顔なし令嬢と仮面の王子の和解
ジョセフィーネ視点です
「まさか、結婚してもその仮面をずっと付けたままでいるつもりなのか?」
殿下のその一言に、頭から冷水を掛けられたそうな心地になった。
初恋に浮かれていて忘れていた。私には殿下と言う、未来の伴侶となる存在がいることを。そしてこれは決して私の我が儘で覆ることのできないことだということを。
覚悟は幼い頃からしていた。どんなに気に入らない相手だろうと、家の決定は絶対で逆らうなんて考えを持ったことすらない。
殿下との結婚はもう決まった事。近い将来、私は殿下と結婚をする。
そうすれば、もうランディには逢えない。今みたいに気軽に街へお忍びに出掛けることすら難しいだろう。
近い将来、私はランディとさよならをしなくてはならない。
その事実に、私は愕然とした。
私は生まれて初めてしたこの恋を終わらせなくてはならないのだ。その事に、胸が激しく痛んだ。
その日、私はどうやって殿下と別れ屋敷に戻ったのかよく覚えていない。たぶん、いつも通りに殿下とは会話を出来ていたと思う。
自室に戻り一人になると、涙が溢れた。
いや。さよならなんて、したくない。でもしなくてはならない。それが私の義務だから。
怖い、痛い、辛い。
恋は楽しいものだと思っていた。嬉しい、楽しい。そんな感情ばかり溢れるものだと。
でもそうじゃなかった。決して叶わない恋を私はしてしまったのだと今更ながら実感した。
もう少しだけ…もう少しだけ、この恋を楽しもう。まだ猶予は残っている。その間だけでもせめて。
そう思っていたのに、現実は残酷だ。
私は翌日、父に呼び出され、殿下との婚礼が来年に決まったことを告げられた。
殿下は来年成人される。それに合わせて婚礼を行うのだと。
来年の春、私は殿下と結婚をする―――
今の季節は冬。あと数か月すれば春になる。これから準備などで私は忙しくなるだろう。
ランディに逢える日もぐんと減る。
そろそろ、私はランディにお別れをしなくてはならない。
「フィーネ? どうかした?」
ランディに呼び掛けられて、私はハッとした。
いけない。ランディとのお別れのことを考えていて、気分が落ちてしまっていたようだ。折角ランディと一緒にいるのに、なんてことを。
私は慌てて笑顔を作り、「なんでもないの」と答える。しかし、そう言ってもランディは心配そうに私を見つめている。それが嬉しいのに、同時にとても切なく感じた。
「なんだか今日のフィーネは元気がないね。なにかつらいことでもあった?」
「ううん。本当になんでもないの。気にしないで」
「気にする。フィーネに元気がないと、俺まで元気が出なくなるんだ。それに、俺はフィーネの笑っている顔が好きだ。フィーネの笑顔を見るためなら、なんでもする」
そう言ったランディの顔は真剣そのもので、私は思わず目が潤む。
「……じゃあ、私をさらって、どこか遠くへ逃げてくれる?」
無意識に出た言葉に、私は顔を青ざめた。なんてことを言ってしまったのだろう、私は。
こんなこと言っても彼を困らせるだけだ。それに、私は伯爵令嬢としての自分の役目を放棄することなんてできない。愛情を注いでくれた家族への裏切り行為なんてできるはずがない。
私は慌てて冗談だと告げようとした時、ランディがとてもつらそうな顔をして答えた。
「……ごめん、フィーネ。それは、できない」
ランディのその言葉に、私は自分でも驚くほどショックを受けた。涙が出そうになるのを堪えるのに必死だった。
「俺には今の自分の役目を放棄することなんてできない」
「……なんでもするって言ったのに?」
「ごめん」
「わかってた。気にしないで」そういうつもりだったのに、私から出たのは全く違う言葉。ランディを困らせたいわけではないのに、私の口からはランディを困らせる言葉しか出てこない。
「……でもフィーネ、俺は……」
「それじゃあ、さよなら、ね」
私はランディの言葉を遮って、さよならを告げた。勝手に、口がそう動いた。
ランディは私の言葉に目を見張り、「……どうして」と呆然と呟いた。
「私、もうすぐ結婚しなくてはならないの。だから、ランディとはこれで逢うのをやめるわ。今まで楽しかった。ありがとう」
「フィーネ…」
「さようなら、ランディ。元気でね」
「フィーネ!」
私はそう言ってくるりとランディから背を向け、走った。ランディが追いかけてくる気配はなかった。
私はしばらく走ったところで立ち止まる。
「……お嬢様」
陰からそっとニーナが現れて、私はニーナの顔を見て安心したのか、涙がぽろぽろと勝手に零れ落ちた。
