第1話 俺はまだ色恋も知らない子供だよ
その夏は兎に角暑かった。熱に当たった雀がぽとりぽとりと枝から落ち、それを食料にしようと近所の者が塵取りで固めてまわったが、手に取ってみると身は半ば煮えていた。ラテ川の河原では、病気の親にせめて精のつくものをと、竹笊を手に川に入った子供の目の前に、上流から煮魚が流れてきたという。
そんな暑い夏は、妙な噂噺も多い。
中町で油屋を営むトウサナ屋バンデスなる者が、御出入りを許されたる屋敷の賄方へ土用の暑気見舞いした帰り道、段々坂を下っていくと、途中に人だかりがしている。
「何事か」
とバンデス、人垣を掻き分けて前に出てみると、坂の途中の土留めの横杭が出っ張っている辺りに、妙なものが突っ立っている。
桃色の肉の塊のようで、大きさは二、三歳の幼児ほど、目鼻口もない顔のようなものを天に向けている。
「こりゃ、土で作った人形の出来損ないを、誰かが置いちまったんだろうぜ」
見物の男が言った。するともう一人が、
「いや、よく見ろよ。胴のあたりがひくひく動いてやがる。こいつは生きてるぞ。化け物じゃねえのか」
そのまた隣に立つ男が、
「化け物なら昼日中に出るもんかい。まだ入相の鐘すら打っちゃいねえ」
確かに、坂道は午後の日差しがきつく、立ってるだけで汗が滴るほどだった。
見かけによらず豪胆なバンデス、その肉塊に触れてみようと、更に数歩踏み出すと、塊は坂道を横に歩き出した。あれよと見物人が後ろに引き、まごつくうちに坂の築地に沿って走り出し、ついに取り逃がしてしまった。
後でこれを知った物識りの医師が、
「それこそ、封と申すものに間違いありません」
とバンデスに語った。
「『根渾』なる旧神の聖典に左様な仙薬がございましてな。丈三尺ばかり、馬糞に育つ茸に似て目鼻定かならず。不老不死にてこの肉を食さば、すなわち不老不死を得ると書かれております。かつて、初代国王エルダイン、スフの王城に在りしとき、城内の庭に封出現し、捕まえんとしたが忽ち立ち消えたと申します」
エルダイン王、千載一遇の機会を失えりと大いに嘆いたという。
「またしてもこれを逃すとは、人に縁無き仙薬なのでございましょう」
その医師は嘆息したという。
この噂は市中に拡まり、物好きが書き残そうと中町を次々に尋ねまわったが、トウサナ屋なる油屋は見つかっても、主人の名はバンデスではなく、他の店もそんな話は知らぬとけんもほろろであったという。
封の噂が消えてしばらくすると、また別の話が出た。
聖シャウト教会で、土用の丑の日に焙烙灸がある。頭の上に土器の皿を置き、そこに灸を据える。焙烙加持と称し、夏場の逆上や頭痛に効くとされ、その日は本堂も庫裏も人で溢れ返る。
その賑わいの中、教会の僧が灸を点していると、一人の娘が危なっかしい手つきで焙烙を頭上に支えている。
「それそれ、そのような持ち方では、灸が落ちてしまいますぞ」
僧が手を添えると、皿が妙にぐらつく。不心得にも簪を差したまま灸を据えようとしているのかと、注意しようと皿の下を覗くと、髪の下から角が二本、にゅっと突き出している。
これはと僧が手を引っ込めると、鬼娘は皿を叩き割り、耳まで裂けた口から牙を剥いて高笑いするや、本堂の柱に足をかけて屋根によじ登った。そして、教会の者が立ち騒ぐ中、まるで綱で引き上げられるように宙を伝って雲に逃げ入ってしまった。
直後、雷が教会の松に落ちて枝を引き裂いた。参詣の人々は、雷公の娘が気鬱の病を鎮めんと灸を据えに来たのだと噂しあった。
これも物好きが教会を訪れてみたが、僧たちはいずれも一笑に付し、境内の松にも雷が落ちた痕は見つからなかったという。
「どうにも下らねえ嘘噺ばかり流行りやがる」
板の間に坐ったゴブリンが額に浮いた大粒の汗を拭き拭き、破れ団扇を使った。名をゼベルという。東の森を抜けて移民としてこの市に流れてきて、今は外町の南大路で道具屋を営んでいる。こういう亜人は外町ではどこにでもいる。
