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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

冷たい月の下のハロウ

作者: 伊田千早

   冷たい月の下のハロウ


 生きているか、死んでいるかではない。所謂生と死の違いなど無く、これらは同義である。無理に分けるとするならば、必要とされているか、いないか、である。それが誰に、何のために、など人には全くもってまるで解りえない。


   一

 夜空には月があった。燻らせた吐息が月を夜に滲ませる。月は幻想的な存在である。それを見ているだけで世界が一変しそうな、そんな期待を抱く。しかし幻想的であればそれは現実である。

 けれども、そしてそれを取り巻くハロウがあるならば、ここはもう現実では、ない。


   二

 この部屋には一人しかいない。パソコンの前にいた。

 事故、悪霊、のキーワードで検索する。その結果は無数と同様に表示される。そこで県名、町名を絞る。すると一件も表示されない。

「わかっている。これはいけないことだ」

 ただ一人の部屋で、そう言う。

「睨むなよ。言われるまでもない。わかっている。でも、ここにあるかもしれないんだ」

 ただ一人の部屋で、そう答える。


 数年前のある時期、季節は秋の頃。ある地方で起きたある事件が全国紙で取り上げられた。事件は、不可解を残して解決した。

 数年前のある時期、季節は秋の頃。ある地方で起きたある事件が全国紙で取り上げられた。事件は不可解とともに未解決である。

 経年と共にそれらを覚えている世間の人は、今はもう存在しない。


 彼は、ある日の帰り道交通事故を起こしてしまった。ガードレールに車の頭から突っ込んだのだ。山の麓、人気の無い道路の事故であり、他に怪我をした人もそれを目撃した人もなかった。被害があったのはガードレールとその奥の電信柱だけだった。彼は生きていた。たいした怪我もなく意識もある。その事故が発見されたのは翌朝になってからだった。

 どこにでもあるただの事故だ。

 しかしいくつか不可解な点が存在している。

 まず一つ目。

 彼はなぜ助けを呼ばなかったのか。怪我をしているわけでもなく意識が無いわけでもなく、それなのに一晩中彼はそこにいた。事故が発見されたのは翌朝になってからだったのだ。

 次に。

 彼が発見された時の奇妙な行動についてだ。

 被害者などいない。被害にあったのは電信柱とガードレールのみである。彼はこう訴えていた。

「追いかけられた」

 そして誰に話すでもなく、ただ「もうしわけなかった」と謝り続けたという。

 警察は首を傾げた。現場検証から彼の車はかなりの速度を出していたということがわかった。道路にいくつか跡が残っており、それはかなり荒い運転を示唆する。「何かに追いかけられた」警察もそう考えたが、けれども、そのようなことはまるでなかった。

 それ以後、彼は次第に冷静になっていった。日常の生活に戻っていく。しかし生活の節々で、彼は、何もない虚空に向かって謝る、という行動をやめなかった。

 冷静な人間が、時折見せる奇妙な行動は、大きな印象を残す。それは彼の周囲には奇異に映り、人々は彼のそばから距離を置き、それをやめず、尚も彼のそばにいた人は、段々と人の言葉を訊かなくなっていった彼を病院に入れた。

 彼にその晩何があったのかは結局わかっていない。


 この情報が真実なのかどうかはわからない。身も知らない誰かの創作であることなど、十二分に可能性のあることだ。

 彼は机の脇を見いやる。葉っぱが一葉あった。それは銀色をしている。塗料で塗ったわけでもなく、工作したわけでもなく、本物の銀色の葉。枯れもせず腐りもせず、ただ銀色であり続ける。それは生と死の境を越えたものに沿う。

 彼は、振り返る。そして呟いた。

「起きたか」


   三

 ススキの穂に日が溜まる頃。

 夏の暑さが去って秋になる。空気が、柔らかい暖かみに変わりやがて冷たさが混じり始める。そのような時期に僕は、篠崎真野を遊びに誘った。

「いいよ。行ってみたい」やああって彼女はそう言った。

「本当?」

「本当」彼女は微笑む。

「じゃあ、後で連絡する」

 しかしそれが失敗だった。

   

 午後四時半過ぎと時計は示している。

 僕と篠崎真野は山中で立ち尽くしていた。辺り一面は腐葉土で覆われ、そのところどころから細い木々が無作為に生えている。少し遠くの方は、木々で鬱蒼とうす暗い。多くの木々は枯れて葉が一つか二つ、もしくは全くない。 しかし見渡せば、まだ紅葉した葉を多く残すものもある。

 もう裸になった木々がざらざらした細い幹だけを残し、それらはみすぼらしい。秋や冬の寒さや寂しさを体現しているようで、気分は落ち込む。細い幹から伸びるさらに細いひ弱そうな枝が揺れれば、それだけで寒そうだった。

 風が吹いた。日陰の沢を通り抜けてきたような、肌に冷たい風だった。唯一残っていた枯れた葉が枝で揺れて、離れた。ひらひらと風の隙間を縫って落ちていく。葉がなくなり寂しさと秋と冬を感じさせるこの景色も、もし夏に来たのならきっと変わっていただろう。このような悲壮感に浸ることもないかもしれないが、今や遠く離れていってしまった夏を仮にとして憂いでもどうしようもなかった。

 見渡すが、枯れた木々の向うには同じような木々か山肌しかなく、目印になりそうなものは何もない。

「完全に迷っちゃったね」横に立つ真野が言った。疑問を訊ねると言うより確認に近い。

「そうみたいだ」

 今自分たちが遭遇したものは作り話めいていて、現実との遊離が大きく、僕はまだそう大きい危機感を抱けなかった。持っていたのは危機感の代わりの別のものだった。

「遭難って言うんだよね」

「そうだね。遭難だ」

 遭難した今、行き先と居場所がわからない。周囲を見渡しても山しか見えず、自分たちだけではどうしようもない。下山する道もわからない。人が分け入った跡などどこにも見当たらない。

「ごめんね。弘一くん。わたしが勝手にこっちの道行こうって言って進んじゃったから」

 眉を下げ申し訳なさそうにしながら彼女は僕に謝ってきた。僕らは紅葉を見に、山にハイキングに来て途中に少しだけと道を逸れた。僕も彼女も地学を初めとする自然科学を学んでいるために、慢心か油断があったのかもしれない。はじめはあまり使われてなさそうな道を歩いていたのだが、何時の間にかここがどこだかわからなくなってしまった。

「いまさらどうしようもないし、僕はなんとも思っていない」


   四

 民家が狭苦しく密集しているわけではない住宅街は夜になれば、帰宅者でどの家にも人はいるだろうが、しかし静かだった。今が深夜であるからだ。人気などまるでなく、夜という光を奪う闇は、静寂の物陰に落ちて、そここの家を飲み込み、動いているものを異質たらしめていた。

 そのような空間でそれは非常に非現実的な存在であった。空には、月があったのだ。

 淡く輝く月は、雲に隠れ、再び現れる。深海底のように流れも動くものもない地上の上方に、そのような月が空にあるというのは、不可解でもない当たり前である。が、しかしその時はそれが酷く不思議なことだった。星があることや、宇宙があることや、地球が回転していることが、深夜の住宅街からは信じれらない御伽噺だった。

 徐に。月を見上げていた彼は徐に視線を下げた。首を巡らし辺りを伺い、振り返る。街灯に照らされて硬質な弱い輝きを放つ道路も、無言の家々も以前と変わらず、彼以外は人影はなかった。彼は誰かに見られている気がしていた。寝静った住宅街には、歩く人の姿は彼以外に誰もいない。街灯の隙間や家々、マンションの傍にある暗がりにも何も見えない。彼は自分以外の何者かが動かないかと待っていた。しかし、当然何も起こりはしなかった。彼はほんの少しのため息を吐いた。数秒立ち尽くしても数秒前と変化は見つからない道を彼は再び歩き出す。たった一組の足音が静寂に逆らい、しかしそうではない。

 彼は自身のアパート階段を軋ませて203号室の玄関を開ける。暗い室内から慣れた匂いがする。床の軋みの後、居間の電気を点ける。低い音を伴って室内の電気は明滅し、すぐに安定する。暗いぼんやりとした室内の輪郭は光の下に安定の形を生む。それは見知った部屋である。

 コンビニで買ってきた弁当とその袋をテーブルに置き、彼は着替えをもってシャワー室に向かった。そのとき、背後で音がした。振り返ると、弁当の入ったビニールが萎れる様に折れていただけだった。彼は肩を落とした。しかし、何ともなかったからだ。


   五

 山に分け入るには、地形図とコンパスを持っていくべきという教えのためにどこにいるかわからなくても、西に行けば山を降りることができるということはわかっていた。しかし人の手が入っていない道なき道でひたすらまっすぐ西に進むというものは、それだけでも困難だった。

 地面から枝が生えている生垣のような木が壁として眼の前一体に群生していたり、崖のような急な斜面あったりすれば、人は回り道するしかない。回り道をした先でさらに回り道をする。結果、何時の間にか、進む方向が全く別の方向になっていたりする。その都度コンパスで確かめる必要があった。

 山の木々はよく見れば同じような所はあっても同じではない。けれども山の中にいるとどれもが同じである。

 これはさっき見た光景と似ているような気がする。崩れた地面。溜まる落ち葉。うねった斜面。

 本当に西に向かっているか。僕は幾度もこの不安に襲われた。

 目印は何一つない。人工物も一つも見えない。空には雲がたゆたっているだけで電波塔も電柱も、鉛筆で引いたような風で揺れる電線さえも見えない。

 僕らは小さな盆地の様な山間を選んで歩いていた。その方が歩きやすいからだ。

 しかしどれだけ歩いても四方が山々で囲まれているだけで、どの山も似た非なり、やはり似ていて区別はつかない。まるでここだけに平地があってそれ以外は山しかないかのように、山が付いて回るかのようにどれだけ山を越えても同じ景色だった。世界は山のみで構成されていた。

 虫たちの鈴を鳴らすような音はささやかにしか聞こえず、風が吹かなければ僕たちに聞こえる音はその地面の音と虫の音だけで、本来小さなその音が異様な存在感を放ち始める。

「はあ」

 時刻は五時前だった。腐葉土を踏む足を止め、一息ついた。道なき道を歩くことは想像以上に体力と精神力を使い困難だった。また、もうこの時期になると日が沈むのは大分早い。

 光にいよいよ黄色みを増してきた太陽を眺める。向こうに見える頂に腰を下ろした太陽は地面に光と影の陰影を濃く長く落としていた。

「もう日も短かいんだ。ついこの間まで夏だったのに」

 真野はどこかしみじみとした口調でそう言った。

「時が経つのが早いってのは、残念だけど僕も思う」

「ね、位置確認しよう」

 コンパスと意味もなく地形図をあてがって位置を調べる。しかし何も見家出せない。

「だめだ」僕を顔を上げる。

 山間に切り取られた空に浮かぶ太陽。山と山の隙間に見る太陽は、ビル群の隙間に見るそれに似ていた。

 太陽の近くは茜色、離れた空は青色へ移る。大きな虹の一部を見ている感じに似ている。雲は太陽から伸びる光を燃える色に反射し、青空に浮かぶ様はこの世ではないような不思議な心地だった。

 西日は茜色に木々の後ろに長細い黒い影が伸ばす。その中にいた。

「夕日、こんなに眩しかったんだ」

 彼女は呟く。彼女の顔は西日に照らされ少し眩しそうに眼を細めていた。そして僅かに微笑んでいた。

「確かに眩しい」 

 そう言った僕を彼女は見て、それからもう一度西の空を見いやる。

「こういうときじゃないと気づけないのかな」

 笑みをたたえて彼女は僕の方を向く。

「こういうときだからこそ、気づくんだ」

「あ、そうなのかな」彼女は首を傾げる。

 感覚の研ぎ澄まされた、朝と夕の記憶の印象は深い。世界が様変わりする瞬間は日の流れを身近する。

「ねえ、聞いていい?」

「何を」

「わたし、今悲しいんだ」

「夕日のせいで?」

 彼女は頷いた。

「多分。それはきっと終わってほしくないからなんだ。終わるのが悲しいんだ。どうしてだと思う?」

「どうしてって」

「わからない?」

「わからない」

「今日が良い日だったからだよ」

 僕は面食らった。

「弘一くんにとっては、今日はどうだった?」

 彼女の声はとても落ち着いている。いつも凛としていて声色から感情が読み取れない。

「これからどうなるかによると思ってる」

「じゃあ、今までの時間のみだと?」

「それだと。楽しかった、僕は」

「わたしも楽しかったよ」真野はここで一呼吸置いた。「ありがとう、弘一くん」その時の彼女はとても優しい顔をしていた。

 僕は一瞬息が詰まる。

「どういたしまして」

「こちらこそ」


   六

 長雨が降っており、数多の水滴が数多の音を奪い去る。雨のカーテンは世界から彼を切り離す。現実を雨が滲ませ、その端切れが彼の体に纏わり着く。

 遠くのビルの屋上の照明だろうか、赤い輝きがゆっくりと明滅している。深夜のビル街に人気はなく、車通りもまるでない。信号の明滅は全く持って意味を見出さない。

 彼は、徐に二車線道路の交差点の真ん中に歩み出た。左右の信号の指示を無視して一人歩み出た。そしてそこに立ち尽くす。しかし何も起こらなかった。彼は今違法行為をしている。けれどもそれを咎める人も賞賛もない。異常をきたしてみても、それは異常と認識されない。正常な信号の明滅だけが存在していた。

 ビル街を抜けた頃の横断歩道の向かいには、同じように傘をさした人がいた。辺りには彼と、その人以外誰もいない。信号が明滅し、横断歩道は青になろうとする。彼は横断歩道を歩き出す。足音一組道路を渡る。歩道の真ん中辺りで向こうから来た人とすれ違う。足音一組道路を渡る。自身の音を切り捨てて世界はかように静かである。歩道を渡り終えた時、彼は振り返った。しかし、纏わり付いた違和感は拭えない。湿気が纏っているかのように。

 振り返った先には、誰もいなかった。

 すべては長雨の幕の向こうに消えていた。信号は明滅を始める。遠くのビルの屋上には赤い光。彼は立ち尽くす。信号が変わっても立ち尽くす。やがて傘を下ろし、徐に口角を上げた。雨が髪をはじめとして全身に当たる。コンビニで買った弁当の入ったビニール濡れる。しかし、笑っていた。纏わり付いた雨が当たってもまるで違和感は拭えない。だから、笑っていた。


   七

 辺りを見渡すと、その暗さに驚いてしまう。東空はもう深い青を呈し、夜はすぐそこに来ていた。木々を縫う空気が一段と冷たいものになり、風がざわざわと周囲の葉木を打ち鳴らし遭難者を包もうとしている。暗闇が近づいてくると共に黒い水のようなものに体ごと満たされる感があった。それが胸の内のほんの一角を呼び覚ます。

「夜になっちゃったね」

「ごめん」

 僕に言えるのはこれだけだった。他人を危険に晒しているという事実が

「それは・・・・・・いいよ。わたしが勝手なことしなければ良かったんだから。そうすればこんなことにならなかったんだし」

「誘ったのは僕だ」

「ううん。わたしがこっちに来たいって言って勝手に進んだせいだもん」

「いや」

 真野は微笑んで、首を傾げた。

「やめよう。終わらないよ」

 真野は逡巡し意を決したように少し眉を吊り上げた。そしてすぐにまた柔らかい表情に戻った。

「こういう時は明るく考えないと。謝ってばっかりだったら駄目だよ。わたしは本当に気にしていない。弘一くんも自分が悪いって言う。だったら、責任の所在無くても、事実はもう解決でしょう」真野は笑う。

 僕は呆けたまま表情で彼女を見つめた。

 思わず、乾いた笑みがこぼれてしまう。

「な、何、何で笑うの?」

「その通りだ。篠崎さんが強い人で良かった」 


   八

 外はまだ青い。日が昇る前の、淡い青い時間。すっと冷えた空気と朝霧が立ち込め、世界は薄らおぼろげである。遠くの空気の流れまでが聞こえ、まるで静かなけれどもうねりの様な地響きに包まれる。彼はまだ醒めきっていない気分で、道を歩く。おぼろげな気分の中においてその早朝の冷たい空気はこの上なく寒々しい。通りをいくつか抜けてやおら、遠く山並みから日が見えるだろうかそんな頃。通りの向こう、山並みが見えるその直下に人がいた。別段おかしなことではない。しかし、朝霞みの中で、彼が数度目を擦ると、まるで初めからそうであったかのように人は消えた。通りを車が走っていく。おぼろげな幻想はかき消され、一日という地面を這う現実が始まった。

 しかし彼は徐に歩みを進め、道路を渡る。車が来るのも気にせずに通り抜ける。彼がそれを見た、それが立っていたところまでいく。何もない道路の中空を彼は手で掴もうとする。当然ながら、触れるものなど何もない。何も握れなかった手を拳にし、また開く。彼は再び手を空気中に泳がせる。けれども、やはり何か手に感じるもの朝の冷たい空気のみだった。

