幕引き
翌日。
改札を抜ける桃花。そしてここは、いつもの〇番ホーム。所々に、いつ誰が吐いたかも知れないガムの跡がこびりついている。黄色い点字ブロックだけが、不似合いに鮮やか。
そこに立つ少女。よくよく見れば、菊もなかなかに可愛らしい。愛嬌のある顔立ちで、桜子とはまた違ったタイプの美少女だ。
「おはよう、おキクちゃん」
「おはよう、モモちゃん」
並んで列車を待つ二人。ずいぶん経ってから、桃花は思い出して言う。
「おキクちゃんには、一番ホームが見えないんだね」
菊はうなずく。「私は、こちらの世界の住民だからな。対してお前は、桜子とのつながりのせいで、すでに半ばほどあちらへ足を踏み込んでいる。だから一番ホームを覗くことができたのだ」
サクラに会えるなら、それでも構わない――とは言ったものの、自分がそんな状態にあると知れば、多少は恐ろしく思える。もし桜子と同じく向こうへ引き込まれれば、桃花も、こちらの世界の人たちから忘れ去られてしまうのだろうか。そう考えると、目の前の線路が、三途の川か何かのように思えて来た。
「モモちゃん」菊が、線路を見つめながら言った。
「なに?」
「本当に、桜子を助けたいか?」
桃花はうなずく。
「あちらへ行って、戻って来られないとしてもか?」
桃花の決意は変わらない。
菊が目を向けてくる。
「聞き方を変えよう。お前の見た桜子は、本当にお前が知る桜子なのか?」
質問の意図がわからなかった。桃花が見た少女は、桜子以外の誰でもなかった。なぜ菊は、そんなことを聞いてくるのだろう。
「一番ホームの怪異がお前を誘い込むため、お前にとってもっとも親しい友人の姿を借り、茶番を見せている。あるいは」菊は一度言葉を切り、束の間を置いてから続けた。「そもそもいるはずのない桜子と言う娘を、親友だと思い込まされている。そう考えることはできないか?」
「ない」
桃花はきっぱりと言った。
「なぜ、そう断言できる」
「だって、それは――」
そう言い掛けたところで、記憶の道筋がぴしゃりと閉ざされた。桃花は、桜子を友人だと示す思い出を、引っ張り出すことができなかった。
誰もが、桜子など知らないと言っていた。そして桃花にも、桜子の思い出などないことがわかった。ただ、「友だちのサクラ」と言う事実が、記憶の中にぽかりと浮かんでいるだけなのだ。すると菊が言うように、桜子は存在しないのだろうか。彼女は一番ホームに潜む、怪異が見せる幻なのか。
「ちがう」
思い出なら、ある。つい一昨日、桃花はそれを、菊に語っていたではないか。
中学からの友だち。
二人の名前を読んで、姉妹みたいだと言った友だち。
モモちゃんなどと言う、ちょっとこそばゆいあだ名をつけてくれた友だち。
桜子はいる。それは間違いない。では、どうしてみんなは、彼女を存在しないと言うのか。
「ちがう」
みんなとは、誰だ。
家族?
先生?
クラスメート?
誰でもない。それこそが、間違った記憶だ。桃花の頭の中に、シールやステッカーのようにぺたりと貼り付けた、顔のない人たちの薄っぺらい証言の記憶。
「私、知ってるから。サクラは、ちゃんといるって。私はサクラが好きだって。それと」急に気恥ずかしくなって、桃花は言葉切った。それでも、一呼吸を置いて続ける。「それと、私、おキクちゃんも好きだよ。思い出せないけど、たぶん私、前からおキクちゃんのことを知ってる」
「おかしなことを言うな」菊はにこりと笑みを向ける。
「うん。私もそう思う」桃花も笑い返す。
菊は黙って桃花の手を取り、彼女を近くのベンチへ導いた。
桃花はベンチに腰を降ろし、菊を見上げる。
「目を閉じろ」と、菊は言う。
桃花は目を閉じる。菊の両手が、肩に置かれるのを感じる。左の眉に一つ、右の眉に一つ、唇の感触を覚える。桃花は目を開け、腰を浮かせてから菊の頬に、いきなりキスする。そうして、ぎょっとする菊を見て、くすくすと笑いながら言った。「お返し」
「からかうな」菊は頬を押さえ、唇をへの字に曲げる。
「うん、ごめんね」
「わかっている」
菊は脇にどけ、桃花はふと思い出す。そう言えば、今日の菊はおにぎりを食べていない。どうしてかたずねたくて、桃花は横にいるはずの少女に目を向けるが、彼女の姿はなかった。その代わりに、別の少女の背中があった。あの、スマホを見つめる少女だ。
「モモちゃん」耳元に、菊の声が聞こえた。「お前の手で、この茶番に幕を引くのだ。だが、間違えるなよ?」
桃花は頷いた。
桜子を捕らえた怪異は、この少女の自殺を阻止しようとしている。理由はわからない。だが、そのせいで、スマホの少女は永遠に自殺を繰り返し、桜子は一番ホームに囚われている。そうとなれば、やることは一つしかなかった。間違えようもない。
桃花は腰を上げた。そうして、少女の背中を見つめていると、不意に怒りがこみ上げてきた。「お前のせいだ!」と罵声を浴びせてやりたかった。しかし、
『まもなく、一番ホームに列車が参ります。危険ですので、黄色い線の内側まで――』
入線ベルが鳴る。
どうやら、その暇はなさそうだ。
桃花は歯を食いしばり、手を伸ばして少女の背に向かい、足を踏み出した。




