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愛可理

 愛可理が東京で就職し、もう七年目になった。短大を合格して上京して来たため、東京での生活も九年目となり今年で二十七歳だ。

 仕事でもお局様とまでは呼ばれないが、中堅どころとして頼りにされる年代となった。後輩指導なども加わり、忙しいが充実した毎日が続いていた。 

 プライベートでも、短大時代から付き合いだして八年目になる雅史(まさし)という一つ年上の彼がいて、今のところは良い関係が続いている。

 ただこの年になると、どうしても考えるのは結婚という二文字だ。事実、会社の周りでもどんどんと寿退社をしていく先輩や同期、さらには後輩達がいた。

 私が新人の頃から世話になっていた四つ上の遠藤も、三十歳直前の去年に結婚。さらに“四大卒の人じゃなきゃできない仕事なのか発言”をした、あの千絵も去年寿退社した。今の私と同じ年で、二つ年上のIT関係の役員をしている人と結婚したらしい。

 さらに後輩の裕子も、ここ最近ようやく人並みの仕事ができるようになってきたと思った途端、社内の男性と今年結婚して寿退社することが決まっている。

 他にも同期の女性達が、二十五歳になった一昨年辺りから今年にかけ、次々と結婚し始めた。私が会社で仲の良い同期で残っているのは、もうりんぐらいしかいない。

 彼女なら、しばらく私より早く寿退社する予定はないだろう。なぜなら今、禁断の恋愛をしているからだ。皮肉にも彼女は、過去に起こった不幸な出来事になぞらえる行動をしていた。

「まだりんは、あの人とお付き合いを続ける気なの?」

 愛可理は時々二人っきりで飲む酒の席で、そう絡むことがあった。誰が聞いているか判らない為、敢えて名前を伏せそう告げると、彼女は毎回のように、こう切り返してくる。

「いいじゃない。恋愛は自由よ。例え相手に妻子がいたって、好きだという気持ちは、誰にも止められないの」

 相手である一回り以上年上の長谷川は、彼女がいる課へ三年前に異動してきた課長だ。全国に転勤がある男性総合職の彼は、奥さんと中学生の娘さんとを大阪に残し、東京へは単身赴任できていた。

 その長谷川課長が月一、二回の頻度で週末大阪に帰る際、娘さんへお土産を購入して渡していたという。だが世の多くの男性は、年頃の若い娘が欲しがるものなど、何がいいかなんて判らない。

 その為課長もすぐにネタが尽き困っていたところ、彼女がその相談に乗ったことをきっかけに、去年から二人の付き合いは始まったという。

 愛可理は彼女の両親が離婚し、その原因がどんなものだったかを以前聞いたことがある。だから課長と不倫していることを始めて知った時は耳を疑ったし、とても信じられなかった。

 まさしく彼女は、東京に単身赴任していた自分の父親と同じ銀行に勤め、娘へのお土産を選ぶことをきっかけとして付き合い、深い関係となった女性と同じ道を辿ろうとしているのだ。

「りんが辛い思いをしたように、あの人の娘さんや奥さんも同じ思いをするだろう、なんて考えたことはないの?」

 愛可理は一度思い切って、そう尋ねたことがある。彼女は一瞬黙ったが、それでも言ったのだ

「他人の事を考えていたら、好きな人となんか一緒にいられないよ」

 その重い呟きのトーンから、胸の奥底では苦しんでいることが感じられた。

「無理して、そんな辛い恋愛しなくてもいいじゃない。あなたも苦しんで、下手すると相手の家庭を壊して、あなたの母親やあなたのような思いをあの人の娘も経験するのよ。そこまでして付き合わなきゃいけない理由が何かあるの?」

「そんなのないわよ。理屈じゃないじゃない、人を好きになるって。いいでしょ。私の事は放っておいて」

 彼女はそうやって、いつもこの話を打ち切るのだ。そう言われると、それ以上深く突っ込むことができなくなる。彼女とは入社前から知り合って、とても気の合う友人だ。

 名前の読み方が同じだけでなく家庭環境も似ており、二人共親を捨てて逃げるように東京へやって来た。さらに男性の好みなども似通っている。頼りがいのある人が好きで、お姫様抱っこをしてくれるのが夢だと、二人して昔からの秘密を打ち明け、

「同じだ~!」

と手を叩いてはしゃいだこともあった。

 女性同士でばかりつるみ、悪口を言い合う集団にはなるべく属さないようにする点も同じだ。表面的には愛想よく振る舞っているけれど、心の中で涙を流すことが多々あるなど、二人の共通点は少なくない。

 だからこそ付き合いも長いけれど、彼女が長谷川と付き合いだした頃からおかしくなった。以前はこんな子ではなかったのに。

「付き合う男によって、女の性格も変わると言うからね。愛可理もそんな他人の恋愛を、とやかく言うのは止めた方がいいよ。自分の父親を奪った女と同じ事をするなんて、普通じゃないし。特に熱くなっている時は、周りが何も見えなくて人の話なんか聞きやしないだろう。恋は盲目って言うだろ。そのりんって子も、今はその男以外、何も見えなくなっているんだよ。本人が言うように、しばらく放っておくんだな」