 彼は徐に独り言を呟いた。

「僕がおかしくなったのか」

 すぐに、彼は否定する。

「違う」彼はすぐに実直な否定の言葉を吐き出す。「おかしいのはこの世界だ。この現実だ。そしてそれが」正常だ。そう言霊にした。


   九

 光がなければ、何も見えない。足元に何があるのかさえもわからない。

 僕たちにとってはおのおのが持つ携帯電話の明かりのみが頼りだった。

 携帯電話のライトを点けるとそこだけが明るくなる。劇場の舞台の一点にスポットライトが灯るようだ。暗さに慣れていた目には明る過ぎ、ライトなしでみていた景色がこれほどに暗く気味が悪いものだったのか、と改めて思い知る。

「こういうとき、どうするべき?」

「その場を動かない」彼女の問いに僕は周囲をライトで照らし答える。生い茂った草で埋もれることはないが、辺りは光が届かぬほどに広々としていて、生えた木々が不気味に影を作っていた。

 僕は今一度、自分の現状を整理した。その結果を口にする。

「けど、篠崎さんが良いんだったら、もうちょっと歩いてみよう」

「わたしは夜歩くの好きだよ」

 野外で寝るにしても、もう少し適した場所を見つける必要があった。僕も真野もある程度歩きやすい服装をしているので、歩くこと自体には難はない。携帯電話のライトがあるが、周囲には闇が染込みだし視界は非常に悪い事実は変わらない。逸れてしまう可能性はあった。

「悪いけど、手を出して」僕は彼女に自分の片手を差し出した。真野は少し戸惑いを見せたものの手を出してくれた。

「逸れないように」

 僕は彼女の手を繋いで森を恐る恐る進み始めた。

 耳に聞こえるのは、自分たちの草を踏む音。時折ふっと虫の音が飛び交うが囁きのようなもので、いつからか山はまるで寝静まっているかのようになってしまっていた。騒めかないというだけで、山は酷く寒々しいものになる。

「方向あってる?」横で真野が不安げに訊ねてくる。

「……合ってる」

 立ち止まり暗がりでコンパスを照らす。立ち止まると、いくら涼しくても服の中がむっと汗ばんでいく。

「こっちだ」

 コンパスを確かめ進むべき方向を照らす。

「こっちだね?」真野が彼女のライトを僕の照らしている部分に重ねる。

「そう」

 なだらかな降り斜面を僕から一人ずつ降りていく。積み重なった落ち葉が足元を埋め尽くしているので、滑るかもしれないという予感があった。それは事実になり僕は斜面を危なげに下ってしまう。幸いにも転ぶことはなかった。

「弘一くん、大丈夫?」

「大丈夫。危ないからゆっくり」

「うん。わかった」

 そう言って彼女も慎重に降りようとするのだが、生憎、彼女も落ち葉に引っかかり転びそうになり、慌ててそれを受け止めた。

「あ、ごめん」

 顔の近かった彼女の吐息が僕の耳に届いた。歩き通しなのだ。彼女も疲れていると嫌でも解る。現状は彼女にとって異常なのだ。今、暗闇と共に異常が満ちている。

「ごめん、ありがとう」

「いや、ごめん」

「何で弘一くんが謝るわけ?」

「……意味はない」

 そう言って僕はごまかした。こんな状況においてこのような感情を持つことは間違っているとわかっていたからだ。

 それからも時に時間を確認し、小まめにコンパスで方向を定め、林の中を進んだ。真っ暗の中ではライトの光は実に頼りなく、極稀に聞こえてくる夜の生物の囁きが、余計に耳の内側に入ってくる。

 しばらく歩くと草木が生い茂る場所に行きついた。地面から枝が生えているかのようになっていて、それが絡まり合って、そびえ立つ壁になっている。 立ち尽くす僕に真野は言う。

「また迂回しようか」

 風が吹いた。周囲を覆う葉すれの音が立ち込める。空を見上げ、目を凝らせば、轟音を唸らせそうな雲の影が見えた。その暗さに己の矮小さを見出す。

 また、風が吹く。木々が囁く。

「曇ってきた。雨が降るかもしれない」

「山だもんね」

「山だからね」


   十

 気がつくと、彼は夜の道路にいた。遠く黒い山並みを望める山間の、幅の広い道路だった。信号は見えず、街灯もない。夜の道路は静かで誰もおらず、風の音が聞こえた。光というものは空からやってくる。暗い空は山の陰よりも明るい。視界に道路や山並みを浮かび上がらせるのは、月があるからだった。淡い黄金色をした月だった。

 空は月の光で淡い濃紺を混ぜている。一方で山並みは本当に何もかもを一色に落とし込んでいた。目を細めるような風が寒々しい。周囲の木々が草木が、まるで笑うかのように、まるで世界がそれだけで構成されているかのように、葉すれの音が吹き溢れる。

 この世界には彼以外生きている人はいない。この世界において、しかしこの世界は森しかない。果てない森は常にまるで何者かであるように、彼を監視している。得体の知れぬ果てぬ暗闇の内から、形なくけれども、確かに彼は監視されている。その一挙一動は罪であるからだ。

 この状態において。彼は考えた。自分自身は、生きているのだろうかと。空を見上げれば、普遍な、異常の見られない月夜の空がある。しかし、それは異常であまりに非現実的であまりに有り得ないものだった。月暈が取り巻いている。この世界において、彼は生きているか。この世界においては、彼は生きていないも同じだ。いや、彼は考える。生きるとは、死の対ではない。生きるは死に向かう、でもない。生きるは死と何一つ違わないのだ。この月暈と月夜の下で、生というものと死というものに、境はなく、それらは何も、何一つも、敢えて言うならば、言葉が違うだけなのだ。だから彼は、今、道路の緩い昇り丘に立っている亡霊を見ても胸の内は至って平穏安らかだった。このことにおいて何も異常等ないのだから。

 この世界において、何も異常等有り得ないのだから。

「また、見える」彼はそう胸の内で呟く。

 それは影だった。黒く煙のようで、であるが人の形をしてそこに佇んでいる。丘に吹く冷たい風に影、煙然りと揺れる。風が止むと、ゆっくり再び元の人型に戻る。

 それは近づくでもなく、何かもしようとしなかった。ただその場にいて、煙のような影に双眸などなくとも、恐らく彼を見ていた。

 彼もその場から動かず、近づかず見ていた。

 風は冷たい。空は広い。月と、暈が空を覆うような円を描いている。

 所在無い左手が宙を泳ぎガードレールに触れる。彼は視線を己の左手に寄せた。ガードレールの冷たさに驚いたのだ。

 その瞬間に、彼の置いた手の横に見知らぬ手が添えられた。

 それは異様に淡い。亡霊だった。長い髪の毛と淡い体。その体には染みのような焦げ後のようなものがあちらこちらにある。それが影だったのだ。

 彼は、また驚いた。彼女は怒っているでもなく、恨んでいるでもなく、笑っているでもない、無表情で彼を見ていたからだ。

「なんだ?」

 意味もなく独り言のように彼は呟く。

「僕の前にどうした姿を現す? そして消える。消えるなよ」

 幽霊は無言で、彼から視線を逸らす。どうやら上方の――空を見ているようだった。それが月だと彼はすぐに気づいた。

「僕の前に現れたなら、壊せ。現実を幻想にしろ。僕を連れて行け」


   十一

 なだらかな坂の先、ライトで先を照らすと暗灰色のぼんやりとした平らな空間が見えた。そこに木々はない。

「あそこは?」

「……駐車場?」

 真野の言葉に僕と彼女は顔を見合わせた。胸の高鳴りを感じながら僕らは斜面を降りた。暗灰色の平地まで行った。確かに駐車場のようだった。一抹の安堵は幻を破る虚しさだ。

 僕は灰色の部分に一歩踏み出した。アスファルトの固さをイメージしていた僕の足が感じたのは、しかしながら間逆だった。

「うわっ」

 足がアスファルトに吸い込まれていく。

 引き抜こうとするが踏ん張りが利かず、僕は近場にある木を慌てて掴んで、足を引っぱる。どろっとしたものが重たく足に纏わり突いて、やっとのことで足は抜ける。

「これ沼かも」彼女がライトで平らな部分をぐるぐる照らす。

「沼……駐車場じゃなくて、見間違い」

 沼はそこいらに広まっていて、かなり注意なければならなかった。万が一にも沼に嵌ってしまったら本当に抜け出せないかもしれない。どこに沼があるかわからない。木々が生えているところは大丈夫だろうと判断し、不安定な木々の傍を飛び移るように伝って歩くことにした。その間脇に見える黒々とした沼が視界に入る。切り取って整地したかのような空間。完全なる自然のもの。そんな存在がすぐ傍にある。沼は動きも鳴きもしない。僕はこのときやっと怖いと思った。

 沼を抜け僕と彼女は一息ついた。

「かなり冷えてきた」

「弘一くん、寒い?」

「僕は慣れてる」

「あ、そっか。弘一くんって東北って言ってたっけ」

「篠崎さん疲れはどう?」

「結構疲れちゃったな。でも、まだ大丈夫だよ」

 その言葉は強がりに思えた。

「そう」

 それからしばらく、また藪の様な植物の群生地帯に行き会った。周囲をぐるっと囲まれていて他に進めそうな方向はなかった。

 僕はライトでちらちらと群生した植物の壁を照らしどんなものか見てみた。

「これ押し退けられないかな」僕はその藪に触れてみる。所々に棘があった。「そんなことできるの? また回り道すればいいんじゃない?」

「回り道してても意味ないよ。さっきから先に進んでる気がしない。だから進むなら真っ直ぐだ」

「大丈夫なの?」

 僕は背中のリュックを下しそれを胸の前に盾のように両手で構えて、藪に押し込んだ。藪が傾いたところを荒々しく足で押し倒す。根元から押し倒し、数回踏みつけると何とか通れそうな感じになった。

「行けそうだ」

「弘一くん、気をつけてね。いきなりすとんと落ちないでよ」

「善処する」

「やめてよ」

 前の藪をつぶして固めて足場を作って進む。進行速度は非常に遅い。目の前の藪は中々頑丈で相当力を込めないと倒れない。足場がしっかりしているかも確かめ、同時にライトで向こう側も崖がないかどうか見なくてはいけなかった。僕は一度腰を伸ばし肩で大きく息を吐く。

「疲れてきた?」

 リュックで藪を押し倒し、僕はまた一歩先に進んだ。息が漏れる。

「やっぱり、ちょっと休んだ方がいいよ」気遣う心配そうな声が聞こえる。

「いや、大丈夫……」

 繋いでいた手を引っ張られる。

「だめ」彼女の声は普段見せないものだった。僕は諦めて「ここ越えたら、休もうか」と言った。

 長い藪地帯を抜けると、その先に見えたのは道路でも何でもなくこれまでと変わらない暗い空間だった。もこもこした地面とぽつぽつと生えた木々。光は周囲を埋め尽くす闇にはあまりにも頼りないふらふら揺れるライトのみだ。

 大きそうな木の下に腰をおろし、一度大きく息を吸って吐いた。隣に真野が座っていた。

 歩くのを止め足音が途絶えると、急に周囲の音がよく聞こえるようになる。ささやかな木々の囁きも、底知れぬ場所から聞こえるざわめきも。得体の知れぬ何かがひそひそと囁きながら見張っている。誰もいないが、何もいないわけではない。周囲を取り巻く森に対して人間二人はあまりにも小さい。

「そういえばさ」ぽつりと消え入りそうな声がした。

「何?」

「ずっと訊こうと思ってたんだけど、弘一くんってどうして転学科してきたの?」

「それも文学部から理学部に」と僕は後を引き取る。

「そう」彼女は、そうその通り、と頷く。

 僕は、言葉に表すことが苦手だ。だから、その返答として出てきたのは、とても無味乾燥しているものだった。

「よくある話。自分に合わなかったから。それだけだ」

 言葉にすればそれだけに、過ぎない。

 ライトは節約のため僕のだけを点けていた。それは今地面に転がって適当な方向を照らしていた。僕から真野の顔は見えても表情までははっきりは読み取れない。

「そうなんだ。でもよくそんな大胆なことする気になったね」

「全然大したことじゃない。そうしないと変えられないから」

「変える? 何を?」

 彼女の問いに対し、端的にその感情を荒らす言葉はやはり思い浮かばない。

「現実かな」

 真野は「そうかあ」と大きく息を吐いた。

「……もう一つ訊きたいことがあるんだけど」

「どうぞ」

「こんなときだからだけど、弘一くんからわたしはどう見える?」

「どう?」

「……一般論としてどういった人間に見えるかってこと」

 咄嗟に言葉は出てこず、僕は前方の暗闇を見つめた。

「なんていうか、僕から見ると。篠崎さんは、優しそう……かな」

「優し、そう?」

 僕は目の前に転がるライトの明かりを眺め肯定する。

「優しそう」

「わたしはそんな風に見えるんだ。変じゃない?」

「何が言いたいのか僕にはわからないんだけど」

「ごめん、なんでもないや。なんでもないからもういい」

 直後、彼女はくすっと笑い出す。

「この会話、告白みたい」

「告白じゃないよ。篠崎さんがどう見えるって訊いてきたんだから。僕はそれを答えただけだ」

「そうだね。それにわたしは告白なんかされてもどうしようもないし」

「さっきから篠崎さんがよく解らない」

 彼女は首を小さく振る。

「わたしもわたしがよく解らないよ。どうしようもないんだ。だから駄目なんだ」

「篠崎さんの、問題?」

「そうかな、わたしの問題。わたしだけの」

 一呼吸おいて僕は、訊ねた。彼女は恐らくそうしてほしかっただろうから。

「それって何?」

「弘一くんも、きっと、信じないよ」

「何を信じるかについての判断は僕が決める」

 真野は黙る。特別に訊ねたいわけでもないので僕も黙った。

「じゃあ、さ。弘一くんは……生き続けるのなら何が必要だと思う?」

「生き続けるのなら?」どう話が繋がるのか全く想像していなかった問いを受け僕は少し混乱する。

「そう」

「仕事とかお金とか」

「そんなんじゃないよ。ここで言う生き続けるっていうのは、社会の中でって意味」

「協調性とか、そんなもののこと?」

「そう。それだよ。協調性」

 僕は首を捻った。彼女の言いたいことがつかめない。

「篠崎さんは協調性がないとは思わない」

 僕の視点からしてのみ、篠崎真野は普通の大学生だ。

「そう見えるだけだよ。そう見せてるから。協調性っていうのは、それを行う人同士がある一定の範囲ないに収まってこそ、成立する。常識から外れている人は相手にされない」

 なるほどそれはその通りかもしれない。しかし偽りのないものをそう晒すことなど中々できないのだ。

「自分はそれを装っているだけだと」

「わたしは今は普通の人を装っているから。わたしは自分が、おかしな……異常な人とは思われたくないよ」

 それ以降彼女は黙ってしまった。

「仮に僕による印象の、優しいというのが見せ掛けで、本性を知った時、僕が篠崎さんに対して幻滅するとそう思うの?」

 彼女の頭が少しふらふらと動く。顔をこっちに向けた。そして頷く。

「他人に対して自分を偽るというのは全く大したことじゃない。そんなこと何も不思議じゃない」

「……じゃあ、わたしがもう、疲れちゃったよと言ったら、どうするの? 普通の振りするの疲れたって言ったら」

 彼女の声音の中に今まで聞いたことのない色が感じられた。

 僕は目の前に転がっているライトを手に取り、ふらふらと周囲を照らした。

「それを、さっきから訊いていいかなって言ってるんだ。篠崎さんが言いたくなったら僕は話を聞くよ」

 沈黙があった。やがて彼女は口を開く。

「じゃあ、そのときはお願いする」

 やああって、どちらともなく腰を上げる。

 僕らはまた歩き出した。

「本当にね。わたしは今日楽しかったんだよ」

 彼女は優しそうな表情を向けてくれた。僕は己の印象が間違っていなかったことを知った。


   十二

 彼は、自分のベッドで眠っていた。ベッドの傍には窓があり、カーテンは開けっ放しだった。彼からはちょうど窓の外、暗く輝く夜空が見えている。月明かりが、青く淡い窓の輪郭をベッドに落とす。その光には温度はない。あえてあるとするならば、氷のような冷たさだろう。宇宙を通ってきた硬質な光は、冷たく寂しい。

 その光を背負った影がいた。眠っている彼の上に、見知らぬ人が四つんばいになって覆いかぶさっていたのだ。彼は身動きが取れない。肩を圧迫されている感覚で目を覚ましそのために、どうすることもできなかった。

 暗い室内と対照的に明るい夜空。明るい夜空と対照的に暗い影を落とし、長い髪の毛を肩から落とし、その何者かは彼を押さえつけていた。

 影からはその表情は読み取れない。ただそれが女性で、彼を恨んでいるということはその行動から理解できる。彼は恨まれている。その憎悪が長い髪の向こうから冷たい光を撥ね退ける。彼は途切れ途切れに呟いた。

