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三すくみが崩れた先は②

「大塩は水戸藩が受け入れてくれるという、何か確信になる約束でもあったのでしょうか?」 

「確信があったというより、もはや他にすがるものがなかったんでしょうな。かくいう拙者も大塩を見捨てた一人ですが。」


 川路は自嘲(じちょう)を多分に含んだ苦笑いを浮かべた。いつも飄々(ひょうひょう)として人当たりの良い笑顔を崩さない川路にしてはとても珍しい表情であった。英龍は友の憂いの(つぶや)きをあえて聞き流した。

 

 大塩が憧れてやまない大出世をした川路から「『不正無尽』のネタは老中に握り潰されるだろうから、出世を夢見るより堅実に生きた方が良い」などと言われようものなら、大塩の恨みが川路に向かっただろう。


 英龍はこれまでの話をまとめて結論を導き出した。


「鳥居の切り札は町田から聞き出した『大塩の手紙』。拙者が書き写したことを知っている鳥居に提出を命ぜられたら拙者も断ることはできませんからな。

奴のことだから今頃、反水野様の勢力で同じく大塩と結びついていた者達を脅迫して根回しを行っている。

鳥居が根回しを終えて拙者に『大塩の手紙』の写しの提出を迫る前に、水野様から鳥居を断罪していただかねばならない、ということで合っていますか?」

「その認識で間違いないだろうと思います。水野様お一人の罪では到底済まされないほどの、お家断絶ほどの罪を問える切り札でしょうな。

重罪だからこそ、鳥居に脅されている面々もうかつに水野様を罪に問えず、様子見している。何しろ自分達も水野様同様スネに傷を負っている。次は我が身ですからな。

水野様は、前将軍とその側近達による怠惰(たいだ)な政治を一刀両断する権力を手に入れるためとはいえ、それだけのことをしました。

それでも水野様がおられなければ、筆頭老中の権力を持ってくださらなければ、この国はいまだに『薪水給与令(しんすいきゅうよれい)』すら出せず、高島先生の西洋式軍事訓練のお披露目も行えなかった。あのお方がおられたからこそ、この国は首の皮一枚繋がることができたのす。」


 水野忠邦はこの時代ではまだほんの一部の者しか唱えていない、『開国』『日本の西洋軍事化』の必要性を理解した貴重な重鎮だった。しかし前将軍・家斉とその側近達が生きているうちは頭を押さえつけられ、思うような政治改革ができなかった。


 やがて川路は決意を秘めた目を英龍に向けた。


「これまで『蘭学を憎悪する保守派の鳥居』と『西洋を学び国を栄えさせる開国派の水野』、『まずは蘭学に頼り国力を上げたうえで攘夷攘夷(じょうい)を目論む水戸』の三すくみでした。

しかし鳥居が『大塩の手紙』という切り札を手に入れたことで力の均衡が崩れた。

鳥居は『不正無尽と大塩との繋がり』を盾に水野様を断罪し、水戸が大塩から『廻米』を得たという証拠によって斉昭公を強請(ゆす)ることも可能になった。水戸の弱みを他の御三家の尾張(おわり)紀洲(きしゅう)に流せば、家祥様の次の将軍後継者問題にも及びましょう。蘭学嫌いの鳥居がこれ以上増長すれば、再び蘭学の弾圧も起こるはず。

江川殿、貴殿(きでん)が一番の標的にされるのは目に見えております。『蘭学の最後の砦』である貴殿を葬れば、この国の蘭学を根絶やしにすることができますからな。」


 英龍より専門知識のある蘭学者自体は、蛮社の獄以来表立った動きはできずとも存在する。しかし幕臣として政治に意見できる蘭学理解者として英龍は第一人者である。

 蘭学を推奨し国力を上げたい方針の水野が渡辺崋山、高野長英、高島秋帆の逮捕を鳥居に迫られた時に苦渋の決断をしたのは、『まだ江川がいる』という希望が残っていたからである。

