英龍の『忍』の時代
天保という時代は英龍にとって、母の遺言である『忍』を体現したような、苦難に耐える日々の連続であった。
天保元(1830)年に母・久子が亡くなると、翌天保2年には家中で『乱心事件』が起こり、天保4年は大雨や冷害による飢饉に襲われた。
天保5(1834)年に父・英毅が亡くなり34歳で家督を継ぐと、天保7年は長雨や冷害で再び飢饉に陥り、日本全体で死者10万人に及んだ。米価も急騰し、8月には江川家の支配地と隣接する甲斐国(山梨県)で『郡内騒動』と呼ばれる百姓一揆が発生した。
天保8年2月に『大塩平八郎の乱』が起こり、3月に『大塩の手紙』が三島で発見された。大塩生存説が管轄地の裾野、富士宮(静岡県)で流れたことと、昨年の郡内騒動の被害に対処するため、刀の行商人に変装して身分を偽り、自ら捜索にあたった。
翌4月には英龍にとって最初の蘭学の師・幡崎鼎がシーボルト事件の判決を待たず逃亡していた罪で逮捕されてしまった。
天保9年は懇意にしていた直心影流の剣術師範・井上伝兵衛が何者かに殺害され、兄を殺害した容疑者を追って長崎まで行こうとしていた弟の熊倉伝之丞もまた、伝兵衛殺害から2年後に小倉(福岡県北九州市)で『容疑者の乗る船に同乗する』との手紙を息子に送った後、消息不明になった。
12月から翌10年にかけて異国船に対抗すべく江戸湾を中心とした御備場(砲撃用の砲台と歩兵の駐屯所)を見分する大役を、蘭学嫌いで渡辺崋山や高野長英らを敵視している鳥居耀蔵と、蘭学の測量と日本式の測量どちらが正確か競い合う形で任されてしまい禍根が残った。
それが遠因となり『蛮社の獄』で渡辺崋山、高野長英らが捕らえられ、英龍も厳しい取り調べを受け、蘭学に通ずる者達は戦々恐々となった。
しかしその翌年の天保11年、『アヘン戦争』が勃発。ようやくこの国に迫る危機を肌で感じた政界は大混乱となった。
今こそ西洋式の軍事力を取り入れるべきと、天保12年5月にこの国で唯一の西洋式砲術家・高島秋帆を長崎から招き弟子入りし、武蔵国徳丸ヶ原(東京都板橋区高島平)で我が国初となる西洋式砲術の公開演習を行う手筈を整えて成功させた。
一方で有罪とされ国許の田原で蟄居となっていた渡辺崋山が家族や藩に迷惑が及ぶことを憂い自害。
この年の閏正月には院政を敷いていた前将軍・11代家斉が没しており、水野忠邦が『天保の改革』に舵を切った。しかし改革を強行するために鳥居耀蔵を敵陣への刺客として重用し、厳しい取り締まりや反対派閥の弱みを握って陥れるなどと後ろ暗い手を多用したため、反発も多く難航した。
天保13年には高島秋帆が長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として逮捕・投獄され、さらに罪状に『謀反』の疑いが加えられた。
天保14年閏9月、天保の改革が失敗すると鳥居は水野を裏切り、反水野派の老中・土井利位に機密情報を流し、水野は老中を罷免された。
その年末、オランダ国王ウィレムⅡ世が内密に『開国勧告』をしてきた。イギリス・フランスの次の狙いは日本だと。イギリス等が攻めてくる前に、長い付き合いの日蘭で条約を結べば、イギリスなどともそれを批准した条約にすれば良いと、旧知の仲の日本に対し大変好意的な内容であった。
しかし、水野を追いやった後の首脳陣には外交の危機を乗り越える気概と手腕を持つ者がおらず、オランダには返事をしなかった。
天保15年6月にはオランダが、今度は軍艦を派遣して「1か月後に正式に『国書』を届ける」と言ってきた。弱り切った老中首座・土井はとうとう水野の再出馬を決めた。失脚からわずか一年で不本意にも復活させられた水野は、自分を裏切って土井に寝返った鳥居を許すつもりはない。
水野が鳥居を断罪できれば、鳥居によって不当に逮捕された高島秋帆も解放の希望が出てくる。ようやく事態は動き出すように見えたが、鳥居はまだ水野に対して脅迫の『切り札』を持っているようで、一歩も退く様子がない。
西洋式砲術の師・高島秋帆が逮捕されてから2年が経った。時は天保15(1844)年、英龍は43歳になっていた。高島の逮捕は鳥居耀蔵の仕業であるが、なまじ『謀反』という死罪に当たる重い疑いをかけたせいで信ぴょう性に欠けるとして、評定所(裁判を行う部署)も迂闊に判決を下せずにいる。
英龍は頭の中で状況を整理する。
(今一番大切なことは高島先生を劣悪な環境から救い出すこと。どんなに潔白を訴えようと、一度逮捕された以上無罪放免は有り得ない。可能な限り軽微な刑で済むよう、落としどころを探らなければ…。次に鳥居とその手下の本庄茂平次達をお縄にかけること。奴らの罪を明らかにすれば永牢(終身刑)を下された長英殿の救出にも希望が生まれるだろう。崋山先生の仇、失脚だけで終わらせてなるものか。)
英龍は初めて渡辺崋山に会った日のことを思い出す。『明けの明星』のような方だったと。
まだ人々が目覚めぬ暁闇の空に輝く、やがて出づる太陽を迎える道しるべの星。己と8歳差とは思えぬほど老成し、思慮深く、本質を見抜く眼は『真を写す』と絶賛された絵画だけでなく飢饉対策や藩政改革にも遺憾なく発揮された。
この国を憂う心は民衆への慈しみで溢れ、彼の素晴らしい人柄に感化された、くせ者揃いの蘭学者達が彼のもとで集結し、国を救うための蘭学研究会『蛮学社中(蛮社)』が結成された。彼は英龍だけでなくこの国全体の『希望の光』だった。
シーボルトの高弟であり『シーボルト事件』にて逮捕の手が伸びる前に逃亡した高野長英は、直情的な性格で幕府批判を隠しもしないため危険人物と見なされていたが、英龍は彼を『誠の憂国の士』と敬重していた。長英は当代随一の蘭方医というだけでなく、西洋の軍事や政治にも精通していて、まさに英龍が欲した西洋知識のすべてを持っていた。猜疑心の強い長英もまた、英龍を他の幕臣とは違い正義感に溢れた好人物と評し、英龍に対し助力を惜しまなかった。
高島秋帆は日本で唯一外国と通じている長崎で町年寄を務める家系に生まれ、長崎会所調役頭取を務めていた。異国を肌で体感し、その英知の危険性と有用性を日本に取り入れる必要を痛感し、父と共にオランダ商館長ステュルレルに西洋式砲術を習った。私費で西洋式の砲や銃を輸入し、この国が目覚めた時すぐに西洋軍事化に取り掛かれるよう周到に準備していた、まさしく風雲児であった。
鳥居が崋山と長英、高島を捕らえたのは、やがて英龍が幕府に重宝されるようになれば、この国の軍事も政治も蘭学者達が唱える西洋式に改革するであろうことを危惧し、儒教の衰退を阻止するために英龍をけん制したという側面もあった。
英龍は気持ちを奮い立たせ、遠山景元の家に向かった。
江川家は父・英毅も先進的だったので、英龍は子供の頃からコーヒーを飲んだり母・久子が焼いたカステラを食べていた。




