そして君は、心を持った。
日本国・首都:東京
「目標:討伐対象の再確認完了。魔骸配置、座標パターン一致。戦術演算開始───完了。行動フェーズ、移行」
荒廃した高層構造物が林立する区域。地表および垂直壁面に多数の異形体を確認。十数年前の“架空”は、現実へとアップデートされた。
対処ユニット:1体。
人型を模した戦術兵装体。
「展開──第壹武装、起動」
濃藍光、出力安定。
左腕部:多銃身砲塔。
右腕部:高周波刀。
背部:機械翼、展開完了。
「戦闘モード:アクティブ。排除プロセス、開始」
◆❖◇◇❖◆
日本国・某自治区 高等学園・臨時設置区画
──臨時配備中の兵装体ユニット《蒼月ユイ》は、“民間との融和訓練”という名目で、指定学園へ通学を命じられた。
「理解不能な行動が多発する場において、適応力を試す──という意図、確認」
右腕に装着された識別端末が、学園のゲート前で認証音を鳴らす。
『ピッ──承認完了。ようこそ、綾星学園へ』
構内には、普通に制服を着て、普通に笑い合う生徒たち。
彼女の視覚センサーが捉える笑顔の数々に、意味ラベルがつけられない。
それでも彼女は任務を遂行する。
「……え、転校生? 今日、そんな話ありましたっけ?」
教師がざわつくクラスに背を向け、職員端末をタップするも、該当データは未登録。
そのとき──教室のドアが、無音で開いた。
カツ、カツ──
完璧すぎる歩幅。
整いすぎた髪型。
冷たく研がれたような視線。
誰もが息を飲む中、その少女──否、“何か”は、黒板の前に立った。
「機体識別名、AMF-04 “YUI”。機体名、蒼月ユイ。民間教育施設への初期適応訓練のため、仮配属」
「え、ええと……? 誰から……いや、それ以前に……!」
教師が混乱する横で、生徒たちはさらに騒然としはじめる。
「機体名って……え? 軍用AIじゃね?」 「マジで人間……なの?」
その問いに、“彼女”は一切の表情変化を見せず、ただ淡々と応える。
「私は人間ではありません。戦術兵装体──兵器として設計された存在です」
ざわめきが静寂に変わるのに、数秒もかからなかった。教室全体に走る緊張。誰もが視線を逸らすことができず、同時に近づく勇気も持てなかった。
だが、その空気をあっさりと破ったのは──
「へぇ、でも見た目はふつーの子じゃん」
女子生徒の一人がユイの目の前まで歩み出て、にっと笑った。
「“適応訓練”ってことはさ、友達作るとかも任務に入ってるの?」
その問いに、ユイは一瞬、まばたきにも似た間を置いてから──首をかしげた。
「……“友達”という概念に関する定義が不明瞭。情報補完、要求」
「うっわ、ガチなんだ……でもそれ、面白いかも」
教室の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。誰かが小さく笑い、誰かが机の下でスマホをいじりはじめる。ユイの存在は、徐々に「異物」から「話題」へと変化し始めていた。
だが──その平穏は長くは続かなかった。
突如、校舎全体を震わせるような重低音が響く。次の瞬間、遠くの空が裂けた。
緊急警報。構内スピーカーからけたたましい音声が鳴り響く。
『警戒警報──座標区:A-7に魔骸群の接近を確認。至急、屋内退避を──』
そのとき、蒼月ユイの眼が、淡い藍色に光を放った。
「戦術モード・起動。対象群、排除処理を開始する」
彼女の背に、藍色の光と共に機械翼が音もなく出現する。羽ばたくことなく浮遊し、次の瞬間には、教室の窓から飛び立った。
風が一瞬だけ、教室の中を流れ抜ける。散ったプリントが、ふわりと宙を舞った。
誰も言葉を発せず、ただその背中を見送っていた。
でも──
「かっこいい……」
その小さな声は、思わず漏れたものだったのかもしれない。
ユイに用意された席の横。髪が少しぼさっとした、だけど瞳だけはやけに真っ直ぐな男子生徒。