「怖くは、ないさ。これで、世界を、変えられる」

 彼はやはり、薄気味悪い笑みを浮かべるのだ。


   十三

 彷徨う内に、ふっと開けた場所に出た。今までと何か違う。何だろうと思えばそこは明るかった。辺りの草木に仄かに明るい光が照らされている。見上げれば、木々の枝の向こうの虚空に何時の間にか満月の月が昇っていた。光のない夜の山にはその光は明るく周囲の空や遠くの山をぼんやりとそれがそれとわかる程度に照らしていた。いつの間に月が出たのだろう。先ほどまでの雲は見当たらなかった。変わりに環があった。

「あれっ、あれ何?」真野は怯えたような声を上げた。ライトをもっている腕を空に向けるを上げる。それは揺れている。

 真野が言う「あれ」は巨大な円状のものだった。土星を環が囲うように、月を中心に木々の隙間から見える空いっぱいに月の何倍もある巨大な円が浮かんでいた。淡いぼんやりとした雲のようにも見えるがその正確な真円が雲ではないと思わせる。月の光を浴びてそれは淡く輝き月と共に音も無く佇んでいた。

「円? 雲? 何?」

「ハロウ」

「ハロウ?」

「月の光と氷のただの自然現象」

 真野は僕の言ったことにきょとんとしていた。

「あれ、自然現象なの?」

「自然現象だけど」

「あんなにきれいに円になるものなの?」真野は空の円を指差した。

「自然くらいしか綺麗な円はつくれない」

「そう……なんだ。普通にあるものなんだ」

 彼女からは戸惑いや怯えの表情は徐々に消えていった。

「……なんだか、すごいね」

 先ほど慌てたことを照れるかのように真野は笑いかけてくる。

「あ、よく見れば、少し虹色になっている」

 僕をハロウを指差す。

「ほんとだ。自然って……うまく言えないな。不思議だ」

「その自然の掌の上だ。これはただそれだけなんだ」

「ただそれだけ、か。その言い方だと遭難も全然大したことじゃないね」

「不思議なんてそうそうないからね」

 僕が文句を言う。

 すると、彼女はなぜかころころと笑いだした。確かに銀色に青を混ぜた月の光と、淡い虹色に輝くハロウはとても幻想的だった。何も知らなければこの世の物ではないというのも信じてしまいそうだった。しかし幻想的というのは現実での話でしかない。

 森の先が暗闇ではなくなっていた。暗闇の森の中に、ぽつぽつと仄かに明るい場所が浮かび上がり、それは表現するなら幻想的だった。

 月明かりとライトの先に、何やら道の様なものが浮かび上がった。地面は舗装されていない。がしかし、人一人通れるくらいの隙間を開けて木々が不自然に真っ直ぐに並ぶ。小さな並木通りのよう。

「これ道かな?」

「わかんない。弘一くん西はどっち?」

「この並木みたいな道の方」

「じゃあ、行ってみるしかないじゃない。これだれかが作った道かもしれないよ」

 両側の木々は背が高く、影に入れば月が隠れて見えなくなる。するとまた暗闇が周囲を覆う。月の日向と日陰が交互に入れ替わる。淡い陰影の中を僕らは進んだ。

 足元の草を踏む音がざくざくと鳴る。

「これが、さらなる迷路への入り口だったりして」彼女のその声は陽気そうだった。

 道らしきものはきれいに一本道で真っ直ぐに続いており、これが自然のものとは到底思えなかった。今までずっと西に進んできたのだから、山を出てもおかしくない。だから、僕でも周囲への注意が散漫になっていたのかもしれない。

 突然、叫び声が聞こえた。

 鳥か動物か。もしくは人のようにも思われる静寂を突き破る叫びだった。緩んでいた緊張が、本能的に再び張られる。体の中を見知らぬ何かが走り抜けるかのような不気味さに、硬直してしまった脚は歩みを止め周囲を伺う。気配が感じられるほど僕は野生的ではない。叫び声はどこから聞こえたのかはわからない。ライトの明かりでふらふら辺りの木々を照らすが何も映らない。ライトが非常に弱弱しい。真野の手を強く握る。

 草木が激しく揺れる音。

 羽ばたく音。

 僕は慌ててその方向を照らす。息の詰まる心臓の音を覚え、木々の陰から飛んでいくシルエットを見た。鳥だった。いや、鳥だと結論付けた。

「今の、鳥、かな? 鳥だよね?」

「鳥だと思うよ。多分」

「あ、びっくりした」

「僕も」

 辺りは何も聞こえず、もう何か動物らしきものはいないと思われた。それでもすぐ脇の草むらに何かが隠れているのではないか、それが僕らを見つめているのではないかという想像は拭えない。周囲のどこを見ても猜疑心に襲われそうで、気詰まりを起こした僕は空を見上げる。ぽっかりと開けた空を見たくなった。

 見上げた空には満月。そしてその周りと取り囲む巨大なハロウ。ぼんやりとそれを見ていると、何か影が映った。月の影になって何か良く見えない。ただそれはとても小さかった。

 僕は月を指差す。黒い影は銀色の月の中でふらふらとしている。その動きはとても不規則で、また一向に地面に落ちてこない。枯葉ではない。

「あの黒いの? 蝶々?」

 そう言われると羽ばたいているようにも見える。しかしそれでも何かがおかしいことに変わりなかった。月のバックライトを浴びて空中を彷徨う蝶らしきものはしばらくして月の影から消えた。

「不思議の国にでも迷い込んだかな?」僕は冗談交じりに呟いた。

「じゃあ、うさぎさんを探さないとね」

「追いかけたら穴に落ちてしまう」

「なら、気をつけなくちゃ」

 歩いても。

 歩いても、この細い並木道はずっと続いていた。並木道が永遠とあり、その先には本当に未知の世界が広がっている。そのような有得ない物事を体現しているような嫌な気分になる。それはやはりまやかしだからだ。

「弘一くん、汗で体冷えない? 大丈夫?」

「結構厚着してきたけど、ちょっと寒いかな。でも大丈夫だよ」

「ほんとに?」

「本当」

 今自分が抱いている僅かな寂寥ともう一つの感情はそれらは全部己が欲望のために存在し、そのためにおいていくら自分が被害を被っても何ら構わない。しかしそのために他人が危険に追いやられるのは、あってはいけないとそう思うことができる。僕はそこは踏みとどまることがまだできていた。

 危険は常にそばにある。自分自身以外に人間が一人。自分が真野を守らなくてはいけない。それはただの事実だった。

 異音はあれから何も聞こえない。気づけば鳥の鳴き声も木々の揺れる音も虫の音も聞こえてこない。妙に静かだ。生命たる森にいるのにも関わらず今この場所にいる生命の息吹はまるで感じられない。

 人間が草を踏む音だけが辺りに四散する。

 今いるこの場所で一際目立っているものは空に浮かぶ月とハロウだった。月を中心に円を描くハロウは不安を携えていた。不安と言うと御幣だ。不安と言うより畏怖だった。宇宙の海に一人で放り込まれ、そこで巨大な銀河を見る。そのような、あまりにも大きく広いものと相対した時に湧き上がる美しくも怖いというそんな感情。


   十四 

 道の先にライトで照らされるよりも明るい場所が見えてくる。山を抜ける。僕はそこで少し緊張していた胸を撫で下ろした。

 森から出られる。今度こそ間違いない。胸中の寂寥はいよいよ滲み出す。しかしそれはあってはならない。今はこれで良い。他人を心配することはなくなる。気が緩めば疲労がまざまざと身に染みてくる。

「やっと出た」僕は森を出て開口一番そう漏らす。道路か何かの傍に出てくると思っていた。これで遭難は終わると思っていた。彼女に迷惑をかけはしたが、それだけだったととりあえず安堵するつもりだった。

 しかし森を抜けたそこにあったものは、想像のどれでもなくむしろ想像だにしないものだった。この時点において僕の中の寂寥は四散消えうせて、もう一つの感情は胸を震わせた。

 僕は異常に出会ってしまった。

 たどり着いたそこは湖だった。ただの湖ではなかった。

 広い湖は銀色に輝いていた。その水面は、絹のように滑らかに見えた。これだけなら、ただ月の光が反射しているだけだろうが、そうではなかった。湖の周囲の木々も、草もそこに咲いている花もみな銀色の光を帯びている。月に照らされているだけでなく自ら輝くようにその姿がはっきりと見えていた。森の中で見た明るいものはこれらだったのだ。

 湖岸まで近づき湖を覗き込む。透き通っていないように見える。水面がはっきりと見て取れ、それは風もなく、波もなく本当に銀の絹のように穏やかだった。

 湖面が輝き、月が照らし双方のおかげでかなり明るいのにも関わらず、僕のいる湖岸からは対岸は見えなかった。対岸は暗くぼやけてはっきりと見えない。この湖は恐らく広い。それがまた不気味に感じ不安を成長させ、そして。

「ここ、何?」

 僕の言葉に彼女は何も答えてくれない。

 明らかに異様な光景だった。

 夜中の山中。月が出ているといえ、こんなに明るくなることはまずない。木々も草花も本当に自ら銀色に光っていた。手近の花の弁に触れてみる。それは僕の知っている花と同じような手触りでその点については変わった部分はない。しかしそれだけだった。僕は花弁も茎も葉も銀色の植物など、幹が銀色に光る木など聞いたこともない。

「わっ」突如風が吹いた。突風のような風。一瞬絹のような水面が波立つ。すぐに目を瞑り、風下を向いて一度目を開けた。風下の方の上空に月がある。そして見た。僕の目は勝手に見開かれた。そんなこと今までなかった。

 幾重にもなる草の葉が、木々の葉が、花びらが宙へと舞っていった。上空の銀色の月を目指して、銀色の葉が舞っていく。月の周りにはまだハロウがある。葉っぱが上空へ吹き上がるほどの風ではなかった。しかし銀色の葉は幾重も重力を忘れたように月を目指していく。異様な光景だった。ただ僕はそれを美しいと思っていた。

 片手はまだ彼女と繋いだままだった。その僕の手が強く一度握られた。僕はふと現実というものを思い出した。彼女を見いやった。彼女は、さっきまでの僕と同じように、空に舞い上がる葉と銀色の月を見上げていた。銀色の光に照らされた彼女の顔に見覚えがあった。

「わたしたち、もしかして死んじゃったのかな」

「僕たちが、死んでる?」

「だって。こんなの現実にはないじゃない。こんな、景色」

 崖に落ちた。沼で溺れた。死んだ時人間はその先を知らない。死んでいたとして、そう気づいていないだけだとしてもそれを否定することはできない。そうと気づかず夢のようなものを見ているとしても、それを現実だと誤認していてもそれは有得ないことではない。

 ここに来る間に通った並木の小道。あの道こそがあの世への通り道だった――。

 考えれば考えるほどに僕が住んでいた現実は曖昧になる。本当に生きているのか。今踏んでいる土は本物だろうか。この科学によって解明された身体の感覚器は機能しているのか。しかしこんな異様を僕は知らない。僕は僕が生きてきた世界ではないどこかに足を踏み入れてしまっているのかもしれない。もしそのようなものがあるのなら。それはやはり、死んだからか。

 脳の記憶が死んだことを忘れさせ、このまま永遠と森を彷徨わせようと、空想の世界を歩かせようとしているのか。体の汗ばみも足の疲れも今見ている光景も僕が生きてきた世界ではない別のまやかしなのか。それは実に虚しい。

 僕は今まで歩いてきた道のりを思い出す。妄想でも想像でもない過去。しかし、夢を見ているときそれは現実である。認識は確証にはいたらない。

 そのとき、僕は、まだ彼女の手を握っていることに気がついた。そして、僕にとっては他人から見たものなど造作もないのだと気がついた。

「いや、大した差じゃないよ」

 真野は目を見開いた。

「ほんとに、そう思ってる?」

「だって死んでいたって、生きていたってこの見えているものは信じるしかないじゃないか」

「そ、うかな・・・・・・そう、だよね。うん、変なこと言ってごめんね」

 彼女は頭を下げ弱々しげに言った。

「死んでるのなら、諦めるしかないよ。どうしようもない。それに死後の世界がこんな幻想なら……悪くない」

 気丈でない言葉だった。このような光景を前に何故か安心感がある。

「……悪くない、か。男らしいね。知らなかった。……聞いて安心したよ」

 僕の持つ言葉に安心する人を、僕は不思議に思う。

「だから僕は、篠崎さんを優しいって言ったんだ」

「そ、」そんなこと、と彼女の言葉は弱弱しく消えていき最後は聞きとれなかった。彼女は一度首を左右に振った。

「弘一くんこそ、優しいんだね……横にいるのが弘一くんでよかった」

 僕と真野は湖畔を歩いていた。風は止み、あたりは静かだったが、吹いているときと変わらず、草木の葉花が、空へと舞い続けていた。巨大なハロウの門を潜り月へと消えてゆく。月の重力に惹かれ、ハロウに誘われてこの世界を旅立つ――。

「……でも、現実が異常ではないとは思ってない」

「どういうこと?」

「ここが不思議の世界かもっていうことはちょっと思ってる」

「わたしたちが今、不思議なことを体験してるって?」

「現実に不思議があって悪いかな?」

「悪くない。でも」

「篠崎さんは宇宙の写真見たことある?」

「宇宙?」真野は首を傾げる。

「そう。宇宙の写真。例えば、よくあるのは遠いの銀河の写真」

「ああ、見た事ある」

「渦巻いて、その光一つ一つが太陽。その周りには地球のような惑星がある。その世界にとっての当たり前は僕たちにとっての不思議でもおかしくないと思う」

「それ、が?」

「周囲には有得ないことがあるっていうこと」

 宗教も神様も死後も人間しか考えない。動物は考えない。木々は考えない。もし彼らに神なるものがいるのなら人間は真っ先に罰を受ける。もしかしたら、人間が生きるということも知能を持つことも罰であるのかもしれない。もっとも神様がすべてにおける神であって、人間が地球をどうこうすることも神様の手の内の、予定された、想定された事であるならその限りではない。人類が自然を蹂躙するうことも宇宙を自然と考えたときのその予定調和であるかもしれない。そうならば人間は罰を受けない。そして無力だ。そしてその場合人間とは――。

「結構変わったことを考えるんだ」

「あんまり人には言わないよ」

「弘一くんは、何でも受け入れちゃうんだ。真面目で大らかなんだ」

「笑って言われると、なんだか馬鹿にされてる気になる」

「馬鹿にはしてないよ」

 彼女は笑い続ける。

「……僕も思わなかった」

「よかったね。弘一くんは大らかだよ。わたしが保証する」笑いきった後の晴れやかな表情で彼女はにこにこする。

「いや、そうじゃない」

「うん?」 

「いや、篠崎さんってそんなに笑うんだなって思わなかった」

 真野ははっと気づいて、表情が見る見る変わり真顔に戻った。

 ぼそっと「別に」と言うのが聞こえた。

「その通りだね。……今まであんまりなかったかもね。こんなに笑うっての」

 彼女はどこか照れくさそうにしていた。

「わたしね。あんまり普段笑えないんだよね。愛想笑いならできるんだけれど、本当に笑うことってない。だから、不思議だったよ。弘一くんがわたしを優しいって評するんだもん。……こんなこと言ったのも言われたのも弘一くんだけだ」

「そう」

 僕は、このときある言葉が思い浮かんでいた。同じ穴の狢。しかし、それは根底で決定的に異なっている。


   十五

 自分たちが歩く足音だけが聞こえた。生命がすべて寝静まってしまった。銀色の月が辺りを照らす。冷たそうで触れるものの生気を凍らしてしまいそうだった。凍ったかのように淡く銀色に光る木々と草花。生命の形を持ちつつもそれらは別の何か。湖は銀の絹のようで、湖面に虚空の月を写しこんでいた。全く揺れない湖の中の月。よく見ればその周りにはハロウ。顔を上げ空を巡らせばハロウがその巨躯を宙に横たえている。あまりに大きくその美しさは同時に不気味である。眼に映るものすべてがとても異質だった。死んでしまったような気味の悪い無機質さしか存在しない。だから僕は気づいた。この場所で異質なのは、生気のある僕らの方だ。

 歩いた暗がりの先、岸から湖面に突き出した何かが見え始めた。湖の中心へ、遠くの暗がりに消える細い線のような何か。

「桟橋だ」

 近づくとそれは木造の人一人が通る幅の細い桟橋だった。その桟橋に郷愁とも取れる愛着のようなものを感じる。銀色の世界の中で桟橋は光っていない。木の色が銀の月に照っている。

 桟橋は湖の中のほうに向かってずっと続いているようで、その先は暗く、どこまで続いているのかは見えない。

「変な感じだ」

「物語だと」真野は空いている手を桟橋の先に向かって指差した。「こっちに行くと何か、あるんだよね」

 彼女も同じようなことを考えていたようだ。

「物語だったら、渡らなくちゃいけないと思う」

「渡れるかな?」

 僕は桟橋の傍まで行く。真野と手を離して、一人で恐る恐る桟橋に足をかけた。少し歩いてみる。ぎ、ぎ、と鳴る。恐らく問題はない。桟橋があるということはその先に何かがあるかもしれないということ。この場所においてその何かが何なのかは大きな意味を持つ。

