母の遺言①
その夜英龍は物思いに沈み、なかなか寝付くことができなかった。英龍と大塩は一度も会ったことがないのに、妙な縁を感じざるを得ない。
一つは共通する人脈。英龍と仕事で縁が深い川路や水野、直属の上司である内藤矩佳、南町奉行だった矢部定謙など。出世の道順として彼らは大坂に勤めていた時期があり、それがちょうど大塩が大坂で名を馳せていた時期と重なっている。
次に『大塩の手紙』が自分の管轄地である三島で見つかったこと。手紙を運んでいた正規の飛脚が病に倒れ、たまたま通りかかった雲助の清蔵に託された。清蔵は口約束で代走しただけなので、荷物の中の金品を盗んでもその責任は正規の飛脚が負ってくれると思い荷を解いた。しかし文盲のため、手紙などに興味はなく掛け軸を盗んで手紙を捨て置いて逃げた。
飛脚が病にならなければ、清蔵が手紙を捨て置かなければ、我が管轄地以外の場所で手紙が見つかったのなら、今とはまったく違う未来になったのだろうか。
また、大塩は天保2年に富士山に登りその麓の裾野・須走(静岡県裾野市)に土地を購入した記録がある。さらに大塩は富士宮の大石寺に寄って近隣に住む女を妾としてもらい受けている。裾野も富士宮も英龍の管轄地である。
こんなにも偶然が重なるのかと、狐につままれたような、どうしても納得がいかないような煮え切らない思いがする。
作刀の旅で全国を回っていて、たまたま大塩の乱の直後に大坂近郊に居た英龍の刀の師である大慶直胤が「大坂では意外なほど大塩を悪く言う声は少ない」と手紙で語っていた。
だが、大塩の乱自体は半日で鎮圧されたとしても、焼死者270名、1万8千戸の家が焼かれ7万人が住む場所を失った。
乱を事前に阻止しようと大塩を説得した塾頭の宇津木矩之助は、大塩の命令で他の弟子達に惨殺されている。さらに、乱に加担したとして処罰された者は磔20人、獄門17人、死罪3人をはじめ750 人にのぼった。大塩の養子・格之助の息子・弓太郎はわずか2歳で永牢となり獄中死した。
大慶直胤は英龍の西洋軍事化に理解を示してくれた貴重な刀工である。砲や銃の国産化は『刀の時代の終焉』を意味するのに、直胤は「お侍様の命を護るのが刀から銃に代わるなら、銃の製作に助力を惜しまない」と言ってくれた。そして「戦で刀を使うことがなくなっても、刀の価値は失わせない」とも言って、精進し続けている。
彼は鉄に関する豊富知識と、要請があれば全国くまなく渡り歩くことができる職権を利用して英龍に様々な情報を届けてくれ、人の縁を繋いでくれる得難い人材である。
西洋の鉄を学びたいと高島秋帆とも交流があり、英龍と秋帆を繋いだ一人でもある。
反射炉の計画にも顧問として協力してくれている。英龍のお抱え刀工となった彼の弟子・小駒胤長は作刀だけでなく銃の製作にも欠かせない人物となっている。
直胤の意見も大塩を知るための重要な真実の一つだと思う。人の本質を知るには多方面からの目が必要だ。自分が見たいだけ、聞きたいことだけを信じては公平さに欠ける。
大塩のことを悪く言う人が少なかったのは、人々を扇動する話術に長けていた大塩の狂信的な信者に聞いたからではないだろうか。大坂にて一大勢力となっていた彼らに話を聞いたところで師を悪く言う者は少ないだろう。
大塩は文政10(1827)年に『京坂キリシタン一件』としてキリシタン『もどき』を摘発している。キリスト教に似せ陰陽道などを織り交ぜた加持祈祷を修業としていた豊田みつぎら6人を「キリシタン」として逮捕し磔にしたものである。その事件を皮肉るように、『実は大塩自身がキリシタンだったのではないか』と噂されるほど、『大塩信仰』は大坂に根を張っていた。
もし恐山にいるという『イタコ』の口寄せで焼死や飢死した者、脅迫され共犯者にさせられた真の被害者の声を聞けたとしたら、きっと真逆の強い怨嗟の声が聞けるだろう。
大慶直胤に興味がある方は、作者の『大慶直胤さんの誤解を解きたい〜松代藩の荒試しの真相は〇〇でした〜』という作品をご覧ください。
【刑罰について】
磔…罪人を十字架に縛り付け槍で刺して死に至らしめる、最も凄惨な死刑の一つ。主に重罪人に適用され、死後も3日間遺体をさらす極めて厳しい刑罰。
獄門…斬首(打ち首)の後にその首を3日間、獄門台にさらす刑罰(さらし首)。主に強盗殺人や主殺しなどの重罪に科された。
死罪…斬首(打ち首)のあと、遺体を様斬り(ためしぎり)に使用される重い刑。
永牢…終身刑。罪人を生かし続けるのに金がかかるためあまり行われなかったらしい。
です。




