第23話 泣いた赤鬼
けっきょく、あのあと一時間以上――小日向と彩空は、まるで昔からの姉妹みたいに喋り倒していた。俺の存在? そこに空気清浄機があるな、くらいの扱い。
駅までの帰り道、夕方の陽がビルのガラスに跳ね、街はオレンジ色にゆるんでいた。
歩道の端を並んで歩くと、車の排気とパン屋の甘い匂いが風に混じる。横断歩道の手前で信号が赤に変わり、ピヨピヨと短い電子音が鳴った。
「ねぇ、彩空ちゃん、ほんと可愛かったね。話も面白いし……」
小日向は上機嫌だ。三つ編みにするには短い髪が、頬にかかってはすぐ指先で直される。その仕草がいちいち小動物。
可哀想だな。もう、会うこともないのに。
俺は信号柱に視線を移す。押しボタンの金属が夕陽で鈍く光っている。
ここで言うなら今だ。そう思った。
「なぁ、小日向」
足を止める。人波が左右から流れて、俺たちだけがぽつんと取り残される。
「ん? なに?」
振り返った顔が、油断しかない笑顔で、刺さる。友達に向けるやつか、恋人に向けるやつか、判断したくない種類のやつ。
「……お前さ。もしかして、俺のこと、好きなのか?」
クラクション、雑踏、アナウンス。街の音ぜんぶが一瞬遠のいた気がした。
小日向の瞳がまるっと見開かれ「えっ?」と小さく硬直する。
そう、否定しろ。笑ってくれ。自惚れんな馬鹿、って首筋に冷水ぶっかけてくれ。俺が望むのはその結末だ。
なのに彼女は、恥ずかしそうに視線を泳がせ、頬の色を少しだけ上げて、上目遣いでこちらを見て、すぐ伏せた。
「……そんなの、わからない」
わからない、か。
最悪の中間解答。踏みこむには優しすぎて、退くには遅すぎる。
このままだと、小日向はこっち側に巻き込まれる。俺のやり方は汚れる。恨まれる。近くにいるほど、火の粉は飛ぶ。
押し出すべきだ。わかってる。わかってるのに、喉が砂みたいに乾いて言葉が出ない。
風がひとすじ、前髪を揺らした。彼女は胸元でぎゅっと握る。
「ねぇ、来栖くん」
「……なんだよ」
「泣いた赤鬼って童話、知ってる?」
「泣いた八重桜?」
「ちがう。そっちの赤鬼じゃない」
軽口は、見事にスルーされた。てか、そっちの赤鬼ってなに? 八重桜が鬼なのは否定しないんだな。
「で、それがどうした」
小日向は、信号が青に変わっても動かない。足もとで靴先をコツンと合わせ、息をゆっくり吐く。さっきまでの無邪気な笑顔は、少しだけ影をさしていた。夕陽に縁取られて、まつ毛の影が長い。
「人間と仲良くなりたい赤鬼のために、青鬼が、悪役をやる話――大事なものを守るために、嫌われ役を引き受けるの。優しいほうが、傷つくほうを選ぶ」
胸の奥がわずかにきしむ。
やめろ、そのたとえは反則だ。こっちの手札を先に読まれる。
「ね、来栖くんはさ。青鬼になりたいの? それとも――」
言葉がそこで切れた。彼女は視線を落としたまま、ちょっとだけ笑う。
俺は答えを飲み込む。
なりたい、じゃない。なるしかない。俺のやり方は綺麗じゃないし、拍手もいらない。拍手を受ける役は、もっと真っ当なやつに渡せばいい。
「……続き、聞かせろよ」
代わりにそう言うと、小日向はうん、と短く頷いた。信号がまた赤に戻り、ピヨピヨが止む。
人の流れの途切れた交差点の端、夕暮れの風だけが、二人の間を静かに通り抜けていった。
小日向はゆっくりと話しはじめた。往来のざわめきと、信号機のピヨピヨが遠くなっていく。夕陽が歩道の縁を橙に染め、彼女の横顔の輪郭だけがやわらかく浮いた。
「山にね、一人の赤鬼が住んでて――」
あらすじは知ってる。けど、小日向の声でなぞられると、紙芝居みたいに場面が立ち上がる。立て札、お菓子、お茶。けれど誰も来ない。胸の奥が少しひやっとして、俺はジャケットのポケットで拳を握った。
青鬼の提案。村で暴れて、赤鬼に退治させる。計画は成功、赤鬼は人に受け入れられる。……ここまでは教科書通りだ。風が一筋、首筋を撫でた。
でもね、数日たっても青鬼は来ないの。戸は閉まってて、紙が貼ってある『君といると君まで悪者にされる。だから僕は旅に出る。どこまでも君の友達です』
――赤鬼はそれを、二度、三度、黙って読んで、泣いた。
歩道の端で、彼女はそこで言葉を切った。俺は喉を鳴らす。知ってる結末なのに、胸のあたりがきゅっと縮む。たぶん、今の俺の顔は、あの赤鬼に少し似てる。
沈黙。夕暮れの影がわずかに伸びる。小日向は眉根を寄せ、長い睫毛の影を頬に落とした。
「この話ね、青鬼の真っ直ぐな愛が素晴らしいって言う人もいるけど――私にとっては、ありえない」
声は静かだけど、芯が硬い。
「汚い手でしか人と仲良くなれなかった赤鬼も、外側だけで鬼を判断した人間も……でも、一番いやなのは、自己犠牲で助けたあと、勝手にいなくなる青鬼」
いなくなる青鬼。その言葉が、ぐさりと刺さる。
俺は視線を落とし、スニーカーのつま先で白線をなぞった。
心臓が一拍遅れる。さっきまで用意していた台詞――距離を置こう、巻き込みたくない――が、喉の奥で粉になって崩れた。
小日向の表情は、深い失望の色に染まっていた。俺に向けられている、とまでは言わない。けど、矢印の先がどっちかは、わかる。
ああ、そうか。
やっと合点がいった。なんでこいつは、俺の仕事に口を挟んで、必要以上に近づいてくるのか。
青鬼みたいに、黙って良いほうへ押し出して、消えるのが一番嫌いなんだ。だから止めに来る。
俺が選ぼうとしていたやり方を、まっすぐに否定するために。




