21 閑話 出逢いと想い ~魔王サイド~
初めて彼女に出会った日のことを、きっと生涯忘れない。
「最近、国境付近でフィラルド国との小競り合いが多発しています。もっともこちらの被害は微々たるものですが」
アーベルからの報告を聞くともなしに聞いていた。ささやかな利のために争うなど愚かしいことだが、わざわざ止める必要もない。それを必要とする者がいるのなら好きにさせておけばよい。アーベルも心得たものでこちらが何も言わずとも興味のなさを見て取って、次の報告に移った。
窓の外に目をやると、この時期では珍しく雲一つない晴天だった。そのせいで久方ぶりに外出してみようかという気になった。
静謐に満ちた空間に、時折そよぐ風が湖面をゆらす。この場所は気に入っていたため何度となく訪れていた。木々は既に葉を落とし殺風景とも言えるが、何となく心が落ち着くのだ。じきに雪が一帯を白銀に変え、湖も一層澄み渡るだろう。もうぼんやりとしか覚えていないが、一度だけ母と一緒に来たことがあった。どんな会話を交わしたか記憶にないが、その儚い笑顔だけは鮮明に刻まれている。
ふと背後に気配を感じて振り向くと、漆黒の鳥が自分を見下ろしている。この辺りでは見かけない渡り鳥の一種だ。群れからはぐれたのか辺りに仲間の姿が見当たらない。飛来場所の最北端はフィラルド王都辺りのはずだが、よくもここまで迷いこんだものだ。普段あまり気に留めることのない国の名前が続いて頭をよぎったことで、戯れを思いついた。
「仲間のところまで連れて行ってやろう」
シュルツはそう呟くと鳥に手を伸ばし、呪文を詠唱した。
城に戻ると鳥の羽を水鏡に浮かべて、血を一滴たらす。言葉を紡ぎ、魔力を一点に集中させると水面に像が浮かび上がってきた。湖を樹上から見下ろした風景が映し出されている。鳥と同調できた証だ。術が途切れるまで自分の意のままに操ることができる。
フィラルド城には優秀な魔導士がいるらしい。どの程度のものか見てみるのも一興だろう。意識を傾け、鳥を王都へと向かわせた。精神操作は術を掛けること自体は高度な技術と魔力が必要だが、一度支配してしまえば自我などないに等しい獣を操る分には微量な魔力で事足りる。そのため鳥は結界に引っかかることなく、城内に舞い降りた。
共有しているのは視覚のみだが、シュルツは城内に張られた結界がどの程度のものか感じとることができた。
こんなものか。
並みの魔物であれば破ることはほぼ不可能と言って差し支えないだろうが、自分であればさほど困難ではない。急速に興味を失い同調を切ろうとしたその時、視界に黒いものが掠めた。
引っかかりを覚えて鳥を操り確認すると、それは黒髪の娘だった。目の前が見えているかどうかも怪しいくらいの大量の本を抱えて、廊下を歩いている。不意に娘の視線がこちらに向いた。鳥の存在に気づいたのか驚いたような顔をしたが、すぐにそれは嬉しそうな笑顔に変わる。
「…っ!」
心臓が大きく跳ねて、視界が大きくぶれる。同調が弱まり、鳥が自由を取り戻しかけているせいだ。急激に昂った鼓動をなだめながら、再び鳥の意識を操作する。
……一体何が起きた?