 渡辺崋山ら三人は幕臣ではないから庇うのが難しかった。しかし幕臣でありながら崋山や秋帆の弟子である英龍が無事でいてくれれば、時間はかかれどまだ西洋を学ぶ改革は首の皮一枚繋ぎ止めておくことができる。


 水野にとって、鳥居は敵対勢力という内憂(ないゆう)を蹴落とすため、英龍は外患(がいかん)への対応に欠かすことのできない存在であり、どちらも失うわけにはいかなかった。


 英龍自身は国を守るためならば命など惜しくはないが、蘭学で得た知識や技術、オランダとの信頼関係を失うわけにはいかない。


「ここまでこじれた事態に決着を着けるには、もう一つの権力の協力を頼むしかありません。」

「…、『大奥』を巻き込め、と?」

「左様です。」

「…妹を使えと、そういうことですか?」


 高潔な武士である英龍にとって受け入れがたい提案であることは、川路も百も承知である。ましてや英龍の大切な妹を巻き込むのだ。川路もつらいが、本当にもうそれ以外の手立てがないのだ。


「はい。この鳥居の問題にはこの国に住む全ての民の命運がかかっております。このまま我々が鳥居に敗北したら『清』の二の舞は避けられないでしょう。」


 せっかくオランダが友好的な提案をしてくれた時に、幕府は了承しなかった。アヘン戦争の恐怖は確実に我が国に迫って来ている。


「このままでは女子供みな道連れで西洋の圧倒的な軍事力に大敗するでしょう。

なに、鳥居のように人道に背くような悪事を働くわけではありません。あくまで武士道を少し反れ、女子の力を借りるだけです。決して奴らと同じところまで堕ちるわけではありません。」 

「…鳥居を糾弾できたとして、水野様も鳥居を利用した罪に問われます。表舞台に戻れたばかりですが水野様はそれでよろしいのでしょうか?」


 前将軍・家斉は特定できるだけで16人の妻妾を持ち53 人の子女を儲けた好色家で、大奥には1500人もの人が居住していたという。民の窮状(きゅうじょう)や外国からの威圧を見て見ぬふりをし、気に入った者達ばかり側に置き、贅沢の限りを尽くしたせい出幕府の財政は破綻した。

 家斉が亡くなるや水野は先述の『呪詛事件』の水野忠篤ら有害な側近達を罷免し、大奥に切り込んだ。

 当時の大奥では家斉の側室・お美代の方が権勢を振るい、父である日啓(にっけい)が住職を勤める智泉院に大奥の女性達を送り込み、僧侶達と密会させるなどの不埒(ふらち)極まりないことが平然と行われていた。

 水野は当時寺社奉行だった阿部正弘(あべまさひろ)に日啓を捕らえさせ、お美代の方を『押込(おしこめ)(軽い禁固刑(きんこけい))』にした。

 お美代の方の行いが悪質だったとはいえ、将軍の御子を生み将軍がお墨付きを与えていたのだからと、大奥は政治介入に反発した。


 今大奥に協力を求めようとしたら、憎き水野を糾弾する口実にされてしまう。老中に返り咲いたばかりの水野は前回の罷免以上の罰をくらうだろう。


「水野様はもう鳥居と刺し違える覚悟ができておりますよ。これは水野様ご本人の提案なのです。「鳥居に裁かれるより、上様に裁かれる方が家の傷は浅かろう」と。」


 なおも承服しかねる英龍の顔を見て、川路は差し出がましいと思いながらも一言加えた。


「我々に志を同じくする絆があるように、上様と水野様にもお世継ぎ時代の若き頃より続く深い絆があります。水野様は上様に全てを知っていただけれは、上様は必ずや公正な判断を下してくださると信じておられるのです。

我々はただ、上様にこの一連の事件を知っていただけるよう、ほんの少し工作するのみです。」


 水野の堅い意志と上様との深い絆は理解した。それでもやはり妹・たいを巻き込むこの提案に、英龍はどうしても頷くことができなかった。

 

英龍の妹のたいは家斉のもとではなく将軍世子の方にいたから、お美代の方騒動に巻き込まれなくて良かったね。

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