3.途切れた無線
瞼の上に錘が乗っているかのように、眠くて仕方がなかった。
文化祭が近づくにつれ梅雨晴れした気温は一層のこと高く上昇して、講義室に入った際のクーラーの温度差で眠くなってしまう。
断続的に居眠りと板書を繰り返して、一時間弱の講義を切り抜ける。
何度目かの板書を終えて、また暫く瞑想をしようと思った矢先に携帯電話が震え始める。
送信元は先日のバンドの手伝いを依頼した先輩だった。
メールの情報を確認すると送信時間は昨日の深夜零時だった。約十時間程の遅延である。
いったい先輩の出したメールはどこを経由して僕の携帯へと受信しているのだろうか。それとも、僕の携帯電話も中には人間が潜んでいて起きてる最中しか電波が受け取れないとか。
文化祭の手伝いは当日のみでよく、機器の設営と撤去の手伝いでその他の時間は自由とのことだ。大した作業内容でもないし、一度高校の頃の手伝いで経験があるのでそこまで不安な材料もない。強いて言えば、手伝った報酬がしっかりと支払われるかというところしかない。
了解しましたという返信をかけて、僕は板書が進んでないことを見てまた瞼を閉じる。
今日はなんだかとても眠い。
一人ぼっちは何でも自分一人でやらなければならない。助けてくれる人間はおろか、起こしてくれる人間もいないのだ。
「やっちまった」
目が覚めた頃には既に講義が終わり、講義室には僕一人がぽつねんと座っているだけだった。
昼休み前の講義ともあって、終了僅か十分でこの幕引きである。既に食堂は満席だろうし、完全に出遅れてしまっている。コンビニもまだレジで大量の学生が並んでいる時間帯だ。
仕方がないので、大学から少し離れた個人経営の食堂へと足を運ぶことにした。大学近辺に軒を連ねる食堂の中で一番古いお店だ。一軒家の一階部分を店舗スペースとして、二階が居住区らしい。店の入り口側に二階のベランダが出っ張っていて、布団が干されていて様を見ると生活感がありありと見て取れる。
一見住居にも見えるその佇まいからか、あまり学生の出入りが少ないのもポイントだ。
講義室から大学の正面玄関を出ると、外界の温度差で身体が妙にだるくなってしまう。緩やかな下り坂を下りながら、横目で窓越しに混雑している食堂を眺めてみるが、やはり大反響らしい。
そもそも食べるところがあまりないので必然的に繁盛してしまうのだが。
この時間帯だからかすれ違う学生は皆無で、みな下っていく学生のみだった。彼らは今日の講義が終わったのだろうか、それとも僕と一緒で行き場もなく彷徨っているのだろうか。
目的の食堂について、入口のメニューボードを確認して中へ進む。店内は狭いが、客足も多くないので丁度好かったりする。
「いらっしゃい」
やや高齢の夫婦が経営していて、昼のメニューはラーメンかチャーハンかその日の丼ものの三種類のみだ。大盛りにするとプラス百円だが、百円とは思えないほどの大盛りになるのでやめておく。通常の状態で十分量が多いのが特徴だ。
そして来店を歓迎する店主と共に、もう一人歓迎する学生がいた。
「よ!」
「あ、待ち合わせかい?じゃ、席はそこね」
待ち合わせもしてないし、知り合いでもないと答えたいところだったが、僕は諦めて先輩の向かいの席に腰を落とす。彼こそが僕にバンドの手伝いを申し入れた人だ。
「久しぶりだな、メールは受信したか?」
「えぇ、先ほど頑張って受信しましたよ」
「頑張るところじゃないだろ、それ。お前だけどこか遠い世界に住んでいるみたいだな」
僕は店主に丼ものと伝えて、セルフサービスの水を汲んで口をつける。
「そういう映画ありましたね。超遠距離恋愛の話。確か太陽系を超えた遠距離恋愛だった気が」
「それメールが届く前に死んじゃうパターンなんじゃないの?」
「そうですね、光の速さでさえもなかなか届かないもんなんですね」
それが僕の携帯というわけではないのだが。
「ただ聞いたことあるな。携帯メールにしろ、色々と基地局経由していくから届く速さは違ってくるって話」
「いいですね、その話。次の機会はその線で言い訳してみます」
言い訳する相手があまりいないけれども。
「言い訳に使うなよ。ま、事実なんだから非は携帯会社にあるんだろうけど」
「これはこれで愛着ありますから」
携帯電話を少し傾けると合わせてストラップも揺れる。
「お前が愛着なんて言葉使うの初めて聞いたな」
「そもそも愛着なんて言葉を定期的に使わないでしょうし」
それでも対人で愛着なんて言葉を使うことなんてないのだけれど。
