人生なんて、死ぬことのネタバレをくらった1人称RPGでしかない。
これは、舞の物語をその友人である七海の証言の元に作成された記録である。舞は昔から、動物との接し方は上手かった。小さい頃は下校途中にいた野良猫に好かれ、大学に入ったころは馬や牛などの大動物に好かれ、研究室ではマウスの扱いに長けていた。同時に彼女も動物の素直で、健気に生きている姿か好きだった。そんなサンのような彼女は人間のひねくれた部分にうんざりすることも多かった。
人生なんて、死ぬことのネタバレをくらった1人称RPGでしかない。
こんなことを、ラジオを片耳に新しいたばこの包装フィルムをあけている時、ふと思ったという。
これはある有名ゲームデザイナーと女性声優の言葉から影響されてできた言葉である。
この考え方を身に着けてからは、人生がだいぶ楽になった。加え人生、その過程を楽しんだもの勝ちだと改めて思うようになった。現段階で、死なない人間は見つかっていない。ということは、人はいつか死ぬもんだと考えていいだろう。その中で、人間は、他でもない、自部自身のRPGを歩んでいる。ただ、よくあるRPGと違うのは、死は1度切りという縛りプレイの中、死ぬまでのシナリオがないことと、クリア条件というものが設定されていないということ。つまりここの部分に、その人の価値が生まれるというもの。人生の中でその人が、どんな選択をし、どんな人と出会い、どんな経験をするかに物語が生まれるのである。だからといって何かを成し遂げる必要もない。自分の好きなように自分という主人公を操作し、思うがままその人の物語を作っていけばいいのである。
この考え方は、今何かに苦しんでいる人や、他人に尽くして他人の人生を歩んでしまっているような人の足かせを解いてあげたり、重荷をおろしてあげたりすることが出来る。人間とはすごいもので、いつか死ぬというネタバレをくらっていながらも、何かに向かってあるいは誰かのために、努力したり、思考したりなどレベル上げを止めない生き物なのである。これは社会性の動物でありかつ、高度に発達した脳を持ち合わせているからこそできてしまうのである。しかし、高等動物であるがゆえに、未来の不安や抽象的な事柄に苦難することもある。その中、社会で生きていくために、素直になれず、周囲との関係を気にしながら、様々なペルソナを使い分けているのである。なんとひねくれた悲しい生き物なんだと思う。
その点RPGというのは絶対的な主人公がいて、その主人公が少年時代から大人になるまでの物語をその主人公視点で素直に描かれることが多い。RPGが世界で流行しているのにはどこかこういった主人公のような生き方に人々はあこがれ偽体験をしようとしているのもあるのかもしれない。
あこがれているのであれば、やってみればいいというものである。もちろん最初っから最後まで勇者というわけには現実問題いかないのも分かる。そこは人間の賢い頭で、様々なキャラを使いこなし、時には、他人の家に上がり込んで勝手にタンスを開けたり、壺を割ったりするような勇者になってもいいんじゃないかと思う。
自分に合った生き方というのはそう簡単に見つかるものではない。その生き方を見つけるまでも物語の一部である。「人生なんて、死ぬことのネタバレをくらった1人称RPG」でしかない。この預言は自分の物語を進めていくうえで、スカラのようなバフ効果が得られるであろう。