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不正無尽

 川路聖謨は文政10(1827)年、寺社奉行(じしゃぶぎょう)吟味(ぎんみ)物調役(ものしらべやく)当分助(とうぶんすけ)(寺社奉行の配下で裁判などを行う臨時雇用の者)となり、大坂東町奉行所の与力(よりき)・大塩平八郎と対面した。

 大塩はこの時すでに陽明学者(ようめいがくしゃ)として名を馳せており、同僚の与力達や商人、豪農達を門人に抱え、大坂で一大勢力を築いていた。

 

 その大塩が「水野忠邦様のお耳に入れたいことがある」と、大坂で行われている『不正無尽』を調べ挙げた証拠だという書類を掲げ、当時寺社奉行だった水野忠邦へ目通りを願った。川治は自分より上役の水野に取り入ろうとする大塩の腹の内に出世の野心を感じ取り、

「まずは拙者から水野様に貴公の人となりをお伝えしておきましょう。」

とはぐらかした。



 川路聖謨の実父は豊後国(ぶんごのくに)日田(大分県日田市)の代官の手代で武士階級ですらなかったが、200両という大金で御家人株を買って武士階級となった。川路家の養子になった聖謨は勘定奉行の下級吏員(かきゅうりいん)(現場担当の下級役人)資格試験である筆算吟味(ひっさんぎんみ)に合格したのち、才覚と人望で出世を重ね、下級武士の羨望(せんぼう)を浴びていた。


 自分の才覚を信じて疑わない大塩が、川路が水野に気に入られ出世できるのなら自分にもできるはず、と出世を願ったであろうことは容易に想像できた。


 川路は直属の上司である水野に大塩が調べ挙げたという『不正無尽』のことを相談した。老中、奉行、大名だけでなく公家まで名前が挙がっていることを伝えると、事を重く見た水野は

「わし一人では抱えきれぬ。大久保様に判断していただこう。」

と、老中・大久保忠真(おおくぼただざね)と同僚の寺社奉行・脇坂安董(わきさかやすただ)を巻き込んだ。


 後日、大久保と脇坂は川路の仲介のもと密かに大塩と接触し、『不正無尽』のさらなる調査を命じた。老中から直々に依頼されたという自信が、大塩に立身出世を具体的に期待させてしまった。

 

 しかし、大塩が3 年かけて調べ挙げた『不正無尽』の調書で告発された者は幕府重臣から格式高い公家まで含め140人を超えており、余りの事の大きさにとても表沙汰にはできない。

 さらに悪いことに大塩は、捜査を命じておきながら自らも無尽に手を出そうと大塩に声を掛けた老中・大久保と寺社奉行・水野に対し、ぎりぎり不正ではないと言い逃れできる無尽を仲介した。『同じ穴の(むじな)』と呼ばれても仕方ないことをしながら、川路が密かに大塩を探っていたとは知らず報告内容から外している。これは正義より大久保、水野に取り入ることを選んでいる証拠である。


 川路は大塩に「影響力が大き過ぎて使い所を間違えば大変なことになる」と遠回しに『不採用』を告げたが、素晴らしい功績だと信じて疑わない大塩は諦めなかった。そしていつまでも出世の声が掛からない大塩は水野らに捨てられたことを悟り…。


 大塩が兵を挙げて討たんとした大坂東町奉行・跡部良弼(あとべよしすけ)は水野忠邦の実弟である。


 大塩は大坂市民に向けてさんざん跡部の悪行を吹聴したが、実際には跡部は米取引不正禁止令、米相場抑制令、入津米増加令、市中小売米価引き下げ令、官米払下げなど積極的な米価対策として取ることができるほとんどの策を実施していた。その結果、大坂市中の飯米維持政策派かなりの成果を上げていた。

 しかしそれでも飢饉の影響は大きく、政治の力だけでは限界があり、米不足は深刻化した。

 大塩に強く批判された江戸への廻米はもともとは米不足に苦しむ江戸市民を救うためのものだった。どこもかしこも米不足に苦しむ中、跡部は天保7年には大坂の米が大量に流出しないよう制限をかける措置も行っている。大塩が言うほど跡部に落ち度はないはずだった。


 ここに『大塩の手紙』と『大塩挙兵の大義名分』に一貫性がないことが表れている。


 手紙は老中をはじめ幕府関係者の腐敗を糾弾し、自らの正義を主張することが一番の目的として書かれているが、挙兵の大義名分であった『救民』については追求していない。

 さらに手紙は鳥居耀蔵の実父でもある林大学頭に充てられたものもあり、林大学頭に金策の融通を利かせた件をちらつかせ、『貸し』を担保に幕府に正義の諌言(かんげん)をするよう迫っていた。

 大塩の手紙の一番の肝は『水戸藩主・徳川斉昭にも書状を送っていること』である。大塩は幕府高官達が自らの悪行を糾弾されたこの手紙を揉み消すことがないよう、同じ内容の書状を水戸に知らせ御三家の威光で幕府を牽制(けんせい)して欲しいという希望を託した。


 しかし手紙は老中や大学頭、水戸に届けられる前に跡部から呼び戻しにあい、大坂に返送される帰路の三島で奇しくも正規の飛脚が病に倒れ、たまたま通りかかった雲助(くもすけ)(非正規の日雇い荷運び労働者)に託されたが雲助は金目の物を盗み手紙は投げ捨て逃亡。英龍の手に渡った。雲助はただちに捕らえられ、通常は百敲きや追放のところだが重要機密に関わったため牢から出すことができず、やがて獄中死した。


 大塩が乱を起こす前はすでに飢饉の影響で道頓堀や日本橋、難波新地あたりには死骸が山と積まれ犬に喰われている。昼夜問わず物乞いの声が溢れ、乞食が乞食を襲うほどの有様だった。そこに大塩らが火を放ち、寒空の下、大坂市中は3日間燃え続け5分の1にあたる1万8千軒以上が消失し7万人が家を失い270人が焼死した。


 大塩は乱が鎮圧されると逃亡した。武士が崇高な主張を訴える一番有効な手は『命を賭す』である。自らの命を顧みない潔さこそが武士が尊ばれる所以(ゆえん)であるはずなのに、大塩は1か月も逃げていた。これは明確に味方を見捨てても自分は助かりたいという意志である。では大塩は生き延びて何をするつもりだったのか…。



家柄や親戚関係でガチガチに階級が決められていた江戸時代で、ほぼ唯一下級武士が出世できる道が勘定奉行の部下を募るために行われた『筆算吟味ひっさんぎんみ』。

税の計算などの算術や字の整い具合を見るテストがあったそうで、合格率は3〜5倍くらい。

それでも賄賂や縁故採用がたびたび行われたので、金なしコネなしで合格した川路は本当に優秀だった。


しかも川路の一番すごいのは、人当たりが良く相手の懐に入るのがとても上手だったこと。ロシアのプチャーチン一行も川路をべた褒めしてたりする。

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