1.竹川無線とナースさん
竹川の電波は悪いらしい。
そういう噂が流れてからもうどれくらいの日時が経っただろうか。
思えば僕の携帯の液晶に表示されるアンテナはいつも中間から下の位置で安定している。
これを安定と評するには若干の語弊があるけれども。
電波が悪いとメールの受信は不安定だし、電話もいつの間にか不在着信が登録されている。
それも返信する機会を逃すようなタイミングに受信する。
ただそれをよしとしている自分もいたので、携帯電話は保証期間を過ぎた今でもそのままだ。
壊れているのか、はたまた何かがそうさせているのかはわからない。
気付いたころには僕の携帯が鳴ること自体が少なくなってきた。
それもそうだろう。
繋がらないことを言い訳にして、他人からの誘いを断って、見逃して、目を瞑ってしまったのだから。
だけどそこに携帯が繋がらないという免罪符が存在する。
「だとしても、変えない自分が悪いんだよなぁ」
八階の喫煙ルームは研究室が多いため、学生が少ないことに気が付いたのはつい最近になってからだ。
一階から四階までは学部生の講義で使われる部屋が多く、日時人で溢れている。
だから決まって僕は講義の空き時間は八階で過ごすことが多くなった。
僅かながらの休憩スペースであるが、研究生は基本的に研究室に籠りっぱなしなのでここには来ない。
静まったリノリウムの廊下に、わずかにカーブを描きながら扉が連なる。
そのどれもが動く気配もなく、果たして本当に中に人がいるのかと疑いたくなってくる。
僕はすっかりと草臥れた椅子に腰を掛け、本を読み始める。
対角線上にある掲示板にはいつから貼られていたのかもわからないポスターが貼られ、枠に収まりきれないポスターはテープで留められていた。
そのテープも焦げ付いたような鈍いオレンジ色の光沢を放ち、年季の入った哀愁を漂わせていた。
もう壁と一体化しているのではないだろうか。
そもそも貼られている掲示物が社員募集の企業パンフレットからして不安だ。この会社今もあるのだろうか。セロハンテープに負けず劣らず、紙面の光沢は失われ薄らと日焼けした薄茶色の表面は貫録さえ窺える。
ふと、どこかの扉が開く音が廊下に鳴り響く。
僕は掲示物から目を離し、手物の小説へと目線を移す。
こうやって読書に没頭することで、他人から声をかけられる可能性を少しでも減らそうと試みる。
ここまで成功率は百パーセントだ。ちなみに小説を読んでなくても声をかけられたことはない。
そもそもこの八階に僕を知っている人間が存在することがほぼありえないのだから。
「あれ、竹川無線だ」
誰もいない廊下では話し声がよく通る。
竹川とは僕の名前だが、無線は名前ではない。そもそも僕は彼女のことを知らない。
「どしたの、こんなとこで」
「別に、つか、無線って?」
「あぁ、そりゃ本人は知らないか」
くすりと彼女は笑うと、正面の椅子に座った。
彼女の体重が重いのか、それとも椅子が古いのか、錆びたバネの音が静かに鳴った。
というか説明は要らないから、帰ってくれないだろうか。
疑問形で会話したことが早くも悔やまれる結果となった。
「竹川君の携帯って電波届かないんでしょ、だから無線」
「紛らわしいな、繋がってないって意味での無線かよ」
それに届かなくはない、たまに繋がったりする。
「そうね、それに電波に限った話ではないかも。人間関係もそうじゃない?」
「友達いないっていいたいのかよ」
「それに近いかも。あー、でも電波の切れ目が縁の切れ目っていうしさ」
「それは金だ」
まぁ、敢えて誤用したんだろうけどあながち間違ってもいない。
「でも竹川君って、そういった繋がりっての気にしてなさそう」
「気にするも何も、繋がりってのは無意識のうちに繋がってるもんで、本人の意識はあまり関係ないだろう」
「そうかな」
「携帯電話だって、僕が願ったらメールが届いたり、電話がなったりするもんじゃないしな」
「君は携帯電話かよ」
「それも電波拾わない系な」
「それどのジャンルに属すのかしら」
はてと首を傾げ、彼女は訝しげに眼を細める。
襟付きの白いシャツに薄いピンクのカーディガンの着合わせはどこか看護師を彷彿とさせる。
それもチーフとか師長とか偉い系の人。
前のボタンを留めてないことも、ポイントが高い。何のポイントだろう。
「ま、結局電波の拾わない携帯と同じように、壊れてるんだ」
「君が?」
「そう、僕が」
ただそれは僕だけじゃないと思っている。
受信したって正確に電波を変換できない奴だっているし、送信できないやつもいる。
「だからといって、僕以外が正常かは知らないけどね」
「正常って何?」
「さぁ」
僕は同じように首を傾げてみる。
「だったら、回答が無いってことでしょ。それ、間違ってるってどうしてわかるの?」
僕は押し黙る。
確かに模範解答が無いものに、採点のしようがない。
つまり正解かも不正解かもわからない。
「確かに、壊れてるってのは言葉の綾だ」
