【コミカライズ】推された悪役令嬢は毎日が恥ずかしい。けど幸せ。
「この泥棒猫っ!」
――パチンッ、と。
赤毛の令嬢の頬を叩いてしまった直後、しまったと後悔で我に返る。
だけど、時はすでに遅かった。
「ルールー=クレイザート! 今のネフィス嬢への暴行、断じて許せるものではないっ‼」
こんな日が、いつか来るような気はしていたの。
だって私の婚約者であったティディ次期侯爵の隣には、近頃ずっとネフィス男爵嬢が居たんですもの。今もティディ様は、目を涙で濡らした彼女の肩を強く抱きしめている。
……どうせ、私たちは政略結婚よ。ただ、私の家は侯爵との縁が欲しかったから。あなたの家は我が家からの持参金が欲しかったから。だから、私たちの間に『愛』だの『恋』だのはなかった。ただ、十年間の『婚約者』としての惰性があっただけ。
それでも、私だって主張はさせていただく。
「ですが、今のネフィスさんの発言はティディ様も聞いていらしたでしょう? 私のことを『悪役令嬢』だなんて揶揄したんですよ?」
「実際に当たってたじゃないか。こうして、彼女の頬を強く殴ったのだから」
そう――思わず、先に手をあげてしまったのは私。
散々ティディ様との仲を見せつけられて、さすがに距離が近いと注意させていただいたら、嘲笑されたのだ。
――嫉妬を直接ぶつけてくるとは、まさしく“悪役令嬢”みたいですね、と。
近頃流行りの恋愛小説の中で、ヒロインの恋路の邪魔をしてくる令嬢のことを、『悪役令嬢』と呼んでいたらしいわね。そんな噂のさわりくらい、聞いたことがあったけど。中途半端がいけなかったのかしら。今しがたまで学園中庭のあずまやで、人の婚約者と唇をギリギリまで寄せ合っていた人に言われた途端、頭が真っ白になってしまった。
晴れた日の昼休み、もちろん中庭には大勢の生徒らがいる。
いかなる理由があろうとも、淑女たるものが暴力だなんてもってのほか。
私の人生は終わった。
「クレイザート嬢がこんな野蛮な女だとは思わなかった……すぐさま先生への報告と、父上に婚約破棄の意向を願い出ることにするっ!」
たとえ風が大きく吹いても、私のまとめた黒髪はなびかない。
私はよく『地味』だと言われていた。黒髪をきつく束ねて、化粧も薄い。制服も規則通り着こなして、パーティでも大人しいドレスばかり。当然、殿方の半歩後ろを歩き、発言を望まれるまで、私は微笑を浮かべるだけの存在だった。
だって、それを婚約者が望んでいたんだもの。爵位が上の婚約者からの願いを、叶えるのが私の役目――そう、何も疑っていなかったのに。
だけど、彼が本当に望んでいたのは『華やか』な女性だった。淡い色の髪をおろし、流行りの化粧品をよく試し、制服もネクタイからリボンに変えて、好きなことを好きなようにおしゃべりする喜怒哀楽の激しいネフィス嬢がいいと、婚約者は言う。
だけど、侯爵が投資に失敗したんでしたっけ? 我がクレイザート子爵家は、爵位のわりに鉱山を所持しており、裕福ですから。それこそ我が家からの融資がなければ、領地内の公共事業も賄えなかったはず。
……だから、上手くやったものね。私の非を打ち立ててしまえば、我が家からの『慰謝料』という形で融資を得ることはできるもの。
しかも学園内で暴行を働いたとして、学園から一週間の謹慎が言い渡された……なんて恥さらしだ……と、両親には泣かれたわ。私は半年後の卒業とともに、他国の修道院に身を寄せることになった。
どうせなら、今すぐ行きたい。
そう私も、両親も願ったの。だけど、私が逃げることすら、邪魔する者がいた。
『そんな……国外追放なんてやりすぎです~。わたしは大丈夫ですから、どうかルールー様を卒業させてあげてください! 国外でひとりで生きていくからこそ……学歴が必要になることもあると思うんですっ‼』
まぁ、なんて慈悲深いのでしょう。
私に叩かれてあんなにも泣き真似していたというのに。さすがはネフィス嬢。次期侯爵さまのお心を射止めるだけはあるわね。その寛大な慈悲のため、私は卒業までしっかり通うことを強いられることになった。
だから、私は今日も『地味』な『悪役令嬢』として登校する。