ふざけ半分、驚き半分のクラスメイトとは違う、どこか芯のあるその呟きが、空っぽになった教室に、静かに残った。
──そしてその声は、空中に浮かぶユイの聴覚センサーにも、確かに届いていた。
「……“かっこいい”。感情反応の一種……?」
初めて受け取った、「好意」と名づけられるべき信号だった。
放課後。校舎裏、使われていない備品倉庫の前。
夕日が長く影を引く中、その扉がゆっくりと開かれた。
中から出てきたのは、蒼月ユイ。制服は一見いつも通りだったが──
袖口から覗く左腕の義肢パーツが、僅かに焦げ、金属が露出していた。
歩き方にも、ごく僅かだが、異常がある。反応速度に支障はないが、演算機関が再調整を優先していた。
「──損傷率、臨界未満。問題なし」
淡々と自分に言い聞かせるように呟いた、そのとき。
「……え、蒼月さん?」
声に反応し、ユイは振り向いた。
視認対象、距離6.2メートル。黒髪、制服、身長172cm
学籍データベースより情報取得。
氏名:天坂 煌
所属:綾星学園・1年B組
顔認識一致率──98.9%
個体識別、信頼レベル:高。
彼女は静かに身体の向きを変え、言った。
「……クラスメイト。天坂 煌。照合完了」
彼の目が、ユイの腕の損傷に気づくのに、時間はかからなかった。
「ちょっと、待って……それ、怪我……?」
「否。損傷。外部装甲の一部破損──対象魔骸の排除中に生じた軽度の摩耗」
「軽度って……これ、“軽度”のレベルじゃないじゃん」
煌は眉をひそめ、無意識に数歩、ユイへと近づいた。
「そんなの、“問題ない”って言いながら歩くやつの歩き方じゃない。……なんで誰にも言わないの?」
「任務に支障なしと判断。報告の必要性──低」
「バカかよ、お前……!」
その言葉に、ユイの動きが一瞬だけ止まった。
「……“バカ”。軽蔑表現。状況文脈より、私への軽度の非難と判断」
「ちげーよ、そういう意味じゃなくて!」
煌の声が少し上ずる。だがその目は真剣だった。怒っているようで、何より“心配している”ことが伝わる声。
「“誰かが心配する”ってこと、あんまり想定してないだろ、お前……?」
──新しい感情が、ユイの内部記憶領域に登録される。
“心配される”という概念。
“自分のために誰かが怒る”という現象。
それは彼女にとって、未知の命令系統だった。
「……これは、命令ではない。感情による、行動?」
「そう。僕が勝手に心配してるだけ。命令でも義務でも、任務でもない」
煌は、そっとポケットからハンカチを取り出し、露出した金属部分に触れないように、ユイの袖口を覆った。
「でもな──お前がこうして傷ついて戻ってきたとき、僕はちゃんと気づいてたいからさ」
それは、感情という名の、非常に非効率な、けれど決定的な反応だった。
──ユイの視覚センサーに、新しいタグが浮かぶ。
[新規反応:安心]
初めての登録。未解析の感情。だが、その“名もなきあたたかさ”は、確かに心の奥に残った。
彼女はそっと視線を下げ、煌の手元を見た。白いハンカチの端が、風にふわりと揺れる。
「記録完了。“心配される”行為は……悪いものではない。現時点での暫定評価──好意的」
そう言って、ほんのわずかに目を細めた。
──それは、機械にあるはずのない、ごく僅かな“笑み”に近かった。
「……よかった。少しは伝わった、かな」
煌は苦笑しながら、ハンカチを軽く整えると、ゆっくり顔を上げた。
その視線が、ユイの淡い藍色の瞳と真っすぐ重なる。
沈黙。けれど、どちらも目をそらさなかった。
やがて、煌が照れたように呟いた。
「……なんか、思ってたよりちゃんと喋ってくれるんだな。ちょっと嬉しいかも」
ユイは静かに首を傾げる。
「“嬉しい”。それも感情の一種……?」
「うん。君と、もうちょっと話したいって思ったから、たぶんそれが“嬉しい”」
ユイの演算回路が静かに回る。感情──それは数値でも命令でもない。だが、確かにそこにあるもの。
そして彼女は、ごくわずかに──