「ま、そりゃそーわな。そもそもお前って誰かに対して期待しているか?」
「期待ですか。ないですね。友達いないですし」
「友達いなくたって期待はできるだろう?」
「どうでしょうかね。誰かに期待して得するようなことありますかね」
誰かが何かをすることによって僕に影響を与えるのであれば期待するだろう。
だけども期待しなくたって、影響を受けることだってある。
だったら人に対して期待することってどういう意味なのだろうか。
「どうだろうなぁ。俺はいつだって誰かに期待してるけどな」
「ま、それは人それぞれですから。異論はないですし、異論は認めます」
「お前の場合、認めてないだろう。認識しないだけだ」
びしっとまだ割れていない割り箸をこちらへと向ける。
僕は少しだけ先輩の言葉の意味を推し量る。
「受け取ったふりをしているだけだ」
「どうしてそう思うのでしょうか」
「なんとなくな」
それでは理由にならないじゃないか。
誰かに期待することが、先輩の言う普通とか一般的とか当たり前という分類に属することができたとしても僕はきっとそこへは向かわないだろう。
「おまちどう」
大きな黒染めのお盆が二つ席に運ばれる。
どうやら店主は二人一緒に食べれるように、先輩への配膳を遅らせていたらしい。
「いただきます」
僕と先輩は口を揃えて目の前のどんぶりに取り掛かる。
「ま、期待しようが期待しまいが一緒のようなものかもしれないがな」
「それでも期待してしまうと」
「不思議とそうなってるもんだ。お前に対しても期待してるしな」
「いったい何に対してですかね」
「さぁな」
先輩の目線は既に丼ぶりへと向かっている。
その言葉が会話の切れ目となって、僕と先輩は無言で食事を進める。
友人でもなく、他人でもなくて同じ席で、同じメニューを頼んで食べる。そんなことに意味を見出そうとしている自分に馬鹿らしいと毒づく。
一人とはなんだ、二人とはなんだ。ただの数の集合じゃないだろうか。
考えても答えの出ないことは分かりきっているのに、それでも思考してしまう。あっさりと捨ててしまえればいいのに。
「まぁ、お前はそうだなぁ」
先輩は咀嚼しつつ目線を天井へと向ける。
「お前はそうだな、どちらかというと与える方の人間なのかもしれん」
「与える、ですか。貰える側の人間がいるんですね」
叶うならば貰える人間になれればよかった。
「そうだな。そもそもお前が貰える側の人間になれない決定的な違いを言ってやろう」
先輩と僕に一瞬の間ができる。
「お前は受け取れないからだ。いや、受け取ろうとしないからだ」
「―――何を受け取ろうとしないんでしょうか」
「いろいろなものだな」
抽象的な表現にやや戸惑いつつも、僕は言葉の意味を考え始める。
「そういった人間はだいたい一人で、だが、だいたい何かを与えられるような人間が多い」
「ひどく曖昧ですね」
「そうさ、曖昧なもんさ。説明しろと言われても説明できん」
そこで先輩との会話は途切れる。
僕は機械的に口を動かして、食事を続ける。
例えばナースさんのこと。例えば幼女さんのこと。例えば先輩のこと。
どれもが貰える側の人間なのだろうか。与えられる人間なのだろうか。両方とも存在してもよさそうな気がするのだけども。
もしも僕が与えられる側の人間であるならば、与えられるようなものは何も存在しない。
ナースさんの話を思い出す。
幼女さんは一人で生きていけるけど、周りが不思議と集まってくると言っていた。
果たしてそれはどちら側の人間なのだろう。
そして、ナースさんはどちらだ。
「じゃあ、給料は前払いな」
先輩は伝票を持つと、そのまま会計へと向かった。
どうやら奢ってくれるらしい。いや、給料の前払いか。
「どうも」
先輩には聞こえない声で僕はお礼の言葉を口にする。
前払いだけれども、そもそもこれが後のお礼となるのだから、お礼を伝える必要もないだろう。
僕は考えるのをやめて、残りの丼ぶりを片付けることに集中することにした。
与えられようが、与えようが、結局のところどちらでも変わらないのだから。
そして当日の朝を迎える。
文化祭当日は狙ったかのように晴天で、前日の雨の残滓がコンクリートを濡らしやや蒸し暑い環境となっていた。それでももとから予定されていたからなのか来場者数は増えて、辺りの屋台には有象無象の列が所狭しと並んでいた。
そのどの列に属さずに僕は周辺の様子を見ながら、先輩のライブの開園を待っているだけだった。