「まぁ、よくも恥さらしな顔を今日も晒せること」
「吊り上がった目つきが、まさに悪女ね」
「あの黒髪なんか魔女みたい~。卒業後は深き森で修行に励むのだとか?」
「似合いだな。前から陰気臭いと思ってたんだよ」
あれから一か月。こんな陰になっていない陰口にも、もう慣れた。
当たり前だけど、友達なんて全員離れていったし、心配してくれる人どころか、まともに会話してくれる人なんかいるはずもない。
だから、授業が始まるまでの間。人気のない校舎裏で、一息吐いていた時でしたの。自分で作ったクッキーを一口かじる。う~ん、固いわ。そのくせ甘ったるい。朝夕の二食は食べさせてもらえるのだけど、それだけ。お菓子など間食はなくなってしまったの。だから、夜中に厨房を借りて自分で作っているのだけど……一向に美味しくできないわ。それでも、生焼けでお腹を壊すことがなくなっただけ、マシなのかもしれないけど。
「はあ……せめて美味しいお菓子が食べたい」
「あの~……」
重複するが、このひと月、私は誰ともまともな会話をしていない。
だから私に話しかけてくる人が出現するなんて、かけらも想定してなくて。
目の前に茶色の前髪の長い少年が居ても、私はきょろきょろとまわりを見渡す。すると「ルールー=クレイザート嬢……いや、様!」と上ずった声でフルネームを呼ばれて、私はようやく顔を上げた。
彼は両手で、可愛い包みを差し出してくる。
「こ、これ、差し入れですっ!」
「……毒?」
「ち、ちがいますっ!」
だってその包みは、最近流行りの焼き菓子屋さんのものだもの。それを『悪役令嬢』に差し入れだなんて……めちゃくちゃ怪しいじゃない。
だけど私と同様、学園の制服を着た少年は――耳を真っ赤にして、私に告げた。
「推しです! もし宜しければ……僕に応援させてはいただけないでしょうか⁉」
「…………はい?」
「あ、ありがとうございます! では、明日からどうぞよろしくお願いしまぁすっ‼」
私の唖然とした疑問符を、どうやら肯定と取られたらしい。
ぱあっと晴れやかな顔を残して、彼は走り去っていく。
その背中を呆然と見届けてから、私は押し付けられた包みを開けてみる。そのうちの一つを恐る恐る食べてみれば……軽やかな触感と、ちょうどよい甘みが口の中に広がった。
たとえ毒でも、大切に食べよう。
久々に感じた幸せの味に、私の頬は自然とほころぶ。
その翌日。結局、私はお腹を壊すことも、手足がしびれることもなかった。
私に同情する変わり者がいるとは……。
そんな稀有な体験を思い返しながら、今日も登校していると。
花壇の中からチラチラと、派手なうちわが顔を出しているのに気が付いた。地の色は黒いけど、そのまわりには金色のふわふわキラキラしたものが飾られている。そして、黄色の蛍光色でこう書かれていた。
『視線、お願いします!』
「はい?」
頼まれなくても、そりゃあアレだけ派手で異質だったら誰もが注視するわ。当然、それは私だけでなく、普段私を嘲笑してくる者たちも、「あれはなんだ?」と指さしている。
私が再び花壇の中のうちわを見ると、それがクルッと返された。裏面はピンクの蛍光色でこう書かれている。
『笑って♡』
……見なかったことにしましょう。
私はスタスタと、その横を通り過ぎることにする。
そんな奇怪な出来事は、その一回だけではなかった。
近頃のお昼は、たいていまともに食べることができないの。だって食堂で今日のランチを配膳してもらっても、
「あら、ごめんあそばせ?」
と、わざとらしくぶつかったり、悪戯されてしまうんだもの。
普段はパンの上にジュースを零されたり、お盆ごとひっくり返されたりするんだけど……私も慣れてきまして、今日は使いかけのフォークを落としただけ。
この程度なら、ハンカチで拭ってしまえば……。
ちなみに、カトラリーを取り換えてもらおうと席を外すのは厳禁。その間に何をされるかわからない。それに給仕を呼んでも、私の声なんて聞こえぬふりをされてしまうから。
だから、その落ちたフォークを拾おうとした時だった。