ほんの一瞬だけ、まるで反射のように。
「……私も、もう少し、君と話してみたい。かもしれない」
それが、“心”の始まりだった。
翌日。朝のHR直前、教室。
蒼月ユイは、用意された席に座っていた。ただし──ほんの少し、様子が違う。
机に手を組み、まっすぐ前を見ている姿は変わらない。しかし、視線の合間に時折、隣の席へとちらりと目をやる。
そこには、天坂煌。カバンからノートを取り出しながら、ちら、とユイと目が合う。
「……おはよう」
そう言ったのは、ユイのほうだった。
一瞬、時が止まったように教室の空気が揺れる。
数名のクラスメイトが「え……?」と顔を上げた。が、それをまるで気にせず、天坂はにこっと笑った。
「おはよう、蒼月さん」
その笑みを見た瞬間、ユイの内部システムにほんの微弱な温度上昇が生じた。冷却機構が作動するほどでもない、だが確かに「反応」があった。
──それを、彼女は「うれしい」と名づけた。
昼休み。綾星学園・校舎屋上。
普段は立ち入り禁止になっているはずのその場所の扉が、なぜか今は静かに開かれていた。
風の通り道となる屋上の片隅に、蒼月ユイは立っていた。制服の袖を風に揺らし、ただ黙って空を見つめている。
──ガチャ。
「……あれ、本当に開いてた」
そう言いながら顔を出したのは、天坂煌だった。手には購買のパンが二つと紙パックの紅茶。
「蒼月さん……ここにいたんだ」
彼の声に、ユイはゆっくりと振り返る。
「校舎屋上──立ち入り制限区域。通常、生徒の立ち入りは不可」
「うん、だからこそかな。君がいると思って探した」
煌は扉を閉めて、ユイのそばまで歩いてくる。屋上には、他に誰の姿もない。周囲にはただ、春の風と空の音だけ。
「……昨日のお礼」
彼はそう言って、ユイにパンと紅茶の片方を差し出す。
「お礼?」
「僕のお節介に付き合ってくれたから。あと、あんなケガして帰ってきたのに、“問題ない”とか言ってたから」
ユイはその言葉に、わずかに瞬きをする。
「──問題ではなかった。戦闘上、規定損耗率の範囲内」
「そういうんじゃなくてさ。……いや、やっぱいいや」
煌は少し笑って、地面に腰を下ろす。
それに続くようにユイも横に座る。
「ここ、意外と気持ちいいんだな。……蒼月さんも気に入ってる?」
「はい。視界が開けており、風も適度。静かで、演算に集中しやすい」
「“演算に”か……」
彼はユイの答えに思わず笑い、パンの袋を破る。ユイはその音に視線を向けるだけで、自分では動こうとしなかった。
「あのあと、帰れた?」
「帰還プロセス──問題なし。帰路において再交戦は発生せず」
「そっか、よかった」
煌はユイの隣に腰を下ろす。ほんの少しだけ、距離はある。でも、隣に座ることをユイは拒まなかった。
「なあ……昨日のアレ、本気で痛くなかったの?」
「損傷値は戦闘中に想定される平均範囲内。問題なし。……ただし」
「ん?」
「……袖の焦げ跡、修復に13分かかった。学園内の規律に抵触する可能性があった」
「そっち!? いや、もっと心配するのそこじゃないだろ普通……」
思わず噴き出したように笑う煌。その音に、ユイの視線が静かに向けられる。
「……笑っている理由の定義、まだ正確に理解できない。だが……悪い反応ではないと判別」
「そうだな。全然、悪くないよ」
ふたりの間に、風が通り抜けた。春の匂いが、ほんの少しだけユイの髪を揺らす。
「屋上って、秘密の場所っぽくてさ。……蒼月さんは、気に入った?」
「……うん」
それは極めて小さな肯定だった。
──兵器であるはずの彼女が、ふと見せた“人間らしさ”。
その一瞬に、煌の胸が少しだけあたたかくなった。
「じゃあさ、昼休み……たまに、ここで一緒に食べようぜ」
その提案に、ユイは一瞬だけ視線を泳がせたあと、静かに、しかしはっきりと頷いた。
「……了解」
「おう」
それは、ほんの短い昼休みの出来事。
けれど確かに、心の距離がまた一歩、近づいた瞬間だった。