幸いかどうかは分らないけども、誰かに声を掛けられたり、見知った人間を見つけたりといったことはなかった。それは幸か不幸か分らないけども。
それでも全体の熱気は天気予報で告げられた温度よりもいくらか高く、僕は早く文化祭が終わることを願っていた。ところどころざわつく環境音や、スピーカーとノイズが入り混じった声。そのどれもが僕のいる世界とは無縁で、言うならば異国の言葉として捉えていた。
それはただ音といった名詞であり、それ自体に何か付加価値を持つようなものではない。
出かけで買ったペットボトルのお茶で給水しながら辺りを散策している。
「おや、竹川君じゃん」
ばったりとたこ焼き屋の前で出会ったのはナースさんだった。
「どうも」
あたりさわりのない挨拶をしつつ久しぶりの会話に若干焦りつつもある。
でも何を焦っているのだろうか。
「そういえばライブの手伝いとか言ってたね、もう終わったの?」
「いや、これから」
あたりさわりのない会話をしつつ、僕は先日の先輩の話を思い出す。
「そっか、じゃあ見に行こうかな。幼女ちゃんも消えてしまったし」
それは誘拐とみて警察に連絡したほうがいいのではないだろうか。幼女さんの容姿は見たまんま幼女だし、誘拐されてもおかしくはない。
「消えてしまったのではなくて、はぐれてしまったんじゃなくて?」
「そうともいうね」
むしろそうとしか言わない。
「ま、あの子はしっかりしてるし、大丈夫でしょ」
それに、と僅かに零した声は聞こえないふりをした。
きっとその先の言葉を想像するのは容易くて、でもそれを問うのは蛇足といったところだ。
だから僕は否定も肯定もせずに先輩の待つライブ会場へと向かう。
無言の解答が肯定と捉えたのか、ナースさんも黙ってやや後ろを付いてくる。
周囲は男女比半々と理系大学と言いつつも結構女性が多いことに驚いている。
「そういえば幼女ちゃん言ってたな。この大学に入ったのは婚活目的だって」
「婚活?」
聞き返しつつも、なんとなくその理由は分かったような気がする。
「男子が多いことが、必ずしもいい男がいるとは限らないけどな」
「そうね」
先回りした答えに肯定した言葉が返される。僕もまたそのグループの一部なのだけど悲しさというよりも、呆れて乾いたため息しか出てこなかった。
周囲の屋台にはそれぞれ手書きの看板が立てられていて、どれも不規則な線と崩れてはみ出したペンキで売り物が描かれていた。だけどもその不格好な看板が反って文化祭らしさを形撮って自然な風景を紡ぎだしていた。
「本当に縁日みたいね」
周囲を見渡しながらナースさんは呟く。
「文化祭って何かって考えさせられるな」
フォローするならば構内に各学科や研究室の展示物があるのだが、人口比率を見るとほぼ屋台に人が流れているような気がする。そして構内にいる人間も単に涼みに来ているだけだったりする。
「そういえばさ、友達ってなんだろうって話したじゃない?」
「したっけな」
もう会話の内容も覚えていないけど、でもそれに近い話をしたような気がする。
「私の答えはさ、理由をつけなくても一緒にいれる人かな」
「ふぅん」
僕はナースさんの解答に対してうまく咀嚼して理解することはできなかった。
「けどさ、そうなると本当の友達っていないと思わない?」
「僕には友達がいないから知らないな。でもどんなところにも理由って存在していると思う」
「だよね」
無意識の中にもどこかで理由は存在していて、ただそれを自覚できていないだけだ。
そして友達という、その相手側にも理由というものが存在している。
だからきっとナースさんの答えは正しくなくて、だけど、正しくないことを証明することはできない。
「結構人集まってるね」
目的のライブ会場は既に前の演奏者が終わり、残った観客がそのまま次の演奏を待つために滞留していた。
ちょうど隣に立った校舎によって日陰ができていることも観客が残っている要因となっているようだ。
「じゃ、ここで」
「頑張ってね。あ、出るわけじゃないか」
ナースさんは控えめに手を振り、僕はそれを横目にステージ横のテントへと向かう。
テントの中には既に先輩と、その友人だろうか、それぞれが楽器を取り出していた。
「よぉ、遅かったな。じゃあ、アンプとか運び出してくれるか」
「先輩、その声」
そのガラガラな声は明らかに風邪によるものだった。
「前夜祭で飲み潰れちまってな、気が付いたら外で朝を迎えてた」
笑う声まで掠れていて、本当に歌えるのだろうか。
