純愛と寝取られのノクターン
「この男に真実の愛はなかった。だから、殺したの」
目の前に転がるモノを、女は理解出来なかった。
――いや、違う。
――理解していた、ずっと前から。
――ただ、それを拒絶していただけだ。
「こんなクズ如き、しゃしゃり出てこなければ死なずに済んだのに。ほんと、馬鹿みたいだよね?」
マンションの玄関ポーチに投げ出された、男の頭部。正確には、辛うじてそれが人間の頭だと分かる程度に変形した頭部。そしてそれに付属する、強引に胴体から引っこ抜かれたような脊椎、絡みつく神経と血管、皮膚、その他諸々。
凄まじい様相だった。両目からは瞼が千切り取られ、眼球は飛び出さんばかりになっている。表情は強烈な苦悶を表しており、死に至る過程で壮絶な拷問が行われた事実を示していた。
生前は威圧的に染められていたツーブロックの金髪は頭皮ごと剥がされ、耳は削ぎ落とされ、唇は剥がされ、舌は切り刻まれ、歯は乱雑に抜き捨てられている。当然、胴体がどこに行ったのかなど分からない。
殺意。
そして、それを覆い尽くさんばかりの圧倒的な憎悪と憤怒。
「ねぇねぇ、こいつの最期の言葉ってなんだと思う? ……それが聞き取れなかったんだよ! まぁ、歯も舌も唇もないんだから喋れないのは当然なんだけど――あははっ!」
「……う、ぐ……ぁ――おお゛っ、ぇ……!」
人並み外れて――というより、どこか人外を思わせる美しさを纏った少女が、囀るように嘲笑を謳う。
それもまた、女が理解したくない現実だった。だが、明確に伝えられた情報が拒絶を拒絶する。
胃の中からせり上がってきたものを、女は嗚咽とも悲鳴ともつかぬ声とともにぶちまけた。クリスマスのために焼いた手作りケーキの、半ば消化された欠片が見えた。
「あ、ごめんごめん! 面白いから見て欲しかったけれど、刺激が強すぎたかな? 恵海ちゃん、ホラー映画とか苦手だったもんね……」
「う゛……お、ごえっ……」
少女は女が吐瀉し始めると笑いを引っ込め、心底気遣うような表情を見せてしゃがみ込んだ。背中を優しく撫でる手つきには、偽りではない労りと反省が窺える。
それがまた、女を絶望させた。また一歩理解が進む、この少女の正体を受け入れざるを得なくなる。
高木優太。女にとっては幼馴染にあたる相手であり、高校二年生の時に告白され付き合うようになった相手であり、そして――大学一回生の時に捨てた『男』の名だった。
そうだ、男だ。女――相原恵海が知る高木優太は男だった。優しすぎるほどに優しい男で、常に恵海の気持ちを優先してくれる、穏やかな微笑みが似合う中肉中背の――だから捨てたのだ。
地元の公立大学に進学した優太と都内の有名私立大学に進学した恵海は、高校卒業前に一つの約束を交わした。ある意味では純真過ぎた、しかし大切な約束。
『一生大好き、愛してる! 大学を卒業したら結婚しよう!』――そんな誓いを。
だが、恵海はその約束を違えた。大学の飲みサークルで出会った年上の男に、最初は半ば強引に、やがて自ら積極的に。
半グレとの付き合いもあると噂される男だったが、地方のそれなりに良い家で守られて育った恵海にとっては、どこか危険な魅力のある男らしい相手に見えたのだ。
もちろん、後ろめたさがなかった訳ではない。裏切っている自覚もあった。しかし、優しいばかりで退屈な優太などより本能的に惹かれていたのは事実だったし、一度そう考え始めると自己正当化が完了するまでには然程時間を要さなかった。
あとは勢いのまま、ラインで別れを告げた。当然混乱し電話してきた優太に対して、罵りの言葉を叩きつけて通話を切ると、男にそそのかされた通りに性行為を撮影した動画を送りつけた。
それからも何度か連絡は来たが、着信拒否にしてアカウントも削除した。最悪、実家から話が回ってくることも覚悟していたが、不思議なことに優太は周りに何も言っていないらしい。彼女には理解できない反応だったものの、好都合ではあった。
こうして既成事実は作り上げられたのだった。
数年経ち大学を卒業する頃になると、男は仲間と始めた――恐らくはグレーゾーンの――事業で一定の成功を収めていた。彼らが結婚したのもこの頃だった。
男の女癖の悪さは恵海も承知していたし、実際に何度かそれ絡みのトラブルに巻き込まれたこともあったが、大して気にならなかった。自分が一番愛されている、女としての価値を認められているという自信があったからだ。
それに、金回りの良い男の生活スタイルは豪快で、その派手さは恵海を精神的にも物理的にも、もちろん性的にも満足させるものだった。
だが――。
「ほら、泣かないで……もう大丈夫だから。このクソ野郎は二度と動かないし、君に酷いことなんてしないよ」
「う゛っ、ぅ゛……う゛ぅぅ゛……」
「よしよし」
