第19話 猫カフェで将棋!
ドリンクバーで氷たっぷりのアイスコーヒーを注いで、スライドドアを開ける。ふわっと、焙煎とキャットフードが混ざった独特の匂い。
陽射しは大きな窓から畳の島へ斜めに差し込み、毛玉トンネルや爪とぎタワーの影をきれぎれに落としている。鈴のちりん、ちりんという音。視界の先、三毛・茶トラ・サビ・黒。猫がそれぞれの哲学で、好き勝手に生きていた。
部屋にはローテーブルとソファ、座敷区画、本棚にはバラエティ島耕作と猫漫画、壁際に小ぶりのテレビ。漫画に沈む客、膝で猫を温める客、ただひたすら撫でるだけの信仰者。小日向は迷いなく座敷の区画へ。畳にスルリと上がって、座布団に正座する。
俺も靴を脱ぎ、向かいに腰を落とした。和室の低い目線は落ち着く。心拍数が猫の喉と同期する。
「ちょっと待っててね」
リンゴジュースとトートを置くと、彼女はととっと受付の方へ。ひとり残された俺は、寄ってきた三毛を抱き上げる。抵抗ゼロで胸に収まる、湯たんぽ以上、罪未満。柔い。可愛い。世界、今日ここで終わってもいい。
「お待たせ」
戻ってきた小日向――前髪の影からのぞく目が、三毛を見てとろける。思わず口が滑った。
「可愛いな。小日向」
「えっ。か、可愛い?」
頬がぱっと桜色。指先で前髪をいじって、目線が泳ぐ。
「いや、違う。この猫」
「……知ってたし」
ぷくっと頬をふくらませ、袖口をむにっとつまんで抗議ポーズ。わかりやすくて助かる。
彼女がテーブルに置いたのは――将棋盤。
「小日向先生? それはなんですか」
「えっ、嘘。知らないの?」
こくんと首を傾げ、ストローをちゅっと噛んでから、いたずら笑い。
「いや、物は知ってる。なぜ猫カフェで将棋を持ってきたのかを聞いている」
「変かな?」
「変だ。ゲームならせめてオセロとかトランプだろ」
「でも私、いつも綾とこれ、やってるよ」
「それは八神が特殊だ」
とはいえ、家にも盤はある。ゲーム機がない我が家での娯楽の王。中学の頃までは彩空と指していたが、ある時から彩空に一方的にひねられ続け、俺が音を上げた。
駒を並べながら、小日向がぽつり。
「ところで、最近、凪くんとはどうなの?」
「どう、とは?」
「最近、仲良さそうだから」
「良くない。あっちは勝手に友達を名乗っているだけだ」
サッカー部の件以来、音無は休み時間の訪問販売のようにやって来る。クラスに、来栖=人間の認識が広まりつつあるのは、九割がたあいつの迷惑営業の成果だ。
「でもね、サッカー部、活気出てきたって。工藤くんも毎日顔出してるし、もしかしたら夏、全国ワンチャンって……綾が言ってた」
そういう明るい予測は胸にしまっておけ。可愛い顔で言われると、否定の台詞が喉で解ける。
「それと、綾から、ありがとうだって。直接は……たぶん悪態が先に出るから、伝言で」
「礼は要らない。仕事だ」
「うん……ところで、貴志くんは八重桜さんのこと、好きなの?」
「嫌いだ」
即答に、彼女はぱちぱち瞬く。
「なんで?」
「金を無駄遣いするからだ。俺から見れば敵だ。だが――必要ではある。財布だからな」
「言ってること、矛盾してない?」
「好き嫌いと必要不必要は別物だ。人は働くのが好きじゃなくても働く。金が要るからだ。金は幸福そのものじゃないが、幸福に必要な余白を買う。ないと、そもそも夢も語れない」
「金は命より重い、ってやつ?」
ざわ……ざわざわ……。
「言いたいことはわかるけど、言葉は選ぼ?」
袖口をきゅっとつまんで、上目づかいで窘めてくる。
「八重桜さん、冷たく見えるけど……今までの依頼って、ぜんぶ、自分の得じゃないよね。私のことも、サッカー部のことも」
「……まあ、あいつの思考回路は複雑だな」
言いかけたところで、卓上にふんわり影。さっきの三毛が盤の端に前足をのせ、香車をちょいっと押した。
「反則負けでは?」
「猫は審判だからセーフ」
そう言って小日向は、そっと駒を直し、長い前髪を耳にかける。指先が白くて細い。視線は柔らかいのに、盤面だけは急にプロの目。
ぱちん。
彼女の銀がするりと潜り込み、俺の王の顔面に冷たい風。
小さく、唇だけが動いた。
「……はい。大手」
猫の尻尾がゆらっと揺れて、「ニャ」とだけ言った。負けフラグの鳴き声だ。