僕はアンプを会場に運びつつ、周囲のコードを繋いでいく。全てを繋いだら電源を入れて、それぞれ音がでるか演奏者がチェックする。
「ま、いろいろと考えはあるから任せな」
「期待せずに見てますよ」
「そこは期待しとけよ。お前はそこで待機な。撤収があるし」
先輩がステージ横の暗幕を指さす。いくつか折り畳み椅子が用意してあって、座って待ってろということだろう。
観客席で見るよりも楽そうなので、特に反論せずに僕は舞台袖へと移動する。
準備ができたのか、先輩が先頭に立ちマイクを握りしめる。
「どうも、来てくれてありがとう!まずはメンバーの紹介からだ!」
紹介されたメンバーは軽いアルペジオを弾いて礼をする。
そのたびに観客席からは拍手が沸き起こり、周囲の熱気のせいなのか徐々に歓声も上がっていく。
歓声がまた通りかかった人間を引き連れて、やがて会場の人数は遠く見渡せるほどとなっていた。
そのほとんどは彼らを知らず、ただ非日常的な出し物に目を引かれているのだろう。
「さて、ここでボーカルの紹介だ!」
演奏者の紹介を終えて、最後は先輩の紹介へと入る。
そのガラガラな声は逆にどこかのロックバンドを彷彿とさせていた。怪我の功名といったところか。
「ボーカルゥ! 竹川比呂!」
わっと周囲の歓声が響き渡る。今なんと言った。
「そしてギター!」
最後に自分の自己紹介で締める。
先輩がこちらへ方向転換し、僕の方へと向かう。
「おら、出番だ!」
「え、いや、ちょっと!」
腕を掴まれて無理やり立たされて、その反動で折り畳み椅子が転げ落ちる。
でもそんな音は観客の声援に包まれて、全くと言っていいほど聞こえなかった。
「何言ってんすか!歌うなんて聞いてない!」
「これも手伝いだな、うん」
掴まれた手は解かれずにとうとうステージの中心へと運び込まれる。
そして僕の肩に腕を回されて先輩は片手を上げる。
まるで潮が引いたかのように観客の声が消えて、ゆっくりとドラムの音が響き始める。
一拍置いてエレキギターとベースが演奏を開始する。
「知ってんだろ、この曲?」
「知ってるも何も」
高校の頃に先輩と一緒にやったライブで歌った曲だ。
「何より、歌う側は観客にはなれねぇ。中心にいるようで実は一人ぼっちってことだ」
やがて曲目を知った観客から歓声が漏れ始める。気づいた客は曲目を連呼し始め、その曲目は周囲へと電線する。一昔も前の有名なロックバンドの曲だ。
マイナーでもなく、それほどメジャーでもない。でも最初の歌詞を聞けば気が付くような曲だ。
「何が言いたいのかよく分りません」
「俺もだ。でもまぁ、お前にはこのくらいの一人ぼっちがちょうどいい」
僕は先輩から解放されて手持無沙汰の状態になる。対して先輩はエレキギターをガシガシと弾きはじめた。
ここまでくればもう逃げられない。走馬灯のように高校時代の先輩とのライブを思い出す。
閉鎖された体育館に半ば強制的に収容された学生たちで構成された観客は盛り上がることなく終わりを迎えた。
だけどここでは違うのだ。誰もが自由で束縛されずに演奏を聴いている。
飽きた人間は立ち去ることもできるし、気に入った人間はとどまることができる。
だったら、別に何かを背負う必要もない。
「もう、知らん」
マイクが拾わない程度のつぶやきを残して、僕はマイクへと近づく。
歌い始めの観客の反応を確認してからは、もう何も気にすることはなかった。
精一杯自分の思うがままに歌って、叫んで、ただそれだけだ。
一曲目が終わって、間髪入れずに二曲目が始まる。これもまた僕と先輩が文化祭で演奏した曲だ。
なんだ、ただ過去の焼き回しじゃないか。
同じように僕は演奏に乗せて声を紡ぎ出すだけだ。
不思議と歌詞は自然と出てきた。
周囲は歌詞に合わせて自由に手を振ったり、ジャンプをしたり、あるいは隣同士で肩を組んで歌っている。
観客というグループに括られて盛り上がっている。
でも、僕はやっぱり一人だった。
歌うことでステージは成り立つけども、それでも彼らのようにグループに括られることなくたった一人で歌い続ける。
あぁマラソンみたいなものだと、妙にその例えがストンと胸の奥に落ちた。
声を枯らしながら、僕は歌い続ける。
誰に対してでもなく、ただその一群の枠組みを作り続けるために歌う。
最後の曲が終わってステージの上から観客を俯瞰する。
拍手の音に包まれながら僕はぼんやりと考える。
観測者がいて初めてそれがグループであることが分るのだ。
ただ観測者はそのグループには属されない。