その夜。ユイは整備モードに入りながら、自身の記録領域に新たなファイルを追加した。
感情学習ログ:天坂煌との接触記録・第12回
・心配される経験
・“おはよう”と“おかえり”の価値
・……そして、“話したい”という欲求
──兵器としてではない、自分の記録。
端末を閉じる直前、ユイはふと、呟いた。
「次に会ったとき……“また話そう”って、言ってもいい?」
その問いに答える者はいない。だが彼女の心は、静かに期待していた。
翌朝。登校途中の道。
まだ人の少ない坂道を、制服姿のユイが静かに歩いていた。
──そのとき。
「おーい、蒼月さ……」
声をかけかけた天坂が、一瞬言葉を切る。
ユイがゆっくりと振り返る。その目は、以前よりもどこかやわらかく見えた。
「……?」
彼女の無言の問いに、天坂は少しだけ照れたように頭をかいた。
「……いや、えっと……その、“蒼月”ってさ、なんかよそよそしいよなって」
「事実。私たちはクラスメイト。学籍上、同列の個体」
「……だからさ、もしイヤじゃなかったら──“ユイ”って、呼んでいい?」
その言葉に、ユイの処理ユニットが一瞬だけ高負荷を記録した。けれど、それを異常とは記録しなかった。
「……了承。では、私は“天坂”と呼称を統一すべきか」
「ん、そうじゃなくて……“煌”でいいよ。君だけだし」
彼の声は少しだけ小さく、けれど確かに嬉しそうだった。
「……了解。煌」
その一言に、煌の頬がほんのり赤くなる。
「……おはよう、ユイ」
今度こそ、まっすぐにそう言った。
ユイは、ごくごく小さな笑みのようなものを口元に浮かべて、返した。
「おはよう、煌」
それは、兵器でも戦術演算でもない、ごく当たり前の、でも彼女にとっては初めての“対等な朝”だった。
数週間後、季節がゆっくりと春から初夏へと移り変わる頃。
蒼月ユイと天坂煌は、自然と一緒にいる時間が増えていた。
昼休みに同じ机で食べること。放課後に課題を一緒にやること。帰り道を、ほんの数メートル並んで歩くこと。
どれも“任務”ではなく、“選んで行う”行為だった。
──放課後。購買の脇、日陰に並ぶベンチのひとつ。
「なあ、ユイ」
ジュースを片手に、煌がぽつりと話しかける。
「お前ってさ、笑ったり怒ったり、あんましないよな。でも最近、ちょっとだけ分かってきた気がする」
「感情反応に関する表出パターンは、旧人類に比べて抑制傾向にある。それに──制御を誤ると、演算に支障が出る」
「でも、それが“人っぽさ”ってやつなんじゃないかな」
煌の言葉に、ユイは一瞬だけまばたきをして、彼を見た。
「“人っぽさ”……?」
「うん。ほら、例えばさ──」
彼は、少しだけためらって、それから不自然なくらい自然な口調で続けた。
「たとえば誰かのために焦ったり、笑ってほしいって思ったり、理由もなく会いたくなったり。そういうの」
ユイは言葉を返さず、静かに煌の目を見ていた。そこには敵意も分析もなく、ただまっすぐな、少年の目があった。
煌はそっと視線を逸らしながら、少し声を落とす。
「……僕はさ、ユイがそうやって人に近づいてくの、すごく好きだよ」
その言葉に、ユイの心核に微細な揺らぎが走った。ログに記録される。
“好き”──好意の一種。対象に対し、関係性の深化を望む非論理的選択。
「なぜ、命令されてもいないのに、私に“好意”を?」
「命令じゃない。だからこそ、本当の気持ちだよ」
風がふっと吹いて、ユイの髪を揺らした。
彼女はそのまま、ほんのわずかに、唇を動かす。
「……私も、“それ”を理解したいと思っている」
煌の顔に、少し驚いたような、それでいて嬉しそうな表情が浮かんだ。
「なあ……このあと、ちょっとだけ一緒に寄り道しない? 近くの坂道に、綺麗な夕日が見えるとこがあるんだ」
ユイは一瞬の沈黙のあと、わずかにうなずいた。
「了解。煌と共に行動することに、問題はない」
「よし、決まり。……あ、でもそう言われるとちょっと味気ないな」
