ある転生侍女の一日
目から火花が散るという体験をしたことがおありだろうか?
比喩ではなく、現実かつ生身で。
わたしはある。
たった今、体験させられた。
「大丈夫? ねえ、大丈夫なの?」
泣きそうな、というよりすでに泣きながらわたしの顔を覗き込むのは、わたしがお仕えする今年10歳となったお嬢様。
よかった、ご無事で何よりだ。
特別に美しいわけでも賢いわけでもないが、思いやりのある素晴らしいお嬢様である。
いつか幸せな花嫁として生家からお送りするまで心を込めてお仕えしようと決意して三年。陰日向なく精一杯に勤めてきた。
だが、それももう終わりだ。
「お嬢様」
倒れた体を起こし、そっと小さなお嬢様の体を押しのける。
「申し訳ありません、お嬢様。わたくしはお嬢様にお仕えできて本当に幸せでした」
「どうしたの?」
すっくと立ち上がり、つい先程、わたしがお嬢様をかばいながら勢い良く落ちてきたテラスの階段の上に立つクソガキをぎりっと睨みつける。だらだらと首に流れていくのはおそらく血だ。後頭部も体もあちこちがかなり痛む。
将来はさぞやと思わせる整った容姿の男の子はびくっと体を震わせた。
しかし、次の瞬間には不遜な表情で「お前が鈍臭いのが悪いのだ」と言い放った。
さすが俺様王子様!
知らず知らず口元に笑みが浮かぶ。
将来、お嬢様を泣かせる罪の芽を、この場でわたしが我が身を賭して摘み取ってやろうではないかっ!
使命感に駆られるままに長いスカートをつまんで階段を駆け上がり、一気に間合いを詰めたわたしを止められる者はいなかった。
後々、聞いた話では、そのときのわたしの微笑みは冥府の門番もかくやというほど恐ろしく、近衛兵すら身動きできなかったんだとか。
「世の中、やっていいことと悪いことがあることをお知りなさいませ! このクソガキっ!」
言葉とともに勢い良くごつんっと王子の頭に拳骨を落とした次の瞬間、わたしの視界は暗転した。
次起きるときは牢獄、いや、処刑場かな。だが、フラグは折ってやった! ざまーみろ!
わたしの名を呼ぶお嬢様の声を遠くに聞きながら、意識を失うまでの短い間、妙に高揚した気分でそんなことを考えていた。
※ ※ ※
ゲーム名は覚えていない。
内容としては、攻略対象4人、サイドストーリーとスチルコンプを主目的とした乙女ゲー。近世ヨーロッパ風の王国が舞台。
どのキャラを攻略しようと、メインストーリーは変わらず、破綻もなく、何度も繰り返しプレイするほど入れこむことはなかったが、それでもコンプはした作品だ。
恋敵の存在はちらほらと見え隠れはしても、略奪愛と呼べそうなものはなかった……愛の無い婚約を解消する、というものはあっても。
プレイしていた当時は愛がないなら婚約解消してもいいよね、と軽く考えていた。
しかも、婚約の理由が相手にあやまって怪我をさせてしまい、傷が残るかもしれないから責任を取ることにしたというもので、実際には傷も残らずに済み、政略的利点もあまりなかったから婚約解消しても問題はないと説明されていた。
そう、ゲーム中で文字だけで説明されてしまったのが、わたしがお仕えするお嬢様だ。
この世界に生まれて十七年、戦など何か大きな出来事や地名などに時折、既視感を味わっていた。とはいえ、気のせいで片付けられるような朧気なものだった。
ところが、王宮の庭とテラスと王子をセットで見た瞬間、鮮明にゲームとそれに付随する記憶のみが鮮明に蘇り、ものすごい勢いで現在の状況を把握すべく脳が働いた。
それは王子の回想シーンのスチルだった。
そのシーンをきっかけに、今後二度と同様に脳を働かせることはできないだろう、それぐらい大量の情報を短時間で脳が処理した。
ひとえにお嬢様への愛ゆえ!
と、思う。
なぜなら、婚約解消というのは、実際の所かなりの問題が生じるのだ。
この国において貴族の令嬢の婚約というのは、15歳での社交界デビューから3年くらいで整う。
お嬢様はゲームの中で十七歳、半年後に結婚というタイミングで婚約解消の憂き目にあった。
それから、また結婚相手を捜すというのは、かなり大変なのだ。条件のいい、年回りのちょうどいい男性というのはかなり少なくなっている。
しかも、間違いなく王子に捨てられた女として、価値を低く見られるのだ。そして、それは生涯つきまとう不名誉となる。
そんな未来を招いてなるものかと、わたしは王子が邪険にお嬢様を突き飛ばす前に動いた。そして間に合った。
お嬢様は怪我することなく、そして、側仕えの侍女の不祥事により婚約者候補からも外れるだろう。
しばらく社交界で肩身の狭い思いをするかもしれないが、旦那様はやり手の実力者である上、奥様は隣国の有力貴族の出であり、家を潰されるようなことにはまずならない。
そもそも王子に突き飛ばされ、頭を打って錯乱した侍女の仕出かしたことである。何のことか覚えていないと記憶がないふりをすればいい。公にもすることもなく、侍女本人を処分することで手打ちにするだろうと見越した上の暴挙であった。
だが、こんな展開は予想外だ。
目覚めたわたしは牢獄どころか、妙に豪勢な部屋のふかふかのベッドに寝かされていた。
一気にあの世に逝ったかと思ったが、わずかに身動ぎした瞬間、頭に痛みが走ったので現実だと判明した。
「目が覚めたのね!」
お嬢さまの声に反応して視線をめぐらせて、ぎょっとして跳び起きた。痛みなぞにかまっていられない。
「どうなされたのです、お嬢様そのお姿は!」
うれしそうな笑顔を見せるお嬢様の左目の周りには内出血によるあざが、ぷっくりした頬には引っかき傷があった。
「大丈夫よ、仇は取ったわ!」
なぜか誇らしげに胸を張るお嬢様。
「泣かせて謝らせてやったわ!」
泣かせて謝らせたって……。流れからいくと、王子様にですかっ?!
「わたしが弱かったせいで、大切なあなたに怪我をさせてしまった。だから、わたし、強くなろうと決めたの」
高らかに宣言したお嬢様はわたしの知っているおっとりしたお嬢様とは別人のようだった。
「強くなって守るから。だから、ずっと一緒にいてね!」
小さな両手で手を包み、見上げてくるお嬢様にわたしは反射的に微笑みを返した。
「はい、お嬢様、どこまでもお供いたしますわ」
一体お嬢様はどこへ向かおうとしているのか。
さっぱり予想もつかないし、王子に手を上げた件はどのように始末をつけるのか、全くわからない。
だが、一つだけ、はっきり分かることがある。
フラグは折れた。ぽっきりと。
これからお嬢様が己の望む人生を切り開いていけるよう、お支えしようではないか!
わたしはお嬢様の手に包まれていない方の拳をぐっと握りしめた。
――侍女はまだ知らない。
拳と正論で王子に教育的指導を施したお嬢様に王妃が目をつけたことを。
泣かされた王子が、お嬢様に一目置くようになり、やがてそれが恋につながることを。
ひとつのフラグは折れたが、また別のものが立った。
かくもフラグとは、もろくとも意外と繁殖力が強いものだった。