第1話 何度も言わせないで
御堀川の方向から吹いてくる冬の風がびゅうと一声唸り、ジャンの左頬を勢いよく打った。
「うう、寒ぶ、勘弁してくれよ」
風に巻き上げられそうになった破れ笠を慌てて押さえ、ジャンは思わず顔を上げた。
まるで力士の張り手みたいな風だとジャンは口を尖らせ、襟を深く合わせてそそくさとジュウレン橋を渡り始める。足の下ではタトン川のどんより濁った水が細かい泡を噴き上げている。
さっきジャンの笠を奪い損ねた北風が、フォス大橋の橋桁に当たって不気味な音を立てる。北洋の民なら雷鳴神の投擲鎚を、カルフィールの民ならアルテラ族エルフの叛乱を告げる戦太鼓の音を即座に思い起こすに違いない。力強く、無慈悲な音だ。
「股引穿いてきて正解だったなあ」
石の欄干の隙間から吐き出される風が着衣の裾を乱し、路上に落ちている札紙や松の小枝をくるくる回している。
「こんな寒い日は、早く温いとこに入って温いもん食うのが一番だぜ」
背を丸めたジャンは、風に嬲られながら足早に橋燈籠の脇をすり抜けた。渡れば対岸はサンマイ町である。
見ると八丁味噌で煮しめたみたいに汚れた暖簾の飲み屋が口を開けている。ジャンは鼻をぴくぴく蠢かせると、暖簾を小手で掻き分けた。油染みた戸をがらりと開ければ、店内は細長い鰻の寝床。そこに長机と椅子代わりの空樽が並んでいる。山椒や七味を入れた小壺が並んだその奥では、四角い深鍋がぐつぐつ音を立てている。
ささくれ立った畳が敷かれた追い込みに、揃いの法被を引っ掛けたゴブリンの職人らしい一団が、面突き合わせて湯呑の酒を嘗めながら何事か語り合っている。
ジャンは笠を壁に掛けながら、屑肉の串を鍋の縁に並べているドワーフの亭主に、
「大将、知り合いが来るんですが」
耳に黒数珠をかけたドワーフが満面の笑みを浮かべて奥へ顎をしゃくった。
「もう四半刻も前に来て、座敷で待ってるぜ」
「え、そうですか」
ほっとすると同時に胡乱なものを感じた。いつも遅れてくる彼女が彼より前に来ている。しかも、いつも好んで坐る長机を避けて。
「それじゃ、上がらせてもらいます」
雪駄を後ろに蹴り上げて汚れ畳に上がって細い廊下へ足をかけた。
「何かつけようか」
「あったかい『村雨』を銚子で二つ、頼んます」
粋な名だが、中身は多めの水で割った安酒だ。百姓が店で腹一杯に呑んで、さて帰ろうと歩いて村に着く頃には醒めているから、むらさめと洒落ているのだ。
さして長くもない廊下の行き止まりの襖をひょいと開けた。
「お待ちどう」
こんな店なので、座敷といっても狭い三畳間。その真ん中に小さな炬燵が置かれ、老舗の菓子屋クロド家の一人娘アマアナが顔を上げた。
「もう、遅い」
小梅模様を散らした打掛を重ね着したアマアナが、布団掛けの炬燵で口を尖らせた。年季の入った敷台の上には湯呑が一つ。
「何だよ、何も頼んでなかったのか」
「待ってて上げたのよ」
「それは済まなかった。ほんに今日はよく冷えるぜ」
ジャンは急いで炬燵の中に足を入れた。
「わっ、冷たい。ちょっと、足、足」
アマアナの脹脛にもろにジャンの足が触れ、彼女は大袈裟に驚いてみせた。
「すまねえ」
足音がして、亭主が銚子を運んできた。
「なんや楽しそうだな」
「そっちも客が多くて景気よさそうで」
追い込みにいるゴブリンたちの笑い声がここまで聞こえてくる。
「いいことあるかい」
亭主は顔をむっとした。