「大丈夫そう」

「じゃあ、行ってみる?」

 何故か彼女は楽しげにしている。それを阻害せず僕はただ頷いた。

「うん」

 再び手を繋ぎ、僕を先頭に桟橋に脚を踏み出した。桟橋は湖底にまで足を伸ばしてあるようで不安定に揺れたりすることはなかった。

 けれど、歩く度に軋む音が耳に届く。ぎし、ぎし、ぎし。リズムにのった音が静かな世界に響いた。銀の絹の湖面はその僅かな振動に、ほんの少し波立つ……。

「行き止まりじゃなかったらいいな」

「わたしは、やっぱり何か意味がある気がする。きっと先に何かがあるんだ。」

「それって何だろう?」

「うん?」

「いや、何がそれを誰が決めてるんだろうって。僕らを監視してるのは何者か」

「言葉で表すなら、それは神様しか、ない気がする」

「それは僕には抽象的過ぎて何か判らない」

「弘一君が、言っていたあれ」

「あれ? どれ?」

「えっと・・・・・・宇宙。とか、銀河とか」

「宇宙?」

「この世界そのものが神様のようなものだったら、どうかな」

「宇宙がここを渡りなさい?」

 僕は彼女の言う宇宙の意志なるものの想像を試みたが、曖昧模糊として形なくその姿はあまりに不鮮明だった。

「うん。それで、わたしたちが遭難したのも、こんなことになってるのも全部そのせいなんだ」

「それは考えたことなかった」

 近く、遠く、見えそうで、触れることができない、掴みどころの無い何かがすぐ傍にいる。それは気分が良いとか悪いとかの話ではない。このとき、本当に僕はただただそれは不思議だなと思った。

「だから、弘一君もわたしも、悪くない。遭難したのはわたしたちのせいじゃない」

「そっか。それでもいいかもしれない」

 足元が崩れるとか、奈落に落ちるとかいうような感覚なかった。あったのは透いた水を吸った胸の存在だ。

「じゃあ、先を急ごう。僕らはするべきことをするまでだ」

 か細く彼女が、うん、といったのが聞こえた。僕らは歩き出し、また桟橋はぎしぎし鳴り出した。他の音は聞こえない。視界の端に空が映る。月はずっと空にある。とても冷たく、とても美しく、そしてとても空しく、銀色の光を地上に降り注いでいる。視界の端に淡いハロウははっきりと映らなかった。

 そして。桟橋の先、ぼんやりとした暗がりに何かが見え出した。

「あ、何か、見える」

「ほんとだ」

 近づくとそれは対岸ではなく、湖に浮かぶ小さな小島のようなものだということがぼんやりわかる。

 違和感。小島の中心に何か盛り上がった影が見えていた。僕らは桟橋を降り、島に渡った。違和感が纏わりついて離れない。ただの湖の中の小島だ。ただの土だ。

 見渡すと島の向こう側に別の桟橋が掛かっている。とりあえず僕らは島の中心に行って見た。そこに、あった。

 土が不自然に盛り上がっている何かを埋めた跡。傍まで行くと、足元にシャベルがひとつ落ちていた。年月が大分経ち錆が著しいシャベル。黒色の土がそこいらにまとわりつき、月の光を鈍く受けている。

 その時、真野が僕の手を強く握った。

「篠崎さん、どうかした?」

 彼女は僕の問いに答えない。僕は気にせず眼の前の土に注意を移した。

 盛り上がった土に何かが埋まっているようで、埋まっているそれが、半分見え隠れしている。が、光の影になっていてよく見えない。僕は系帯電話を近づけた。

 埋まっていたそれはライトの光に反射した。元々は真っ白なものだったのだろう。それが汚れて茶色く濁ってしまった。

 それは、そうかもしれないと考えるとそうとしか見えなくなった。

 何かわかった途端に、僕に冷気が纏う。蛇に体を巻かれたような気味の悪さ。銀色に照らされた世界がぐるりと暗転しその姿を変える。視界の端に移る暗がりは深い闇になる。

 埋まっていたそれは、頭骨だった。恐らくは、人間の、頭骨だった。


「人の、骨?」

 やっとのことで僕はそう言葉を発した。喉に異物が詰まったような息苦しさの中。体の力が抜けそうになる。

 見間違いではない。

 周囲を明るく照らす銀の月が、銀の湖が、この世界そのものが正常を逸脱した異常さに染められていく。夜空にはハロウが相変わらず円をつくる。あまりに大きく、その大きさが恐ろしい。畏怖だった。

「……痛い」搾り取るような小さな声が聞こえた。

 僕が人の手を握っていることに気がついた。真野の手だ。

「あ……ごめん」

 真野は、下を向いていてその表情は僕には見えなかった。反応が何もない。

「篠崎さん?」

 僕の言葉に彼女はゆっくりと顔を上げる。彼女は虚ろな表情をしていた。その双眸は僕を見ておらず、ぼんやりと、僕の先を見ていた。

「篠崎さん、大丈夫?」

 反応はない。

 彼女は歩き出し、僕の手をそっと解いた。そして盛り上がった土の反対側にいく。静かに乾いた葉の踏まれる音がした。

「わたし・・・・・・」

 静かな中でも聞き取れないほど微かな声で彼女は呟いた。

「弘一くん、わたし・・・・・・」

 銀の光はその時彼女の周りで一段強く輝いた気がした。それはまるで彼女を責め立てるようだった。

 現状に動揺している自分がいた。現状に歓喜している自分がいた。冷静さは残り火であった。しかし、残り火というものは、その時こそが一層輝くものだ。

「篠崎さん、ここを離れよう。僕たちにはここを出ることの方が先決だ」

 真野は何も答えない。

「この白骨は誰で、何があったのかわからない。けど、でも今の僕たちには何もできない。僕たちが考えることは別にある」

 この強い言葉は彼女と己に対して。

「う、ん」彼女はゆっくりと頷いた。

 僕は彼女の方へ行き、手を出した。

「行こう」

 彼女はそっと僕の手を取り、握った。彼女の手は冷たかった。僕らはまだ通っていない向う桟橋へ向かった。

 歩くたびに桟橋は軋み、リズムとなって音は湖に解けてゆく。僕らは無言だった。僕は頭の中で出来事を整理していた。白骨は、埋められていた。誰かが埋めた。この銀色の世界で。神様や宇宙が関わるこの世界で、そのような下らない事を――。

 僕はため息と共に考えることをやめた。さすがに考えることも疲れてきていた。もう一日中歩いている。そしてそう思っているのは僕だけではない。だから、ただ桟橋の軋む音にだけ耳を預けた。

 このままが永遠に彷徨い続けるのではないか。銀色の月が光る無垢の世界をこのように、湖の上を、ハロウの下を、ずっと、桟橋を軋ませて、ずっと歩き続ける。それこそが、死であるとするならば、人間は地獄しか持ち得ないようだ。

 言葉と想像と空想と妄想が入り混じり珈琲の湯気のように揺ぎ消えてゆく。何もかもが意味をなして、同時に無意味になる。暗闇から始まって、光り、そしてそれはまた闇に溶け込んでゆく。月がある。ハロウがある。湖がある。それらは銀色に光る。世界は何も変化しない。時を忘れ、ただそれであり続ける。

 自分以外の何か、人間よりももっと大きな存在の何か、人間が生涯理解できない人間の一生よりも長く大きな何か。巨大な回転。無機と有機の、物質の、あらゆる概念を超えた先。人間の意志よりも大きなそれがそうであるべき存在。人間は死を操れない。死後どうなるのか、誰にもわからない。誰にも操作をすることはできない。

 それ、は死後も生前もすべてを司っている。それ、に逆らうことはできず、人間は、それ、のなす世界の掌の上に居続ける。

 それ、が今僕の傍にいた。僕の目にしかと映って現れた。

 眼の前に分かれ道があった。桟橋が二手に分かれている。右と左に。僕にはわかっていた。

 どちらに行くべきか、僕にはわかっていた。言葉で説明しようにもうまくできる自信はない。ただ胸中の、それが、そう語っていた。僕は支配されていた。僕の横を真野が通ってゆく。僕の手と彼女の手が離れた。。彼女は左の桟橋の前に立ち振り向いた

「わたしは、こっち、だから」

「なんとなくわかる」

「そう。良かった、わたしとは違ってたんだ」悲しげな彼女の声は消えていく。

「最後に一つ、訊きたいんだけど。……なんでわたしなの?」

 動くものは何もない。

「どういう意味?」

「なんでわたしを気にかけるの?」

「それは、わからない」

 そもそもにおいて気にかけているということを考えたこともなかった。

「勘違い。なら、それで、良かった」

 彼女が見せたのは有得ない安堵の表情だった。

「篠崎さんの言っている事のいくつかを僕はよく理解できていない」

「そうだよね。弘一くん、なにも、何もわからないよね。ごめんね」彼女は笑っていた。しかし、笑顔とは言えない。

「ねえ、生きているってなんだろうね」

 僕はただそこに突っ立っていた。

「じゃあ、……ありがとう」この最後の一言を残し、彼女は桟橋の向うに向き直り、そしてゆっくり暗がりに続く道を歩いて行った。こうして僕らは別れてしまった。

 

   十六

 軋む桟橋を歩く。絹のような銀の水面が静かに僅かな波紋を広げる。

 仕方がなかった――僕はそう思うしかなかった。この状況ではそうする以外何もできない。個人の意思が働かない。これは人間などよりももっと大きな存在の意思なのだ。だから仕方がなかった。どうしようもなかったのだ。僕は悪くない。そして体内の宇宙の存在のその不思議さが僕の多くを包んでいた。

 僕でも察することができる。きっともう二度と篠崎真野には会えない。彼女と同じ土を踏むことはない。彼女はきっと死んでしまう。

 桟橋を歩いてしばらく。桟橋が終わりを迎えていた。岸がある。岸の向うは銀色の光が届かないのか、すぐそこであるにも関わらず暗い。まるで初めから月などなかったかのように夜の暗闇がある。

 背後の月が僕の影を桟橋に敷いていた。淡くぼんやりと光る世界は改めて異質だった。この世のものではない。異常の世界に迷い込み代償として人を一人失ったのだ。しかし、僕の心は僅かに、けれども確かさをもって他人のことなど、考えなくても良いという安らかさを得ていた。そんな自分を胸の表面で否定し、心底肯定する。

 戻ってみようかと好奇心を呼び起こすが、頭で考えても、そうすることを何かが拒む。脚を踏み出すだけでいい、ただ一歩後ろに踏み出すだけでいい。それだけでいいはずのなのに、そんな簡単なことのはずなのに、それができなかった。宇宙に強制させられた心がいうことを聞かない。それが僕のものであるはずなのに、判断は僕ができるはずであるのに、もっと大きなそれによって支配されて、もう僕のものではなかった。僕は排除されるべき存在らしかった。思わず笑みがこぼれた。

 笑みが僕の中に想念の濁流を流す。森に迷ってから何があったか、どんなものを見たか。経験したか。そのどれもが異常で奇異で不気味で美しかった。そのどれもを忘れたくなかった。書き留め、忘却の中に消し去りたくなかった。再び今自分のおかれている状況に僕は歓喜から来る笑みを浮かべる。

 もうすべては過去のことである。これは生きる上での必然で僕の秘密になるであろう。そして寂寥と、僅かな、後悔だ。

 後悔を持つ己を己の胸中閉じ込めて、桟橋から岸の方へ一歩を踏み出そうとした。その時。

 湧き上がるように。

 眼の前に淡い煙が現れて――立ちはだかった。

 驚いて僕はその一歩を踏み出せない。

 煙は形を作る。人。僕は首筋に冷や水を浴びた気分になった。

「……君か」

 この時僕は胸の中で物事の線が繋がった。

「――そう、か。この世界は君が連れてきてくれたのか。あのとき、僕の言ったことを訊いてくれたんだ」

 随所に暗い影を携えた淡い亡霊は、しかし、首を横に振った。

「それで、なんでそこを通せんぼする?」

 亡霊は僕の前に立ちはだかってあろうことか、両手まで左右に伸ばしている。完全に僕を止めようとしていた。

「君は何者だ?」

 反応はない。

「別に、僕の前にふらふら現れるのは一向に構わない。ただその理由くらい知りたいと思っても悪くはないだろう?」

 亡霊は左右に伸ばしていた手を下し、うな垂れた。

 心臓の音がよく聞こえていた。あたりからは何の音もしない。しかし、聞こえてきた。

「――あなたはここにあるものが、何だと思い、ますか」

 突然、声が聞こえた。淡々した冷たいもの。僕は慌てて周囲を見渡すが、景色に変化はない。今まで口を開いたことのない亡霊しかいない。

「――私はあなたの眼の前、ですよ」

 僕は違和感から咄嗟に耳を塞いだ。しかし、耳から入って来るようではなく、声は頭の中で響いているような感じだった。

「これは、君なのか」

 心臓の音が一段とよく聞こえる。答えに一間置かれる。

「――その通り、です」

 声は淡々としてまるで感情が読み取れない。いや、それは幽霊としてはしかるべきであるのかもしれない。しかし、予想を裏切らないのは面白みにかける。

「喋れたんだな」

「――喋っているわけでは、ない、ですよ。わかりません、か」

 亡霊は顔を下に向け、身動きせず、しかし言葉にすれば脳に話しかけてくるのだ。全く奇妙としか言えない、奇妙しか存在しない光景だった。

「――私は、君に伝えたいことがあり、ます」

「……ここにあるものが何か、か?」

「――それも、です。それからで、いいです」

 僕は端的に浮かぶものを答えた。

「未知」

「――他には」

「魅力。興奮」

「――ああ、だから変だったんです、ね」

「自覚している」

 やや、間があった。

「――言い方を変え、ます。あなたはこの銀色の世界をどう思います、か?」

 僕には尋ねたいことがいくつもあった。聞きたいことが山ほどにあった。浮かび上がる語句を幾重もありしかし、最も単純なものが口から出てきた。

「不思議の世界」

「――どう不思議なのか言え、ますか?」

「普通の……いや、少なくとも僕が見てきた、いた場所には、このような所はない。この銀の世界は異常だ」

「――異常です、か?」

「何かが存在する」

「――何か、とは何だと思い、ます?」

「人間よりも大きな存在」

 ついさっきまで彼女とそのことについて会話しながら歩いていた光景が脳裏に蘇る。続けた。

「宇宙の意思とか神様と例えるならそんな何か」

 真野との会話と己の中の違和感がその存在を説明している。感覚器というものがこの地において、正常であるのなら、支配されているような胸を握られるような感覚は今も胸の内にある。

「――そうです、か」

「僕も質問していいか。君は誰だ。前は答えなかったろう?」

「――わかりま、せん」

「解らない?」

「――私は、今、あなたの前にい、ます。けれどもそれが誰なのか、私には、わかりま、せん」

 僕は思わず眉を寄せた。

「変なのはお前もじゃないか。じゃあ、何がしたいんだ?」

「――あなたは、そこから先には行ってはいけないの、ですよ」

「戻れなくなるから」

「――勘が良いよう、ですね。あなたは、もうこのまま、会わなくてもいいと思っています、か?」

 この亡霊は僕を呪うのか。それにしては、現れるだけで強攻してこない。それは以前からの疑問だった。そしてこの段において亡霊は、篠崎真野を気にかけているというのか。それは何故だ。

「それは篠崎真野と、という意味か」

「――そう、です」

「可能なら、戻って連れてきた方が良いと思う。けれども、それは僕の社会的な冷静さによるもので、僕の考えではない。それに、彼女は、恐らく望んでいない。望んで向こうに行ったんだ」

「――冷静で、変なところは変、ですね」

「今は関係ない」

「――戻らなくても良いと思ってい、ますか。あなたは、彼女のことをどう思っています、か」

「友人だ。だから、可能なら一緒に帰ったほうが良い。でも、できない」

「――それは本当、に?」

「何が言いたいんだ?」

「――あなたにとってはただの友人なの、ですか?」

「友人だ」

「――では、何故あなたは気にかけていたの、ですか」

 僕はその時、どうも拠り所のない不安を感じていた。

「どうしてそれが重要なんだ?」

 先ほども同じような質問を受けている。僕にとってはそれが、どうも如何なるものには思えなかった。そこには、何の意味があるか。

「――あなた以外、助けることができないから、です」

「……僕にはできない」

「――本当に、それでいいの、ですか。私には、あなたならできると思い、ます」

「僕はそんなにすごくない」

「――けれども、あなたは、惹かれているのではないの、ですか?」

「何だって」

「――気にかけているのは、惹かれているからなのではない、ですか」

 再度亡霊の言った言葉を反芻し、それと事実がいかなるかを比較した。ぼんやりと思い起こす。

 こんな状況の中にあって感情は冷静だ。胸は冷えて、しかし沸騰しそうで頭はどうやら今はよく廻る。この異常さは心地よい。


 そもそもにおいて、僕と篠崎真野が出会ったのは、今年大学生三年目にして同学科になったからである。ここに理由があるのは、僕は去年まで文学部に所属していたからだ。

 けれども、今年になって僕は、転学科を行った。理学部の惑星科学科に移ったのだ。その研究室で彼女と会った。

「篠崎真野です。よろしくお願いします」

 そう彼女は言った。研究室のゼミ一回目の自己紹介の時。まだ研究室はおろか学科に所属する同学年の名前すらはっきり知らない僕にとって彼女は印象的だったろう。恐らく初めて僕は彼女を意識した。また少なからず彼女も僕を意識したはずだ。これは事実だ。しかし、別段と何かを行った訳ではない。そのような気はさらさらなかった。そして、会話するきっかけはとても小さなこと、だった。