 愛可理が彼女の話をすると、雅史はいつもそう言ってこの話題には乗ってこない。久しぶりに平日の夜、待ち合わせをして食事することになったのだ。その会話の一つに過ぎなかったが、気だるそうな彼の反応に不満が募る。

 男の人というのは、この手の恋バナには興味ないのかと思えば、そうでもない。積極的にでは無いが、どうしても断りきれない合コンに愛可理も参加させられることがある。

 そこで意外に思ったのは、男性でもそのような飲み会だと、男女の付き合いに関する話題に、花を咲かせることが結構あった。

 けれど雅史自身は、余り好きじゃないらしい。それともわざと避けているのだろうか。彼との付き合いもかなり長くなった。お互いの年齢も年齢だ。結婚適齢期といってもいいだろう。

 それでも彼の口からは、結婚の“け”の字も出たことが無い。そう匂わせることすらないのだ。

「だいたいどこの会社も課長なんて奴は、碌でもない奴が多いんだよ。うちだってさ、この間なんて前から言い続けていたことが、部長の一言でコロッと百八十度態度変えて、あれやこれや言いだすんだ。言われたこっちは、たまんないよ。お客様第一とか言いながら、結局どっち向いて仕事してんだって言いたいよ、全く」

 最近変わった新しい課長とウマが合わないらしく、いつものように愚痴をもらし始めた。以前ならこんなことは無かった。

 彼は一つ上だが四大卒なので、今入社六年目だ。その為社会人になったのは愛可理の方が早い。そんな愛可理が入社したての頃、右も左も判らない事が多い仕事の話題を彼の前ですると、初めはうんうん、と聞いていてくれていた。しかし回数を重ねる度に顔を曇らせ、怒り出した事がある。

「俺の前で、仕事の話なんかすんなよ。まだ学生だって馬鹿にしてんのか」

 愚痴ではなく、ただ会社でこんなことがあった、こういうところがまだ慣れない、と伝えていただけのつもりだった。それなのに、当時就職活動で苦戦していた彼は、焦りを感じていたのだろう。よって二人の間では、会社の話題を禁止するようになった。

 そうかといえば彼が口にする話は、飲み会で友達が酔っ払って隣のお客に絡んだとか、看板壊しちゃったとか、ぐったりした女子学生を三人がかりで運んだとか、道路で寝ちゃったとかそんな話ばかりだ。

 学生らしい話題と言えばそうだが、もう社会人となった愛可理からすれば、年上の彼がとても子供っぽく思えた。学生気分のままでいることに、苛立ちを覚えることも良くあった。それで一度二人は、別れる寸前まで至ったことがある。

 しかし彼が無事就職をしてから、関係は修復された。別の会社だが同じ会社員となり、社会人の厳しさを知りだしたからだろう。ようやく二人の話題や価値観が、再び近くなったことも要因の一つだ。

 置かれた環境等で考え方や行動にも影響し、一時期離れかけたけれど、なんとか二人は歩み寄ることができた。彼も会社の話をするようになったおかげで、愛可理も愚痴にならない範囲で、仕事の話題を口にできたからかもしれない。

 しかしここにきて、二人の立場が再び溝を作り始めていた。彼は男性総合職としてバリバリと働く傍ら、愛可理は事務職の中堅となった。それでも抱える責任の重さは、男性の方が明らかに重い。

 その分給料もいい。しかし彼はそういった自覚が強い分、愛可理の会社にもいるような、女性事務職を軽く見る発言をし始めたのだ。

 もちろんそんな男性社員ばかりでは無い。女性事務職が社内でしっかりやってくれているから、男性が自由に働くことができると公言し、女性に対し差別することなく接する人達もいる。

 だが女性事務職は、仕事が慣れた頃に結婚して辞めていく人も確かに多い。その為期限付きの腰かけで、仕事に対する責任感や会社への想いも、男性社員より希薄だと思われがちだ。

 そうでは無いと愛可理は言うのだが、雅史に反論された。

「でも以前言っていた、仕事が余りできない裕子とかいう後輩も、結婚して近々辞める予定なんだろ? 四大卒なのを鼻にかけた千絵とか言う奴も去年、寿退社したよな。現実はそんなものだよ」

 だから何よ、一緒にしないでと言いたいところを、ぐっと堪えて彼を睨む。そんなこともお構いなしに、彼は続けた。

「俺達なんかさ。責任ばかり多くて、仕事も増える一方だよ。バブルがはじけて不況の真っただ中だから、俺達の下はさらに就職難で採用を絞っているんだ。そのせいで入ってくる後輩が少ない分、いつまで経っても俺達が下っ端仕事をやらされるんだぜ。なのにもう入社六年目だから責任ある仕事をやれと、上からはどんどん仕事が降りてくる。バブル前に入社した課長達はいいよ。世の中が右肩上がりの経済だったから、普通にしているだけで業績は上がっていたんだろう。後輩も大勢入社していたから、面倒な仕事があれば下に振れたはずだ。俺達はそれができないんだぜ」

