第2話 そいつは言わぬが花ってやつだ
駕籠を捕まえてアマアナを家に送り届けたジャンは、そのまま家に取って返した。
家ではとうに夕餉を終え、板座敷ではゼベルが煙草をやりながら、ガミラと差しつ差されつ晩酌を楽しんでいた。
ジャンから事の大略を聞いたゼベルは微かに笑みを浮かべ、
「ふむ、お妾の小便癖を止める薬かい。まあ腎気丸でお決まりだが、そういうのはとっくに試してるだろうなあ。しっかし」
煙管を吸ってふうっと煙を吐いた。
「馬っ鹿じゃねえのか。頂くときの小便を止めさせようなんて、なあ」
隣に坐るガミラに顔を向けた。
「もう、知らないよ」
ガミラが顔を赤らめて首を竦めたが、オークなので大して小さくなったように見えない。
「ジャンも耳ばっかり助平になっちまったなあ」
「自分で望んだ訳じゃないよ」
「お前えもそろそろ、女の柔肌を知ってもいい年頃だあ。誰かに介添えでも頼むか」
愉快そうにゼベルが笑った。
介添えとは、主に初陣に臨む騎士の親に頼まれて若者に手を貸し、手柄を立てさせる役の者をいう。常に若者を庇い、先に立って敵を突き弱らせ、ここぞというときに首を討たせる。戦場の駆け引きを知る戦巧者でなければ務まらない名誉の役である。
転じて庶民の間では、少年を岡場所に連れて行って、これぞと見込んだ遊女を宛がって筆下しさせる先達の者を介添えと呼ぶようになった。
「あんた、何てこと言ってるの」
ガミラが眼を吊り上げた。
「わかったわかった、この話は止めよう。ほら、無い無いだ」
ゼベルは慌てて両手を振った。
ガミラが落ち着くのを見計らったゼベル、灰吹きで煙管を叩くと、
「ちょっと待ってな」
さっと奥へ引っ込んでいった。暫く物音を立てていたが、
「あった、あった」
戻ってくると、
「ほれ」
と一合升を床に置いた。さらりと音がする。ジャンは中を覗き込むと、
「父さん、西瓜の種じゃないか」
なんだよ、こんなものと失望を隠さないジャンに、ゼベルは諭すように言った。
「何を騎士様みてえな寝言を利いてやがる。確かに赤い切り口が生首みてえで縁起が悪いって、お役人は見向きもしねえがな」
他愛もない話を枕にして、
「西瓜ってのは五臓の妙薬なんだ。赤い汁は膵臓の疲れに効く。皮は他の薬と煎じて服めば腎虚の薬、種だって無闇に捨てるもんじゃねえ。干して塩炒りして酒の当てにする他に、陽虚の薬にもなるんだ」
陽虚とは、腎が弱って頻繁に小便が出る病という。
「これを炒って、それだけじゃ有難味が出ねえから、薬研で砕いて粉にして、小綺麗な袋にでも入れたれば、さて、ゴブリンの秘術を尽くした霊験も灼かな小便止めの霊薬だあ」
さあ、どうでえと見得を切った。
「本当に効くのかい」
ジャンはまだ半信半疑だ。
「病は気からっていうじゃねえか。詐欺みてえな偽薬が不治の病を治したって話もあるんだ。物は試しと持って行ってみな」
ガミラに顔を向けて、
「明日の朝、こいつを炒って砕いて粉にしてくんな。明日は朝から俺とジャンで掛け取りに回らなきゃならねえが、昼前には帰ってくるからよ」
「あいよ、お前さん」
ガミラが升を受け取ってにこりと笑った。
ゼベルはふうと溜息をつくと、湯呑の酒を傾けてふいに遠い目をした。
「しかしなあ、お役人の考えることはわからねえもんだ」
「そうなのかい」
ジャンが訊くと、ぱっと顔を向けて勿体ぶった咳をして、
「いいか、息子よ、よく聞け。媾いの床で敵方が感極まって漏らすなんざ、むしろ男子の誉ってもんだ。こいつなんざ」
と煙管でガミラを指すと、
「閨で凄え声を上げるわ、しょっちゅう漏らすわ噴くわだから、事をいたす前には枚を銜ませ床に油紙を敷いてだな」
「いやだ、あんた、恥ずかしい」
顔を真っ赤に染めたガミラがゼベルをちょんと小突き、ゼベルの身体が宙を飛んで壁に叩きつけられた。
(そんな話聞きたくなかった)
壁から崩れ落ちる父親を冷たく眺めながら、ジャンは心の底からそう思った。
次の日、ジャンが中町楠通り三丁目に建つクロド屋に着いたのは、昼の八つの鐘が鳴る頃だった。庵に杏葉紅葉の紋が入った藍染の暖簾を潜って框の前に立つと、いらっしゃいませと手代が声をかけてきた。
クロド屋は格式高い上菓子屋だ。格下の有卦菓子屋や駄菓子屋のように店頭に菓子を並べたりしない。客の注文を聞いて、丁稚に言いつけて奥から持ってくる。
「どういったご用件でございましょう」
ジャンのような若僧にも丁寧だ。教育が行き届いている。
ジャンは足を拡げて両の掌を膝に置くと、