「篠崎さん、だね」

 駅前百貨店のエレベーターの脇。一面ガラス張り窓。その傍には一人用のソファが窓の外に向けて並べられ休憩所となっている。窓からは午後の晴天の光が振り注ぐ。

「えっと、えーっと・・・・・・」

 この間のゼミで自己紹介したので、彼女はきっと僕の名前も呼び方も覚えている。ただ何と呼ぶべきか迷っているのだろうことはすぐに理解できた。こうなったことの一端には僕にも責任がある。

「こ、弘一くんでいいかな?」

 彼女は照れ笑いを僕に向ける。

「それで、結構です。そう決まってしまったから」

「弘一くんは・・・・・・何してるの? 買い物? ああ、買い物以外にないか」

「友達が買い物に付き合えって連れ出したんだ。で」僕はこの後を簡潔に省略した。「で、長い」

「それは男子を誘うのが間違っているんじゃない?」と彼女は笑う。

「この間別れたんだって。僕は代用」

「それは……仕方ないね」

「そこ座っていいかな」

 僕は空いているソファを指差した。

「ご自由に」

「篠崎さんも、買い物?」

 僕はソファに座る。

「そうなんだけど、わたしも一緒かな。来てみたは良いけど疲れちゃった。ここは人がいないでしょ」

 人の多い店内でこの場所はいつも空いている。だから、休憩には良い。

「僕もそう思ってた。いつも人いないのにって」

「今日は天気がいいし。暖かくて気持ち良いよ」

 ソファに座った僕の体を春の光が暖める。窓の外には階下に広がるビル群が見え、そのコンクリートより上は真っ青な空が太陽の光で輝いていた。

「こんな天気がいい日ってどこかに行きたくなる。こんな場所じゃなくて」

 この僕の独り言に彼女が返した言葉は、まだ胸に引っかかっている。

「行くとしたら街のような意味の『何かがある』じゃない何かがある場所がいいかな」


   十七

 食堂の窓際。窓に面したカウンターテーブルで遅めの昼食を採っていると声を掛けられた。

「弘一くん。……今お昼? ずいぶん遅いんだね」

 振り返るとそこに篠崎真野がいた。 

「それはお互い様じゃないの?」

 僕は彼女のもっているトレーを見て言う。

「あ、わかったレポートでしょ。転学科だから授業沢山受けなくちゃいけないんだ。わたしも大変だったんだ。大変だったんだよ」

 彼女は滔滔とその苦労を僕に説明してきた。

「パソコンが壊れて、全部綺麗に手で書くのは本当に疲れちゃった」

「パソコン、壊れたの?」

「壊れたんだ」

 僕は彼女からパソコンの症状を聞いた。

「じゃあ、診てあげようか」

 自分でノートパソコンを分解したこともあった僕はただ興味本位で言っただけだった。

「いいの?」

「構わない。上手くいけば直る」

 逡巡した後彼女は、

「じゃ、お願いしようかな」と告げた。

 後日、彼女の部屋に招き入れられた。何気なく見渡す室内はこざっぱりとしていて、個性を特定するものが強いてあるとすれば大きな本棚ぐらいだった。中には古そうな本、主に小説が詰められている。

「本が多い」

「うん。でも中古ばっかりだけど」お金ないから、と彼女は付け加える。

「じゃあ、借りればいいのに」

「借りる?」

「図書館」

「あ、ああ。そう、だね」

 何故か彼女は歯切れが悪い。僕は本題に入ることにした。訊ねると彼女は本棚の横のそれを指差した。

「壊れたパソコンってこれか」

 彼女のが指差したパソコンはデスクトップだった。てっきり壊れたのはノートパソコンだと勘違いしていため、どうして部屋に呼ばなくてはいけないのか疑問だったのだ。

「このパソコン、自分で買った?」

 適当に電源を入れたり、触っていた僕の横で彼女は首を左右に振った。

「親のお下がり。わたしノートパソコンもってないんだ」

「そうなんだ」

「でも、そうもいかないよね。学校でもパソコン使わなくちゃいけなくなりそう」 

「そうかもね」

 研究のまだ見ぬ大変さへの嘆きではなくて、研究によって見えてくる喪失の嘆きだった。パソコンを直すという手前ここにいるが、それはパソコンを理解しているということであり、理解というのは、冷酷な想像の消失に他ならない。やがてその理解の結果が結ばなくても良いものを結ぶ。だから、理解とは全く面白みの無いことだと僕は思う。

「新しいのを付け替えれば直るよ」

「直るんだ」

 ほっとしているようなそうでないような吐息を彼女は漏らす。

「僕の家にもいらないパソコンあるからそれのを付けようか?」

「え、いいの? いくらぐらい?」

「どうせ使わないからいらない」

「ほんとにいいの? 使わない?」

「使う機会があるとすれば今ぐらい」


 半月ほど前の晩、深夜になって僕は家へと帰路についている時だった。住宅街の山の斜面沿いの丘を縫う道を歩いていた。その夜は昼間の秋晴れもあって快晴だった。空に浮かぶ満月が煌々と夜空を明るめ、街に月影を落とし、照らしていた。人気はなく静かで、代わりに虫の音が辺りに満ち満ちていた。弾み、伸び、気ままな虫の音を聞くのも悪くない。

 帰り道の途中に高台に建てられた公園がある。小さな公園にはブランコが二対あるだけ。公園の入り口に来た辺りでそこに人がいることを知った。公園の奥、丘の下の崖との間にあるフェンスの手前に人がいる。こんな深夜に、という初めの感想と、何をしているのか、という疑問と、自分も深夜に散歩などをしている、という事態が別々に湧き上がる。僕は近づきながら声を掛けた。

「こんばんは」

 満月を背後に彼女は肩を驚かせて慌てて振り返る。こちらを誰か疑うように見つめてきた目が、僕の目と合って少し和らいだ。

「なんだ」

「月夜で明るくても、深夜には変わりないよ」

 僕は彼女が立っている公園のフェンス傍まで来た。

「わたしは月を見てた。だから仕方ないでしょう?」

 フェンスに手をかけそこから眼下を見ると、街が一望できた。満月の白を沢山混ぜた黄金色の光が街に降り注いでいた。太陽のような力はなく、そっと触れるような重さのない光だ。にび色に輝く街並みから影の暗い遠くの山並み、それよりも明るい夜空が眼前に広がる。

「夜が大きいな」思わず出たその言葉はよくよく意味がわからない。

「小さな夜なんて見た事ないよ」そう彼女の微笑む声がする。

 僕は横にいる彼女の姿を見た。彼女は顔を挙げ空に浮かぶ満月を眺めていた。優しげな表情で空に目をやっている。

「篠崎さん、何かあった?」

 真野が首を傾けて僕の方に目を向ける。

「何んで?」

「……特に理由はない」

「変なこと言うんだね」

「まともばかりじゃ面白くない」

 彼女は優しい顔になり、音もなく少し笑った。

「本当に、変なことを言う」

 別れた後の帰り道、僕は懲りもせずに彼女の横顔を思い出していた。彼女には夜の静けさがよく似合っていた。夜空に映し出される届かぬ世界の存在や、人気のない雰囲気がそう思わせるのかもしれなかった。


   十八

 気にかけている。そのような自覚はまるでなかった。しかし、人に言わせれば、そうか、僕は、彼女に惹かれていたのか? 惹かれていたのか。言われればそうなのかもしれない。

「……そうだとして、それだけで、僕が何かできると思えない」

「――あなたが、あなただからでき、ます。あなたが、そのような人間だから」

 あなたがあなただから。その言葉において、中にある意味を僕は考える。そして、それに気づいて、僕は己の胸が震えるのを感じた。

「それは、……そうか」

 気づいたのだ。

 そして、僕は、恐らく狂いを混じらせた笑みを浮かべていた。

「こういうことか?」

「――そういうこと、です。だから、あなたなの、です」

「それはとても、魅力的だ」

 最も大事なもの。様々な書物に、格言に、歌詞に、その文句はよく出てくる。その答えは十全に置いて、何か身近なものである。その問いは僕を興奮させる。そしてその答えに僕は愕然とする。失望だ。好きな人、守りたい人、そんなものが、答えとして出てくるのだから。その度に、いい加減にしろと思う。そしてもう今は何も感情を動かすことは無い。全くもって期待しないからだ。彼らの言うことなどどうせ大したものじゃなく、僕の心を動かすには甚だ矮小なのだ。

 本当に、下らない。そんなもの何ものも必要ない。僕が欲して止まない大事なもの。それは、出会いだ。そしてそれは。

 音も無く、亡霊は湖面を波紋をたてず、ゆっくり歩いていく。僕は来た道を振り返り、戻ろうとする。戻ろうとした。

 戻れなかった。

「おい、待ってくれ、進めない」

「――あなたなら、進め、ます」

 数メートル先で亡霊は足を止めた。僕を待っているようだ。しかし、かのようにして僕は進むことができない。

 感覚がずれる。表現するならばこれしかない。意識は進んでいる、しかし足は進まない。僕の考えでは、意識とは支配の範囲のことだ。意識とは人においてはその人の中にのみ存在する。だから、どうあっても己の直接の意識は肉体の外には及ばない。

 ただ現時点において、僕の意識は僕の体さえも及ばない。そのために、動かない。それが何によるのかは、何故なのかは、何となくわかっていた。解っていてもそれが何かがわからないのは喜ばしい。

「進めない。これは、本当に、すごいな」

 僕はため息を吐いた。

 このような経験は、今まであまりない。過多の運動や同じ姿勢でいたときは、同様に体が動かないことがあるが、このような状態での意識の利かなさは初めてだった。己の中の他人。いや、別の意識のような何かの存在だろう。

「――何を考えているん、ですか?」

「己の中に他人がいるとは、こんな感じかと思ったところだ」

 一瞬の間がある。

「――それは、どのような感じ、ですか?」

 一瞬の間に、僕は早くしろと捲くし立てられるのかと警戒したが、そのようなことはなかった。

「体が二重になっているような。重さのあるものとないものの存在がそれぞれ判る。中々奇妙だ」

「――そうです、か。奇妙、ですか」

 僕は己の手を動かす。目の高さまで持ってきて、握り開く。意識しようがしまいが、関係ないほどに手は自由に動く。

「何で、僕は進めないんだ?」

「――あなたの、言った、人間よりも大きな何か、で、しょう?」

「その理由だ」

「――理由、です、か」

「そうだ。僕を戻させない理由だ。足を動かない訳はなんだ?」

「――きっと、あなたが、生きているから、です。だから、私の手を掴んでくだ、さい」

 亡霊は顔も上げず無音に近づいてきて、手を差し出してきた。僕は、僅かに躊躇してしかしすぐに、それに触れた。いや、触れているような感じだ。実際は一度すり抜けた。どうあっても、繋いでいるように見えるだけで、僕の手は何も触れず、そして冷たさも温かみも何も感じない。

「――歩け、ますか?」

 そう言われ僕は、足を踏み出す。すると、まるでいとも簡単に足は前に進み出た。

「あっけないな」

 亡霊は振り返り、歩き出そうとする。僕も離れないように着いていった。一度、ずっと立ち止まっていたところを顧みる。そこはすぐに暗闇に落ちてしまった。


 桟橋の下に広がる湖は銀色で空に浮かぶ月も銀。その中でハロウは白く煌々としている。あの巨大な環がずっと何かに似ていたが、それが何かは思い出せない。

 亡霊は一歩踏み出すその淡さを揺らめかせる。一歩進む。さらに淡くなり向こう側が半分透ける。

「君は、誰かだった」

 前を歩く亡霊は、恐らく聞こえているが、反応しなかった。

「でも、僕をこうして連れて行くその理由。あるとしたら、二つ。僕を騙しているか。篠崎さんに関係する人か」

「――そうで、すね。どちらか、です」

「別に、どちらでも良いよ」

「――前者では、私が困り、ます」

「そう。そうか」

 桟橋の分かれ道まで戻ることができた。僕らはそこで立ち止まった。

 片方は、森に彷徨い歩いてきた過去の道だ。すぐ先に小島があり、そこには白骨死体がある。

 これは非常に単純な当てはめ方だ。

「あそこにある白骨は、あれは君じゃないのか?」 

 亡霊は僅かに顔を逸らし、その視線が、あるとするなら小島の方を見ていた。

「――さあ、どうでしょう、ね」

「何か、感じたりは、しない。なら、違うか」

 この世界は、有り触れた日常にとっての異常で満たされている。ならば、そこには、何か、意味合いはあるのか。この世界が人の計り知れないもので、そうならば、有得ないこともありえることになる。日常という理はすでに壊れてしまっている。


   十九

 相変わらず空には月がある。もうかなり時間が経っているはずなのに、月のある位置はほとんど変わっていない。ずっと空で冷たい光を放っている。桟橋を取り巻く銀の湖も相変わらず絹のような輝きを保っている。

 この水、触れたらどうなるのだろうか、そんな疑問が頭に浮上し、泡と消えた。ここは理が通じない世界なのだ。

 そんな思いは予感だったのか。桟橋は途中でなくなっていた。行き止まりだった。僕はその縁で、呆然と湖面を覗き込む。

 銀の水は思っている以上に濃いのか、光っているからか、底がとんでもなく深いのか、それとも底など存在しないのか、そのどれかはわからなかったがただ何も僕の目に映さなかった。

 僕の横で亡霊は音も無く湖面に下りた。しかし湖面は確かに波紋を広げて揺れた。

「――あなたにも、怖い、ということがあったんで、すね」

「わからないは怖くない。死ぬのはさすがに怖いのかもしれない。その辺りは……よくわからないな」

 死ぬ。しかしすぐにその重みは崩れ落ちた。今、僕の周りには死者も生者も恐らく隔たりはない。そのことに気づいたのだ。

 僕はゆっくりと湖面に手を伸ばす。右手の中指の先が水面に触れた。触れたようだが、何も感じない。今度は右手をそのまま水中に入れた。が、水の冷ややかな感じも濡れている感じもしない。水をかき回すように手を動かすと、抵抗がある。波が立つ。ここに水はあるが、僕の知っている水とは違うものなのだと理解した。足を下ろし水中に腰を入れることにした。

 湖のにびやかな煌きが視界に近く。ふとしてその中に吸い込まれそうな気分になる。この世界の平衡感覚の覚束ない奇妙さ。それを頭の先まで浴びながら僕は腰辺りまで湖に浸かった。確認した通りで、水中の抵抗はあるが、冷たくも濡れている感覚もまるでない。とてつもなく奇妙だった。

 湖に半身を浸ると水面の銀色の光が近くより眩しくなり、さらに湖の向うが暗いことから先がどうなっているのかわからなくなってしまった。向かいでこちらを見ていた亡霊が僕に無言の内に問いかけてくる。

「――もう、大丈夫、です、ね」

 亡霊は水を滴らせ、手を伸ばしてくる。僕はそれを掴むように指を折り曲げる。そして今度は、並んで先を進んだ。

 波紋がゆらゆらと月の光を煌かせ散らして旅立ってゆく。

 波間の湖は銀で輝きどこか紫を携えていた。こんな場であっても、その水の中を進み、銀の光をこの世のものと思えぬと感慨を覚えても、それでも僕の中には一抹の虚しさがあった。

「なんだろうな」

「――何が、です」

「僕は今、篠崎真野を助けようと、恐らくしている。けれどもそれが僕であるなど、それは残酷な話だ。本来なら人の心を理解できる人間がすべきだ。僕には恐らくその部分は完全に欠落している。だから、この場にいることには全くの不安もないが、けれど、僕にそのような、価値のようなものも、資格もあるとは、残念ながら思えない。そのことに選ばれる人間であるとは、思えない」