と、また氷河期に入社した自分達の世代を嘆き、バブル以前に入社した管理職を馬鹿にする愚痴を言いだす。

 最近はこんなことばかり言うようになった。以前別れの危機があった時のような、少しずつ互いの意識にずれが生じ始めたのだ。 

 将来の夢を熱く語っていた学生時代とは、うって変わった現実の中の彼に対し、魅力を感じなくなった自分がいることに気がつく。

 そんな時、愛可理はふと年下の彼達の事を思い出す。今の雅史と正反対で、彼らは夢に向かって走り続けている。二人共りんや愛可理を追うように、夢を実現する為に田舎から上京してきた若者だ。

例えばデザイン科のある専門学校に中卒で入り寮生活をしている(かず)(ゆき)は、学費と生活費を稼ぐ為に日々アルバイトをしていた。いつでも将来の夢を楽しそうに語り、その情熱を失わず一人で必死に東京で暮らしている。

 一方の光輝は、中高一貫の進学校で学問に励み有名大学へ進学し、一流企業へ就職したいとの野望を抱いていた。

 上京したての頃の彼達は、とても危なっかしくて見ていられなかった。ただ理想を追いかけているだけの、子供にしか思えなかったものだ。

 しかし目の前にいる雅史に比べれば、彼らの方が間違いなく人として、楽しく生き生きとしていたと思う。

 今の彼の方が、高収入で安定した職に就いていることは確かだ。しかしそれが、男性を評価する時に大切なものかどうかと考えると、そう思えなくなってきた。

 これもバブル時期にもてはやされた、所謂(いわゆる)三高という名のブランドを持った男達と、数多く接してきたからだろう。不況が続くこの時代になると、彼らの多くはかつての輝きをどんどん失っていった。 

 そんな姿を間近で見てきた愛可理達にとって、かつての彼らのような純粋さの方が、ずっと眩しく尊く感じられる。

 愛可理とりんは、彼らが上京してから何度か誘われ、東京の街で遊んだことがあった。そういえばこちらに来てしばらく経った頃、りんに紹介したことがある。

 偶然彼女にも田舎で可愛がっていた男の子が、上京していると聞いたからだ。それなら四人で会おうという話になり、新宿で待ち合わせたのが最初の出会いだった。

 新宿アルタ前の広場で待ち合わせ、愛可理が約束の十時より少し前にそこへ着いた時には、既にりんと彼らが待っていた。その様子は、まだ慣れない都会の人の多さに怯える、子ヤギを連れたお姉さんといった印象を持った記憶がある。

 その為笑いを(こら)えながら近づき、まずはりんに声をかけた。

「ごめん。待たせちゃった?」

「ううん。少し前に来たばっかり。丁度今、三人の紹介が終わったところ」

「じゃあ、私は彼女と同じ会社の同期の岸本です。名前も彼女と同じ“あかり”と言います」

 そう言って頭を軽く下げると、彼女が言った。

「そうなの。だから混同しない為に私はりん姉、あなたはあい姉と呼ばせようと勝手に決めた所。彼らの呼び名も紛らわしくないよう、(かず)(ゆき)は、上の“一”を取って“いっくん”、光輝は下の“輝”を使って“てるくん”が良いって言ってたんだけど。まずかった?」

 愛可理達の間では別の呼方があったものの、確かにこの四人でなら、区別しやすい方が良い。その為了承し頷いた。そこで改めて四人で紹介し合った後、多くの待ち人達でごったがえすアルタ前の広場を離れた。

 とにかく行こうと歩き始めたが、年下の二人はまだ慣れていないのかぎくしゃくしていた。しかし愛可理達が久しぶりの新宿の街を楽しんでいると、いつのまにか四人での会話は弾み始めた。

 一幸と光輝も意気投合したようで、四人は時間が過ぎるのを忘れるほど暗くなるまで休日を過ごし、別れた。それからは四人で会う機会が多くなり、また仲良くなった年下の彼らも二人だけでよく遊ぶようになったと聞いている。

 ただ今年に入り、光輝が受験に向けて本格的に勉強し始める学年になった事もあり、四人で会う機会はめっきり少なくなっている。

 あれからもう三年が経つ。その間に、りんは長谷川課長と付き合い始めた。愛可理は思った。彼らはこの事に気付いているのだろうか、と。もしあの二人が彼女と課長の関係を知ったら、どう思うだろうか。

 彼等にとって私達は初恋の相手であり、昔からの憧れの人だという。東京に出てきた、それぞれのきっかけも聞いていた。愛可理達が田舎から逃げるように東京へやってきたと同じく、彼等もまた私達を追いかけるように、上京してきたのだ。

 彼らの私達に対する感情は、愛情に近い。しかし愛可理達は、あくまで彼らに対し、可愛がっていた近所の男の子として接してきた。 

 それぞれに付き合っている相手は別にいることが、それを証明している。りんが課長の前に別の彼氏がいた事や、愛可理には雅史という恋人がいる事も、彼らは知っていたはずだ。

