9 側近の悩み
主に出会った時のことをアーベルは今でも鮮明に覚えている。
雪の舞い散る日のことだった。ほんの一瞬で己を害しようとした魔物をすべて殲滅するところを少し離れた場所から目撃したのだ。その場に居合わせたのはただの偶然で、彼の一挙一動から目が離すことができず、見とれていたと言ってもいい。体が勝手に震え、初めて畏怖の感情を知った。まだ若く自分の力を過信して驕っていた自分が、その光景を目にした瞬間に己の力量を思い知らされたのだ。
この方に一生お仕えしたいと、傍においてもらえるよう懇願した。返事はなかったが、半ば強引についていき、今では腹心として周囲に認められるようになった。
あの時の選択が間違っていたとは決して思わないのだが――。
今思えばその日はずっと陛下の様子がおかしかった。
境界付近におけるフィラルド国との諍いについて報告をしたが、その時陛下は関心を示していないようだった。国などは人間が勝手に決めた境界線だ。それがあることでお互い不干渉を保つことができるが、人の決まりに従わされているようで何となく不快ではある。一部の魔物がそれを越えようが越えまいがどうでも良いと感じるのはそのせいだ。
だが夜になって急にフィラルドに行くと言うなり、単身フィラルド城に乗り込んだ。どんな心境の変化があったのか確かめようもないが、それでも陛下がそのような行為に出るなど通常ではありえないことだ。必死で説得しようとしたが、耳を傾けてくれなかった。すぐに戻ってきたのだが何故か人間の少女を連れており、しかも扱いが丁重であることを見てとって嫌な予感を覚えた。
そして嫌な予感ほどよく当たる。
「どうしたら姫は我のことを好きになってくれるのか」
翌日アーベルの部屋を訪れた魔王が開口一番に告げた言葉だ。主からの問いに知りませんとは答えられない。だがアーベルは驚きのあまり、すぐに返答ができなかった。
なぜなら、陛下が今まで他者の感情に興味を示すことなどなかったし、それも相手からの好意を求めるなど天変地異の前触れではないか、と思うぐらいの衝撃的な言葉だった。
陛下の感情の起伏は非常に乏しい。喜怒哀楽を表に出すことはほとんどなく、現に今とて平常と変わらない表情でこちらを見ている。時折不快な感情を示すことはあるが、大抵はその原因となった者を強制排除して終わりである。
姫からの好意を求めているということは裏を返せば陛下が姫に好意を寄せているのではないか。
いや、そんなことはあり得ない。
すぐに自分の考えを打ち消そうとするが、一度抱いてしまった疑念はなかなか晴れない。
「アーベル」
思った以上に自分は混乱しているようだ。主から名前を呼ばれて、我に返った。陛下の右腕たるものこの程度で狼狽えてはいけない。動揺を押し殺し、何とか主に返答する。
「…そう、ですね。まずは姫の好きなものを与えてみてはいかがでしょうか」
「それでは書庫にご案内いたします」
そうアーベルに告げられたのは翌朝、食事を済ませた直後だった。
何のことだろう、と佑那が不思議に思って首をかしげると、魔王から声をかけられた。
「本が好きなのだろう?」
ここの本はダメだけど、別の本なら良いということかと納得し、大人しくアーベルについていく。
「魔導書や呪術関係の書物が大半ですので、あまりあなたが読まれる本はないかもしれませんが」
そう前置きして一通り書庫の説明をしてくれた。十二畳ぐらいの広さだが本棚以外にも乱雑に積み重ねられているので、結構な蔵書数がありそうだ。
佑那の目的は歴史や伝記関連の本だ。フィラルド王国に記録があったのだから、こちらにもその記録は残っていないのだろうかと思いついた。救世主は双方に影響を及ぼしたのだから。救世主がフィラルドを救った経緯が分かれば、元の世界に戻るヒントも分かるかもしれない。最も救世主の外見について詳細な記録が残っていれば、自分の正体はとっくにばれているだろう。そう思うと自分があまりにも危険な状況にいることを実感した。