「南大路で道具屋を営んでおりますゼベルと申す者の倅、ジャンと申します。アマアナお嬢様に御注文の品をお届けに参りました」
ジャンの口上を聞いた手代、居住まいを正すと、
「これは御丁寧に。ここは混み合っておりますので、御手数ですが、どうぞ勝手にお回り下さい」
と頭を下げた。
「いえ、こいつをお届けに参っただけでございます。ここで御勘弁を」
絹の袋を差し出したが、手代は請け合ってくれない。
「そういう訳には参りません。さあ、こちらへ」
下駄を履くと、半ば強引にジャンを引っ張って裏庭へ歩いて行った。
勝手口の上り框にジャンを坐らせると、待ち構えたように下女が盆に茶と薄く切り揃えた羊羹を乗せてやってきた。
「このままお待ちになって下さい。すぐアマアナを呼んで参ります」
そそくさと奥へ入ってしまい、ジャンは一人ぽつんと残された。
「参ったな」
黒文字の楊枝を取って、羊羹を一切れ口に放り込んだ。
「こりゃうめえや」
上品な甘みが口中に広がって思わず声が出た。と、奥から声が飛んできた。
「そりゃそうよ。うちの御小姓梅にけちは付けさせないわよ」
振り返ると、アマアナがふふんと顎を上げてやって来る。
「ああ、流石はトランドで一番と名高い羊羹だ。うまいもんだな」
「天下で一番よ」
そのままジャンの目の前に坐ると、
「例の物は持ってきたの」
いきなり尋いてきた。
「ああ、こいつだ」
ジャンが差し出した袋を引っ手繰るように取ると、袋の口を開いた。中は焦茶色の粉が入っている。
「何よこれ」
「ゴブリンの一族に伝わる尿止めの秘薬だよ。食後に大匙一杯ずつ服ませるんだぜ」
「本物なの」
アマアナは疑い深げな顔をした。
それはそうだろう。他の病なら兎も角、小便を止めるための秘薬なんて聞いたこともない。
「中身は何なの」
生まれつきのきつい眼つきでジャンを睨んだ。
「そいつは言わぬが花ってやつだ」
「まさか、如何物じゃないでしょうね」
「蛙や鼠まで喰わせておいて、そいつは今更だぜ」
粉を一摘み取って口に入れてみせた。
「ほら、変な物じゃねえよ」
「ふうん」
アマアナは不安げに袋の中身を覗き込んでいたが、
「よし」
心を決めたように立ち上がり、そそくさと雪駄を引っ掛けた。
「今から行くのかい」
「何言ってるの、あなたも一緒に行くのよ」
「え、俺もかよ。勘弁してくれ」
「駄目よ。何かあったら責任取って貰うからね」
「おい、引っ張るなって」
慌てて残りの羊羹を口に押し込むと、アマアナに引き摺られるように外に出た。
ダニアの父親の屋敷はメダリスの二百騎町にある騎士屋敷通りの一角にあった。下級騎士の屋敷らしく小じんまりとしていたが、手入れが行き届いていて、その内福ぶりを窺わせた。中を覗くと、御賄方らしく台所ばかりはやけに広い。二人は家の者に案内されて次の間を通り、座敷でダニアと面会した。
艶の入った鈍色の長髪を玉結びして、目尻がやや下がった眼に縹色の瞳がよく似合う、落ち着いた感じのする娘だった。
挨拶もそこそこに、薬の袋を置いてアマアナが切り出した。
「これが例の薬。こちらが持ってきたジャンって人なの」
すかさずジャンが平伏し、
「ジャンと申します。南大路の道具屋の倅でございます。以後、御見知りおきを」
口上を述べて挨拶した。
「ジャンさん、お顔をお上げくださいな。父の身分は騎士ですが、賄方の飾り騎士。お気遣いは無用にお願いします」
「へえ、有難うございます」
頭を上げてジャンが答えた。
「お薬を持ってきていただいたそうで」
「そうよ、ゴブリンの祈祷師が山に籠り、尿にちなんで四四、十六日、護摩を絶やさず祈り続けて作った仙薬なんですって」
アマアナは好き勝手に話を盛った。
「まあ、それは」
ダニアが手を口に当て、眼を丸くした。
「早速今日から試してみて」
「ええ、それが」
あまり乗り気でないふうにダニアが言い淀んだ。
「どうしの」
「あのね、アマアナ、骨折ってもらって悪いのだけど」
ダニアは暫し逡巡しているようであったが、
「いらなくなったの」
消え入るような声で言った。
「え、エネさんの癖が治ったの」
「いえ、治った訳じゃないのだけど」
困ったような照れたような笑いを浮かべ、
「あのね、お父様が、そのままでいいって」
「どういうことなの」
「エネさんのお小水癖を治さなくていいって言い出したの」
とうとう顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「どういうことなの」