「毎日ああして徒党を組んでやってきて、口開けから店閉いまで居続けだ。その間ずっと、酒はちびちび嘗めるだけ、儂の自慢の土手焼きもちょっとしか喰わん。三日に一度は殴り合いの喧嘩だ。まったくゴブリンってえ連中は何考えてるのかわからねえ。やってられねえぜ」
「そりゃあ大変ですね」
「応よ」
ドワーフが憤懣やるかたない態度で腕を組んだ。
「それで、注文はどうする」
「柔いところを四本ほど」
ドワーフが目を閉じて首を横に振った。
「駄目だな。さっき仕込んだばかりで、どれもまだ固え」
「なんだ、やっぱり儲かってるじゃないか」
「いや、実はなあ」
髭の奥の口が曲がってにっと笑った。
「昨夜の残り物のとろとろしたのは私が全部貰っちゃったわ」
アマアナが、どうだと言わんばかりの顔をして、ジャンに告げた。
ドワーフが笑い声を上げ、
「そういうことだ。ちょっと待ってな。お嬢ちゃんが注文した分、全部持ってくるからよう」
肩を揺すりながら戻っていった。
「すっかり下々の食いもんがお気に召したようで」
よく煮込まれて味噌焼けした肉の串に手を伸ばすアマアナを見ながらジャンが言った。
「この店だって、あなたが教えてくれたんじゃない」
上品な顔立ちに似合いの小さい唇へ、味噌の染みた肉の塊が一つ、吸い込まれていった。
「ふふ、美味しい」
この店の土手焼きは、他所の店のそれ比べて半分程度の大きさしかない。しかしその分、味のほうは良いというのが巷の評判だ。この意見にはジャンも賛同している。
「あなたも食べてよ」
「それじゃお一つ頂こうか」
串を手にして一つ齧り取った。
「どう」
「うん、うんまい」
「そうでしょ」
アマアナは自分が料理したわけでもないのに自慢気な顔をした。
アマアナは、再び肉を一つ口に入れ、猪口の安酒をくいと呷った。目元にぽっと朱が入って、ますます色っぽい風情になった。
足惚れ絵師の一件以来、アマアナはしょっちゅう店に顔を出すようになった。長々と尻を置いて談笑し、くだらない小間物を一つ二つ買って帰る。そういうことが何度か続いて、今度はゼベルとガミラがいらぬ気を使いだした。商売の邪魔になるとか理由をつけて、店の外で相手するようジャンに言いつけたのだ。
それからというもの、アマアナは暇を見つけてはジャンを呼び出して、日頃の愚痴やら近所の噂やらに付き合わせているのだ。
ジャンにすれば堪ったものではない。特に今は師走、暮れに向けて店も大車輪で忙しいのだ。アマアナとて老舗の娘、ジャンの家のような道具屋が、睦月の中頃までどれほど忙しく立ち働かなければならないのか、よく心得ている筈。
それが今日の夕暮れに急な呼び出し、しかも改まった態度で、こんな店の三畳間で。
「で、何か相談事でもあるのかい」
肉に山椒を振っていたアマアナの手が止まった。
「わかっちゃったかしら」
「まあね」
「実は、ねえ」
アマアナが居住まいを正して碧い眼をジャンに向けた。
「こんな話、ジャンに頼むのも」
冷えた煮付けの小鉢を自分のほうに引き寄せる。顔が紅いのは酒のせいだけではあるまい。
「まあ、酔って口を滑らせたとでも思って話してみないか」
ジャンは、なるべく気軽な口調で誘い水をかけた。
「うん」
やっと決心したのか、アマアナが話し出した。
「あのね」
普段のアマアナに似合わない小さいぼそぼそ声。
「おしっこ」
「はい」
ジャンは眉を顰めて耳に手をやった。
「止める薬が欲しいのよ」
「何だって」