男性の手と重なる。慌てて引けば、あの前髪の長い少年ははにかんだように笑った。
「あ……あの、代わりのカトラリーを差し上げますので……こちらは僕が貰ってもいいでしょうか?」
「……すでに私が使っていたものですが?」
「それがいいんですっ! ……あ。」
三度重ねてになるが、そのフォークはすでに私の使用済みである。失言に気が付いた様子でも、もう遅い。自分でフォークを拾ったのち、私は無言でその場を後にした。
さらに放課後。
帰宅しようにも、教室の扉をクラスメイトに塞がれてしまう。
「あら、ルールーさん。どこへ行こうというの?」
「もちろん、ネフィスさんの所へ謝罪しに行くんですよね?」
「女の顔を殴ったんですもの。百回謝罪しても足りませんわよねぇ?」
殴ったといっても、特に鍛えていない女の腕力での平手打ち。
当然、書面と両親教師のいる前で正式な謝罪も入れている。
先方からの暴言に対する謝罪を受けるならまだしも……これ以上、私から謝罪することなんてない。いくら『女性が暴力に訴えるなんてご法度』とされているとはいえ、ここまでくれば被害者は私なのではなかろうか。
ちなみにネフィス嬢は、今もティディ様にべったりのご様子。邪魔者がいなくなってせいせいしたのか……ますます悲劇のヒロインぶりながら彼氏に甘えているそうよ。正式な婚約も近いのでは、なんてお話。そのため彼女自身、私のことなんか眼中にもないみたい。あの慈悲は、まさか本当に慈悲だったというの? 厄介な……今もこうして“おともだち”が未だ報復をしてくれているのに、ね。
そんな冷めた目で、無理やり扉を抜けようとするも――私は左右から腕を捕まれ、連れていかれる先は厩舎だ。
「修道院に行くなら、馬の世話にも慣れておいた方がよろしいのでは⁉」
私はバケツに入った泥のようなものをかけられた。……いや、この異臭。おそらく馬糞だ。
「そんなに汚れちゃあ、謝罪にもいけませんわねぇ。それは失礼しましたわ!」
ケラケラとした笑い声を残して、クラスメイトらが去っていく。
困ったわ。こんなに汚れちゃあ、馬車にも乗れない。
そう嘆息吐いていた時、こっそりと近づいてくるのは、やっぱりあの少年だ。
全身臭いだろう私に嫌な顔ひとつせず、
「あの……良ければこれ。お疲れさまでした」
差し出されたのは、真っ白で柔らかいタオルと真新しそうな女性用の制服だ。
あまりの用意周到さに訝しく思うものの……ありがたいのも事実。
「……感謝するわ」
私が初めて彼にお礼を告げれば――彼は太陽のように晴れやかな笑顔を見せて走り去っていく。そのすぐ直後、彼は桶いっぱいの温かい湯を持ってきてくれた。
このようなことが一週間続けば、さすがにこの少年の正体を調べたくもなるわ。
名前はスザク=ワルツェ。隣のワルツェ公国の三男坊。現在留学として、この学園で勉強している。少年……だと思っていたのだけど、年も私と同じ十八歳。小さく見えたのは……いつも猫背でいるせいかしら? 髪型が幼いというのもあるわね。
すでに次期大公は長男に決まっているとのことだが……皇子には違いない高貴なお方。
それが今まで顔も名前も知らなかった理由は――とにかく影が薄いから。
成績も赤点ギリギリの下位。誰とも喋らず、運動も苦手で、いつも猫背。そして髪もずるずると伸びていき、今ではまともに目が見えない始末。さらに病気がちということで、ほとんどの授業を欠席しているというの。
入学当初は当然のごとく持て囃されていたが、二年と半年の月日が経ち、誰もが地味で目立たないほとんど欠席している皇子の存在を――私を含めて、気にも留めなくなっていた、というのが、そのしょうもない所以。まぁ、だから調べようと思えば、ぼっちの私でも調べられたのだけど。
そんな猫背の地味な皇子は、今朝も私に差し入れを持ってきた。
今日は王室御用達のマカロンらしい。見ているだけで元気になるような、カラフルな色合い。それをにっこり受け取りながら、私は呼ぶ。
「スザク=ワルツェ殿下」
「は、はひ……⁉」
「どうして、私などに構うんですの?」
そう問いかければ、彼は手と手を合わせて、指先をくるくると回す。