目の前に箱入りの夏火鉢が置かれている。ここへ浅い鉄鍋をかけ、傍らの皿にはざく切りの根深が山と盛られている。
「あら、私はそういう話って好きだよ。面白いじゃないか」
手拭を喧嘩被りしたオークの女が手にした桶を置いた。ガミラという名のゼベルの家内だ。身の丈七尺余、紫がかった黒い長髪、太い首に上品そうな顎の細い顔、吊り目がちの細い眼、うっすらと脂肪の乗った逆三角形の分厚い体躯を渋茶の単衣に押し込んでいる。種族の異なる夫婦というのは余りいないが、それでも珍しいという程ではない。特に、亜人の大量流入が止まらないこの街では。
「ふん、暑気払いの積りか知らねえが、『出し物語』ってのは、茶番の気がないといけねえ。けんど、近頃の嘘噺は落ちがねえ。ただ下らねえ流言を拡めて面白がって、これじゃ餓鬼が意味も分からず経を唱えてるようなもんじゃねえか」
団扇を使って火鉢に風を送りながら、ゼベルが口と尖らせた。
「そんなものかねえ」
ガミラが桶の蓋を注意深く取った。
ぷんと安酒の匂いがした。桶にはたくさんの泥鰌が畝っている。
「どうでえ」
「うん、十分に酔い潰れてるよ」
泥鰌を突いた指を舐めながら、ガミラが答えた。
「いい気なもんだぜ、こんな暑い日に酔っ払いやがって」
「それでもこれからぐつぐつ煮える鍋の底だよ。可哀そうに」
「そう言うなよ。折角、アイカちゃんが持ってきてくれたんだ。有難く頂かねえとそれこそ罰が当たっちまう」
「でもねえ」
「オークのくせに慈悲心の強え女だな、お前えは」
「だって、可哀そうなものは可哀そうじゃないか」
「俺たちだって粥一杯に汁一杯で生きてる坊主じゃねえから、精のあるものを食って元気をつけなきゃならねえ。だいたい、生き物ってのは、他の生き物の生命を貰って生きてるもんだ。米の生命を貰い、南瓜の生命を貰い、魚の生命を貰って生きてる。泥鰌だって同じこと。ちゃんと美味く喰ってやることが、泥鰌への礼儀ってもんだぜ」
「うん」
ガミラが肩を落として巨きな身体を縮こまらせた。が、たいして小さくは見えなかった。
「まあ、お前えのそんな優しい心根に惚れたんだがな」
「もう、あんたってそういうところが狡い」
ガミラが嬉しそうに顔を赤らめた。
「そんなことより、ジャンはまだ帰らねえのか。鍋が煮立っちまうぞ」
「もうすぐ帰ってくると思うけど」
「やっぱり、あいつが帰ってきてから支度すればよかったかな」
その時、店の玄関からばたばた足音が聞こえてきた。
「ただいま」
声がしてしばらくすると、人間の子供が板の間に入ってきた。背の丈は五尺ほど、齢の頃は十三か四、焦茶色の髪に茶色の瞳、色褪せた麻色の単衣の肩に大きく継ぎが当ててある。
「お帰り、ちゃんと足は濯いだかい」
「濯いだよ」
「そうかい、偉いねえ」
ガミラは太い腕を拡げてジャンを抱き上げると、目を細めてその顔に頬擦りした。
「この暑いのにやめてくれよ、母さん、それにもう子供じゃない」
言いながらもジャンは嬉しそうだ。やがて満足したのだろう、ジャンを床に降ろすと、
「今日は泥鰌鍋だよ」
「わあ、凄え。俺、泥鰌鍋なんて初めてだ」
ジャンが目を輝かせた。
「何年か前に東通りの泥鰌屋で食わせてやったろ」
ほれ、寄席の帰りにというゼベルの言葉に、ジャンは何かを思い出そうと首を傾けたが、
「そういやそうだった」
俯いて頭を掻いた。
「やれやれ、折角奮発したのによう」
「それで、どうしたんだい。この泥鰌」
「アイカちゃんが持ってきてくれたのさ」
ジャンが僅かに顔を顰めた。
「また頼まれ仕事なのかい」
「まあ、まずは生臭喰いといこうじゃねえか」
火を使うから、狭い板座敷の中はたちまち熱気が籠る。三人は汗だくになって鍋と向かい合った。やがて、ゼベルが箸を使いながら、小声で話し出した。
「今日、学問所にアマアナの嬢ちゃんが来てなかっただろ」
「うん、ここ数日は顔を見てない」