順調だったはずの生活に亀裂が入ったのは三日前、突然男との連絡が途絶えたことだった。会社や取り巻き連中にも連絡したが事情はわからず、一部は男と一緒に失踪している有り様だった。
何か異様なことが起きている。そんな予感があっても、恵海にできることは殆どなかった。警察へ通報することもしていない。男の周囲に法的に危うい部分があることを、彼女自身も理解していたからだ。
だが、それを置いても通報すべきかと思い始めた矢先、男は帰宅した――無惨な死体に変わり果てて、捨てたはずの昔の男、或いは女とともに。
「大丈夫、大丈夫……怖くないよ。これからのこともちゃんと考えてあるからね、二人の人生を取り戻そう」
「――っひ」
恵海の背中を撫でていた白い髪の少女が、自分より背の高い女を守ろうとするように後ろから包み込み、耳元で囁いた。その声はどこまでも穏やかで、安らぎすら感じさせて、彼女にとっては底知れぬ恐ろしさを孕んでいた。
殺して終わりではない、死んで終わりではない。寧ろこれからが始まりであり、少女には新たな人生を成功させるだけの計画があるのだと、はっきり理解してしまったから。
「そのために、この姿を手に入れたんだから」
にっこりと微笑む顔は、女としても魅了されてしまいそうな程に美しい。まるでそう映ることを計算されて形作られたような、人工的な作為さえ感じさせる完成された『美』。
その感覚が間違っていないことを、今の恵海ならば理解できる。
マンションに入り込んだ直後、投げ出した男の惨殺死体を踏み躙りながら、少女は楽しげにこれまでの経緯を話してみせた。
恵海から別れを告げられて以来、一時期は本当に絶望しそうになっていたこと。しかし、幼馴染のことを強く『信じて』いたからこそ、あの遣り取りが恵海の本意ではないと見抜けたこと。邪悪な男の手から彼女を救い出し然るべき報復を加えるべく、年単位で準備を進めていたこと。
そして、その過程で『先生』という大きな協力者を得て、あらゆる面で力になって貰ったこと。
『先生はすごい人なんだよ! 信じられないほどの資産も知識も持っていて、おまけに医師としても天才なんだ。私の今の身体も、この仕草や喋り方だって、何もかも先生に与えて貰ったんだから!』
そう語る少女――今では名前すら変えて、真空と名乗っている――は、どこか誇らしげな様子でさえあった。
あまりに純粋で透明な好意と信頼。言動や行動が狂気と思えても、恵海に反論の言葉は浮かばない。単なる恐怖でもなく、罪悪感でもなく、真空から生じる有無を言わさぬ情念の深さに呑み込まれていたが故に。
「ど……どうするの、これから……? どうする気なの……?」
恵海が唇を震わす。吐くだけ吐いたせいか気持ち悪さは引いていて、それと同時に、男への想いすらも薄らいでいた。
奇妙に冷静さを取り戻した思考の片隅で、今更ながらに思う。私はこの男そのものを好いていたのではなく、状況に酔っていただけなのかもしれない――と。
それはきっと、若気の至りという言葉で済ませられる過ちなのかもしれない。幼稚さが招いた浅慮の結果だったのかもしれない。だが、最早そんな言い訳が通用しない程に状況は変化しており、彼女には逃れる術など存在しなかった。
向き合わなければならない。
因果が招いた応報に。
「新しい土地に行こう。そこで全てをやり直せばいい」
「……できる訳ないじゃない、そんな……。ひ、人を一人殺したのよ……? 必ず捕まるに決まってる……!」
「ううん、大丈夫。ちゃぁんと準備してるから!」
恵海の脅すような物言いにも、真空はまるで揺るがない。
外見不相応な落ち着きを湛えながら少女が取り出したのは、マイナンバーカードやパスポートなどの身分証明書一式だった。そのどれもに少女の顔写真が記載されている。
「このゲス野郎とお仲間のクズどもを殺したのは、高木優太だよ」
「――えっ!?」
「愛する彼女を奪われた高木優太くんは、勇敢にも敵を皆殺しにして、それからどこかに消えちゃうんだ。誰が探しても見つからない、どこか遠くに」
「……」
恵海は少女の顔を見つめる。しかし、十秒経っても、一分経っても、表情に冗談の気配は無かった。
ふと、腑に落ちる。ああ、そういうことか――この少女は自分も殺したのか、と。
そして同時に、諦念めいた感情が押し寄せて来た。
覚悟の決まり方が違いすぎる。
私は幼馴染のことを、きっと何も理解していなかったのだ――と。
「そういうことだから、全部任せてくれればオッケー!」
彼女は彼のことを優しいばかりの青年だと思っていた。
優柔不断で男らしくない退屈な人間だと見下していた。
違う。
そんなものは表層に過ぎない。浅はかなものの見かたに過ぎない。
それを理解できずに侮り、見限り、自分に酔い痴れて選んだ男はどうだったか?
