元気って?
これは、舞の物語をその友人である七海の証言の元に作成された記録である。6月に入った札幌はだんだん気温も上がってきてきたが、それでも朝晩は肌寒かった。人間が過ごすには1番いい時期である。気温的には過ごしやすいのだが、人間生活の方はどうだろう、新年度が始まり、翻弄される日々を過ごしてきた春を駆け抜け、そろそろどこかで休憩したい気分ではないだろうか。そんなある日の出来事である。
その日の天気は快晴。気温は暑くもなく、寒くもなくちょうどいい。本州の方では30℃を超えてきているところもあるらしいが、ここ札幌の気温はいまだ20℃前後。気温的には一番過ごしやすい時期であった。
いつもの喫煙所で舞が煙草を吸いながら外を見ていると、陸上部だろうか、おそろいのt-シャツを着た7, 8人の集団がランニングをしているのが目に入った。彼女もサークルには所属していたが、今は運動系ではなかったのもあって、その集団が疎ましくもどこか懐かしく感じられた。
「元気だね、体力が有り余ってんだ」とか
「最近、走ってないな。最後にちゃんと走ったのって中学生の時だったかな」とか
といったようなことを思ったりしていた。
”元気な人”って何なんだろう?そんなことをふと思った。
”元気”な人と聞いて、思い浮かぶのは一般的にスポーツ選手だったり、小中高と皆勤賞をとるような人だったりする。しかし、本当に彼らが”元気”か?と考えたときに、本当はそうじゃなく、”元気”に見えるだけかもしれないということを思った。逆に周りから”元気”なさそうに見えている人でも、本人としてはとても”元気”である可能性すらある。ほとんどの場合一致するのだろうけど、周りから見える”元気”と当人が思っている”元気”では必ずしも一致しないのではないのか
では”元気”とはどう言う状態のことを言うのだろう。
”元気”=「健康である」というのは、間違いなさそうである。しかし、そこには身体的側面と精神的側面からみた健康というものがあるように思える。どちらの割合が多くを占めるのかは、人によっても様々かもしれないが、多くの場合、”元気”というものは精神的健康とのかかわりが大きいように思える。これはどちらか一方が崩れている人の様子を見ると分かるだろう。
となると、”元気”になるには、精神的に健康であることがとても重要になってくる。つまりいわゆる「こころの充電」というものが欠かせなくなる。
「こころの充電」というフレーズは誰が最初に言い出したのだろうか、とても言い得て妙だと思う。バッテリーに様々な種類が存在するように人のこころも様々である。また、使いすぎや強い衝撃は発火や損傷の原因になるところも同様。しかし、バッテリーとこころで違うところは、取り換えが効かないところとその充電の方法である。最後はこの「こころの充電」の仕方について話して締めとしよう。
人の心が様々であるように、「こころの充電」方法も様々である。中にはほとんど消耗もせず、充電してもすぐに満タンになるような、高性能急速充電対応タイプもいる。舞の場合はというと、彼女のこころには、少々古いがいいバッテリーが積まれており、消耗は激しいものの、出力は大きい。こんな彼女のこころの充電方法なのだが、2つあるらしい。1つ目は推し、2つ目は時間薬である。
1つ目の推しについてだが、これは推しを持っている人には言わずもがな、推しからしか得られない栄養があるというのは有名な話である。この世の中に、自分のことを見捨てずただただひたすら甘やかしてくれる存在があるとすれば、それは親か推しくらいのものである。親だって怪しい世の中である。推しに代えられるものはなかなかないだろう。
第2に時間薬である。この薬は効果発現までの時間がかかるが、副作用もなく、その効果は期待できる。ただ、この薬は、時間が経てば解決するというものではない。思うにどうやってその時間を過ごすかが効き目を挙げる要素になる。
ときには、現実世界から離れ、只々自分の存在を全肯定してくれる推しで周りを取り囲み、こころが回復するまで歩みを止めてみるのも悪くはないような気がする。