「問題はない」じゃなくて──と、彼が何か言いかけたそのとき。
「……楽しみにしている。煌と見る夕日」
その言葉に、煌の顔が驚きで止まり、それからふっと和らぐように笑った。
「……それ、今の、けっこう反則なぐらい嬉しいんだけど」
その声に、ユイはただ静かに首を傾げる。
「これは、あなたが“好き”と言った、“人っぽさ”?」
「うん。……間違いなく、そう」
放課後の空に、ほんの少し赤みが差しはじめていた。
ユイは煌の隣に立ったまま、じっと西の空を見つめていた。彼女の言う「夕日を楽しみにしている」という言葉は、事実の羅列ではなく、選んだ“感情”だった。
煌はそれをわかっていたから、横で何も言わずに、ただ一緒に風を感じていた。
「……こういうの、ずっと続くといいのにな」
ぽつりと、彼が言ったその瞬間だった。
ユイの視線が、僅かに揺れる。
──ピピッ。
通信回線、強制割り込み。彼女の網膜スクリーンに、緊急戦術信号が展開される。
【緊急警報】
《魔骸出現》:第二市街・地下交通網区域
該当出動ユニット:AMF-04
煌は、彼女の表情が変わらなくても、何が起きたかすぐに察した。
「……行くのか」
ユイは黙って頷く。立ち上がりながら、制服の袖口をそっとたくし上げ、左腕のパーツを展開し始める。
翼の基部が藍色の光とともに背中から出現し、金属の羽が広がっていく。
「任務行動、開始」
でも、そのとき。彼女の動きが、一瞬だけ止まった。
煌を振り返る。空の下、少し切なげな目で彼女を見つめている少年。
「……夕日は、また今度でも──かまわない?」
その問いに、煌は目を細めて微笑んだ。
「ああ。何度でも見よう。君と一緒なら、いつだって嬉しいから」
その言葉に、ユイの胸部演算ユニットがまた微細な過負荷を記録する。
けれど、それはもう未知とは分類されない。
「……了解。必ず、戻る」
風が吹く。ユイは静かに、でも確かな意志をもって空へ舞い上がった。
煌はその背中を見上げ、彼女が遠くに消えたあと小さく呟いた。
「無事に帰ってこいよ」
地下交通網区域。
地表から遮断された構造体の奥深く、魔骸群が蠢いていた。
戦闘ログ記録中。
AMF-04《蒼月ユイ》、出動──孤立無援。
──戦闘開始から、すでに一時間以上が経過していた。
そこはもはや“戦場”ですらなかった。魔骸の数は──一〇三六体。中央に鎮座する竜型魔骸は、過去記録に存在しない異常個体。
ユイは、既に“兵器”としての限界を超えていた。
「──左腕、損傷率87%。可動──不能」
冷静な報告を内蔵システムが告げる。だがユイは止まらない。右手の光刃を片腕で保持し、反応速度を極限まで上げて群れに斬り込む。
《共振波干渉発生:膝関節ユニット、第2関節破損。歩行精度、低下》
彼女はボロボロだった。片翼は焼失し、外骨格は露出し、人工筋繊維は千切れ、白い煙を上げていた。だが、まだ倒れない。
(……煌が、待っている)
その記憶データだけが、彼女を“兵器”から“意志ある存在”へと繋ぎ止めていた。
──そして現れる、黒竜。
ネザードレイク・オーバーコード。
身長十五メートル超。全身を黒曜の装甲に包み、空間歪曲型のブレスを吐く異常体。
ユイの攻撃は、すべて通じなかった。
だが、それでも彼女は飛び込む。
「演算──捨てろ。破壊できる確率は0.009%──だとしても」
──飛ぶ。
全身から火を吹き、崩れかけた体で空間を裂くように突進。
「演算結果―――全壊の可能性、96.3254%」
自身の演算器はほぼ生存不可能な確率を提示した。
それでも、この魔骸が外に出れば、人間たちが……あの子が……
「展開──終核武装、起動」
地下空間に、音が消えた。
否──全ての振動が、凝縮されていく。
彼女の背中、割れた外骨格の裂け目から、白金の光が噴き出した。
それは怒りでも憎しみでもない。あくまで“破壊の必然”。
「制限解除。プロトコル・オメガ。回路遮断──意識を核へ同調」