「――そういう真面目なことも言うの、ですね」

「すべて完全に螺子を外している人間はそういない」

「――到底、人の範疇、ということ、ですか」

「神のようなものの存在を認識したなら、そうも思う」

 波紋は我関せずと去っていく。

「――あなたが、変われば良いの、です。それで、すべて、解決、です」

 波紋は再び、生まれる。

「問題が増えるだけだ。けれど、戻る気もないし、今の行動を変える気もやっぱりない」

「――そうです、か。でも、そう思えるだけでも、いいです、よ。自覚というの、は、あるのとないので違います、から」

「君は僕にどうして欲しいんだ」 

「――どういうことです、か?」

「僕らは今篠崎真野のところに向かっている。向かった僕はそれからどうすべきかは知らない。そもそもそこまで連れて行って君には何の目的がある?」

 僅かな間をあけて亡霊はこう答えた。

「――生きるということは何で、しょう? 死ぬということは何で、しょう?」

 亡霊は歩みを止めない。僕も止めない。二つの波が湖面に生まれ減衰し暗闇に消えていく。

「――今、あなたと私はここに共存してい、ます。あなたは生者で、私は死んでいる。この二分。けれどもその間、とは。この手と手の間には、何があります、か?」

「隔てるもの……」

 理が通じない。理とは僕らが生きる世界だけに存在するもので、この広大な宇宙というものを一部にする途方もない世界には、定まった理などないのかもしれない。ならばそこにあるのは何か。

 僕の脳裏には同ならざる世界の歪みが浮かんだ。これは、宇宙だ。理路整然としかし未だ不可思議の海。僕ら人間はその本当の理のすべてをまだ知らない。生者であることが宇宙であるか、それは今否定される。死者にも宇宙があるとするならば。いや、これは確実にあるのだが、そうなら宇宙というものの中で生命というもののシステムは未だかつて無いほどに広大な幅を見せ、包括するということになる。生き、死に、しかし宇宙というシステムの中にはそのどちらもが含まれていて、つまり、生きることがイコール死へ向こうことはなんら不思議ではなく、異常ではなく、ただの大きな理のほんの一部であると知れる。

「それが理由か。……わからないな」

「――恐らくは何のこともない、小さなきっかけ、ですよ」


   二十

 湖の対岸がついに見えてきた。紫と青を混じらせた銀の林が闇の中に浮かび上がる。水中から出ても服は一切湿っておらず、体も濡れていなかった。なんとなく上着の裾を絞ってみたが、水一滴も落ちない。不思議で奇妙で気持悪い感覚だ。岸の先には木々が相変わらず鬱蒼と茂っており、そのどれもが銀色に淡く光っている。その中に細い道のようなものが奥へと一つ続いている。道などそこにしかないのだから、僕らはそこを進んだ。

 石畳が敷かれていた。この木々の隙間を縫う様にレンガのようなものが細々と続いている。その石畳も淡く光っている。森の奥まで屈曲しながら光る道が続く。

 石畳を踏む音が鳴る。こつこつこつとこれは僕の靴音だけが当たりに広がる。亡霊の歩みには一切の音がなく僕の靴の音だけがこの世界の静寂に溶け込めていないような、変なその音に憐れみを覚えた。どこまでも続く道、どこまで続く森、ただただ靴音は鳴り続く。

 ひどく現実味がなく、規則的で静謐にも取れる足音は、まるで僕のものではない。冷たく僕は少しぼんやりした気分になってきた。

 石畳の道はより鬱蒼とした森に僕を誘い込んだ。周囲を見渡しても木々が歩けそうに無いほどに犇めき合っている。そんな所に至って、眼の前にトンネルがぽっかりと口を開けて現れた。人一人が通れるほどのレンガか何かで造ったようなアーチ状のトンネル。中は暗く、トンネルの向うにの出口は点のような光でしか見えない。ずいぶん長いトンネルだ。

「さっきから本当に道を歩いているんだな。まるで初めからそうであったようだ」

 そうさせるのは宇宙か、僕はそう呟いた。

「――生も死も司るものを、それさえも宇宙の中、とするなら、存在理由も何か、わかりません、ね」

 トンネルに脚を踏み出した。中に入った瞬間、冷たく少し湿った空気を肌に感じ、耳にはトンネル内を通り抜ける風の音が渦巻いた。そして視界は暗転した。

 トンネルの中は暗くあの銀色の光は入り込まない。足元も見えず、ライトを取り出し点ける。久しぶりに感じる人工の光に若干の嫌悪と安堵を覚える。ゆらゆら揺れるライトの光を見ながら、トンネルを進む。篠崎真野と暗闇の中をライトの光を頼りに歩いていたのはそう遠くない過去であるはずが、しかし僕はその頃を懐かしいと感じた。

 トンネルを通り抜ける空気の音が過去を消し去る警笛に変わる。

 風は時を越える。それはもはやただの大気の揺らぎではない。暗闇に明滅し、煌々とし、大小の光は限りの覚えない永遠で、茜と、群青と、赤赤紫の瓦斯が生命然とした意志を持ってずれる。その全体が輝いて、理の一部が煌き、新たな光となる。

 光の先には、眼の前には、大きな・・・・・・何もない大きな平原があった。それはどこまでも続いている。石ころが風で転がるだけの平原。三六〇度のすべて地平線が見え、それより上は空しかない平原。空は上を向けば向くほどどんどん濃くなり吸い込まれそうになる。乾いた生ぬるい風が頬をなでる。風に体が浮いた。体が空に昇ってゆく。遠くまで見渡せるようになる。遥か遠くの地平線までそこには何もなかった。誰もいなかった。地平線が湾曲し青空が足元に落ちていく。

 とうとう宇宙にたどり着いた。無機質な月が向こうに見える。暗闇の端々に点と光る星がいくつも見える。しかしそれだけで、そこにも誰もいない。宙に浮いた体は思うように動かない、途方もなく広い世界が眼の前にある。宇宙は眼には捉えられないほどの大きな力でうねり、僕はその奔流に呑まれていく。どこに行くのだろう。どこに流されるのだろう。そこは人の訪れた頃のない世界なのだろうか。その世界に、僕は足を踏み出すことはできるのだろうか。その世界に踏み出したとして、その先には僕は何を求めているのだろうか。そのような世界で何を求めるか。

 トンネルを越え僕は、ほっと息を吐く。狭い暗いトンネルよりも彷徨いの森の方が幾分かましだと思った。

 トンネルの先は茂みになっていた。そこも銀色を帯びていない。ただの草木のようだった。

「この先か」

「――そうで、す」

 亡霊は前方の茂みの向こうを指差す。携帯電話のライトを照らしたまま茂みを掻き分けて進む。茂みを越えた先に、少し広々とした空が見上げられる程度の空間があった。今僕に見えるのはライトに照らされた部分だけだ。見上げると雲が掛かっており、月は見えなくなっていた。

 歩き進めるとライトの光に何か壁のようなものが浮かび上がる。暗くその全貌がはっきりと見えない。

 ライトを振りかざし、しばらくしてそれが古ぼけた建物であるとわかった。コンクリート打ちの長方形の建物。壁は土で汚れ、朽ちている。所々に皹が入り、剥がれ落ちた欠片や壁を蔦が不規則に絡めとっている。窓が伺えるが、酷く汚れ、室内は暗く見えない。建物の中央に扉があり、そこは光届かず開いていた。

 僕の横をすっと亡霊が進みゆく。耳に風が走る音が届く。草木のざわめき近くなる。周囲の木々揺れて風は尾ひれを残し遠く去ってゆく。僕は彼女を追うように室内に脚を踏み入れた。

 建物は左右に広がっており、恐らくさして広くない外観だが、中は何も見えない。僕は左方向にライトを照らした。

 そこに見えたものは、この幻想散りばめられた世界において、僕が全く想像だにしないものだった。

 ライトが照らす壁には、いくつも黒い染みが飛び散っていた。墨汁と太い筆で書きなぐった様な跡が、べっとりとそこいらに付いていた。

 そこからライトを下げていく。コンクリートの地面に転がっているものがある。綿が出て汚く汚れた布団、コンビニの破れた袋、パンか何かのビニール袋らしきもの、破れた布か何かの切れ端群、そして黒々とした斑点。

 首を取り巻く身の毛のよだつ感覚。今まで感じたことのない、鉛を詰め込むような狂気。時から忘れ去られ、朽ちたそれらが無言のうちに僕に襲い掛かる。僕は一歩後ずさり、若干の恐怖心と好奇心を綯交ぜに反対側を見た。そこには、篠崎真野がいた。

「……篠崎さん」

 真野本人が壁の際にしゃがみ込んでいた。その脇に亡霊が立っていた。僕は彼女の前に行き、しゃがみ彼女に彼女の名を呼びかけた。

 しかし、反応はなかった。

 僕は反応のない彼女の肩を揺さぶる。するとゆっくり彼女は顔を上げた。しかしその表情は虚ろで焦点は合っていない。

 死んだようなその表情を見て、僕は気が付いた。まるで魂を失ったような死んだような表情なのだ。湖で僕と彼女の進んだ道が違っていた理由。僕は生きていた。ならば、彼女は生きているとは言えないのではないか。

「どうなってるんだ?」

 僕は振り返り、そこに立って見下ろしていた亡霊に問いかけた。 

 所々が黒い煙を纏ったかのように滲んでいる亡霊は短く、こう言った。

「――こういうこと、です」

 亡霊は真野に近づき、その胸に触れた。その手は彼女の胸を通り抜けていく。そして亡霊の体は煙をたゆたらせて、初めから存在していなかったかのように消えていく。

 煙が霧散して、僕は彼女の顔を見ることができるようになる。徐に、真野は顔を上げた。彼女のかすれた声が僕の耳に届く。

「弘一、くん……来てしまったんだ」

「心配した」

 僕の中のもう一人の僕は、そんな心にもないことを、と呟く。

「……ごめんね」

「別に、気にしてない」

 これは本当だった。


   二一

 僕らは並んで、壁に背を預け体育座りのように両手でひざを抱え、座っていた。向かいの曇った窓からは空の光が見えた。銀色を帯びた月が顔を出したのだろう。この色のない世界にまでその光が注ぐ。足元のコンクリートに窓の形に光の空間ができる。

 しばらく僕らは何も言わずそのままでいた。

 辺りはしんと静かで、何も聞こえてこない。時折思い出したように森がささやく以外は何も起きない。時が止まったかのような気分になる。やああって僕は彼女に尋ねることにした。

「篠崎さんのこと、教えてくれる?」

「わたしのこと?」

「僕は……篠崎さんのことを何も知らない。この現状に篠崎さんは関わっている。あの亡霊のこと、あと生と死について、かな……」

「わたしのこと、か」

 言葉は時を流れ空気にゆれ消えていった。

「信じられないようなこと、かもしれないよ」

 そう言う彼女の言葉は不安げだった。

「信じられないようなことはもうここに来るまでに散々経験した」

 真野は、小さく笑った。

「そっか。そうだね」

 彼女は明るい窓を眺めた。それは今から言う言葉を捜しているようにも、過去を思い出しているようにも思える。横顔に見える黒く輝くその眼は遠くを見ていた。


 篠崎真野は、その日ちょっと近くのコンビニに飲み物とお菓子を買いに行っただけだった。まさかすれ違った人に後ろから頭を殴られるなんて、思いもしなかった。そんなこと露ほども考えておらず、万に一つもなく自分に関しては大丈夫だと思っていた。

 気が付くと、初めにランプの光が見え、首を動かすとそこには一人の男が座っていた。少女はコンクリート打ちの殺風景な部屋に閉じ込められていた。真っ暗で窓に板を貼り付けてあるのではと思う窓と扉が一つだけの何もない部屋。

 男は言った。

「私は君を誘拐した誘拐犯です」

 その意味を全く理解できなかった。現実離れした状況が少しずつ飲み込めてきた頃に少女は怯え、震える声で言った。

「家に帰して」

 言っても無駄とわかっていたが、それ以外に言うことはなかった。

「外に出たい?」誘拐犯は落ち着いた声で言う。

「はい」

 男は立ち上がりこの建物で唯一つの扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。鍵が開き、男はそこから数歩下がる。少女はゆっくりと扉に近づき、開けた。鈍い音が響き、静寂に脈を打った。このとき心の隅でもしかしたら助かったかもしれないと思った。少女は小柄だったが運動には自信があった。体力もある方だと思っていた。どんなところにいても全力で走ればなんとなくかもしれない、そして辺りにいる人に助けを請おうと、そう考えていた。

 それは甘かった。

 鍵を開けられた先にあったのは外の世界だった。しかしそれは少女が思っているような世界ではなかった。外の世界だったのだ。室内から漏れ出る光に照らされる地面は土と枯葉。先は木々が生い茂り周囲は真っ暗だった。空をも覆おうとする生い茂った森。今まで触れたことの無いそこ知れぬ深い闇。それらが眼前に広がっていた。少女の知る街と言う世界の外だった。

 ここがどこなのかわからない。どこにどう行けばいいのかわからない。そもそも山を歩いたことなどない。助かる気がしなかった。

 何も考えることができず、感じるのは光の全く無い闇に吸い込まれそうな絶望と恐怖だけだった。

 以後、男はただひたすら少女に殴る蹴るの暴行を加えた。ゴミ捨て場にも置かれないような古びた汚く臭い布団を用意され、それに包まって泣きながら朝を待った。しばらくすると涙も出なくなった。少女には男が何をしたいのかわからなかった。ただ殴られて蹴られたのだ。

 喋ることは、許されない。ちょっとでも喋れば殴られる。昼間に外に出ようとしたら殴られる。体中が傷だらけなのに、絆創膏一つなく、痛くて痛くて声を上げれば蹴られる。

 少女はほとんど一日中倒れているだけになった。体を動かせば傷口が痛く、何よりも動く体力が無い。時折、視界がぷつりと消え暗闇に稲妻が走り、頭が割れるように痛くなる。息は切れ空気を吸い込めない。

 もうどれだけの日々が過ぎたのだろうか。少女は何もわからなくなっていた。昼も夜も明日も昨日も何もわからなかくなっていた。何も考えることはできず、何もすることはない。自分が何者なのか、さえわかっていなくなっていた。

 ぼんやりする頭の一部が過去を再生させる。学校の記憶だった。色んな光景が眼の前に映像として表れ、消えていく。少女の目に涙が溜まり、流れた。久々の涙だ。頬を流れるそれが勿体無いと感じた。少女にはそれが何かわからなかった。言葉が浮かんだ。

――今度、喋る機会があったら……死にたい、と言おう。

 誘拐犯は昼間は鍵を閉めて出て行く。夜には男が僅かな食事と暴力を持ってくる。そのときに、言おう。

 きっと男は激情して激しく殴ってくるに違いない、そうすれば自分は死ぬだろう。彼女の心の中にはそんな思いがあったのだろうが、彼女はすでにそう考えている自分が存在することも認識もしていなかった。ただなんとく今日の夜は素晴らしい事が起こるとそう感じていた。夜を待つことにした。

 窓の外の光が赤くなり暗くなる。夜になった。辺りに昼には無い静けさが満ちてくる。

 その日は窓の外が、やけに明るかった。窓から室内に光が差し込んでくる。今日は月の出る晩らしいと思う。窓の外を覗くと銀色の月が見えた。少女は一瞬心が静まり、きれいだな、とそれだけの言葉が浮かんだ。月とはこれほどに幻想的で美しいのか、頭で考えることはできずただそう感じた。そしていつもより明るい森に一つの影が見えた。

 男が扉を開け、中に入って来る。少女はあの言葉を言おうとした。言葉と言うものをうまく思い出せず、詰まった。

 男は眉間にしわを寄せて「うるさい」と怒鳴った。少女は、ああ、死ぬんだ、と思った。これで終わるのだ、やっと元に戻れるのだ。やっと自由になるのだ、そう思うとこの後の痛みなどどうってことがない。その先はきっと素晴らしいのだ。素晴らしい世界が待っているのだ。

 少女は、安堵した。


   二二

 森は相変わらず静まり返ったままだった。月は森を照らし、窓は光の空間を形作る。

「一応、これが、わたしの話」

 そう彼女は呟いた。

 今僕たちのいるこの場所こそが、その問題の場所なのだろうとすぐに気が付いた。そんな異常なことも成し得ている世界なのだ。

「……そう、だったんだ」

「そうなんだ」

 しかし僕の一部は驚きはしたものの、それだけなのか、という失望に似た感情も抱いていた。そしてそれが疑問になった。

「それは、すごい辛い体験だと思う。でも、篠崎さんからはそんなこと微塵も感じなかった。他の人と何も変わらなかった」

 このとき、また彼女は微笑んだ。その微笑に僕は常ならない何かを感じた。

「……だって」

 彼女はここで言葉を切る。

「それは……そうだよ。わたしは完全に壊れちゃった」

 また、彼女は言葉を切る。僕は待った。

「だから、心が壊れた。……何も、考えられなかった。でも、死ななかった。……現れたんだ」

「現れた?」


 しかし。

 そのときに視界に。滲む視界の中に。男の後ろに、何かが見えた。それは白いような何かだ。すっと音もなく近寄り、少女と男の間に入ってきた。

 男は眼の前のその白い何かを見て、驚いて後ずさった。少女の目には白いそれは人のように見えた。月の銀色の光とよく似た輝きを持つ人だった。

 男は信じられないものを見たと言いう風に眼を見開きさらに後ずさる。何か喋っているが、少女には何を言っているのか、全くわからない。

 男は悲鳴を上げ途端に走り出し、消えた。そしてその白いものも男を追って消えていった。また静寂に包まれた世界を少女は呆然としていた。殴られなかったことが理解できないまま、不思議なことに世界は続いている。ただ、待っていた世界が来なかったことが悲しかったとそれだけほんの少し感じた。

