27 焦燥と痛み
翌朝、エルザが不機嫌な様子で現れて、不満をまくし立てた。
「何だって陛下はあんな女をお気に召したのかしら。口も利かないし、自分で食事もしないし、偉そうに!それに顔だって平凡じゃない。全然理解できないわ」
「いつもはそんな方じゃないの。今は色々あってそう見えるのかもしれないけど…」
ミアの言葉にエルザは馬鹿にしたように口の端を上げる。
「あんたはいい子だからね。それで、お姫様に持って行くのはこれでいいの?」
エルザの視線はティーセットに向けられている。
「うん。お湯を入れたらこの砂時計をひっくり返して、砂が全部落ちたらお茶を注いでほしいの」
このお茶は姫様が元気のない時に出したらとても喜んでくれたものだ。早起きして作った焼き菓子との相性もよいはずだ。姫様が気づいてくれるかは分からないが、少しでも口にしてくれれば嬉しい。
「はいはい。まったく手間のかかること」
文句を言いながらもエルザはティーセットを片手に部屋から出て行く。
この様子ではエルザが姫様の話し相手になるのは難しそうだ。エルザからしてみれば、主たる陛下を蔑ろにしているように見える姫様が不快なのだろう。
だが先ほどのエルザの言葉とアーベルから聞いた話に何か引っかかるものがあった。
陛下に対して口を利かないのは怒っているからだとしても、初対面であるエルザにも声をかけないのは姫様らしくない気がする。
話さないのは、何か理由があるのではないだろうか。
シュルツが部屋に入ろうとしたとき、何かが割れるような音が聞こえた。
ドアを開けると呆気に取られたようなユナの表情が目に入った。彼女の前には床に座り込んだエルザの姿があり、そばにはティーカップの残骸が散らばっている。
「陛下!」
エルザが立ち上がって、こちらに向かってくる。
「申し訳ございません。姫様のお気に召さなかったらしく…」
言葉と状況だけ切り取れば、まるでユナがティーカップを投げつけたかのように聞こえる。いずれにせよ問題なのはそこではないが。
「ユナ、怪我はないか?」
なおも言葉を発しようとするエルザを無視して、ユナの元に向かう。全身を確認するが茶も陶器の欠片も届かなかったようで、安心する。
俯いたままのユナの手を引いてソファーに座らせると、先ほどアーベルから受け取った菓子を取り出す。一口大の柔らかい菓子で、以前好んで口にしていたため用意させた。手に取って口元に運ぶが、ユナは視線を合わさぬまま口元を引き結んでいる。
「一つだけでも良いから」
そう声を掛けてみるが、ユナは立ち上がって寝室へと逃げてしまった。無理強いをしすぎたのかもしれない。
「あの、陛下」
振り向くとエルザがそばに立っていた。視線だけで続きを促す。
「どうして姫様にそこまでされるのですか? あの方は陛下のことをよく思っていらっしゃらないのに」
質問に答える気はなかったが、最後の言葉が引っかかった。
「何故分かる」
そう聞くと躊躇う素振りを見せながらも、おずおずと答えた。
「姫様がそうおっしゃったからです。…陛下が悲しまれると思って口にできませんでしたが、ひどいことを…」
自分とは口を利かないが、エルザとは話すのか。嫉妬に似た気持ちを抑えながら続きを促す。
「ユナは何と言った」
「…そばに寄られるのも汚らわしい、と」
ゆっくりとシュルツの腕に手を伸ばしながら、エルザは続ける。
「おいたわしい限りですわ。私が出来ることでしたら、何なりと―」
「片づけが済んだのならさっさと出ていけ」
冷ややかに見下ろすと硬直したようにエルザの動きが止まった。それから顔を背けると慌てて部屋から出て行くエルザに何の関心も払わずに、シュルツはソファーに身を沈める。
ユナに嫌われても仕方がない。彼女は人間で自分は魔物なのだから。
人は魔物を忌避し嫌悪する。当たり前のことだったのにすっかり忘れていたのは、ユナがこれまでそんな態度を取らなかったからだ。
