30 理性と本能
ユナが明るさを取り戻したことだけが、唯一の救いだった。声が出ないと聞いたときには驚きつつも、何故気づかなかったかと自分の愚鈍さを呪った。口を利きたくないほどに嫌われているのだと自分のことしか考えていなかったのだ。
例え嫌われていたとしてもそんな真似は彼女らしくないと、どうして思い至らなかったのか。結局自分は誰かを好きになってはいけなかったのだろう。愛しく想っていても大切にすることなどできず、傷つけ悲しませている。そしてとうとう彼女の声まで奪ってしまった。
ユナのことを想っているなら手放すべきなのだろう。
何度同じことを思ったか分からない。彼女を目にするとたちまち失せてしまうのに、その考えが頭の片隅にこびり付いている。
それに反するかのように彼女に対する劣情が激しさを増した。
繋ぎ止めたいという思いと手放さなくてはという思いがせめぎ合っていた。そんな状態で彼女に触れてしまえば、理性より欲望が勝ってしまうのは目に見えている。そうすれば今度こそ間違いなく嫌われてしまう。
彼女に会ってから自分の行動に確信が持てない。今まで自分は他者の言動に気を配ったことがなかったことの代償なのだろうか。
『どうして、分かってくれないの!』
遠い昔に母から投げつけられた言葉の意味が今になってようやく分かる。あの時自分は母を理解するための努力をしなかった。同情に似た気持ちが湧き、母の気持ちが少し理解できたような気がした。
『疲れているの? 仕事が忙しいのだったら、お茶の時間を一緒に過ごせなくても大丈夫だよ』
差し出された紙を見て、一瞬何と返事をしてよいか迷った。つい書かれた言葉の意味を考えすぎてしまう。
本心では一緒に過ごしたくないと思っているから、このように伝えているのではないか。
ユナはそんな性格ではないと浮かんだ考えを否定しながら答える。
「…いや、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだ」
そう答えるが、ユナはどこか困ったような顔をしている。それから何か思いついたような表情を浮かべると、立ち上がって抱きついてきた。反射的に抱きしめ返すが鎖骨の辺りに柔らかいものが当たり、慌てて意識を逸らす。
そんな心情も知らずにユナはシュルツの頭を撫でている。疲れた自分を労わってくれているのだろうが、この状態は少し困る。
「…ユナ、少し離れてくれぬか」
理性が本能に押し流されそうになるのを感じてそう告げる。だが体を離したユナは傷ついたような表情をしていた。触れられることを嫌がっていると勘違いされたようだ。そんな表情をさせたいわけではないのに、上手くいかない。
「ユナ、違う。そうではなくて―」
そのまま説明してもユナを困らせるだけだ。言葉を見つけるよりも、ユナの方が早かった。
『大丈夫です。邪魔してごめんなさい』
席を立つことはなかったが、ユナはサイドテーブルに置いてあった本を手に取った。
「邪魔などと思ったことは一度もない」
開きかけた本を再び再度テーブルに戻し、ペンを取る。
『私の声が出ないからといって、シュルツが我慢する必要はないよ』
自分の欲望を見透かされていたのかと思わず顔をそらす。
『言いたいことがあるなら、ちゃんと言って』
……どうやら早合点だったようだ。
感情が表に出ないことを今ほど感謝したことはないだろう。ユナは真剣な顔で返答を待っている。何でもないと言っても彼女は納得しないだろう。そのまま見つめあっていると、ユナが手元に視線を落とした。
『言いたくないことならもういい』
それだけ書いてついには席を立とうとする。これが良くない兆候であることは理解していたので、腕を伸ばして引き留めようとした。だが思いのほか力が入っていたのか、ユナがバランスを崩してよろめく。咄嗟に自分の方に引き寄せて彼女を抱きとめた。
「ユナ、すまぬ。大丈夫か?」
ユナは一つ息を吐いて、こくりと頷いた。ソファーに膝立ちになっている状態のため、顔が近い。気づけば唇を重ねていた。ユナの手が肩に触れて、ようやく我に返った。名残惜しくもあったが、自制が利くうちにと解放する。ユナは吐息を漏らすとそのままシュルツの膝の上に座りこんでしまった。
あ、…まずい。
そう思ったが遅かった。怪訝な顔をして下を向いて、すぐさま勢いよく上げたユナの顔が真っ赤に染まっている。
「…すまぬ」
生理現象ではあるが不快なことには違いない。誤解は解けたもののシュルツはただ謝罪を繰り返すことになった。
室内には甘い香りが充満している。
姫様の食欲は戻ってきたが、基本的にはスープか柔らかいパンやお菓子などを食べている。固い食べ物は飲み込みづらいそうだ。栄養が偏ってしまわないように、ドライフルーツをたっぷり入れたもの、野菜やベーコン、チーズが入った食事系、ナッツやハチミツなど滋養のある食材入りのものなど、数種類のマフィンを試作していた。
ノックの音が聞こえて、ドアを開けると大きな花束を抱えたエルザが立っていた。
ミアの心中は複雑だった。エルザとは時折話をする間柄だったし、少し意地悪な面もあったが楽しく過ごした時間もあったのだ。姫様は何も言わなかったが、アーベルが漏らした言葉から彼女が嫌がらせのような行為をしたのだろうと予想がついた。
「ミア、ごめんなさい。あなたにしか頼めなくて」
部屋に入るなり、エルザは口火を切った。
「姫様に謝りたいと思っているの。でも私は姫様と陛下に近づかないよう厳命されているから、代わりにこれを渡してもらえないかしら」
そう言って手に持っていた花束をミアに差し出した。色とりどりの花束は確かに綺麗で、見ているだけで華やかな気持ちになる。姫様もきっと喜ばれるだろう。
「ちゃんと花瓶に差したら長持ちするのだけど、手持ちがなくて。飾れるような花瓶はあるかしら?」
「確か戸棚にあったと思うけど。ちょっと待って」
しゃがみこんで戸棚を開くと、奥の方に大きめの花瓶が見つかった。
「これでどう?」
取り出してエルザに見せると、嬉しそうな表情でうなずいた。
「ええ、それで大丈夫よ」
エルザはてきぱきと花瓶に花を移し替え、ユナへの詫びの言葉をミアに伝えるとすぐに部屋から出て行った。
エルザのこと、誤解していたのかもしれない。
ミアは反省しながらも、お茶の時間に間に合うよう支度を始めた。




