悪役令嬢の考えごと
思わず出そうになったあくびを慌てて噛み殺す。
分厚い教科書を開いた机、教師の言葉が右耳から左耳に通り抜けていく。今日の授業は座学である。
ジェロームさんに疑われたあの日以来、彼からは時折厳しい視線を送られる。しかしルーナがとりなしてくれたおかげか聖堂に強制連行されることはなく、まあまあ穏やかな日々を過ごしている。
そっと隣を見ればルーナがすました顔で前を向いている。そのさらに向こう、窓際の奥とその隣の席には珍しく人がいなかった。アレス様とイリスさんの席である。二人して風邪でも引いたのだろうか。
私が眠いのは何も授業が退屈なだけではない。ここのところ朝早くに起きているからだ。早起きは三文の徳、というわけではない。
ヴェネレさんから依頼を受けた刺繍の準備を進めているのだ。図案を考えたり、それに合わせた刺繍糸を選んだりしているとあっという間に時間が過ぎていく。
眠気を誘う教師の声は魔術についての基本編を説明している。
まずい、どこまで進んだかな。とはいえ基本的なことは既に家庭教師から教わっているので余裕余裕!……多分ね。
ふと前を向くといつの間にか教室の前方の壁に文字が浮かび上がっていた。授業の内容をまとめたものである。それらを紙に書き留めながらもついつい刺繍の絵柄を落書きしてしまう。お花、小鳥、きのこ……、あ、先生待って、消さないで!!!
教師が喋りながら手をさっと振り上げると壁の文字は徐々に薄くなり消えていった。
仕方がない、後でルーナに写させて貰おう。
「これは余談ですが、魔力は火や水、風を生み出すだけではなく、他の物体に移すこともできます。誰か具体例を挙げられますか?」
その言葉に一人の生徒が勢いよく手を上げた。
「はい、ジェロームさん」
ぎゃー、天敵!思わず身を竦めてしまう。
「大聖堂の聖なる石です」
落ち着いた声で答えている。さすが神官見習いだ。ぜひ聖堂に籠もって頂きたい!
「素晴らしい例をありがとうございます。ジェロームさんの言うとおり、大聖堂では複数の神官の方々が聖なる石に魔力を移し、聖域をつくっていますね。このように魔力は他の物へ移すことも可能です」
「強い魔力を込めれば聖域も強くなります。闇の力を浄化させ、完膚なきまで抹殺するのが僕の夢です」
うっとりした口調で物騒な将来の夢を告げると彼は着席した。
怖い怖い。そのうち目から神官ビームで抹殺しに来るのではなかろうか。
「ご存知のとおり、この学院内にも守護の力を込められた物が設置されていますね」
教師の説明は続く。
夜の間学院の建物から出られないのはこの力の作用によるものだという。
「またもっと身近な物だと守り石も仲間に入れていいと私は思っています」
守り石とは前世で言うお守りのことだ。小石に魔力と思いをこめ遠くへ旅立つ人へ送り、相手の無事を願うものだ。貴族は石でなく小さな宝石を用いたりもする。選んだ小石を持って聖堂に行き、聖水に浸し祈りを込めるのだ。
「先生」
「はい、ヴェネレさん。どうしましたか?」
ヴェネレさんは立ち上がりながら、胸元から何かを引っ張り出している。
「これ、父から貰った物なのですが魔道具の一種らしいです。これも仲間ですか?」
そういって皆に向かって見せたのは鎖のついたペンダントのようなものだ。
教師はヴェネレさんに近づくとしげしげとそれを眺める。
「そうですね。魔道具はまさに魔力を移した物ですね。守り石よりも強い魔力がこめられています。それにしても歴史の有りそうな物ですね」
教師の言葉にヴェネレさんの口調が明るくなる。
「父が仕事で訪れた国で手に入れた物です。守り石の代わりに身につけてます」
ふんふん、身につけるものね。アクセサリーとかいいなぁ。
私の頭の中はまた授業から離れ、別なことを考え始める。
ペンダント、腕輪、耳飾り、髪飾り……、何がいいかな。
「……簡易的な魔道具の中には魅了よけという物もあります。モテるお相手の浮気防止の気休めのような物ですがね」
先生が何か説明してるけど、余談って言ってたもんね。
それよりも普段使いできるものがいいな。あまり派手なアクセサリーだと学院では付けづらいかな。やっぱり日常使いできるハンカチみたいな物がいいかな。でもでも、身につけるものも捨てがたいな。
授業のことなどそっちのけで頭に浮かぶのは刺繍のことだった。といってもヴェネレさんの試作品のことではない。
ルーナへの贈り物のことだ。私はこの前助けてくれたルーナに何か贈りたいと思っているのだ。
せっかくなので刺繍で何か特別な物を作りたいけれど、どんなものがいいだろう。ここのところ朝早くからずっと悩んでいるのだ。いや勿論試作品のことも考えているよ?
いけない、いけない、また自分の世界に入ってしまった。
ん?何でみんな席を立ち始めたの?あれ?いつの間にか授業が終わっていた?!
待って、ルーナ!ノート、ノート貸してくださーい!