だが彼女を想うあまりに自分が気づかないだけだったのかもしれない。街で生き生きとした表情を浮かべていた彼女の姿を思い出し、胸の苦しさが増した気がした。
日増しに焦燥が強くなる。もう自分とは口もきいてくれないのだろうか。
ユナの前には通常の食事ではなく、ティーカップとともに菓子が置かれている。食事のバランスよりも食欲を戻すほうが先だというアーベルの助言を受けて用意させたものだ。
最初は手をつけようとしなかったが、ここ数日は自らフォークを取りケーキを口に運ぶようになった。その様子に密かに安堵する。少しは食欲が出てきたのかもしれない。
食事を終えるとユナは席にとどまったまま、何か考え込んでいるように一点を見つめていた。彼女の考えていることを知りたい。少し前まで理解できているように思えたのは、ユナがきちんと言葉で伝えてくれていたからだ。
恐らく自分には想像力が足りないのだ。それはきっと思いやりが足りないことと同義なのだろう。誰よりも大切にしたいのにその方法が分からない。
そんなことを考えながら見つめていると、ユナが顔を上げた。その目には非難とは違う、訴えるような色が浮かんでいる。
「ユナ?」
ユナは口を開きかけるが、言葉を発しようとしない。しばし逡巡したのち、そのまま顔を伏せてしまった。
「ユナ、どうした?」
怖がらせないよう慎重に手を伸ばし、頭を撫でた。
『シュルツに撫でてもらうの、好き。何だか安心する』
そう言って嬉しそうに笑っていたのが、随分昔のことに思える。まだそう思ってくれるだろうか。触れた手を振り払われはしなかったが、徐々に泣くのをこらえているような表情に変わっていく。
……嫌なのか。
鼓動が早くなり思わず手を引くと、ユナは席を立って足早に寝室へと向かってしまった。だが先ほどの訴えるような顔が頭から離れない。この機会を逃してはいけない気がしてユナの後を追った。
部屋に入るとユナが驚いた表情で振り向いた。構わずに手を取り、その指に唇を押し当てる。
「ユナ、望みがあるなら聞かせてくれ。我に想像力が足りぬせいだが、どうして良いか分からぬ。そなたの願いならできる限り叶えてやりたい」
じっと彼女の瞳を見つめて返答を待つ。だがユナは視線を逸らすと首を横に振った。名前を呼んでも俯いて、視線すら合わせてくれない。
「ユナ、愛している」
頬に手を伸ばし、口づけを落とす。見上げるその顔が今にも泣きだしそうに見える。こんな顔をさせているのは自分が原因なのか。
微かに震えている唇からは今にも拒絶の声が聞こえてきそうで、思わず自分の口で塞いだ。
声が聞きたいとあんなに切望していたのに、嫌悪の言葉を聞くのが怖い。久しぶりの感触は以前と変わらないはずなのに、やるせない思いばかりが募ってくる。
長い口づけの後に唇を離すと、そのまま首筋を甘噛みした。体が硬直するのを感じたが、抵抗はない。肌に自分の痕跡を落としつつ、手を胸のあたりや太ももに這わすが、一向に抗議の声が聞こえてこない。
嫌われていないのだろうか、と顔を上げた瞬間に後悔した。
目をきつく閉じ、両手で口元を押さえながら必死に耐えているユナの姿があった。嫌われていないなどよくも思えたものだと自嘲する。
先日エルザからも汚らわしいと思われていることを聞いていたのに。
「……もう、せぬ」
身体を離すと、そのまま床にしゃがみこんでしまったユナに声をかけ、その場を後にする。
胸の奥がきりきりと痛む。
ユナの気持ちはもう戻ってこないだろう。あの眩しい笑顔を見ることも、自分の名前を呼ばれることも、きっとない。
ミアを許していれば、いや街への外出を許可しなければ、彼女をずっと閉じ込めておけば良かったのだろうか。でもそれは近い将来彼女を壊していたかもしれない。
どれが正しい選択だったのか。
そもそもシュルツがユナを無理やり連れてこなければ、彼女は幸せな日々を過ごしていただろう。奪うことや壊すことしかできない自分が他者を幸せにしたいと思うこと自体、傲慢だったのかもしれない。