ジャンはアマアナの顔を思い浮かべて嫌な顔をした。齢は十五、波打つ柔らかい金髪に透き通るような白い顔、碧い瞳、傍目で見れば美人の類だが、有徳人の娘で気位が高く癇癖持ちで、取り巻きを何人も引き連れて学問所に通う子供たちに悪戯する嫌な女だ。ジャンも両親が亜人だとよく揶揄われ、いい印象は持っていない。
「そのアマアナちゃんの家を知ってるか」
ジャンは小さく頷くと、
「確か、『クロド屋』っていう菓子作りの家だろ」
小鉢に受けた泥鰌に熱そうにふうふう息を吹いて噛りついた。
「ああ、中町の楠通りといえば、名店老舗が軒を連ねるところだが、クロド屋はその三丁目だ。知ってたか」
ジャンは泥鰌をくわえて首を振った。そこまでの大きな店とは思わなかった。
「大手街のユリウヌス家や、お茶に煩えソロンの殿様へも御出入りを許されたしっかりとした老舗だ。『御小姓梅』という羊羹が名物だが、奉公人の吟味も砂糖みてえに甘かった。アキュールから来たという若い野郎と、一人娘のアマアナ嬢ちゃんが、尺取虫の仲になっちまった」
「あんた、そんな話はジャンにはまだ早いよ」
ガミラが慌てて口を入れてきた。
「構やしねえ。ジャンだっていつかは通らなきゃならねえ道だ。耳学問くらいしておかねえとなあ」
ゼベルは茶碗の麦茶を呷ってにっと笑顔を向けた。
「う、うん」
居心地の悪そうな顔でジャンが答えた。この少年はまだ童貞である。
「でも」
なおも言い募ろうとするガミラを顎を振って抑えると、
「お前えも早く孫の顔が見てえだろ」
「そりゃそうだけど」
ガミラが朱に染まった顔を下に向けた。
「相変わらず未通女い女だぜ。いいか、ジャン、男と生まれたからにゃ、こんな女に惚れなきゃなんねえぞ」
「もう、あんたって人は」
「父さん、惚気はいいから続きを」
気がつくとジャンが醒めた顔で二人を見ていた。
「お、おう」
狼狽えながらゼベルは話を続けた。
「悪いことに、アマアナの嬢ちゃんは、隣町の同じ菓子屋の『ウイテイ屋』の息子と縁談が決まってたのさ」
「知らなかった」
「決まったといっても二年後だ。だが困ったことにもう結納も済んでやがった」
茶碗に茶を注ぎながら、
「御定書には、『縁談極め候娘と不義致し候男、並びに娘共に斬り殺し候親を見届け候段、紛れ無きに於いては御構い無し』とある。並の不義密通と変わらねえ大罪だが、実の親が自分の娘を殺すなんざ、あまり聞いたこともねえ。まず、娘を手鎖か部屋に押し込めて、不義の奉公人を追い払っての内裁がお決まりだ。それがなあ」
アマアナと奉公人は隙を見て、手に手を取って駆け落ちした。しかも、出掛けに店の金箱を開けて、四百両もの金子を引っ攫っていった。
「四百両だって」
ジャンは思わず呆れ声を上げた。道具屋の息子のジャンには一生拝めない金額だ。
ゼベルは膳の下の藁苞から玉子を一つ取り出し、鉄鍋の上で割った。泥鰌を玉子とじて喰おうというのだ。
「逃げたと知ったクロド屋、そこは老舗だ。慌てず騒がず、南通りの『あしか亭』のニドさんに話を持ち掛けた。ニドさんはこういうことに諸事手馴れてる。人を四方に走らせて追手を募った」
「だから、アイカさんが家に来たんだね」
「話が早くて助かるぜ」
「なんだよ、土手の泥鰌を御馳走してくれるから、追手しろってことなのかい」
「ちゃんと礼金は出る」
玉杓子で泥鰌を掬い、ガミラの小皿によそいながらゼベルは答えた。
「そうだ、礼金だ。こういうときは生命の値段から一両引いて二人合わせて十八両出すのが駆落追手の慣いだ。それに、ニドさんに溜まってる借りも返しておきてえ」
「ふうん、じゃあ精々気張るんだね」
「何言ってやがる、お前も行くんだよ」
「え」
思わず箸を取り落としそうになった。
「お前は学問所でアマアナ嬢ちゃんと机を並べてたんじゃねえか。どうして自分は関わり無いなんて思ったんだ」
「そんな無茶な。俺はまだ色恋も知らない子供だよ」
「こういうときだけ子供振るんじゃねえ」
「そんな」
「それにお前の分の礼金も出る。喰い終わったらさっさと行くぞ」
「母さん」
「頑張って父ちゃんと稼いでくるんだよ。留守は任せな」
ガミラの笑顔に、ジャンは逃げられないことを悟った。