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母の遺言②

 英龍の号の『九淵(きゅうえん)』は陽明学の祖・陸九淵(りくきゅうえん)からとったもので、陽明学者として信望を集めていた大塩も英龍と同じく

陽明学の根本思想である『知行合一(ちこうごういつ)(知識と行為は一体であり、本当の「知る」とは実践・行動が伴うことである)』を信条としていた。

 思想の根幹に通ずるものがあるからこそ、大塩が正義感の強い人物であったことは分かる。その正義が自分とは相容れないものであるだけで。


 その大塩の自分の正義のみを信じ他者の正義を受け入れられず攻撃的になるところは、鳥居や水戸の斉昭公にも通ずるところがあるように思う。


 大塩の罪状書を作成したのは当時目付(めつけ)であった鳥居である。罪状には


・裕福な門人に出金させて購入した蔵書を売って得た金を人気取りのために配るという偽善者である。

・養子格之助の妻・みねと姦通(かんつう)に及び、自分の妾としている。


と書かれ、激しく糾弾したうえ『叛逆罪(はんぎゃくざい)謀反(むほん))』としている。


 それに対し大坂町奉行時代に大塩と交流があった南町奉行・矢部定謙(やべさだのり)は『大不敬罪(ふけいざい)』という、大罪には違いないが謀反まではいかないという主張をした。やがて矢部は鳥居の策謀によって奉行の座を罷免され、永預けの有罪判決をくだされた。鳥居の攻撃性、権力への執拗(しつよう)な執着心が如実(にょじつ)に表れている。


 鳥居は朱子学者としての誇りを大切にしていて、朱子学を志す者には心を開き面倒を見るところがある。水戸の斉昭公も、若く有能で自分の意に従う者は身分が低くても抜擢(ばってき)する器の大きさがある。その正義を全否定するのは傲慢(ごうまん)であり彼らと同じになってしまう。


 ただ怖いのは、彼らは大塩と同じく人を扇動する話術に長けていることである。彼らは『敵』を作り、その『敵』に苦しめられている人々を理解したように正義を語り『敵』を強く非難する。

 すると人々は自分の苦しみを分かってくれた彼らを崇拝し、彼らの先鋒(せんぽう)のごとく『敵』を攻撃し始める。その熱狂は流行り病のように伝染して拡大していく。

 西洋でかつて行われた狂気の『異端狩(いたんが)り(魔女狩り)』も、人々はそれを正義と信じて疑わなかったと聞いた時は戦慄(せんりつ)した。


 英龍は自分の心の奥に猛り狂う激情があることを自覚している。幡崎や崋山と出会った時は歓喜が過ぎて、寝ることを忘れるほど蘭学に夢中になった。まだ開国を目指す時勢にはほど遠く、慎重に行動しないと足元を掬われてしまう。先走りそうな気持ちを抑えるのに苦労した。

 逆に彼らが捕らえられた時は激しい怒りで今すぐにでも鳥居を討ちたい義憤に駆られた。


 その激しい性分を母は見抜いていたのだろう。死の間際、『忍』という言葉を英龍に遺した。

 孝行心が篤い英龍は母の言葉を胸に、常に自戒を心掛けた。


 今になって分かった。自分は母の遺言を守っているようで、実は母に護られていたのだと。隠忍自重を心掛けたことで、争いを回避し被害を最小限にとどめられたのだと。


 しかし一体いつまで『忍』を続ければよいのか。あまりに長い間『忍』を続けた弊害か、希望ある未来の姿が想像し難くなっていた。また、『忍』に気を取られすぎて千載一遇の好機を逃してしまう可能性も怖かった。


 思考の沼に沈んだ英龍は寝付けないまま、空が白んでいくのを眺めていた。

目付…旗本や御家人を、不正や職務怠慢などないか監察する役職。


謀反…国家、君主、または主君に背いて武力で反乱を起こすこと


大不敬罪…天皇や国家、格式の高い神社などに対する犯罪。

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