「だ、だから……ルールー様は僕の推しで……」
「その“推し”というのは、好意ととらえて良いのかしら?」
「い、いえ。男女のその……れれれ、れれれーれれれ、れれれんれんれれ恋愛なんてものより――」
そこまでどもるような言葉かしら、恋愛って。
思わず呆れていると、そのどもりが嘘だったかのように、力強く発言する。
「もっと……崇拝していると思っていただければ‼」
「……私は神か何かなのかしら?」
「まさしく、あなたは僕の女神です‼ だ、だから本当はこうしてお話させていただくことなんか烏滸がましいのですが……」
もう、急にモゴモゴし始めないでちょうだい。
め、女神だなんて……。
なんだか……こっちまで恥ずかしくなってきてしまったじゃない。
しかも、顔を真っ赤にしながら、
「あの、烏滸がましいついでに……僕と握手していただけませんか……?」
なんてこと言ってくるから。
もーなんだかおかしくて。おかしくて。
私は久々に、声をあげて笑ってしまった。
それからというもの、もう毎日が恥ずかしかった。
『ルールー様!』
うちわがくるっと回って、
『片目を閉じてください!』の文字。
今朝も、そんなぴらぴらキラキラしたうちわが花壇から生えている。
片目……?
その指示通りに片目だけ閉じようとしてみるも、どうしても反対の目も動いてしまう。人知れず格闘していた、その時。
――バタンッ。
花壇の中で、人が倒れる気配。
それに、当然私以外の人も駆け寄ってみるわ。すると、例のスザク殿下が満足げな笑みを浮かべながら倒れていらっしゃるから。
しかも、その手元に握られているうちわには、
『かわいいがすぎる』
くるっと回って、
『我が人生に一片の悔いなし‼』の文字。
私は群像に紛れて、ひっそりその場から立ち去った。
そして授業の合間。やっぱり誰かに筆記用具を落とされれば、その場にすでに跪いているスザク殿下。差し出してくるのは真新しそうな消しゴムだ。そして後ろ手で落とした使いかけのものを拾おうとしているから。
「――食器じゃなくとも、軽蔑します」
低い声音で言い放ち、私はその場を去る。
だけど、その日の放課後。
やっぱりクラスメイトに人気のない場所に連れ出されてしまった私。
今日は何をされてしまうのかしら……そう奥歯を噛み締めていると、どこからともなくリズムカルな声が聴こえる。
「ルールー様は尊い」
「ルールー様激推し」
「ルールー様すこ」
「待って」
「もう無理」
「そういうとこだぞ」
「ルールーみがぱない」
それは全部、同じ人物の声だけど。
だけどあまりのハイテンションぶりに、私以外の生徒たちも恐れおののいて。
「きょ、今日のところはこれくらいにしておいてあげますわ!」
と、何もせずに逃げ去っていく。
私がひとり残された後も、
「はあ~、ほんとにルールー様しか勝たん♡」
と恍惚とした声が聴こえてくるから。
私はたまらず、顔を押さえた。
それらは、生活しやすくなったといえば、なったのか。
些か疑念が残るけど、とりあえず毎朝差し入れされるお菓子は美味しい。
まぁ、どうせ死んだつもりで過ごすはずの半年でしたし。
たとえ少々恥ずかしい日々が続いていても、美味しいお菓子が食べられるようになっただけ、幸せというもの。そんなつもりで、過ごしていた時でした。
「えっ?」
放課後――いつも通り連れていかれた先で。
大勢の真ん中で、泥だらけの少年が蹲っていた。
いくら泥だらけであっても、見間違えようがない。だって、毎日おかしなうちわを振り、隙あらば私の使用済み備品を狙い、怪しげな声援を送ってくるスザク=ワルツェ殿下。
私が唖然としている間に、彼のそばへと突き飛ばされる。そして、私も泥を浴びせられた。
……私はいいの。私がされていることなんて、学校も容認。見栄っ張りなティディ様の侯爵家は、この学校にとって一番のスポンサーですもの。そのスポンサーに捨てられた令嬢なんて、しょせんゴミくずと一緒だわ。
だけど、彼は違う。
隣国の皇子よ? 彼に何かあったら和平が――。
そう訴えようとする私の手が、強く握られる。
ハッと振り返れば、苦笑した彼は、首をゆるく振る。