 しかし二人はその上で、一人の女性として慕い続けてくれている事に勘づいていた。とはいうものの、表だって告白された訳でもない。それに彼らだって、同世代の女性と付き合っていたぐらいだ。

 けれど時々感じる彼らの視線は、自惚れでなく愛可理達に対する好意が感じられた。それを踏まえた上で彼らが今の彼女を見て、心配せずにいられるだろうか。

 りんの過去は、幼い頃から慕っていた彼なら当然知っているはずだ。愛可理は一度連絡を取り、彼女の件を相談してみようと考えたこともある。だがそれは辞めた。

 愛可理とりんが親しいように、今は彼らも親しい間柄だ。片方に告げれば、もう一方にも必ず話は漏れるだろう。自分は雅史という彼氏がいる。りんは不倫だが、別に愛する人がいる点は同じだ。

 それなのに、自分の事は棚に上げていいものかと躊躇した。もちろん独身の彼との恋愛と、妻子ある男性との付き合いとは違う。特に彼女の場合は、過去における事情も異なる。

 ただ彼らの持つ想いが強いことも承知していた。よって事情を聞けば、他人事でないと思うかもしれない。下手をすれば、大騒ぎする可能性もあった。

 男気の強い二人の事だから一肌脱ごうと、長谷川課長の家やもしくは会社にまで押しかけて来そうな気もする。そんな恐ろしい修羅場を想像した時点で、愛可理は考えを打ち消した。やはり教える訳にはいかない、と一人で頭を振った。

「何やってんだ? 頭が痛いのか?」

 雅史が心配そうに、顔を覗いていた。我に返った愛可理は、大丈夫と笑ってごまかす。その日は金曜日だった為雅史の借り上げ社宅に泊まり朝まで過ごし、昼頃までゴロゴロしてから自分のマンションに帰った。

 休日の一人暮らしの部屋のリビングで、何をしているのだろう。他人の心配をしている場合では無い。自分の気持ちはどうなんだ、と愛可理はぼんやり自問自答していた。

 雅史との付き合いも、今や惰性で続いているだけだ。愛可理には先が見えなかった。将来二人は結婚をしているのだろうか。そう想像してみたが、数年前とは違って何も頭に浮かんでこなかった。

 決して彼を嫌いになった訳じゃない。だからと言って真剣に愛しているかと聞かれたら、それも違う。好きかも知れないが、愛しているのではない。ずっと一緒にいたいかと言われれば、そこにも齟齬(そご)が生じる。

 だったらもう、別れた方がいいのではないか。愛可理はそう思い始めていた。将来が不安な訳ではない。例え貧乏であっても、二人でいることが楽しい、またははしゃいでいる未来さえ見えればいい、と考えていた。

 両親が離婚し、幸せな家庭を築けなかった彼らに代わって、自分こそ明るい家族を作りたいと愛可理は願っていた。その相手が雅史だと、付き合いだした頃はずっと考えていた。

 それなのに、今は全くそう思えない。愛可理が変ったのか。雅史が変ったのだろうか。いや、おそらく二人共変わったのだろう。元々持っていたものが、違ったのかもしれない。

 二人の歩く道がどこかで離れ始めた事に、今まで判らなかっただけなのだ。気付いた時は、もう一度交差するには遅すぎるほど、互いに遠くなっていたらしい。

「もう、別れよう」

 二年前に購入して初めて持った携帯電話で、昨日の夜抱かれたばかりの相手に、愛可理はそう呟いていた。

「な、なんだよ? 俺、昨日何か怒らせるような事、言ったか?」

 彼は急な別れ話に、慌てて聞き返してきた。

「別に、何も。ずっと考えてたの。別れた方がいいだろうって」

 そう静かに答えると、今度は彼がしばらく黙った後、怒ったような声で答えた。

「そうか、そうかもな。そんな感じ、俺もしてたんだよ」

「そう、じゃあ別れよう」

「ああ、そうだな」

 電話は彼の方から先に切った。こうしてあっけなく、七年以上も続いた付き合いが終わった。それでも不思議と涙は出なかった。愛可理はその後、何故か一幸に電話をかけた。

「もしもし、いっくん? あい姉だけど、今、忙しい? 急なんだけど明日の日曜日、どこかスカッとするところに連れてってくれない? ちょっとむしゃくしゃすることがあって、気分転換したいんだけど。てるくんは今忙しいだろうし、りんともちょっと一緒に遊ぶ気分じゃないんだ」

 彼はいきなりの提案に、戸惑っていたようだ。しかし何かを察したのか、彼は了承した。

「いいよ、判った。じゃあ明日の朝早く、家まで迎えに行くよ」

 一幸は十六歳になると直ぐに自動二輪の免許を取得して、今は先輩から譲り受けたという中古の250CCバイクに乗っている。東京は駐車場が高く道路も混んでいるから、車なんか持つよりバイクの方が移動しやすい、というのが彼の持論だ。