「ニーナ…わたくし……」
「お嬢様…よく、頑張りましたね。我慢しなくてもよいのですよ」
「ニーナぁ……」
私はニーナに抱き付き、涙を流した。
ニーナは優しく私の頭を梳き、私が泣き止むまでそうしてくれた。
ランディとさよならをしてからしばらく、私はなにもする気にはならず、一日ぼうっとして過ごすことが多くなった。そんな私を家族は心配してくれたけれど、私はどうしても明るく振る舞うことができなかった。
そして、殿下と会う約束をしている日がやって来て、私は憂鬱な気分のまま王宮に向かった。
殿下のいる部屋と入り、いつものように挨拶をする。いつもならそこで必ず嫌味の言い合いをするのに、とてもそんな気分にならず、殿下に嫌味を言われても私は黙り込んだ。
「……どうかしたのか? 具合が悪いとか?」
「なんでもありませんわ。どうかわたくしのことはお気になさらず」
「気にするだろう。君は俺の婚約者なのだから」
そう言って私を見つめる殿下は心配そうな顔をしているような気がした。仮面をつけているのでよくわからないのだけれど。
「…わたくしを心配してくださっているのですか?」
「君は俺をなんだと思っているんだ? 親しくしている者の元気がなさそうなら心配くらいする」
親しくしている者、の中に私が入っていることに驚く。
でもよく考えればそうだ。殿下とはもう十年くらい付き合いがあるのだ。親しくないと言い張る方がおかしい。
ランディとさよならをしてしまったことから少し投げやりな気分になっていた私は、殿下をまっすぐと見つめて質問をしてみた。
「…殿下。わたくしの仮面を外してみたいと思いませんか?」
「なんだ、藪から棒に…」
「考えてみれば殿下とはもう十年来のお付き合いですし、もうすぐ夫婦となるのですから、素顔を知らないというのはおかしなことでしょう?」
「…まあ、そうかもな。だが、俺は別に無理に君の素顔を見たいとは思わない」
「怖いんですの?」
「怖い? まさか」
「じゃあ、この仮面を取ってくださいな」
もう十分美しいと散々ニーナに言われた。今でも十分、殿下に美しいと言わせることができると。それを信じるのも悪くない、と思ったのだ。投げやり感があるのは否めないが。
殿下は突然仮面を外せと言い出した私に戸惑っているのか、その場から動こうとしない。
「……わかった。そこまで言うなら仮面を外してやろう。ただし、君も俺の仮面を外してくれ」
「え?」
「元より君が仮面を外したら俺も外すつもりでいた。お互い、素顔のお披露目ということにしよう」
「……そうですわね。それでいいですわ」
「では、3つ数えたら仮面を外そう」
1、2……と殿下が数を数え出す。
私と殿下は見つめ合い、お互いの仮面に手を伸ばす。
そして最後の数字を言い終わった時、同時に仮面を外した。
仮面が外され、ゆっくりと目を開けて最初に飛び込んだのは、青紫色の瞳だった。
切れ長のアーモンドのような瞳を見開き、私を見つめて息を飲む。
私も殿下の素顔を見て息を飲んだ。
アッシュブロンドのさらさらとした短い髪、そして青紫色の瞳。
髪の色こそ違うが、私が見間違えるはずがない。私の目の前にいたのは。
「ランディ……?」
「フィーネ……?」
お互いに名を呼び合い、自分の抱いた疑念が確信に変わる。
「ど、どうして殿下が…」
「なぜ君が…」
同じタイミングで質問をし、お互いに黙り込む。
そして背後からプッと吹き出す声が聞こえ、私と殿下は同時に自分の背後に控えていた人物を見つめる。
「なにがおかしい、ポール」
「いえ…殿下が……くっくっ」
「なぜ笑うの、ニーナ」
「お嬢様があまりにも……ふふ」
そう言って笑い出した兄妹を私と殿下は睨みつける。
しかし兄妹はそんな私たちを気にした様子もなく笑い続けた。
「いつ気づくかと思っていたが…仮面外すまで気づかないなんて…」
「すれ違いもここまでくれば喜劇ね…」
二人のその台詞から、この兄妹は私たちが街でこっそり逢っていた相手が婚約者であることを知っていたことが伺えた。
私と殿下は顔を見合わせ、お互いににっこりと笑顔を作った。
「つまり、君たちは……」
「わたくしたちの正体を知っていて敢えて黙っていた、というわけね?」
「あ…」
「い、いえこれは…」
兄妹は笑うのをやめ、顔を強張らせた。
そしてじりじりと後ろに下がるのを、私と殿下はゆっくりと追いかける。
「「も、申し訳ありませんでしたー!」」
ニーナとポールは二人揃って頭を下げた。
私と殿下はその様子に、顔を見合わせて笑い合った。