とある事務員さん達の話その3。
笑われはしたけれど、善意は善意。
それに寒かったのも事実なので結局ぶかぶかのカーディガンはお借りする事にした。
そもそも一瞬でも着させてもらったのなら持ち帰って洗って返すのが礼儀ってものだ。
袖を捲りあげればデスクワークには支障はない。
と、周りの反応は思いっきり無視して、なんとか一日を過ごしきった。
口うるさい先輩にどやされることも無く、今日の業務は問題なく終了だ。
オフィスチェアの背もたれがギシギシと音を立てるほどに背をそらし、ぐーっとのびをすれば、大きいを通り越して巨大なカーディガンの袖が、ずり落ちた。
その瞬間、ふわりと香りが漂う。
「ん?」
なんとなく気になってカーディガンの袖口を鼻に寄せた。
すん、と鼻を鳴らせば確かに香る香水の香り。
「……何してんだ、お前。」
ふと頭上から聞こえた声に、袖口から頭上へと視線を上げればそこにはいつも以上に眉間に皺を寄せた先輩の姿があった。
仕事のミスは珍しくなかったはずだけど、どこか機嫌が悪そうだ。
「借りもんに何してんだか。」
「あー、ちょっと気になって。ほら、よそのお家に行くと普段と違う香りが気になるじゃないですか?」
「……知らねぇよ。」
あ、間違いなく機嫌が悪い。
まぁ、理由はわからなくもないけど。
「そりゃ、僕も社長からお借りするのはどうかと思いましたけど、せっかくのお気持ちですし、実際寒かったんですからね。」
少しだけ声を落として言えば、不機嫌な顔がそっぽを向いた。
「そーかよ。」
この人は時々子供みたいな態度をとる。可愛いな、なんて思う時もあるけれど、この状態が長続きされるのも面倒だ。
いまだ目線を合わせてくれないその横顔を、じ、とみつめる。
だいたい、今日は珍しくミスもなく頑張ったのだ。もう少し、その、なんだ。違う言葉を掛けてくれてもいいじゃないか。
面倒だ。そして少しだけ腹が立った。
だから、だ。今から告げる言葉はこの状況を打開するのに必要なんだ。
辺りを見回してから、気づかれないようにこくりと息を飲み込む。
そ、とつつくようにその指に触れれば、不機嫌な顔がこちらを見下ろしてきた。
「……じゃあ、先輩が温めて下さいよ。」
多分、蚊の鳴くような声だったと思う。顔から火が出そう。というよりもう発火してるのではないだろうか。恥ずかしすぎて俯いたまままともに顔を見れない。
それでも、なんの返答も無いことに不安になってそろりと視線をあげれば、いつもは睨んでばかりくるその目が、丸く見開かれていた。頬が少し赤いのは気のせいだろうか。
先輩はちらりと周囲に視線を巡らせ人気のないことを確認してからぎ、と再びこちらに視線を落とす。
こちらを射抜かんばかりの鋭い視線だったけれど、その眉間の皺は綺麗になくなっていた。
「てめぇ、覚悟は出来てんだろうな?」
触れていた指をとられ、その手が絡みついてくる。
熱い。じわり、熱が伝わる。
「……帰るぞ。」
バクバクとうるさい心臓のせいでまともに返事なんて出来なかったから、こくりと頷いて席を立った。
社長、ごめんなさい。
借りておきながらなんだけど、今はもう熱くて、熱くて。
このカーディガン、早く脱ぎたいです。
持ち主以外の香水の香りがした事は、勿論秘密にしときます。