 しばらくして気が付くと、眼の前にさっきの白いものが立っていた。少女はぼんやりとそれを見上げる。浮かんだのは、女の人、暗い表情、冷たい眼、黒い煙、汚れだった。

 白く光る女の人は手を差し出した。少女は、勝手がわからず女の人の顔と手を交互に見た。女の人はじっと少女を見ていた。少女は差し出された手に自分の手を添えた。


「亡霊……亡霊が篠崎さんを助けた」

 考えの時点では違和感で、それは言葉にしてみると酷くしっくりとする。実際、僕自身亡霊の導きでここまで来たのだから。

「……わたし、なんだ」 

 彼女の呟いた事がわからず、僕は首を傾げた。

「どういうこと?」

「わたしが、弘一くんの言う……亡霊なんだよ」

 真野は言葉を途切らせながらそう言った。

 確かに考えてみれば、あの亡霊は真野に溶け込むように消えていった。それがこの事実を意味している。しかし僕には、違和感しか感じない。

「でも、篠崎さんと雰囲気が違う」

「だって、わたしじゃ、ないもの。弘一くん、ニコイチって知ってるよね」

「え、ああ、うん」

 僕はすぐに真野の家に招かれた日の事を思い出す。

「前にわたしのパソコン、直してくれたよね。わたしはあれと一緒。別々なんだ」

 僕は口をゆっくり動かした。

「篠崎さんが、亡霊……では、ない?」

 真野は首を振り「違うよ」と言う。

「わたしの心は、彼女。……わたしは、二人分の人生を持っている。だから、彼女はわたし、なんだよ」

 彼女の微笑みは、それがまるで大事ではないかを表すようだった。逆に言えば、すべてを諦めきった表情だった。己の事象さえもすべてがガラスの壁の向こうであるかのように、見えない壁を通して己を眺めていた。

「体と心が別々っていうことか」

「多分、人は心と体の両方ないと、生きていけないんだと思う。篠崎真野は自分では治せないほどに、心を壊して、そこに……体を無くし心だけ残ってしまった亡霊。足りないものを補って……それでわたしは今がある。わたしは、篠崎真野で、そうじゃないんだ」

「じゃあ、亡霊は……誰? ……あ、それはわかっていないんだ」

 真野は首を縦に振った。

「わたしは、断片しかわからない。わたしの……恐らく、死後の記憶の。だから、わたしは、わたしは悪霊なんだ」

 そして彼女はこう言った。 

「悪霊のわたしは人を殺してる」


 記憶に無い校舎。

 触れられない日常を眺める苦しみ。どうして。それから憎しみ。死んでなお、苦しまなくてはいけない。恨み、だから探して、探し回る。己の体にそられが滲む。車を追いかけて事故が起きる。

 森の中。銀の世界。淡い光。真っ白の光。

 泣き声。

 虐待。逃げる男。このまま谷に落ちればいい。森で人を追いかけて谷底に落ちていく。


「悪霊だから」

 真野はそう呟いた。僕が見た、僕に付き纏うように現れたあの亡霊は篠崎真野だった。篠崎真野であり、しかし別の人間の、恐らく魂。記憶も持たない魂。疑問は潰えない。何故僕の前に現れたんだ?

「どう? 驚いた? これがわたしで……わたしたちの過去」

 彼女はほんの少しおどけてみせる。

「僕が今、話している篠崎さんは、どっちかな?」

「どっちもだよ。魂の記憶も篠崎真野の記憶もわたしだ。わたしという人格はわたし一人だけ。この感情や考え方それらが、どっち由来かはわからないよ」

 それは彼女の強がりにも思えた。それだけのことだよ、というには大きすぎること。普通、人二人を人一人が抱えていけるわけがない。しかし誰に話したところで信じてもらえることはない。しかし生きるのなら、無理にでも抱えなくてはいけなかった。

 僕は月明かりだけの暗闇の中、真野の顔を覗き込む。

「辛かった?」

 篠崎真野は答えない。

「辛いに決まってるか」

 なんと間抜けな質問だった。

 僕は彼女の表情を見てそう感じた。

「親しい知人も時折全く知らない人に映ってしまう。わたしは、本当に人でなしだ」

 次第に、こみ上げられてくるものを抑えらなくなってきたのか、どんどん言葉を吐き出す。声は掠れた泣き声に変わり、それでも彼女は言葉を続けた。僕はそれをただ聞いていた。

「たまに思い出すんだ。知らないけど知っている人の顔、名前も知らない誰か。でも、どうしようもなかったもん。どうすればいいの。わたしだけ他の人とは違う。一度死んで、一度壊されて、それで……それで……」

 それ以降彼女の言葉は聞き取れなくなり、彼女はすすり泣き出した。限界で、一杯一杯で、それでも平静を装っても、どうしようもなかったのだ。そういうことがこんな僕にも見て取れた。

 僕は気がついた。

 彼女はずっと死にたがっていた。

 彼女は消えたかった。本当は、いなくなってしまいたかった。

 篠崎真野の生い立ちとその心境が作用としたとすれば、この世界の存在、あの桟橋が別れていた理由が伺える。

 そんな彼女を今僕が引き止めてしまった状況にある。彼女はまだ僕と会話している。僕の横にいる。

 しかし、この状況にほっとしている己の存在を僕は僅かながらに感じていた。

 しかし僕には、彼女の苦しみを完全に理解することなどできはしない。そんな、今の僕に、何が出来るであろう。

 わからなかった。

 だから、ただ泣いて僅かに伺える震えを止めようと、僕は彼女の頭を撫でてみた。彼女は驚いたようだったが、俯いたまま嫌がることもなく、なおそれよりも、僕に寄り掛かってきた。僕の服を掴み、彼女は泣き続けた。

 なんと言っていいのか、なんと返せばいいのか、どうすることがいいのか。だから僕にはこうすることしかできない。だから、僕は、傍で、黙ってじっとしていることにした。


   二三

「弘一くん……ごめん……ありがと」

 ようやくして真野は顔を上げて言った。

「別に気にしてない」

「ごめんね」

「篠崎さんは僕に謝るようなこと、していない。どちらかと言えばそれは僕の方だ。遭難して、別れて、今頃になって戻ってきた。篠崎さんの迷惑ばかりとしか思えない」

「そんなことっ」彼女は声を上げた。

「そんなこと、ない。わたしはそんな風には、思ってない。……でも、わたしは、これからどうしたらいいのか、わからないよ」

 彼女が自身を救えるたった一つの道を僕が今断っている。生きることは彼女にとって苦しみだ。

 僕は別に他人に苦痛を強いたり、自分の考えを無理やりに押し付けるようなことはしない。だから、僕が彼女の立場ならもしかしたら状況が大きく違っている現在が想定されても、現在は彼女のものであるのだから僕は、どうにも何も無理強いすることはできないのだ。

 これからも誰にも理解されない苦しみを彼女に抱き続けろ。そのようなこと言えるはずもない。

「やっぱり僕の責任だな」

「じゃあ、さ。弘一くんは、わたしにどうして欲しい? どうしたら、いい?」

「どうしたら?」

「死にたかったのに。今はもう、何をすべきか、わからない。信じられない不幸も、災難も、もう手一杯なのに、まだ生きてる」

「じゃあ、僕は理解できる」

 思わず口をついて出てしまった。

 篠崎真野は不思議な顔をして、僕を見ていることからも変なことを言ってしまった疑いようのないものだった。

 一つの言葉はまるでせせらぎの一滴程度しかなくても、それが往々にして時代を変えて、地形を変えれば、それは濁流の一波であったかもしれない。ならばそれは逆行し、太古の景色を生み出さんとするのは、なお言葉なら可能だった。

 決壊する潮流の中で僕はただそれだけ河川に小石を投じてみる。

「……僕は、篠崎さんを傷つけるかもしれない」

 彼女の中に一抹の不安が過ぎる。しかし、僕の中の濁流は完全に暴走を得ている。

「こんなことを言うのはいけないんだ。それはわかっている。でも、僕には篠崎さんの語ってくれたことが何ともすごいことにしか思えない」

「すごいこと?」

「篠崎さんの体験したことは、奇跡だ。この常にさえ届かない世界で正常で、実際は誰にも信じられないようなことだ」

 僕のもの言いに真野はうろたえながら、けれどぼそぼそと反論する。

「弘一くんの言いたいことが、わからない。けど、……わたしはぜんぜん正常じゃないよ。わたしは、異常な人間だもの」

 僕はこのとき胸の内で、そんなことあるものか、と思った。

「異常であるものか。……真面目な話をすると、月はあんなに遠い。でも廻ってる。この地球はそれよりも遥かに大きくて、でも廻っている。その中にはこんな世界もあって、当たり前だ。何もおかしくはない。無いほうがおかしいんだ。だから、篠崎さんは全く異常じゃない。正常だ。正常なただの人間だ」

 満足したのか、言葉の濁流は沈静化をはかる。

 一方で真野は何故か微笑を浮かべていた。

「弘一くん、何だか変だよ」

「自覚してる。異常っていうのは僕みたいなのを言うんだ。僕は篠崎さんの本当を知った。それを信じることも出来る。だから理解者になれるよ」

 彼女は時が止まったように、僕を見つめていた。

「わたしは生きていけばいいの?」

「そうしたいと思えるのなら」

「そんなので生きていいのかな」

「宇宙という得体の知れなくて人間の理解できない、もっと大きな力の中。僕らはそこにいる。運命とか神とか、そんな感じ。そんなのでいいよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

 篠崎真野は放心した面持ちで、ゆっくりと顔を下げる。しばらくしてぽつりと言った。

「……ありがと」

「……どういたしまして」


 その後予備の上着を毛布代わりにして眠りについた。予備の上着は小さく僕らは肩を寄せ合う必要があった。かなり疲労が溜まっていたので、気が抜けてすぐに僕は眠りに入ってしまった。しかし寝ていても頭の中は彼女のことで一杯だった。寝ている頭は考えることをやめず、そのまま時が過ぎていった。

 ふと異変に気がつき、それは正確には僅かな空気の流れによるもので、眼を開けると、隣にいたはずの真野がいなかった。ぼやけた頭に冷気が叩き込まれるようになる。疲労で軋む体を起こし僕は建物から出た。外はまだ夜のままで、空には相も変わらず月が出ている。ハロウもある。月は銀色に、ハロウは淡い白色に輝いている。木立の傍に影を見つけた。

 近づいていくと彼女の体の周囲が淡く発光しているのがわかった。幻想的で神々しいと感じた。

 彼女は振り向き僕を見て少し驚いたようだった。

「あ、……起こしちゃった、かな。ごめん」

「眠れなかった?」

「違う。ううん。……うん、わたし、もう一度この月を見ておきたかったんだ」

「この月を?」

「丘の上で月を見ていたとき、思った。わたしの罪は消えない。罪の存在を誰も信じてくれない。空に浮かぶ月はあの月じゃない、あの月だけがわたしの罪を知っているって。全部悪い夢、だったんじゃないかって。でも、全部現実。わたしは、半分死んでいて、半分生きている。

 ……わたしが、一人で抱え込んできたことは、誰にも言えなかった。……だからその重さを無くしてしまいたかった。もう一度あの光の中に戻りたかった、ってそう思ってた。でも今は、少し軽くなったんだ。まだ重みはあるけれど、もう大丈夫な気がする。多分、これは勝手な考えなんだけど、わたしが求めなければ、わたしはここにはこれないんだと思う。死にたいって思いながら山に入らなければここにたどり着くことはない。それでわたしは……」

 彼女は言葉を切った。ゆるい風で周囲の木々が少しざわついた。

「わたしは、もう、望まない……うん、もう望まない。だからこの月を見ることはきっともうないんだと思って。今までこの月の下に来ることが希望だったから。そう思うともう一度見ておきたくなったんだ」そう話す彼女の顔はずいぶん安らかになっていた。

「勝手に出てきてごめんね。弘一くん、心配しちゃった?」

 吹っ切れたかのように彼女は笑う。

「僕でも不安に思うことはあるんだ」


   二四

 今これが夢の中なのか現実なのか、よくわからない。現実なら、ただ眼を閉じているだけなら隣にいる真野の寝息でも聞こえてきそうなものだけれど、とそう考えると、微かに誰かの寝息のようなものが聞こえ始めた。これが僕の夢が作り上げているものなのか、そうでないのか、僕にはわからなかった。 黒い滲みがもやもやと森の中に沸き立つ。暗い道路があり等間隔に並ぶ電柱がある。そこにも黒い滲みがゆらゆら揺れている。夢なのか現なのか、普段の垣根ある思考の壁を飛び越える。


 肌寒さを感じて、眼を開ける。顔を起こし眼をこすり辺りを伺う。僕のすぐ横で篠崎真野は寒いのか丸まって眠っている。僕は昨日毛布代わりに自分の体に掛けておいた上着を彼女に被せた。彼女も自分の上着を毛布代わりにしていた。今思えばそれほど寒く感じていない。いつからかと思い出すと、湖に来た辺りだろうか。それもこの世界の齎すものなのか。

 辺りは薄明るくなっていた。

 銀に光るようではない。

 暁の。薄明の。静かな、青い暗さが辺りに満ちている。外に出てみると木々の間に見える山の、陰の向うが青い。もうそろそろ夜明けが近いらしい。ずっと終わらないと思えるような、深い銀色を帯びた夜は続かなかった。

 僕は軽く伸びをする。まだ山を降りるという作業が残っている。後どれくらい掛かるのだろうか、そもそも無事に降りられるのだろうか、そう考えているとお腹が鳴った。昨夜は全くとっていいほどお腹がすかなかったことを今気づく。

 寒くなり朝が来て、お腹が空くということは、酷く有り触れた事象で、そうというからには、昨夜のような幻想はもう去っていってしまったのか。僕らはあの世界を脱したのだろうか。それにはやはり安堵と寂寥が混じるが、今は戻るべきであろう、安堵こそが正しいと冷静な己は思考する。

 ただ思考は広がりを見せていて、そうではなくて、朝が来たからこそ世界の影響力が弱まった、と考えればいいのではと思う。しかし、そこまで考えて、不思議な笑いがこみ上げてきた。

 到底僕などには、定義などできない世界。どうなったって、どんなことが起きたって、不思議でさえない。そう改めて思う。そして何か満たされる感覚を得た。

 中に戻りリュックの中を漁り、いくつか非常食を取り出した。山に行くなら持ってくべきという友人の忠告がここにきて役立つとは思わなかった。

 菓子のような携帯非常食の一つのパッケージを破って中を取り出した。四角いクッキーのようなそれを咥えながら食べる。水分がなくなった口の中の具合に僅かに後悔する。

 二本目を食べているときに、篠崎真野はもぞもぞと動き眼を開けた。眼をこすり、ぼうっと僕の方を見ている。

「篠崎さん、おはよう。お腹空いた?」

 彼女は、僕の言葉に反応するまでに数刻を要し、やああってこくりと頷いた。

「寒いね」クッキーのような非常食を飲み込んで、ぼそっと彼女は言う。ただのそれだけだったが、僕にはそれが自分たちが地に足を付けているということの明かしだった。

「もう秋だ。でも多分今日はすぐ暖かくなると思う」

「朝が来たんだね」

「夜は過ぎたんだ」


   二五

 山の、空へと波打つ峰の、向こうがさらに明るくなった頃、荷仕度を整え、僕らは建物を後にした。帰るためだった。

 彼女は何度か、さびれ、崩れ掛けの、建物を振り返っていた。

 僕が通ってきた道を探しながら森の中を進む。すると、木立の向うにあの石造りのトンネルが見えてきた。

 黒々とした石で作られ、苔の生えた小さなトンネル。中を覗くと。ずっと向こうに光が見える。

 並んで歩くほどの幅は無く、僕が先頭になりトンネルを進む。僕は建物を出たときから彼女の手を握っていた。それは今も変わっていない。

 トンネルの中は一層冷えていて、僕は身震いした。トンネルを通り抜ける、うねった風が反響し、甲高い音を響かせ、足早に去ってゆく。それが過ぎれば、取り残された僕らの足音しか聞こえない。僅かに響き足音たちは先にトンネルを掛けていく。

 トンネルは長い。このままずっと暗い道を歩き続けるのか。。光あるほうを目指してしかしずっと暗闇を歩く。風は僕たちをあざ笑って通り過ぎ、光の中に消えてゆく。

 僕らは向こう側に着いた。

 世界は、夜明けだった。朝日が空を赤色に染めていた。

 森の中はもうどこもあのように銀色の光を放っておらず、どこもどこにでもありそうな木々だけだった。その中をのびる一本の道を歩く。

 少しずつ周囲に白くぼんやりとした霧が立ち始める。朝霧だろうか。しばらくすると道の先に桟橋の陰が見え始めた。どことなく違和感があり、同じ道を歩いているようで、そこはもう違う道なのかもしれない。などと何度か考えた。しかしどうにもならないのだから、考えるのはやめた。