何も言わないで、そう告げるように。
そして、だんまりを決めた私たちをせせら笑うことを満喫し終えた彼女らは満足げに去っていく。
その後、「どうして?」と問おうとした私に、彼は笑った。
「これでお揃いですね!」
その顔が、やっぱり晴れやかだったから。
――私のせいだ。
悔しくて。悔しくて。
私は久々に、泣いた。
「だ、大丈夫ですか? ルールー様」
「それは……こちらの台詞です」
落ち着いてから、スザク殿下はポケットからハンカチを差し出してくれた。真っ白なそれを……なんとか死守してくれたのかしら? そんな空想をすれば、やっぱり恥ずかしい。
「スザク殿下はこんな目にあって、病気は大丈夫なんですの?」
「病気……?」
きょとんとした殿下はしばらくして。私が受け取ったハンカチで「失礼します」と彼の顔を拭っていると。彼は「あぁ!」と両手を打つ。
「あれは仮病なので大丈夫です。単純に……誰とも会いたくなかっただけで」
「仮病?」
私が疑問符を重ねれば、殿下は苦笑する。
「ご存じかもしれませんが……僕、厄介払いされた皇子なんですよ。立派な跡継ぎという長男はもういるし……大事な領地を任せるに値する次男もいるし、他国に嫁がせる才色兼備な長女や次女もいるし。その中で、特に何の才覚もない三男坊……何事にもやる気がなかったんですよね。それでとりあえず、『世界は広いから!』なんて叔父の勧めで。留学してくることになった、ダメな皇子が僕です」
彼の言葉は、ゆっくりと紡がれていく。
こんなに彼の話を聞くのは初めてだ。それが自嘲だなんて、なんの皮肉?
「最初は、それなりに頑張ろうかな~なんて思ったんですけど……でも、やっぱりすぐに心折れちゃいました。よその国だと、勉強も余計に大変だし」
「隣国とは、言語が若干異なるんでしたっけ?」
「はい。ゆっくりならば、こうして話せるんですけど……授業や教科書は、どうしても理解に時間がかかってしまって。……今も、僕の言葉わかりますか? おかしくないですか?」
「何も問題ありませんわ」
たしかに、少しゆっくりではあるけれど。
それは本当に言語だけの問題なのかしら? ただ、彼がゆっくりと考えながら話すタイプだけなのではなくて? 少なくとも、『推す』とか『すこ』とか『ぱない』なんて言葉よりよっぽど……。そんな軽口を口にできるほど、彼の表情は明るくない。
「しかも、まわりは『皇子』ということでやたら期待してくるから、なんだか疲れちゃって。一日、二日、と休んでいるうちに……だんだん授業に出られなくなってしまいました」
だけど、前髪から見つめてくる青い瞳は、とても澄んでいた。
「そんな時、あなたに出会ったんです――あなたの経緯は、もちろん知っています。だけどそのあとも……気丈に毎日登校している姿、それを窓から見てました」
それは、養護室の窓からだったという。
謹慎明け。まわりからの白い目を気にも留めないかのように、颯爽と通学した私を――彼は“カッコいい”と言った。
「どんなに悪意に満ちた目を向けられても、どんな嫌がらせを受けても、どんなに汚れた格好をしていても……あなたは、いつも背中を伸ばしていた。その姿が……女性に失礼かもしれませんが、とても格好良かったんです」
思わず、今度は私が自嘲する。
「そんな……私はただ、逃げる場所すらなかっただけですわ」
「それでも――あなたの姿が、僕に勇気をくれました。そして堪らず、あなたのことを応援したくなったんです。そうすることで……まるで僕も、頑張っているように錯覚できたから」
頑張れなかった自分の代わりに、頑張ってもらいたいと。
自己投影にすぎないまやかしの手を、彼は握ってくる。その手は、とても熱くて。だけどたしかに、あたたかかったの。
それなのに、彼は言うから。
「でも、今日で終わりですね」
「え?」
「だって僕の存在が、あなたの邪魔になってしまうから。今まで、ありがとうございま――」
その言葉の途中で、私は彼の手を振り払った。
スザク殿下は目を丸くしている。
「ルールー様……」
「悪役令嬢は……泣き寝入りなどしなくってよ」