なおも聞き出そうとアマアナが身を乗り出したが、とうとうダニアは手で顔を覆って黙り込んでしまった。
「そこから先は私が話そう」
襖を開けて、萌葱色の胴服を羽織って茶人風に作った総髪の中年男が入ってきた。
「お父様」
声を上げたダニアの左隣に座ると、
「ダニアの父、ライリイ・ゲイルです」
にこやかな顔で告げた。
「へ、へいっ、ジャンでございますっ」
慌ててジャンが畳に額をつけた。
「そう畏まらずともよい、よい。面を上げて楽にしてください」
ダニアの隣に坐り、
「色々と手間をかけたようですね。礼を申します」
「と、とんでもないことでございます。この度はくだらない真似をいたしまして」
「いやいや」
ほっほっと笑ってライリイは腕組みし、
「私も料理以外には気の回らぬ無粋な男でしてな。エネの体の性質を無理に直そうとして、角を矯めて牛を殺すが如き真似をした。あの癖も丸ごと受け入れてやらねばならぬと悟ったのです。あるがままが全て、全てはあるがままですよ」
うんうんと頷いた。
「それはまた御立派なお考えでございますね」
答えながら、
(ふん、物は言いようだぜ)
ジャンは内心鼻白んだ。要はエルフの美女の小便を浴びて、新たな性癖に目覚めたのであろう。が、ジャンも敢えてそれを指摘しないだけの礼儀は心得ている。ダニアは相変わらず顔を赤らめ、アマアナは棒を呑んだような醒めた顔でライリイを眺めている。
「それで、これですか、ゴブリンの仙薬というものは」
ライリイが袋を手に取って、口を開いて覗き込んだ。
「へい、実は」
気が楽になって、ジャンは口を滑らせた。
「西瓜の種を炒めて挽いたものでございます。陽虚によく効くものですが、酒の肴としても結構なものかと」
「ほう、西瓜の種ですか。騎士料理に西瓜は禁じ手なのですが」
ライリイは感心したように呟き、袋を傾けて掌に受けると、ひょいと口に入れた。暫く味わっていたが、
「ふむ、これはなかなか玄妙な味。いい体験をしました」
にこりとジャンに笑いかけた。
「へえ、お粗末様でございました」
ジャンは何故か嬉しくなって何度も頭を下げた。
それからしばらく談笑していたが、やがてライリイは懐に手を入れると、
「さて、奔走してくれたお二人に礼をしたいが、先ほども言ったように、食膳以外は何も知らぬ男でしてね。気の利いた物も用意できず申し訳ないが、せめてもの気持ちです」
紙入れから四両取り出してざらりと畳に並べた。
「いや、そんな積りは」
ジャンは手を振ったが、横からアマアナが、
「いいから取っときなさい」
小声で言うので、仕方なく両手で奉じるように受け取って、
「有難たく頂戴します」
それからジャンとアマアナはへこへこ何度も頭を下げて、逃げるように屋敷を後にした。
「ふう、全く気疲れしたぜ。肩が凝っていけねえ」
独り言のように呟いて、肩を揉んだ。
「でも良かったじゃない。四両も頂けて」
「ああ、無駄足にならなくて済んだ。そうだ、二両取っときな」
懐から小判を二枚取り出した。
「それよりそのお金で何か美味しいものを食べに行きましょ」
アマアナがジャンの袖を掴んだ。丁度七つの鐘が鳴っている。もうすぐ晩飯時だ。
「どこか美味しいお店に連れて行ってよ」
「さて」
ジャンは首を傾けて考えていたが、
「近くにうまい飯屋を知ってるけど」
思わせぶりにアマアナの顔を見た。
「さて、お嬢様のお口に合いますかどうか」
「何よう、言ってみなさいよ」
「あぶ玉って言って、玉子でとじた油揚げなんだが」
「へえ」
アマアナが眼を輝かせた。
「これを丼飯に乗せて食うと、これが妙に美味いんだ」
「うへえ、丼物なの」
アマアナが僅かに眉を歪ませた。
それも仕方のないことだ。この時代、飯と菜を一つの食器に盛る丼物は、車夫人夫が食う下手な食い物とされ、上品な家の者が口にするものではないとされていた。
だが、菜をかけた飯が不味いわけがない。だから時代が下ると、丼の代わりに重箱を使う食べ方が考えられて、武家や富裕な商家にも拡まることになる。
「やっぱり、下々の飯はアマアナお嬢様には無理かあ。美味えのになあ、あぶ玉丼」
揶揄うようにジャンが軽口を叩いた。
「むう」
アマアナ、暫く唸っていたが、
「いいわよ、案内なさい。食べてあげるわよ、あぶ玉丼。食べてやるんだからあ」
まるで鬼退治でもするかのように大声を上げた。
「それじゃあ、お供いたしましょう」
アマアナの手を引いて、ジャンは笑いながら歩きだした。