「ま、でも竹川君はどこか壊れてるように思うけど」
「おい、矛盾してるぞ」
「だって答えがないから、壊れてるかもしれないし」
結局はどちらの主張も通るような状況で否定のしようがない。
「まさしく波みたいなものだね」
「波?」
「そ、波。この間の授業であったじゃん、波は独立性を保つって」
「あぁ、そういうことか」
波はお互いぶつかりあっても、一瞬は重なりまるで何事もなかったかのようにしてすり抜ける。
対消滅することはない。
「他人、つまりアザーは波ってわけだ。で、マザーは海」
「母なる海っていいたいのはよくわかった」
しかもそのコマーシャルの会社まだあるのだろうか。最近その映像見なくなったぞ。
「他人は波、重なったところだけ大きくなって、一人のところは小さい」
まるで小中高のカースト制度のようだ。
「ま、その波とやらがみんな同じ高さとは限らないけどな」
「そだね、いるよねー、影響力持っているやつとか」
特に目の前の彼女とか影響力高そうだと言いたいところだが、相手の名前が分からないのでどうにも扱いに困る。主人公の名前をデフォルトにしなかったがために、ヒロインからキミって呼ばれることになった記憶が甦る。何の話だよ。
「長いものに巻かれろってやつかな、だからみんな周りを集めてるのかな」
「僕には身代わりを集めているようにしか見えないのだが」
「身代わりというか、外壁かな」
彼女の言葉は割と僕から見た周囲の人間をうまく言い表せていた。
「でも、君だって一人で壁を作ってるよね」
「壁なんて作ってないよ」
「そっか、アルミホイルで巻いてるだけか」
「携帯じゃねーから。しかも巻いてないし」
思わず携帯電話を見せてしまったが、その電子機器が受信しないことが既に壁を作っている証拠なのかもしれない。受信しない携帯電話。それって携帯する意味があるのだろうか。
「アルミホイルも巻いてないのに、不思議だね。しかも電波微妙だし」
身を乗り出して掲げた携帯の液晶を望みこむ彼女。まるで警戒心がないのもそれはそれで困ったりする。
「知らねぇよ。特に不自由にも感じなかったし諦めたわ」
僕はそそくさと携帯電話をポケットの中へと戻す。
それに完全に受信しないわけじゃない。思い出したかのようにメールや電話の着信履歴を受信する。まるで生き物だ。
「そ、か。ねね、メアド教えてよ。私も送りたい」
「何をだよ」
「メアドを訊いてるんだから、メールに決まってんじゃん」
どんなメール送るのかを質問するほど深く立ち入ることはなかった。
僕は素直に携帯電話のメールアドレスを表示し、彼女に見せる。
「あ、直に打たないとダメか」
彼女の携帯とキャリアが違うせいか、アドレスは直接登録する必要があった。
それでも彼女の指はするするとアルファベットを入力していきあっという間に携帯電話に登録される。
「はい、そーしん」
「んじゃ、気が向いたら返信するわ」
「うわ、そこでもう携帯確認しないところがもうね!」
若干引き気味で彼女は答える。
「というか気が向いたらって君が言ってるの? その携帯君が言ってるの?」
「さぁ、こいつ次第じゃね?」
僕と彼女は手元の携帯を覗き込むが、まるで僕たちの期待に応えるかのように何も動かない。
受信したらしたで、僕の話が嘘になるので都合はよかったのかもしれない。
「さて、私は行くかな」
「おう」
なんだかくぐもった返事になってしまったが、意に介さず彼女は椅子から立ち上がる。
ようやく解放されたとでも言わんばかりに椅子は鈍い音を立てる。
「そうそう、ここらへんに小学生くらいの少女が通らなかった」
「いや、俺がいたときには通ってないはずだけど」
「そう、じゃあここじゃなかったか。幼女ちゃんどこかな」
彼女はそういうと軽快なステップで階段を下りて行った。
幼女ちゃんって名前がもう犯罪臭しかしないのだけれども。
そういえば名前訊き忘れたなと、どうでもいいことに気が付いてしまう。
やがて彼女の階段を下りる音が聞こえなくなって、やがて小さく僕のポケットが震え始める。
「お前は狙って受信してんのか」
その問いには誰も答えない。
案の定メールの受信が一件と液晶に写しだされる。
メールを開いてみると、よろしくの四文字が掛かれていた。
「いや、名前書こうぜ」
せめて苗字くらい書いてあれば助かったのだが、アドレス帳への登録をどうしようかと思う。
仕方がないので、見た目の印象からナースさん(チーフ)として登録することとした。
見つかったら確実に怒られるか、それかゴミを見るような目で見られるだろう。
でも名乗らないのが悪い。
メールの受信ボックスを確認すると差出人にナースさん(チーフ)と記載されている。
どう考えたって、やばいお店に通っているようにしか見えない。
僕は彼女の名前をそのままに、同じ四文字の言葉で返信をした。
ところで僕から送信したときはきちんと送付できているのだろうか。
でもまぁ、届かなくたってそれはそれでいい。
どうせもう話すことはないのだろうから。