 けれど愛可理は一度だけ後ろ席に座らせてもらってから、恐怖とその不安により、いつか事故を起こすのではないかと心配した。だから何度もりんと一緒に、バイクなんか辞めなさいと忠告してきた。

 大抵の事なら私達の言葉を聞く彼だったが、バイクに関しては譲れないようで、聞く耳を持たずまだ乗り続けている。しかし今の愛可理は、彼の背中にしがみつきたかった。

 スピードを出して走るバイクの後ろで、吹き飛ばされそうな強い風を受けたい。その風に嫌な気分を乗せ、掻き消してしまいたかったのだ。

 その先にはすっきりと晴れ渡った青い空と、広く見渡せる穏やかな海を見たい。そんな気分でいた。一幸はそんな愛可理の気持ちをまるで読み取ったかのように、翌日の朝、マンションの前にバイクを乗りつけてくれた。

 彼はヘルメットを愛可理に渡し、行き先も決めないで何も言わずに走りだした。スピードは思っていたより、出ていなかった。これまで注意して来たからだろう。彼は愛可理を安心させる為に、安全運転を心掛けているようだ。

 それでも流れる風は強く感じた。冷たくも無く、生暖かくも無くちょうどいい。外は汗ばむほどの陽気で空は晴れ渡り、まさしくツーリング日和だった。

 愛可理はぎゅっと一幸の体にしがみつき、時折メットのアイカバーをずらす。蒸れる顔にも風を当てながら、都会の流れる景色をぼんやりと眺めていた。

 やがて周りの様子は少しずつ田畑や緑が増え始め、都会から田舎へと変化していく。すると真っ青な空の下に白い波が見え、潮の匂いもほんのりと香り始めた。

 一幸は愛可理が行きたいと思っていた海に向い、走ってくれていたのだ。口にしない気持ちを何も聞かずに汲み取り、感じ取った彼に感謝した。今だけは余計なことを考えず、思い切って甘えてしまおうと心に決めていた。

 岩場が見える海の(そば)の、誰もいない駐車場にバイクを止めて降りる。二人はそこから、水平線をずっと眺めていた。海に来たなんて、何年振りだろうか。

 それ以上にこんなじっくり、のんびりと海を見つめたことなど今まであっただろうか。それよりどこからでも見えるこの空さえ、じっと見上げるなんて子供の時以来かも知れない。

 少なくとも社会人となり、しゃかりきに働き始めてからは無いだろう。かといって、それほど働き詰めの仕事人間だったつもりもなかった。そんな自分でさえ、都会の中に紛れ込み足掻(あが)いている間に、どこか心を亡くしていたのだろう。

 愛可理は雅史のことを考えていた。短大時代にコンパを通じて知り合った彼。会った当時は、有名大学に在学中の素敵な年上の彼と田舎から出てきた冴えない自分が、付き合えただけで舞い上がった。

 そんな自分が社会人として働き始め、まだ彼が学生という身分だった時、何か違うと思いだした。ずれ始めた価値観に違和感を持ち、別れることも考えた。だが三高の内、高収入以外の二つを持ち合わせる彼を手放すことに、何故か躊躇した。

 今思えば、周りへの体裁があったのかもしれない。また一人になる寂しさと、雅史以上の彼をその後に見つけられる自信が無かったからだろう。

 そんな心配は、彼が一部上場の有名企業へ就職したことで一旦は消えた。将来的な高収入を約束され、まさしく三高の条件に当て嵌ったからだ。彼との付き合いは続けられた。

 お互いがまだ社会人として新人であり、がむしゃらに突き進んでいるだけの頃はまだ良かった。ずれていた価値観も、歩み寄ることが出来た。若手として似通った経験もするようになり、共通する仕事の話題も多くなったからだろう。

 だがそれもやがて、お互いが中堅と呼ばれ始めると、変わっていった。再び会社に置かれた立場や職種の違いが、二人の会話をぎこちなくさせたのだ。

 仲の良いりんとは、愚痴などほとんど言い合わない関係だ。それなのに何故か雅史との間では、仕事に対する不満が話題に上った。

 そんな時、なるべく愛可理は聞き役に徹していたかった。

 しかし彼につられ、つい自分も普段抱えていた鬱屈を吐き出してしまう。その都度自己嫌悪に陥いった。

 その上そういった話題に反応する彼の言葉が、毎回癪に障った。“でも、お前の場合はまだいいよ”という素気ない口調に、自分の方が大変なんだと主張しているニュアンスが、感じ取れたからだろう。その事にまた、腹を立ててしまうのだ。

 心のどこかで、彼との結婚を考えていたのも事実だ。友達に雅史と付き合っていることを話せば、決まって羨ましがられた。

「いい玉の輿じゃない! 早く結婚しちゃいなさいよ、逃げられないうちに」

 その上、妬まれもした。その度に満更でもない気分に浸れる自分がいたことも確かだ。それでも付き合って七年経ったが、まだ彼との間に結婚の話は全く出てこなかった。

 だが負け惜しみでは無く、愛可理としても本心では彼と結婚していいのか、迷いはずっとあった。時々顔を見せる二人の価値観の相違とすれ違いの感情。

 結婚なんてしょせん、赤の他人と暮らすのだ。多少なりとも、合わない部分があって当然なのだろう。我慢するのが、結婚だとも言われる。その分安定した家庭を築け、幸せが得られると考えられれば良かった。そんな些細な事は気にしなくなるとも、無責任な人は言う。