吐き捨てた私の言葉の意味を、彼はまだ理解していないようだけど。
私は束ねていた黒髪をほどいた。そして、大きくかき上げてみせる。
「ご存じですか? ――私、悪役令嬢なんですの」
それからというもの、私はまず自分の身なりを変えた。
髪はおろし、化粧も華美にならない程度に施した。制服は相変わらずきちんと着ているけど……はしたないのは論外だもの。それでも、常に口角は下ろさないようにしたら――それだけで陰口は減った。だって、視線を向けるだけで、
「な、なによ?」
「いえ、別に?」
そんな風にうろたえてくれるんだもの。
それに、たとえ筆記用具を落とされても、
「拾ってくれます?」
「は⁉」
「あなたが落としたんですから。拾ってくださるのが道理ではなくて?」
そんな風に我慢をやめたら、それ以降無駄にぶつかってこられることもなくなった。もちろん、落としたものを拾っていただけなかったけれど……まぁ、その程度の方にこれ以上固執するのも、馬鹿らしいですから。
クラスメイトらなんて、他人の威光にあやかってはしゃいでいた雑魚だもの。
私の邪魔をしてくれなければ、それでいい。
あの方を傷つけなければ、今はそれで構わない。
あと、目に見えて行ったことといえば――真面目に試験を受けたことくらいね。
今までももちろん試験は受けていたけれど……誰かを引き立てる必要がなくなったから。
掲示板に張り出された順位表の前に、多くの人集りができていた。
皆が騒然としているわね。だって、今まで不動の一位だった次期侯爵様が、三位に落ちているんですもの。悔しがる彼を慰める彼女が、端にいた私を見つけ、眉根を寄せてくるけど――残念だったわね? 『首席の彼女』という座を維持できなくて。
私はそんな人集りからそっと離れて、養護室に向かった。
そこには、未だ教室には行けないものの、今も参考書と格闘している『二位』がいる。
「予想通りの順位でしたよ――スザク殿下。これで予定通り手紙を出せますね」
「ねぇ、本当に……呼ぶの?」
「怖気づきましたか?」
私の疑問符に、殿下は小さく笑った。
「いや、とことん付き合わせてもらうよ。あなたを推すと決めたのは、僕なんだから」
「じゃあ、そろそろ髪でも切りましょうかね」
「え?」
そして数週間後――今宵は、学園で華々しいパーティが開かれる。
なんと、それは婚約お披露目パーティ。
真実の愛に目覚めた次期侯爵と男爵令嬢が、今宵友人らの前で結ばれることと願ったというの。それを許す彼らの両親や、その会場として認めた学園の寛大さに倣って――私も元婚約者の幸せを祝福してさしあげるべきでしょう? もちろん、パーティに参加させていただきますわ。
「え、誰あれ……」
「なんで、彼女の隣にあんな……」
そんな予想通りのBGMが、とても心地よい。
エスコートの殿方はそうでもないみたいだけどね?
「僕……ちゃんとできてますか?」
小声でそんなことを聞いてくるから、私は足を踏んでやるけれど。
だけど途端、彼は再び背筋を伸ばし、柔和な笑みを浮かべ始めた。
上品な茶色の髪は、短く切りそろえさせてもらった。邪魔なカーテンを失ってはっきり見えるのは、空色の綺麗な双眸。通った鼻梁の下にある厚い唇に、多くの女性の視線が釘付けになっている。背丈だって、きちんと背筋を伸ばせばこの通り。ヒールを履いた私より、ちゃんと高かったじゃない。
そんな美青年が、貴族らしい立ち振る舞いを身に付けたなら――そこには、誰もが憧れる『隣国の皇子』の出来上がり。しかも、彼は学力も学年二位。誰もが憧れて然るべきだわ。当然、本日の主役であるネフィス嬢も例外ではない様子。
「どうして、あなたが……」
「本日はご婚約、おめでとうございます」
そんな『隣国の皇子』を侍らす悪役令嬢からのお祝いの言葉。
どうして笑顔を返してくださらないの? お隣の殿方が、とても困惑したお顔をなさっておりますわよ? 当然、私も『隣国の皇子』に相応しくあるよう、着飾っております。今までは元婚約者の言いつけ通り、男を引き立てるべく清楚な佇まいをしておりましたからね。まるで別人のようでしょう?