膝をつき、体が崩れかけても、その瞳だけは輝いていた。
──“終刻ノ核閃”──
世界が一秒、沈黙する。
そして発光。
彼女の胸部から展開される六枚の輝帯。まるで花弁のように放射状に開いた装甲が、空間の粒子そのものを引き寄せ始める。
空気が泡立ち、空間が軋む。蒼白の光が重力を裏返し、黒竜の咆哮さえ凍らせた。
「熱核収束率、99.994%──一点照射モード、固定」
照準はただ一つ。
黒曜の竜、ネザードレイクの心臓核。
「収束限界突破──発射」
それは“意味”の速さだった。空間の概念を焼き捨て、時の断面すら貫いた。
終刻ノ核閃が放たれる。
柱のように伸びる光ではない。
一点、それだけ。視認できない極点の閃光が、黒竜の胸を貫いた瞬間──
爆発は、起こらなかった。
代わりに、すべてが“無”となる。
黒竜の咆哮が消え、装甲が塵となり、空間そのものが折りたたまれてゆく。
核反応の熱と質量を、彼女の演算器が制御し、1点へ集中させた。
地下空間が核の光で満ちる。だが、その光は地上へは届かない。
彼女が、ただ1ミリたりとも溢れぬように、狂ったように計算し、捧げた。
──その瞬間、黒竜は存在ごと、完全に消失した。
全ての武装が解除され、全ての力を使い果たしたように倒れるユイ。
実際、もう動けるような状態ではなかった。
戦術処理領域:負荷率98%
損傷率:臨界状態
左腕機構──破損
右脚制御──失調
演算中枢、徐々にダウンリンクを開始。
それでも―――――
「……戻る。私は……必ず」
記録された“至上命令”が、彼女の行動指針に上書きされていた。
《煌と、夕日を見る。必ず、戻る。》
そのためだけに、彼女の残っているはずのない残存エネルギーを推進へと変換し、崩壊する脚で立ち上がる。
──数時間後。夕刻。
綾星学園。校舎裏の見晴らしの良い小道。
日が沈みかけ、空が燃えるような赤に染まる中。
そこに、煌はいた。
昨日と変わらぬ場所。
信じるように、ただ空を見ていた。
そして──
風が、金属の匂いを運んだ。
「……ユイ……?」
遠くの道に、よろめく影が現れる。
服は焼け、火花を散らした配線はむき出し、皮膚装甲も全てが蒸発、片目が光を失っていた。
それでも彼女は──歩いていた。
「……約束、だったから」
声は雑音と言ってもいいほどのノイズ、もう処理能力も限界に近かった。
でも──言葉だけは、鮮明に響いた。
「夕日……煌と、一緒に……」
そのまま、ユイは彼の胸の中に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
ぐしゃ、と焦げた金属の感触が入り混じる。
ユイはとても冷たかった。なのに煌は──全身が熱いほど、震えていた。
「おい……ユイ?」
返事はない。
彼女の目はまだ煌を見ているようで、でも、まったく動かない。
「……うそ、だろ……? おい……!」
名前を呼ぶ。
肩を揺らす。
それでも、ユイはただ静かに、重たく、彼の腕の中で沈黙を守り続けた。
指先が冷えていく感触が、現実を突きつける。
「なんで……帰ってきたんだよ……そんなボロボロで……!」
声が震える。怒鳴るような、泣きそうな、堪えようのない叫びが喉の奥を突き破る。
「夕日? 見る? ……そんなの、明日だって……明後日だって、なんぼでも見れただろ!!」
涙が、こぼれた。
拳を握っても止まらなかった。
「バカかよ……! 命令でもないのに、なんで……!」
そのとき──ユイの唇が、最後にわずかに動いた。
「……“それでも”……私は……」
わずかな声。ノイズ交じり。けれど、確かに。
「……煌と……夕日を見たかった……“だけ”……」
それが、本当に最後の動作だった。
彼女の光が、消えた。
煌はその場に膝をついた。
ユイを胸に抱きながら、もう二度と動かないその機体の、細く冷たい指を、震える手で包んだ。
「──じゃあ、見ろよ。ほら……今の空、見ろよ……ユイ……」