表面的な格好ばかりを気にしてイキり散らしていた癖に、暴力をちらつかせて人を従わせるのを好んだ癖に、本当の暴力に対しては手も足も出せず、死んだ。
今では、無様な骸を晒して目の前に転がっている。
馬鹿だった。
馬鹿だったのだ。
他ならぬ、自分自身が。
「……」
恵海の中で何かが切れる。
大事だと思っていた何かが切れて、どうでもいい何かに変わる。
残った空虚に、流れ込む。
少女の愛が流れ込む。
得られるものが狂気の幸福だとしても、そこには確かに真実の愛があった。
「ははっ……はは……」
「恵海ちゃん?」
「はは……ふふ、馬鹿みたい……あはは――うん、目が覚めたわ。もうどうでも良くなっちゃった、何もかも……ねぇ優太――じゃなくて真空」
「うん!」
「本当に、私も一緒に連れて行ってくれるの?」
「もちろん!」
真空の屈託のない微笑みを見て、恵海は根負けしたように笑った。
まるで幼い頃、何も知らないからこそ全てが幸せだったあの頃、二人で一緒に遊んだ帰り道のように。
「じゃあ、行こう」
「行こう! あ、でも少しだけ待ってね、このゴミを片付けちゃうから」
「わかった。私も手伝うわ、それなら」
- - -
薄明の空が瑠璃色に染まる。未だ眠りから覚めきっていない都市を、優しい青で包み込むように。
夜明け前の首都高は車の数も少なく、どこか異世界のようだった。
真空と恵海が乗り込んだワンボックスカーは、そんな静けさの中を北へ向かっていた。あと数十分もすれば都内を抜けるだろう。
車内にはラジオから流れてくる曲が響いている。古い映画のサントラらしかった。どこの言葉とも分からないそれが、恵海には心地良く思えた。
「ふ~ん♪ ふふ~ん♪ ふふふふ~ん♪」
運転席では真空が上機嫌に鼻歌を奏でている。
後部座席には数人分の袋入り死体が積んであるというのに、まるで気にせず呑気にしている様子には、驚きを通り越して呆れ返ってしまうばかりだった。
「あんた、ほんとに緊張感ないわねぇ……」
「あはは! 大丈夫だよ、ちゃんと警戒はしてるから! 先生直伝の技でね!」
「聞けば聞くほど化け物としか思えないんだけど、その先生って。一体何者なの?」
「んー、わかんない。見た目は四十代くらいかな、男の人でね。優しい顔をしてて、以前はどこかの大学の教授をやってて……それ以上は聞いたことない」
「限りなく怪しいわね……」
「でも、信頼できる人なのは確かだから!」
「ま、あんたがそう言うんなら、私は信じるしかないわ」
恵海は肩を竦めて、夜景に目を向けた。
かつては都会だ東京だなんだと喜び、つい最近まではステータスだと信じ切っていた光景も、今となってはただ綺麗なだけの光にしか思えない。
予感する。
きっと、もう二度と直接目にする機会はないだろう、と。
それでいい――心の底からそう思えた。
遠く、遠く、東の空が仄かな茜色に移ろいゆく。
今日もこうして、一日が始まる。