まぁ、やるべきことはやりましたから。
きょとんとしたお二人を尻目に、踵を返せば。
なにやら後ろから痴話げんかが聞こえてきます。「あっちが良かった」だの「あんないい女なんて知らなかった」だの……夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますからね。どうか末永く仲良くしてくださいまし。
そんな最中、「スザク」と声をかけてくる殿方がいらっしゃる。年配の紳士で、見るからに高貴なお方。そんなお方にスザク殿下は「叔父上」と返して……隣国の公爵様かしらね? 最近盛んな鉱山開発の視察ついでに、留学中の甥の様子を見に来るなど――そう不自然なことではありません。もちろん、タイミングよく甥からの手紙でもくれば、尚のこと。ではどこかの夜会で落ち合おう、なんてことにもなるでしょう。
しかも、挨拶もそこそこ、
「ご紹介したい人がいるんです」
なんて話題になれば、周囲の耳も自然と傾くもの。
「たしか叔父上は活発な娘さんの教育役をお探しではありませんでしたか? その役に推薦したい人物がおります」
彼が手を向けるのは、当然隣に立つ私だ。
「彼女は先月行われた学期試験で、首席をとった者です。爵位は子爵位であるものの、先日までかのティディ侯爵家と幼い頃から縁がありましたため、このように慎みある立ち振る舞いは見事なものでございます」
「ルールー=クレイザートでございます」
私は粛々と、手慣れたお辞儀をしてみせる。
スザク殿下からの推薦は続く。
「しかも、彼女は卒業後は自立することになっているそう。ここはぜひ、叔父上のところで――」
「なるほど……スザクの“いいひと”というわけか」
私は胸中で舌を打つ。
色恋が好きなお方でしたか。それでも、そんな浮ついた話では、今も後ろで目くじらを立てている元婚約者らと変わらなくなってしまう。
私は慌てて軌道修正しようとするも――スザク殿下が、笑顔で背筋を伸ばした。
「はいっ‼」
――えっ⁉
ちがうでしょ! 打ち合わせでは、私を紹介するだけでよかったの。それで採用されるにしろ、体よく断られるにしろ――代わりの家庭教師先でも紹介してもらえれば万々歳。ただ、彼に売り込むという体で私の成績や品行方正さをこの場でアピールし、『隣国の皇子』から認められていることを示唆できれば……欲しがりのネフィス嬢に、目にもの見せられるでしょう? それだけで満足だったのに。
「彼女は、僕スザク=ツェルトが生涯かけて推していきたいと思う人物です! 彼女以上に素敵な女性がこの世にいるとは思えません!」
そこまで言えとは言ってなーーいっ‼
スザク殿下の暴走は止まらない。そして、公爵閣下は無駄にノリが良いお方の様子。
「なるほどなぁ、引きこもっていた甥が急に連絡してきたと思ったら……女絡みか。いいだろう、それでスザクが前向きに自分の領地を継いでくれるなら、いくらでも彼女の後押しをしてあげようじゃないか――でも、その前に彼女に大事なことを言ってないんじゃないかね?」
そんな顔をしているよ、と公爵は言う。
それにスザク殿下はハッとしてから――私と向き直って、膝をついた。
「あなたを隣から、生涯推す権利をいただけないでしょうかっ!」
その予想外のプロポーズは、やっぱりとても恥ずかしかったけれど。
どこからか「キィィィィ‼」という欲しがりな女の悲鳴が聞こえる中、
「なぁ、スザク。世界は広かっただろう?」
「はいっ!」
そう叔父に応える彼は、やっぱりとても眩しかったから。
その三か月後、私は予定通り追放された。
ただし、向かう先は修道院ではない――隣国の公爵家で、家庭教師をすることになったのだ。もちろん、学園での懐かしい思い出に花を咲かせることもあったわ。
教え子がずいぶんとお喋りな子だから。それにより祖国で相次いで、昔ずいぶんと良くしてくれた方々に、後継者の見直しやら、婚約破棄やらトラブルが生じているらしいけど……そんなの追放された私の知ったことではない。
だって――不器用な私のファンから、今もほぼ毎日、熱すぎる声援を受け続けているんですもの。恥ずかしすぎて、それどころじゃないの。
【推された悪役令嬢は毎日が恥ずかしい。けど幸せ。 完】