「それからこのフロアは他の魔物が出入りすることもあるため、書庫の外に勝手に出ないようにしてくださいね。姫に何かあれば私が陛下からお叱りを受けますので」
アーベルはそっけない口調で忠告する。
アーベルは佑那がここにいることを快く思っていないようだ。態度や言葉遣いは丁重なもの佑那を見る目がそれを物語っていた。佑那としては魔王より意思の疎通ができそうなアーベルに聞きたいことがあるのだが、どうやら簡単にはいかないらしい。まずはできることからだと、佑那は気を取り直して本の捜索に取り掛かった。
部屋に戻ると何やら甘く香ばしい匂いが漂っている。テーブルにはムースやタルト、焼き菓子などが所狭しと並べられている。魔王はソファーに座って本を読んでいるようだ。
「姫様、お帰りなさいませ」
昨日お茶を運んできてくれた小柄な魔物の少女、ミアに声を掛けられそのまま席に着く。
魔王がいなくなったあと、控えめに名前を告げ佑那の侍女となったことを伝えてくれた。少し内気な様子だが佑那に対して何の含みもなく、一生懸命仕事をこなそうとする態度に好感を抱いた。
「これはミアが作ったの? 美味しそうだね!」
「いえ、私は少しお手伝いしただけで、全てアーベル様が作られました」
青い瞳が生き生きと輝き、どこか誇らしげな口調になる。
「えっ…、それは、すごいね?」
思わず疑問形になってしまった。彼がお菓子を作っている姿は想像できない。人は見かけによらないと言うが。
魔王が対面に座るとお茶が注がれ、アールグレイに似た良い香りが漂う。
給仕を請け負うミアに一番近くのタルトを取ってもらった。フルーツの酸味とクリームの甘さがぴったりで、生地もサクサクしていてとても美味しい。お茶との相性もばっちりで幸せな気持ちで食べ進めていたが、ふと魔王に目をやるとお茶にもお菓子にも手を付けていない。
「あの、召し上がらないのですか?」
「我はよい」
一人だけ食べるのは少し気まずい。甘いものが嫌いなのだろうか。
……あれ、でもそれなら何でこんなに大量のスイーツが用意されているのだろうか? もしかして私のためだったりする?
そんなことを考えていると、お茶のお代わりが注がれる。
「ありがとう。ミアの淹れてくれるお茶はとても美味しい」
「いえ、茶葉が良いからです! 私は特に何も…」
話しかけるとミアは顔を真っ赤にして、否定する。
「そんなことないよ。あんまり詳しくないけど、美味しくお茶を淹れるには蒸らし時間とか温度とか大切なのでしょう? 丁寧に淹れてくれるからこんなに美味しいんだと思う」
「……あ、ありがとうございます。お口にあって何よりです」
顔はまだ赤いままだが、はにかむような笑顔を見せた。
可愛いなあ。
思わずほっこりした気持ちになって、フィラルド城ではフェリクスともこんな風に話していたことを思い出す。つい数日前のことなのにかなり昔のことのように感じる。
対面の魔王は相変わらず佑那を見ているが、段々慣れてきた。珍しい生き物を観察している、といったところだろうか。整った顔立ちなのに、感情を見せないため無機質な人形のように感じられてしまう。感情を出さないよう努めているのか、それとも元々欠落しているのか。彼の言動は予想がつかないことばかりで、本当は何を考えているのか見当もつかない。
そんなことを考えていたため、佑那は自分もまた魔王を見つめていることに気づかなかった。魔王が急に佑那から顔をそらしたかと思うと、部屋から出て行った。結局お茶もお菓子もそのままだ。不思議に思いつつも、佑那は一人でティータイムを堪能することにした。
どうもウィルから聞いていた話とのギャップが大きすぎると思いながら。