしても、いつの間にファーストネーム呼びの仲だよ。俺の知らない一時間で、どれだけ親睦を深めたんだ。
「わかった。話は聞きます」
金のためだ。仕事をくれる限り、俺はやる。それだけの話。
「今回、助けてほしい人がいるの」
八重桜は湯呑を受け皿に静かに戻した。爪先はそろえ、膝は斜め。指先で髪を耳に払う動作に、無駄がない。
「今度は、誰だよ」
一拍。彼女のまつげが、テーブルの木目に淡い影を落とす。
「他の誰でもないわ。私よ」
「……八重桜、を?」
「ええ。来栖くん、あなたに私を助けてもらいたいの」
声は薄いガラスみたいに澄んで、割れない。表情は平坦。けれど口元だけ、ほんのわずかに引き結ばれている。迷いを認めたくない人間の、均整のとれた綻び。
「珍しいな」
俺の率直に、彼女は肩をすくめもしない。十円玉一枚の重さで首を傾けるだけ。
「珍しいからこそ、頼むの。要点は三つ。状況、制約、報酬……順に話すわ」
視線だけで合図して、指先を三本立てる。その所作まで整っているのが腹立たしい。
俺は背もたれに浅く体を預け、黙って先を促した。
——八重桜が助けてほしいと言う。たぶんそれは、面倒の最高難度で、そして十万の札束より重い。いいだろう。聞くだけはタダだ。