嗚咽が、風にまぎれて消えていく。
赤く染まる空は、あまりにも綺麗だった。
世界は変わった。
変わってしまった。
蒼月ユイ──戦術兵装体第4号機。
魔骸との戦線において、たった一機で魔骸群を殲滅した機体。
彼女が退けたその戦いの後、魔骸は突如として姿を消した。
明確な因果は不明だが、彼女が倒した個体の中に“王”のような存在がいたのでは──という推測が広まった。
国は戦闘ログを回収すべく、機体の探索を行った。だが、AMF-04"YUI"の残骸は発見されなかった。
地形痕跡から、彼女は自爆シークエンスを起動したと推定された。
◆❖◇◇❖◆
数年後。
天坂煌は研究者となっていた。
ユイと過ごした、あのわずかな日々を、生涯の起点として。
彼は兵器を設計する側に回った。ただし、それはただの兵器ではない。
“かつて彼女だった存在”を、もう一度この世界に還すため──その想いだけを支えに、彼は全てを捧げた。
彼女のボロボロになったメモリや身体は、彼が誰にも……国にも見つからないように保存されていた。
再構築されたユイの肉体が、研究棟の起動室で静かに目を覚ます。
だがその瞳に、かつての藍の光も、微かな揺らぎもなかった。
そこにあったのは、“抜け落ちた器”──ただそれだけだった。
カプセルが開き、ユイがゆっくりと立ち上がる。
動きは機械的で、迷いも躊躇もない。ただ“プログラムされた機能”としての反応だった。
「──個体識別不能。ユニットID未登録。初期登録プロトコル、開始要求」
天坂煌は静かに彼女の前へと立ち、名を呼ぶ。
「ユイ……君は、僕の大切な人だった」
ユイの視線が一瞬だけ天坂煌に向けられる。だが、その眼差しには色彩も揺らぎもない。
「──対象記録:非存在。記憶領域に該当データなし。該当プロファイル:破損」
それでも、天坂煌は言葉を続ける。
「……君の目を見てると、どうしてか、懐かしい気がするんだ」
ユイはわずかに瞬きをし、無感情な声で応答する。
「“ナツカシイ”──不明単語。感情辞書に該当項目なし。要辞書更新、または定義要求」
「……昔、君が首をかしげてたときと、今の表情が、まったく同じだったんだよ」
その瞬間、ユイの動作が、演算では説明できないほどにわずかに遅れる。
静止したまま、解析を行っているかのように。
「……現在、未知ノイズを検出。対象:発話中個体。感情因子ではない未定義反応、記録中……」
天坂煌はただ静かに、彼女を見つめ続ける。もはや、元のユイが戻ってくることを期待してはいない。
だが、それでも彼は言った。
「──戻らなくていい。君は“新しい君”であっていい。……でも、もし君が、あの空を見て何かを感じてくれるなら、それだけで……」
ユイは応答しなかった。
ただ、遠くに映るモニター越しの夕焼けを、視線のままに捉え続けていた。
「視認対象:大気表現パターン“ユウヤケ”。感情データ未検出。……しかし、内部演算にて未知の過去接続を試行中……」
そして──
「……登録名プロトコル、再起動。名称の指定を要求。既登録名は破損」
天坂煌は息をのみ、目を細めて、そっと告げた。
「──“ユイ”だよ。君の名前は、蒼月ユイだ」
わずかに、ユイの顔が揺れるような錯覚があった。
不安定な処理。エラーではなく、“迷い”に近い何か。
「……蒼月ユイ、という名称に……あたたかいフラグメント反応……確認。保存処理を……希望しますか?」
ユイの声はまだ機械的だったが、その問いかけには、確かに“自分で選びたい”という意志の輪郭があった。
その問いに、天坂煌はまっすぐにうなずいた。
「希望する」
一拍の沈黙。
「保存処理を却下します」
「……え?」
ユイは、顔を上げた。自分の意思で。
「名称を保存します。……私の名前は──【天坂ユイ】です」
煌は、名乗ってなどいなかった。
けれど、彼女は“それ”を選んだ。
それは記憶ではない。プログラムでもない。
ただ、彼女自身の──心の、選択だった。