第16話 黒幕
体育館裏。二日連続どころか、今やホームグラウンドかもしれない……いや、こんな寂れた裏路地がホームは嫌だ。こそこそ話に最適ってだけで、青春の舞台に採用される覚えはない。
「すいません。待たせてしまって」
声をかけると、既に立っていた男が、フェンス越しの夕陽みたいに柔らかく笑った。
「いや、俺も今来たところさ。抜け出すの、案外大変で。君もだろ?」
「ええ。校内の抜け道には詳しくなりました」
口では軽く。内心は、けっこう汗だく。
「で、どうなった? サッカー部は。それと音無は」
「部は存続。音無は――留まりました」
「……そうか」
彼の目がほんの僅かに揺れて、安堵で形が整う。責任を被る人間の顔って、こういうふうに緩むんだなと、観察者の俺が記録しておく。
「先輩のおかげです。あの場で先に腹を括ってもらえたから、話が早かった。本当にありがとうございます。小林先輩」
そう、俺の目の前にいたのは小林先輩だった。
「助かったのは俺の方だよ」
いい人みたいな受け答え。いや、実際、いい人には違いない。罪の重さを自覚した上で、正面から被る度胸があるなら、それはもう善点だ。満点じゃないけど。
違和感の出発点は映像だった。
殴る、蹴る、吸う。画面の温度は低いのに、胃の中だけ熱くなる。けれど一人だけ、温度が違った。
部長、小林。止めないのに、見ない。視線が暴力から逃げる。耳まで逃げたみたいに、肩が一瞬だけ強張る。吸い殻は自分の分だけ、わざと床に落とす。隠す気がある人間のふるまいじゃない。
『本当は隠す気がないんじゃないのかな?』
小日向の震える声が、俺のモヤを言語化してくれた時点で、やることは固まった。俺は先に小林を呼び出し、空き教室で映像を見せた。彼は眉一つ動かさず、「使うなら好きに使え」と踵を返す――そこで背中に声を投げる。
「先輩、本当はサッカーを辞めたいんじゃないですか」
足が止まり、ゆっくり振り返る。さっきまで凪いでいた瞳に、初めて皺が寄る。ヒット。内心でだけガッツポーズ。
彼の事情は簡潔だ。
プロの話が来ていた。でも、彼には別にやりたいことがあった。顧問は止めた。周囲も煽った。本人だけが置いて行かれた。結果、最短で最悪の自爆スイッチ――喫煙――に手が伸びた。
そこへ、三年の一部が一年を傷つけるという火種。部長の立場なら本来止めるべきだが、「いずれ外へ漏れて部は止まる」と目論んだ弱さが、手足を縛った。けれど一年は辞めない。耐え続ける。時間は前にだけ進む。夏が近づく。頑張ればプロが寄ってくる。手を抜けば人が離れていく――二択地獄。
だから提案した。減点を最小にするやり方を。
「三年全員、今日付で退部。以後接触禁止。部は残す」
小林は短く「責任は取る」と頷いた。視聴覚室で話が早かったのは、彼が先に差し出した”からだ。俺にはできない真似だ。俺は、もっとずるい。
「ありがとうを言うのは、俺の方さ……サッカー部、なくしたくはなかったんだ」
「元凶が言いますか、それ」
つい口が滑る。先輩は苦笑で受け止めた。咎めず、受け止めるのは、強さか甘さか。多分どっちも。
「しかし、君はすごいよ。完全な悪役を引き受けた。友達のためとはいえ、普通はできない」
「友達?」
間抜けな反射音が、俺の喉から出た。
「音無、だろ。彼のために」
「友達じゃないですよ」
沈黙。互いにぽかん、と見合う。フェンス越しの風が、気まずさだけ持っていってくれたらいいのに。
「……じゃあ、どうして」
「依頼があったからです。やるべきことを、短く終わらせただけ」
金のため、とは言わない。言っても楽にはならないし、相手も楽にしない。俺のやり方はだいたい、そういうやつだ。
小林先輩は、それ以上踏み込まなかった。代わりに、まっすぐ頭を下げる。夕陽が彼の輪郭に引っかかって、影が長く伸びた。
「君には借りができた。俺にできることがあれば、いつでも言ってくれ」
「じゃあ、善意ポイントで。期限なしのクーポン、発行しときます」
「なんだそれは」
「いつか、気が向いたら使います。気が向かなければ、忘れてください」
「……ああ、忘れないよ」
そう言って、まっすぐ笑う。反則っぽい笑顔だ。悪役がこういうのに弱いって、統計で出てる気がする。
「じゃ、俺は戻ります。体育館裏の常連になるのは、さすがに不名誉なので」
「はは。俺も戻る。また、何かあれば」
別れ際、彼はもう一度だけ、丁寧に礼を言った。
「助かった。本当に、ありがとう」
やめてほしい。そういう正面からの感謝が、いちばん効く。
俺の腐った性根に、小さな穴が空く音がした気がして、慌てて塞ぐ――今日はよく働いた。ため息のひとつくらい、割引しておく。