 そうなのかもしれないと、思ったことがある。それでも時代はバブルが崩壊して以降、大企業がいくつも倒産した。潰れないまでにしても、リストラの嵐はすさまじかった。終身雇用も崩壊したままだ。

 そんな世の中で、決して安定な道など無いことが判り始めた。思い描いていた結婚のイメージが、根底から覆された頃だと言ってもいい。

 それに愛可理は、仕事が好きだった。働きがいが十分にあるかと言えば、決してそうでも無い。とは言いつつ周りが、少しずつ自分を頼りにしてくれるようになった事は判る。それに応える喜びも知った。

 だからといって、自分がいなければ仕事は回らない等と、自惚れはしない。会社の仕事など、取り換え可能な社員達が働いているからこそ回るのだ。

 今すぐ会社を辞めれば、多少の混乱はきたすだろう。しかしそんなものは一瞬だ。すぐ代わりの社員が、仕事を引き継ぐだけである。それでも愛可理は自分が必要とされている限り、仕事にそれなりのやりがいがある内は、勤め続けたかった。

 次々と慌てるように結婚していく先輩や同期または後輩達の姿を見て、羨ましいとは思う。その反面、自分はそうなる事を、本当に望んでいるかと疑うことが多かった。

 この感情は嫉妬からなのか、と考えたこともある。だが今は違うと言い切れた。雅史との別れを決めた愛可理は、後悔や寂しさよりも今まで長く持ち続けていた心の中の違和感を、ようやく取り除くことができた。その爽快感の方が、ずっと大きかったのだ。

 哀しくない訳では無い。やはり七年余りという月日をかけ、彼が居続けた存在感は決して少なくなかった。ただその影が抜けた大きな穴を通り抜ける風は、虚しく感じられただけで無い。心地よい軽さと、今後の更なる希望を与えてくれた気さえしていた。

 最初は一人頭の中で考えていたこれらのことを、開放感がそうさせたのか、愛可理はいつのまにか一幸に向って話しかけていた。また無意識の内に、りんが不倫していることまでも口走っていた。

喋っている間に、気分が高揚してしまったのだろう。それまで黙って聞いていた彼は、大きな声を出した。

「駄目だよ、それは! 絶対二人の間を止めなくちゃ。このままじゃ、りん姉は絶対不幸になる!」

 そこではっとした。言ってはいけないことまで口にしたと、この時初めて自覚したのだ。愛可理は慌てて口止めした。

「ダメ! 絶対、誰にも言っちゃダメよ! 忘れて! りんのことは、私達がどうこう言える事なんて無いの。特にあなた達のような子供が、口出しできる関係じゃないのよ」

「子供ってなんだ! 急にガキ扱いするなよ、あい姉。りん姉が、不幸な目に遭うと判っていながら、黙って見てろと言うのかよ? それは無理だ。もしあい姉がそんなことをしていたら、俺は体を張ってでも止めるよ。そんな馬鹿な男はぶっ飛ばしてやる」

「ちょっと待って。言うとしても、今じゃないわ。私が忠告しても無視する程、彼女は聞く耳を持たなくなっているから。もう少し待って。彼女が頭を冷やすまで、私も何とかして見るから。いいわね」

 ムキになって興奮する一幸の両腕を、言い聞かせるように掴んだ。少し抵抗していた彼だったが、結局は愛可理の真剣な目に押し切られたように黙った。

 その様子を確認して彼の手を離した。すると愛可理に触れられていた腕を擦りながら、今度は拗ねたように口を尖がらせて呟いた。

「判った。しばらく光輝にも黙っておく。でもさっきあい姉が言ったことは、訂正して欲しいな」

「訂正? 私がさっき言ったことって?」

「俺達の事を、子供って言ったことさ。もうガキじゃない。そんな目で見ないでくれよ。俺も光輝も、そういう風にあい姉やりん姉に扱われるのが、一番辛いんだからさ」

 彼は下を向いたまま、舗装されたアスファルトの地面を蹴飛ばす仕草をしている。そういうところがまだ子供だという事に、彼はまだ気づいていない。

 愛可理は思わず噴き出し、笑ってしまった。

「なんだよ、笑いごとじゃないんだ。真面目に言ってるんだからさ」

 彼は真剣な目で歩み寄り、今度は愛可理の両腕をしっかり掴んだ。

「今だから言うけど、あい姉も辛い思いをしているって、俺達はずっと知ってたさ。そりゃあ、雅史っていう男と付き合って、楽しい時もあったと思うよ。でも俺達はあい姉とあの男は合わない、だから止めとけってずっと言ってたじゃないか」

