16 懐かしい味
翌朝は頭痛も熱もなく、佑那はすっきりとした気分で目が覚めた。
隣を見ると魔王が眠っている。いつもは佑那より早く目を覚ますので、寝顔を見るのは初めてのことだった。遅くまでずっと看ていてくれたのかもしれない、そう思うと胸が痛くなる。
これは、罪悪感なのかな…。
誘拐犯のくせに優しくしないで欲しかった。突然異世界に来るはめになった佑那にとって、フィラルド城も魔王の城も知らない場所という点ではあまり大差がなかった。加えてフィラルド城で過ごした時間も短く、それゆえに攫われたという感覚も薄かった。
ストックホルム症候群なのかなあ。
誘拐・監禁された被害者が加害者である犯人に好意的な感情を抱く状態になることをそう呼ぶらしい。
まあ好意にも色々あるけど……。
それ以上考えるのは危険な気がして、佑那は別のことを考えることにした。先延ばしにしていた約束も、そろそろ答えを出さなければならないだろう。佑那が求婚を拒否した場合、魔王もまた自分の願いを取り消すのだろうか。
これじゃ駄目だ!思考が切り替わってない上に、ネガティブな方向に進んでいる。
憂鬱な気分になった佑那の頭を優しく撫でる感触に、顔を上げるとアメジストの瞳があった。
「あ、おはようございます」
「具合は」
「はい、おかげさまですっかり良くなりました。ありがとうございました」
にっこり笑って返答する。気分がよくなったのは本当だが、それ以上に魔王に心配をかけたくない。外出時の気まずさもすっかり薄れていた。
確かめるように魔王は佑那の額と頬にゆっくりと口づけを落とす。くすぐったさを覚えたが、ただの確認だろうと特に気を留めなかった。
それで離れると思っていたのだが、そのまま抱きしめられると唇を重ねられた。予想外の展開に驚いて、声を上げようと口を開いたのは失敗だった。
「ふぁ…っ」
途端に上顎を舐められて、思わず変な声が出た。
触れるだけのキスではない、舌を絡められ貪るような激しいキスにくらくらした。
息苦しさが限界に達しそうになったころ、ようやく解放された。息を整えながら魔王を見上げると、佑那から目を逸らし「済まぬ」と一言詫びるなり、寝室から出て行ってしまった。
鏡を見ずとも自分の顔が真っ赤に染まっていることが分かる。何度も気づかない振りをしようとしたが、もう駄目だ。どうしようもなく、自覚させられてしまった。自分が魔王に魅かれていることを。
主がソファーで膝を抱えて丸くなっている。
「……姫に嫌われてしまった」
アーベルの部屋に現れてそう告げてから、ずっとこの状態だ。どうやら落ち込んでいるようだが、迂闊に刺激してしまうのが怖くて様子を窺っていた。
慎重に時間をかけて聞き出したところ、姫の同意を得ずに口づけを交わしてしまったらしい。
それだけですか…?
アーベルは思わず口走りそうになって自重した。
この方は本当に自分の知っている魔王陛下だろうか、とアーベルは半ば本気でそう思った。大体ずっと寝所を共にしていて、今まで手を出していなかったことが信じがたい。
「それで、姫君はどういうご様子でしたか?」
「分からぬ」
すぐに部屋を出て行ってしまったから、と答える声に力がない。相手の反応が分からなかった以上、嫌われたと決めつけるのは早計だろう。
「まずは謝罪をして姫の反応を窺ってはいかがでしょうか。もし許してもらえない場合は、どうしたら良いか考えましょう」
アーベルの言葉に頷きつつも、魔王は何やら真剣に考えている。魔力も知力も行動力も優れているのに、意中の相手のことになると勝手が違うようだ。感情が芽生えていることは陛下にとって不利益になる可能性は否めない。それでも今は主の望むとおりに従うまでだ。
それにしてもどうして急にそんな事態になったのか。
「笑顔で礼を言われて、つい自制が効かなかった。看病の時に水を口移しで与えていたのもまずかった」
既に同じような行為をしておいて、今更口づけが駄目な理由が全く分からない。
どうして主はその点に思い至らないのだろう。
主がいなくなった部屋でアーベルは大きくため息をついた。
「済まなかった」
開口一番謝られて佑那は反応に困った。どう返事をするのが正しいのだろう。
「二度とあのようなことはせぬから、許してほしい」
判断がつかず即答できない佑那に魔王はさらに言葉を付け足した。きっと魔王は佑那が怒っていると思っているのだろう。抵抗しなかったのは嫌ではなかったからだし、それについて許すも許さないもないのだが、迷った末に一つ頷いて了承の意を伝えた。
魔王は安心したように息を吐き、一緒に持ってきた器の蓋を取る。見覚えのある料理を目にして、佑那は思わずつぶやいた。
「これって…もしかしてポリッジ?」
幼いころ風邪を引いたときに母がよく作ってくれたものだ。まさかこの世界でも食べられるとは思わなかった。柔らかく煮えたオートミールにハチミツとミルクの香りに食欲を誘われる。
魔王がスプーンですくって無言で佑那に差し出す。
それはちょっと、恥ずかしいというか……。
やんわりと断りの言葉をいくつか口にしたが、病み上がりだからという理由ですべて却下された。
薄々思っていたのだが、魔王はちょっと過保護すぎる。
しぶしぶ受け入れたポリッジの味は佑那が子供の頃に食べたものとそっくりだった。似たような料理はあってもこちらの世界でこんなに同じようなものを食べたのは初めてかもしれない。思わずしげしげとポリッジを見つめていると、魔王は無言で次の一口を差し出す。
温かくてほのかな甘さがとても懐かしくて、堪える間もなく涙がこぼれ落ちた。
「姫、どうした?」
無性に家族に会いたくなった。いつでも連絡が取れるからとまめに連絡を取らなかったことを今さらのように後悔している。母の料理を教わることも、育ててくれたことへの感謝の言葉も伝えることもできない。もっと一緒に過ごせばよかった、いつも気持ちを伝えていれば良かった、溢れてくる想いと涙が止まらなかった。突然泣き出した佑那の背中を、魔王はあやすように無言でずっと撫でてくれた。
少し経って泣き止んだ佑那が謝罪の言葉を口にすると、魔王は何も聞かずにポリッジを食べさせてくれる。また涙ぐみそうになったが、一口ずつ味わいながら平らげた。
「ごちそうさまでした」
泣いたおかげで自分が抱えていたものが分かって、少しすっきりした。
「何か他に必要なものはあるか」
先ほどのことを気にしているのかもしれない、と申し訳ない気持ちになる。
「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
頭をそっと撫でられる。
子供のような癇癪も、感情の昂りもホームシックから派生していて、自分で思うほどしっかりした性格ではなかったのだな、と客観的に思えるようになった。元の世界に戻りたいという思いは変わらないが、魔王のそばにいたいという気持ちも強くなっている。
でもいつまでこのままでいられないよね…。
佑那は魔王に嘘を吐いて、フィラルド国王女として振舞っている。その嘘がばれてしまえば、今の状況は容易く失ってしまうだろう。自分の気持ちがどうあれ先延ばしにした約束もそのままにはできない。
自分の軽率な言動で身動きがとれなくなっている現状を打開するため、佑那は真剣に考え始めた。
 




