1 異世界の救世主
「もういいよ。君、クビね」
あっさりとバイトを解雇された佑那は、肩を落としながら家へと向かう。
私、間違ったことしてないのに…。
働き始めたばかりの居酒屋で、女性スタッフがお客さんから強引に言い寄られている場面に遭遇してしまった。自分自身が対象ではないし、被害を受けているスタッフも事を荒立てまいとしているのはすぐに分かった。それでも見て見ぬふりはしたくなくて間に入ったことで、余計に面倒なことになってしまったのだ。
佑那の些細な一言が酔っ払いの癇に障ったらしく、幸いけが人は出なかったものの食器や机がひっくり返され、大騒動となった。
「うん、まあ仕方ない」
言い方は間違ったとはいえ、困っている人を見捨てるのは気分が悪い。
『佑那は人を助ける優しい子になって欲しいから』
そんな想いを込めて付けた名前だと知ってから、その名前に恥じない生き方をしようと決めた。だから後悔はしていないけれど、先立つものがなければ生きていけない。
「やっぱり一緒に付いていけばよかったかな……」
父は海外に多くの支店を持つ旅行会社に勤めており、言語堪能な父は海外で働くことが多かった。両親が家族とともに暮らすことを選んだため、佑那が日本よりも海外で暮らした年月のほうが長い。それでも自分のルーツがある国だからと、日本の大学を進学先に選んだのと同じタイミングで両親は再び海外支店で働くことになった。
『もう大学生だから生活費ぐらいは自分で稼ぐよ』
そう言ったのは他ならぬ自分だ。
一夜明けて少し気分が回復したが、すぐに仕事を探し始める気にはならない。気分転換も兼ねて佑那は散歩がてら近所にある図書館に行くことにした。
あまり広くはないが、手書きのお知らせや可愛い付箋に書かれた本の紹介など温かみのある雰囲気が気に入っている。週末明けのため利用者が少なく、外国語の書籍が陳列されている地下の書庫には誰もいなかった。外国暮らしと両親の影響で佑那自身も他言語を学ぶことが好きだ。
他の言語も勉強してみたいけど、広東語とか、漢字文化から学習するのが親しみやすいかな?
そんなことを考えながら西欧文学の本棚をぼんやり眺めていると、一瞬違和感を覚える。
不思議に思ってもう一度ゆっくり眺めてみれば背表紙に見慣れぬ外国語が記された本がまぎれている。どこの国の言葉だろうかとワクワクしながら手に取ってみると、ずっしりと重く装幀もどことなく高級感がある。読めない文字にも関わらず内容が気になり本を開いた途端、眩しい光に襲われ、佑那は意識を失った。
女性の悲鳴を聞いた気がして目が覚めた。視界に光沢のある藍色のカーペットが映る。何故自分が倒れているのか、と疑問に思いながらも体を起こすと見覚えのない室内。見渡す限り本棚が並んでいるが、広さも本の数もさっきまでいたはずの図書館と全く違う。見慣れない外国語の本を手にとったところまでは覚えている。だけどあれから移動した覚えもないし、何が起きたのかさっぱり分からない。
「…夢、じゃないよね」
夢にしては現実感があり過ぎる。思わず頬っぺたを思い切りつねってみるが普通に、というかとても痛い。すぐに手を放すが、ひりひりした痛みは残ったままだ。どうやら夢ではなさそうだ。説明のつかない状況に不安感を募らせた時、扉が乱暴に開く音と慌ただしげな足音が聞こえてきた。
音のするほうに顔を向け現れた人物たちを目にした瞬間、佑那はさらに混乱した。甲冑を纏い兵士のような恰好をしている数人の男達と中世の貴族のような服装にローブをまとっている男性。
え、映画の撮影、とかじゃないよね…。
現実離れした光景にそんな考えが浮かぶが、本能が違うと訴えている。あっけにとられたユーリにローブの男性に険しい表情で話しかけられるが、全く理解できない。何語か推測することもできず、狼狽えるばかりだ。答えられない佑那に苛立ったのか、兵士の1人が剣を抜く。実物を見たことはないが、彼らの様子から推測する限り、本物の可能性が高い。
混乱が一気に恐怖に変わった。言葉も状況も分からないけどこのままじゃきっと殺される。
「あの、すみません。ここは何処ですか?」
まずは日本語で、それから英語やフランス語など知っている単語を並べて話しかけてみるが、四人の顔に浮かぶのは困惑だけだった。
どうしよう、全然通じない…。
泣きたい気分になりながらも言葉を止めない。対話を諦めれば不穏な光を帯びる剣が使われるのではないか、そんな想像が頭から離れなかった。
不意にローブをまとった男性が一歩前に出て手を伸ばし、佑那の頭に触れた。驚いて後ずさろうとしたが、咎めるような目で睨まれたため動きを止める。下手に動くと命が危ないかもしれない。男性はそのまま何ごとかを唱え始めその声が途切れた瞬間、急に頭にヒヤリとしたものを感じた。
「―私の言葉が分かりますか?」
「あ、分かります!どうして急に?日本語が分かるのですか!?」
思わず前のめりで尋ねる佑那に、男性は丁寧な口調ながらも探るような目を向ける。
「ニホンゴとやらは分かりませんが、あなたが我々の言葉を理解できるように術をかけました」
「はい?」
術って何?
知りたいような、知りたくないような不安な気持ちと嫌な予感が湧き上がってくる。
「さて、言葉が通じるようになったところで教えていただきましょう。私はフィラルド王国筆頭魔導士のウィルといいます。あなたは何者で、そして何の目的で城内に侵入したのですか」
フィラルド王国など聞いたことがない。…それに魔導士という通常の生活で使われることのない単語。
聞きたいことが山ほどあったが、どうやら不法侵入していることになっている。そのため佑那はまず相手の質問に答えることにした。
「私は佑那といいます。日本という国の学生です。どうしてここにいるのか自分でも分かりません。ただ近くの図書館で本を読もうとして、気づいたらここにいたんです」
ありのままを伝えたが、すぐに失敗したと思った。言葉にするとあり得ない状況に、嘘を吐いていると思われても仕方ないのではないか、そんな不安は聞こえてきた声に打ち消された。
「…まさか、本物なのか」
先ほどまでの険しい表情から一転して、男性は真剣な表情で佑那を見つめている。
本物って何? もしかして、この人は何か知っているかもしれない。
そう考えて彼に尋ねようと口を開きかけたとき、淡い萌黄色のドレスに包まれた女性が現れた。
「姫! こちらに来てはなりません!」
「大丈夫よ、ウィル。だってお姿といいタイミングといい、伝承どおりなのでしょう」
鋭い制止の声に構うことなく、姫と呼ばれた女性は柔らかく微笑んだ。
「ウィルが結界を施したこの城に魔物は容易に侵入できないし、普通の人間が警備の目に留まらずにここにたどり着けるわけがないわ」
それから嬉しそうな表情を佑那に向ける。
「この者たちの非礼をどうかお許しください、異世界の救世主様」
そう告げると女性は優雅に一礼した。