 一幸は、愛可理と彼が別れたとの話を聞いてホッとしたという。だが続けてこう言った。

「それをあい姉は、いつも俺達を子供扱いして、まともに聞こうとしなかった。確かに俺達はあい姉達よりずっと年下さ。でもそんな俺達だって、後二年もすれば二十歳になるんだ。十八の今だって、結婚出来る大人なんだよ。だからもう少し、一人の男として見て欲しい。頼むよ。あい姉やりん姉だって、俺達の気持ちには、気づいているんだろ。俺達は昔から好きだったし、ずっと守らなきゃいけないって想い続けてきたんだ。それは今でも変わらない」

 彼の迫力に押され、思わずのけぞった。いつの間にか一幸の腕は逞しくなり、愛可理を掴むその手も力強くなっていた。背はもうとっくに抜かして高くなった彼は、愛可理を見下ろしている。つい真面目な顔になり、その瞬間ふと男を感じてしまった。

 するとそれを感じ取ったのか、急に雰囲気が変わる。二人の間に流れる空気が、一瞬で別のものに変化していた。緊張が走り、愛可理は体を強張らせながらも、じっと一幸の目を見つめていた。

 その目は自然と潤んでしまった。それが逆効果だったのかもしれない。彼は愛可理を強く引き寄せ、顔を近づけてくる。何故か抵抗できなかった。というか、抵抗しなかった。

 以前から気づいていた彼の熱い想いを、先程初めて真正面からぶつけられて、拒むほどの勇気がなかった。それでも彼の唇が自分の唇と重なった時、愛可理は軽く顔を逸らした。

 嫌いだというのではない。でも好きかというとそう言い切れない自分がまだいたからだ。彼は顔を遠ざけられたことで、握っていた腕をすぐに手放し、距離を置いた。

 恥をかかせてしまったと思い、慌てて愛可理は謝った。

「ごめん、違うの。嫌だからというんじゃなくて、そういうんじゃなくて、」

 言い訳じみた言葉も、その後が続かない。彼も俯いたまま黙っていた。だがよく見ると彼の顔は真っ赤になっている。心配になって一歩、二歩と近づいた。

「いっくん? ごめん、そんなに怒らなくても」

「違う。謝るのは俺の方です。ゴメン、あい姉。女性は大事にしなければいけないって教えられていたのに。きつく言い過ぎたし、強く握り過ぎた。しかも無理やりキスなんかしちゃって、俺、勘違いしてたんだ」

 おそらく傷つけてしまったのかと思ったが、近づく愛可理から逃げるように後ずさりする彼は、過剰に怯えていた。その様子を見ていると、単純に照れているようだと理解した。

 愛可理と唇を重ねるという咄嗟に出た自分の行動に(おのの)き、驚いてしまったのだろう。自分でもどうすればいいのか判らなくなり、戸惑っているのかもしれない。

 やはりまだまだ子供だな、と愛可理はほっと胸を撫で下ろし、笑いながら思い切って彼の体に抱きついた。

「な、何するんだよ」

 腕を首の周りに絡めて顔を近付けた愛可理は、耳まで赤くなった彼の顔を、自分でも意地悪い顔をしているだろうと思いながら微笑み、

「別に怒ってないよ。いっくんが私にキスするなんて、大人になったもんだね」

 そういった後、さらに付け加えた。

「でも、これ以上はまだ駄目だよ」

 首に抱きついていた愛可理は、それほど大きくない胸を彼の胸に押しつけながらそう呟いた。彼は必死な形相で、忙しく首を縦に振ったり横に振ったりしながら強がった。

「も、もちろん判ってるよ。これ以上何もしないし、できないよ」

 体にぶら下がる愛可理の体を持ち上げるように、また押しつけられた胸の膨らみから逃げるようにして、首を()りながら答えていた。

「でも、ありがとうね。いっくんの気持ちはすごく嬉しかったよ」

 まだ彼の体に抱きつきながら笑いかける。

「判った、判ったから」

 もうこれ以上密着していると、下半身がどうにかなると思ったのかもしれない。引き剥がすように愛可理の腕を掴んで離し、背を向けて手をズボンのポケットに入れもぞもぞしていた。

 やっぱり男の子なんだなあ、でもそこが子供なんだってとまた心の中で笑った。愛可理は一幸の生理現象が落ち着くまで視線を逸らし、再び海を眺めることにした。

 しばらくすると落ち着いたらしい彼が隣に来て、一緒に並び海を見つめた。もしかすると彼も、自分の過去を思い出していたのかもしれない。

 愛可理とりんの両親と同じく、彼や光輝の家庭も離婚しバラバラになっていた。それだけではない。彼らは幼い頃、自分達が経験していない親からの暴力というものを受けていた。