「もう、おしっこを止める薬が欲しいの」
アマアナが火を噴きそうな顔で敷台をばんと叩いた。
「何度も言わせないで。恥ずかしいんだからあ」
「もしかして、お前え、まだ寝小便してるのかい」
ジャンがせせら笑いながら訊いた。
「違うわよ」
「だって、いま小便って」
「また小便って言ったら、私、ぐうで撲るわよ」
アマアナが真っ赤な顔できっと睨みつけてくる。
「わかったよ。ちゃんと経緯を話してくれ」
「あのね、私の知り合いに、ダニアって娘がいるの。うちの店とお付き合いのある、さる御家の御賄方の娘さんなんだけどね」
そのダニアなる娘の父親が、口入屋からエルフの女を奉公人として迎えたという。
「それがね、エネさんっていうんだけど、ただの下女じゃないのよ。つまり、あのね」
アマアナは恥ずかしそうに言い淀んだ。
「なんだい、実は化け女だったのかい」
「違うの、あの、夜も御奉公してるのよ、そのダニアのお父さんに」
「ああ、わかった。お妾さんってことか」
要するに、そのエルフの娘を二瀬として迎えたのであろう。二仕ともいう。下女と妾の二役を兼ねた女のことで、武家では「お摩り」、教会では「針妙」などと称する。主人の足腰を揉ませるからお摩り、教会では裁縫仕事をさせるからという名目で置くからだ。
「小役人が妾持ちかあ、いい世の中になったもんだ」
「旦那さんは腕が良くって、ナスカ町の料理屋に乞われて御指南に参られたりしてるんですって。それに御人柄も良くて、内々の御弟子さんも大勢いるそうよ」
御賄役人は前妻と死に別れ、妾といっても後妻のような扱いだという。
「薬がいるのは、そのお妾さんなの」
「お妾さんが寝小便垂れるのか」
「違うわ。あの、夜の床で、旦那さんといるときに」
気を遣ると、尿が止まらないという。
「それ以外は問題ないそうなの。美人で奥ゆかしくて、ダニアにも家の者にも優しくて、騎士の家の作法も心得ていて、ほんとにとてもいい人なんですって」
奉公先も、小便をやめさせようと必死になった。八方手を尽くして医者や治療法を探し、雨蛙の黒焼きや、果ては鼠の仔の酒漬まで食べさせたという。
「うへえ、そいつはまた気味の悪い薬食いだな」
口をへの字に曲げてジャンが呻いた。
「それでも治らないのよ。エネさんは奉公構いしてくださいって泣くし、でも旦那さんも家の皆もエネさんを気に入って手放したくないし」
困ったダニアは、藁にも縋る心持ちでアマアナにまで相談したという。
「それで小便止めの妙薬が欲しいってことか」
「そうなの」
「そりゃあ薬種屋や祈り屋の領分だ。うちはただの道具屋だぜ」
「お医者もお薬もお祈りも粗方試したそうよ」
さっきから猪口をくいくい呷りながらアマアナが吠えるように、
「ねえ、何か秘密のお薬とか隠し持ってないの。ゴブリンの秘宝とか、オークの邪法とか」
「アマアナ、読本に毒されてるぞ」
「もう、何でもいいから何かないの」
訳のわからないことを言い出した。いつの間にか目が据わってる。
「わかったよ、ちょいと父さんと母さんに聞いてみるさ」
「確かに頼んだわよ」
言い終わらないうちに、アマアナは敷台に突っ伏して、すうすう寝息を立てはじめた。
「こんな安酒で酔っ払うとはなあ」
首を傾けて、アマアナの寝顔を覗き込んだ。
「ずうっと寝てりゃあ、可愛いのに」
ジャンはすっかり冷めた土手焼きを齧りながら、どうやってアマアナを家に送り届けるか、思案に暮れた。