視界が元に戻ったときには、そこに娘の姿はなかった。戸惑いつつも先ほどの娘の姿を探すと、娘は書庫らしき場所にいた。今度は見つからないように慎重に距離を取って観察するが、娘から魔力は感じられず、どこにでもいる普通の人間にしか見えない。先ほどの動悸の原因は魔導士の術ではないようだ。
それではあの衝撃は何だったのか。
娘の前には大量の本が置かれ、何やら調べ物をしているようだ。熱心に本と向き合っていた娘が急に顔を上げた。気づかれたかと警戒したが、その視線の先にはトレイを持った少年が立っていた。二人は一緒に座ってお茶を飲みながら、楽しそうに会話を交わしている。娘は菓子を口に運ぶと、先ほどよりも更に嬉しそうな笑みを見せた。
また鼓動が早くなったようだ。娘の笑みとこの現象は何の関係があるのだろう。何故か無性に引きつけられる。
ぱしゃり、という音と同時に視界がブレて同調が途切れる。自分の手が水面を揺らしているのを見て、無意識に手を伸ばしてしまったことに気づいた。どうしてそんなことをしたのかが分からない。
何かがおかしい。
己の変調に思考を巡らせたが、一向に答えは得られなかった。
自分に生じた異変の原因を確かめるべく、フィラルド城へ向かうことにした。
「魔王陛下が直々に出向く必要など―」
アーベルが何やら諫めるような言葉を口にしていたが、黙殺する。
魔王と呼ばれるようにどれくらい経っただろうか。父は魔王と呼ばれていたが、自分もそんな存在になるなど考えていなかった。だから母が亡くなって間もなく城を出た。特に目的があったわけではないが、ただ城で過ごす日々が退屈だったからだ。
外での生活は特に支障はなかった。寒さもさほど気にならなかったし、食糧の調達も容易であった。ただ当てもなく彷徨っているだけで、ちょっかいを出す魔物が多くいたからだ。まだ背も低く小柄な体躯であったため、軽んじられていたのだろう。そうして誤った選択をした者たちから奪えばよかった。城にいたころには特に行使することなかった力だが、本から得た知識と独自の感覚で術を編み出し、技術を高めていくのはおもしろいと感じた。試行錯誤を繰り返し、力を完全に掌握した頃には、自分に戦いを挑むものがほとんどいなくなっていた。
「そろそろ一ヶ所に留まっても良いのではないでしょうか」
アーベルがそう提案したのもその頃だった。勝手に付いてきたが雑用をこなすので好きにさせておいた。住居を用意するのが面倒だ、と告げると城に戻ればよいと言われた。風の噂で父上が亡くなったことは知っていた。主がなくなった後に生じた小競り合いの結果、随分な数の死傷者が出て今は廃墟になっているはずだ。積極的に提言するアーベルに特に反対する理由も見つからず城へ戻り、気づけば魔王として崇められることになった。
自分は何も変わらないのに、周りだけが勝手に変わっていった。
月が明るく、城門を照らしている。
そのまま力ずくで結界を破壊すると大事になり、娘を探すにも手間取るだろう。そう判断して普通の人間には気づかれないよう結界に徐々に負荷をかけて、術を解いた。術者には気づかれただろうが、構いはしない。一番守りが堅牢であった箇所から侵入する。
壮年の男が暗闇の中で身を起こす。フィラルドの王だろう。誰何する声は緊張を帯びていたが、威厳を失ってはいない。
この者に聞けば娘の居場所が分かるだろうか。
そう思ったがすぐに自分が間違いに気づく。
あの時の様子からすれば娘は侍女かそれに近い者に見えた。ならば一国の王が使用人の部屋など知っているはずもない。そもそも娘の名も知らぬ。いささか性急であったと今更ながらに思い至った。
部屋の外から複数の足音が聞こえ、扉が勢いよく開かれる。兵と魔導士が合わせて五,六人。この中に娘を知っている者がいればよいが…。
とりあえず兵士は死なせぬ程度に体の自由を奪ったが、残った魔導士は思いの外抵抗が激しい。命まで奪う必要性は感じていなかったが、少々邪魔だ。そう考えて行動に移そうとしたとき、再び扉が開いた。
また邪魔が入ったかと、視線を転じれば目的の娘の姿があった。確かめるべく近くに移動すれば、傍にいた王女を背中に庇いまっすぐにこちらを見返してきた。
とくり、と心臓が鳴った。
 