 一幸の母親は、父親からの虐待から逃れるように実家へ戻った。周囲の反対を押し切って結婚した経緯もあり、その後は肩身の狭い思いをしたはずだ。

 しかしその後もいけなかった。彼が中学生になった頃から家庭環境がおかしくなり始めたのだ。母親が新たな男性と、付き合い始めたからだろう。再婚話も出たらしい。

 一緒に暮らしていた祖母も、二人の関係をよく思っていなかったそうだ。けれども前回と同様、耳を傾けようとはしなかった為に諦め、放任していたと聞く。

 けれど問題だったのは、男の方が息子や祖母の存在を疎ましく思っていたようで、二人の関係はなかなか前に進まなかったという。そこで母親までもが、彼らを邪険にし始めたらしい。

 その事がきっかけとなり、彼は中学を卒業したら家を出ると決めたのだ。元々絵を描くことが好きで、将来デザイン系の道に進むつもりだった。

 その為、母親の結婚に反対しない代わりとして、条件を付けたという。それが東京にあるデザイン科の専門学校への進学だった。もちろん上京し、一人暮らしをするにはお金がかかる。結局は寮のある学校を選んだのだが、学費等の面倒を見てくれと頭を下げたのだ。

 幸い男はそれなりに、経済的な余裕があったらしい。だからこそ母親も、彼を頼るようになったのだろう。金だけ出せば、後は離れて暮らし勝手にするのなら、と男は了承した。

 二人が結婚式を上げたのは、一幸が中学の卒業式を終え無事合格した東京の学校に通う為、家を離れる前日だったという。母達はその後そのまま新婚旅行の為に、ハワイへ旅立った。その時彼は東京行の新幹線の中だったのだ。

 それから彼は、母親の下へ帰ったこと等一度も無いという。専門学校に進む為の資金を出して貰う時も、電話だけで済ましたと聞いている。

 愛可理とりんも、親や地元から逃げるようにして上京した。それを追いかけるように彼や光輝もやって来たのは、似た事情に加えて唯一心を許せる相手が、そこにいたからだろう。

 四人とも、親の身勝手な行動のせいで関係がギクシャクとし、家庭は崩壊していた。

 しかし愛可理は大人になった今、彼らは周囲の目を気にすることなく、自分の感情の赴くままに行動した結果だと理解している。

 それ自体、本当に悪なのかと言われれば即答し辛い。人を好きになりまた幸せになろうとする気持ちは、理屈でないことを知ったからだ。

 りんの例を挙げれば明らかだ。自らも不幸な経験をした彼女でさえ、父親を奪った憎いはずの女と同じ行動を取っている。崩壊した家族にとっては悪でも、新たに結ばれた二人からすれば、幸せだったのだろう。

 自分の本能に基づく想いに従ったからこそ、幸運な巡り合わせが訪れたのかもしれない。しかしそれは、不運だと思う愛可理や一幸達の立場からは理解し難かった。

 何故なら逆の境遇に立って初めて、どう感じるかが判るからだ。間違いなく捨てられた家族は、切ない思いをする。一方で捨てた方だって、心苦しかったかもしれない。けれど苦しんで悩み抜いた上での結論だった、とも考えられる。 

 愛可理は決して不倫を正当化するつもりもなく、許すつもりもない。だが現実にその禁断の愛が存在し、それを止めることも無くすこともできないことは認めざるを得なかった。

 そんな事を考えていると、横にいた彼が海をまっすぐ見たままで言った。

「話を戻すけど、りん姉のことはそのままにしておいていいはずないよね。彼女だって、悲しい思いをしてきたんだ。相手の男にも、同じように娘がいるんだろ。同じ経験を、今度はりん姉がその娘さんにさせることになるんだよ。そんな悲しい負の連鎖は、断ち切らないといけない。やっぱり駄目だ。誰よりも俺達やりん姉達は、どれだけ苦しみ辛い事なのか判っているはずなのに」

 再びこの話題になり、一幸は不倫を止めなければいけないと言い続けた。そんなことは愛可理だって判っている。それ以前にりん自身も理解しているはずだ。

 なのにその関係を止められない。続けてしまう心の弱さなのか、逆に続ける意志の強さが、彼女にはあるのだろう。正直、愛可理はどうすればいいのか答えを出せずにいた。

「だけどさっきも言ったけど、まだ誰にもこの事を言っちゃ駄目だからね。あなた達も、地元で大変な思いをしてきたじゃない。てるくんの昔の話は、知っているでしょ?」

「同級生の子が、母親に殺された話だよね。あいつから聞いた」

「あれだって彼が良かれと思い、正しいことをした結果よ。女の子を苛めから解放したまでは、良かったと思う。でもその後、親に殴られた怪我を発見し機転を利かして、病院に連れて行かせたのよね。でも結局彼女の死という悲劇で終わったことは、あの子のトラウマになっている。今度だってりんの為に良かれと思った行動が、想定外の結末を迎える可能性だってある事を忘れないで。そんなことは無いと、誰が言いきれる? 第一、一番の親友の私の声さえ、あの子は聞かないの。だから今は駄目。いいわね」

 愛可理はそう何度も念を押し、彼もまた渋々と頷いた。その結末が、さらなる悲劇を生むとは誰も想像できなかった。愛可理はこの時の事を、一生後悔することになるのだ。

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