 桟橋があるそこは湖のはず。しかし湖一体はすでに辺り霧が満ちていて、視界は悪く、数メートル先も真っ白でよく見えなくなってしまっていた。足元を見て一歩一歩前へと進み、それは昨日の夜とやっていることは似ていた。しかし昨日と今日では全く違う。

 霧で真っ白の中をひたすら歩き続け、小気味よい音が耳に伝わる。

「篠崎さん、危ないから手を離さないで」

 しかし、徐に彼女は立ち止まる。しばらく彼女は黙って何も言わなかった。僕と彼女が触れている手に彼女は力をいれておらず、僕が一方的に彼女の手を握っていた。

 視界を埋める霧がゆっくりと眼の前を移動していく。改めて思う。ここはまだ異世界。僕は一度彼女の手を強く握った。

「わたし、こんなに弘一くんに頼っていいのかな?」

「うん?」

 しぼんでいくように真野の声音は小さくなる。

「わたしはこんな、生きているのか、いないのか、わからないような、ものなのに、人を殺してしまったもの、なの、に……そんなでも、弘一くんに。多分迷惑だけだ。そんなの」

 僕は、たかが感情など、と思う人間だ。感情など現状に存在する事象に比べれば曖昧で不安定で価値などないと思っている。それを口にしたところで、その文句もどこまで、いつまで正しいのか、全く持って信じられない。己の感情さえ疑う。だから選ぶのは僕の中ではひどく単純な思いだけだ。

 だから、そのときの僕は、僕と彼女の間に途方も無い距離を感じていた。それは幽霊や人を殺した如何ではない。

 人と人との距離だ。僕と彼女が違うことは紛れも無い事実であり、僕は彼女ではなく彼女は僕ではない。住んでいる世界は異なり、そのために人は他人を百パーセント理解することなどできない。

 人が考える因子は人の得てきた経験や周囲の環境、そして人自身の心のありようで決まるはずだ。だからその人を理解できるのはその人自身以外いない。絶対にわかりえることなどありえない。分ろうと努力したところで、その人にはならない。だから彼女にも僕のことが、これはまだ中々わからないだろう。だから、僕もわかっていなかったようだ。

 僕は振り向いた。彼女は顔を下げて開いているほうの手で顔を押さえていた。

 感情などまるで下らない。

「僕は理解者になりたいって言ったんだ。僕はね、本当に変なんだ」

 一度言葉を切る。唾を飲み込んで次の言葉を言う切欠を作る。

「僕は世間の言う日常なんて大嫌いだ。平穏など壊れて戦争が起きればいい。狂いも奇異もが溢れた非日常を好んでいる。夜から忍び寄る幻想にはようこそと手を振る。……こんなこと引かれるに決まってる」

「どうして、そんなこと言ったの?」

「篠崎さんが言いたくない自分のことを全部言ってくれたからだ。僕だって言わなくちゃいけない。こんなこと誰にも言えないよ。僕は日常なんて要らない。異常で奇妙な幻想を求めてる。狂った人間だと思ってる。でも……」

 今から言おうとした言葉は新鮮だ。己の意志まるでそれこそ外側からやってきたような、世間で言う当たり前で、奇異を好んでいたのに、それは確かに世間では普通で、一方で僕には非常に奇異で、でも、悪くなかった。

「でも、君が好きなんだ」

 篠崎真野は顔を上げて僕を見ていて、ぼんやりとした面持ちになっていた。徐に瞬きする。徐に微笑む。徐に呟いた。

「そっか」


   二六

 人ごみに紛れると、ビルから落ちるような不安を感じてしまう。

 周囲の人は優しかった。時々起こす不安から来る抑えれない癇癪により暴れてしまっても、傍にいてくれた。その優しさが最大に辛いものだった。わたしはあなたたちの知っている人間ではないのだ。二人の人間分の罪を犯した、人間じゃない何かなのだ。想像できない、言いあぐねる過去を内包した悪霊なのだ。そう言いたい。けれども言えるはずも無い。

 誰にも言えない自身の秘密と罪の存在。それはわたしに銀の月を求めさせる。

 彼はわたしを山に誘ってきた。紅葉を見るハイキングだという。

 山。脳裏にはあの景色が浮ぶ。銀色を帯びる月のある景色。

 山で遭難し。彷徨いながらしていた会話の中で、わたしは「おかしな人だとは思われたくない、普通の人の振りをするのは疲れた」と言ってしまった。

 それらは果たして原因なのか思うことがある。わたしたちは銀の世界に入ってしまった。見たこともないハロウという環があるなど少し異なったが、ここは記憶にあるあの世界ととても似ていた。

 だから、わたしは思った。わたしたちは死んでしまったのかもしれないと。前に銀の世界を見たとき、わたしは死を激しく望み、その傍らにいた。

 しかし彼はそれを否定した。理屈でもなんでもないのに彼は生きていると断言した。そしてそれだけじゃない。

「死後の世界がこんなに幻想的なら……悪くない」

 その言葉に救われた。気持ちが少し楽になったのだ。

 

 今まで、わたしは生きていたのだろうか。生きていると言えたのか。

 生きるとはなんだろう。わたしにはわからない。そしてわたしは彼と別れた。最後だ。彼とは笑顔で別れたい。笑ったつもりだったが本当に笑えていたかどうかはわからなかった。

 ここはきっと死にに行くための場所だ。元鞘に戻るそれだけだ。すべてをなくして消えてしまう。それだけだのだ。これが望んでいたことだ。

 なのに彼は戻ってきた。

 彼は聞いてくれた。聞いて理解者になりたいと言った。

 わたしがこのことを話したのは初めてだった。信じてくれた人もはじめてだった。そのような状況が生まれると、思っていなかったのだ。


   二七

 木道を歩き続けると向こう側に岸が見えてきた。辺りはまだ白く霧が溜まっていて、空模様さえもよくわからない。

 岸に降り、草木の間の道を進む。道の先に石造りのアーチ状のトンネルが見えてきた。

「またトンネル」

 僕は、一瞬さっきの道に戻ってしまったのか、そう考えたが、近づいてみるとトンネルは短く、すぐ先に出口があった。

 トンネルを通るとき。

 前から風が吹いた。

 それは冷たくもなく。

 暖かくもなく。

 ただ僕らの服を、はたはたと少しはためかせただけだった。

 トンネルの先に出ると、その瞬間に日の光を肌に感じた。周囲がやたら眩しく僕は目を細めた。

「眩しい」と真野は声を漏らす。

「明るいな」

 次第に眼が慣れてくると、視界に広がってくるのは、光をたっぷりと浴びて明るい緑だった。秋になってもなお緑を絶やさない木々たちがそこいらに葉を生い茂らせていた。

 イリリリ。

 リーリー。

 虫の音が聞こえる。

 道はまだ先まで続いており、その両脇を木々が並んでいる。言うなれば木々のトンネルだった。

 その中を歩いていると、木々の葉の隙間から、漏れる木漏れ日が足元に落ち、吹く風は冷たく、木々がゆれ、草や葉がさざめき、踊った。

「帰って来れたのか」

「帰って、来たんだ」

 彼女は顔を上げ、空を見つめる。

 僕は後ろを振り返る。つられて彼女も歩いてきた道を見る。

 青々とした木々のトンネルが見えた。ここからは見えないが、その先には、石造りのトンネルがあり、夜には銀色の湖が広がる。草花も木々も銀の光を放ち、白いハロウが輝く。そして空には銀色の月がすべてを統べるようにただ悠然とまるで、神のように、浮かぶ。

 そして僕は彼女を見る。そのために、僕は、信じられないものを見てしまった。


   二八

 この葉っぱは帰ってきた日に家で上着をひっくり返したら出てきたのだ。

 これが本当にあの世界が夢でないことを証明している。

 僕はパソコンのキーを叩いた。ブラウザは消えた。様ざまな事件を扱っていた情報は消えていく。

 しばらくして、チャイムが鳴る。ドアを開ける。真野がいた。

「準備してきたよ。さ、行こ」

   

 遭難から半月ほどたった日。僕らは市内の図書館に向かっていた。真野と一緒に図書カードを作るためだ。

「図書館に行きたいんだけど、一緒に行ってくれないかな」

 本が好きなのに今までどうして図書館のカードを作ろうとしなかったのか。そう訊ねると、彼女はこう答えた。

「自分の名前って書くの好きじゃないんだよ」

 僕らは徒歩で向かっていて、まだ図書館までは少し距離があった。

「あの日のこと話してもいいかな?」

 僕は真野に問う。

 彼女は無言で頷いた。

「山から出た場所。迷った山とぜんぜん違った場所だった」

 太平洋側にいたはずの僕らが出たのは西南日本。中国地方。数百キロも離れていた。その理由。

「あの土地の……」

 僕はここで言葉を切る。すれ違う人を目で追ってしまう。

「まだ、慣れないね」

「僕もだ」

 しかしこれは考えても現状仕方がない。寧ろ考えるほどに僕の脳は栄養を得てしまう。

「それで、あの土地での失踪者を調べた。篠崎さんと、何か関係のある」

「何か見つかったの?」

「坂崎。多分、この失踪者なんだ。理由は、そこで悪霊に追われたという事故があったこと。篠崎さんの発言との一致、そして篠崎さんが……まやだからだ」

「え?」

 彼女は若干の戸惑いを見せた。

「あの土地で未だ行方不明の失踪者に坂崎と言う人がいた。その人の名前は、坂崎真弥。篠崎さんと一緒だ」


 職員から用紙をもらい、それに必要事項を記載していく。二人分の用紙を受け取った職員は一瞬驚いた顔をした。しかしそれに関しては職員は何も言わなかった。ほんの少し笑ったようにも思えた。

 本を借りた後。帰り道の途中。

「あるとすれば、多分小さなきっかけ。偶然なんだ」

 坂崎真弥は下校途中に失踪した。それ以来全くその消息は行方不明である。その近辺で一年後に車の自損事故があった。その男の奇妙な発言は、薄っすらとであるが、真野の記憶と整合していた。悪霊に追われたゆるしてくれ、だ。

 あくまで想像の範疇であるが、男が坂崎真弥を轢いたのかもしれない。死体になった坂崎真弥は山に埋められた。

 そして、亡霊になった坂崎真弥は男を呪う。男は事故を起こす。

「そんな」

「僕は一層、今生きるって何だろうって思う。こうなると生きも死も曖昧だ。あの世界は、あの銀色の世界は、終わりの入り口だったのかもしれない」

 だからあの場所に亡霊は導かれた。

 終わりかけた篠崎真野の前にもあの世界は出現した。

 そして欠けた二人が出会ったのだ。

 終わろうとした坂崎真弥が篠崎真野を気にかけた理由。もしからしたら、僕の前に何度も現れた理由。己の存在に疑問を持っていたその答え。

 それは単に名前が一緒だったから。

 それだけなのかもしれない。

「そんな風だったの、かな」

「はっきりはわからない。誰も真相は語れない」

 曖昧に曖昧を継ぎ足した結果でしかない。

 空には月があった。僕はもしかしてハロウもあるんじゃないか、と探したがそれはなかった。例の丘の小さな公園が近かったので、そこで眺めることにした。

 公園には誰もいず、静かだった。ちょうど一ヶ月前に、ここで同じ月を見た。同じ満月だ。黄金色に白をたっぷり含んだような光のあの満月だ。遭難したときに見た銀色の満月はその存在自体がやはり異常だったのだ。月は満月をほぼ一カ月周期で繰り返す。僕らが森で見たあの日の前後は新月だったのだ。月など見えるはずがなかった。

「前に、篠崎さんが言った。どうして僕は篠崎さんを気にかけるのか。覚えてる?」

「うん。覚えているよ」

「多分、それも同じかもしれない。僕が篠崎弘一で篠崎さんが篠崎真野だったから。ほんの小さなきっかけだ」

 僕と真野は同じ「篠崎」だった。だから僕は彼女を気にかけた。彼女も僕を気にかけた。それだけだった。研究室で同じ名前が二人いたため、僕の方を「弘一くん」と呼ぶようにと、教授は決めた。

「そんなこと、だったの?」

「そう考えたら、僕は納得できる」

「やっぱり、変だね」

 篠崎真野は微笑んだ。

「でも、じゃあ、わたしは、名前にずっと救われてたんだ。自分の名前、か。篠崎真野と、坂崎真弥」

 彼女は自分の胸に手を当てる。

「どちらもが、自分。弘一くん、ありがとう」

「だから、推測の域だって」

「そうかもしれないけど、わたしはこれが、小さなきっかけじゃないかって思うよ」

 僕は、ああ、そうか、と気がついた。そう思うことで、宇宙は蠢くのかもしれない。宇宙はずれるのかもしれない。


「考えていたんだけど」

「何を?」

 真野は首を傾げる。

「この世界について」

 真野に聞いたところ、彼女がハロウを見たのはこの間が初めてだというのだ。ずっと疑問に思っていた。あのハロウは何だったのだろう。草も木も湖も月も銀色の世界でハロウだけは白く輝いていた。あれは銀の世界の中でどこか異彩を放っていた。

 あの銀の世界は宇宙あるいは自然の意思。あの世界は宇宙の流れの何か。

「宇宙や自然の意思が存在する。生きることと死ぬことに、僕は思う。境なんて何もないんだ。有得るのは、いらいないか、いるか」

「それって?」

 と真野に先を促される。促されるとなんだか言いにくい。でも言ってみる。

「生きるではないんだ。生きるではなく何か必要だった。そしてそれが不要になった時が終わる時。それは死ではない。死してなお必要である時がある。あのハロウは神だった。それで」

「だから」

 彼女は自分の頭上を指差した。

 僕もそれを見る。

「ちょうどハロウってあれとそっくりだ。天使の環」

 天使の環っかの文句に彼女は笑い出した。くすくす、と顔を下げて笑っている。

「そうだったらいいね」と真野は笑って言った。眼の端に少し涙が溜まっている。

「人間にとっての生きるとは死んでいると全く違わず、違うのは、言葉だけで、意味は完全に同一だった。いや、僕ら人間の異常さとは生命あふれる世界においてただ唯一死んだ状態で生き物の真似をしているということだった」

 天使とは、神の使いと言われている。そのようなものはまだ見たことがなかった。しかし描かれているものは本当は、己のことではなかったか。


 あの冷たく銀色に光る月の世界に僕はもう、行く事は無いだろう。あれほどに巨大で美しいハロウを見ることももうないだろう。

 僕はそれでいい、とは思えない。あの不思議な世界は今もどこかにあるのだろう。深い黒色に銀を纏って煌々と静かに存在する湖も木々も、空に凛然とある月も、ハロウもどこかにあるのだろう。どこかで彷徨うものに安らぎを与えようとしているのだろう。ならば。

 僕の胸で湧き上がる衝動は恐らくしばらく止まないだろう。

「悪い顔してるよ」

 まるで、天使とは思えない。真野はそう言った。

「ただの人間だから」

 宇宙の意思。自然の意思。ハロウは神様だったのか。僕は神様に出会ったのか。

 世界と言うものが大きな流れの一つにあり、僕たちが理解し得ないものがその先にあるのなら、あの世界は僕の理解を超えているものだった。そしてあの世界に僕が行く事も、それすらも、今ここで真野と黄金色の月を見上げることすらも、流れの一つとしてあったものなのだろうか。そこに僕の意思はどれほどに働くのか。もがくだけで意味なのだないのだろうか。いや、もがくことすら流れのうちなのかもしれない。

 まだ見ぬ何かに僕は手を触れることができるのか。この異常だらけの世界でさらなるものは見つけられるのか。

 僕はまず一つだけ願う。僕が真野の理解者になろうとし続けるという流れが存在するということ。

 願う先は、超常の世界。あの銀色の月。その冷たい月の下で凛然と輝くハロウに向けて。そして、その数多異常よ、幻想よ。僕に降り注げと胸の内で言う。


 山を降りると世界は一変していた。

 環。

 僕は、真野の頭上に環っかを見つけた。ハロウを小さくしたような、まるで、そう、それとしか考えられない天使のような環っか。真野も僕の頭上にそれを見つけていた。

 世界中は何ら変わりない。しかし世界中の人の――テレビの向こうでも、子供でも赤ん坊でも、年寄りでも――皆の頭上にはその環っかが存在していた。そしてそれは少なくとも僕と真野と過去の画家たちは見えているようだ。

 導き出されるのは、神の使い。生と死を超えた存在。全ての人はただ営むだけではない。何か根本がそことずれている。

 天使の環とは死んだものにも、与えられる。

 導き出されるのは、全く違う。

 僕たちは生まれた時から死んでいる。僕たちは人間は神の死者で生と死の概念からはじめから外れていた。

 僕たちは初めから死者なのだ。





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