退魔騙り(一)。/"Terror END".
仄かに死臭が漂う夜の街。深い闇に覆われた路地で、その男は一人逃げていた。
「どうなってんだ、畜生がぁぁぁぁッ!」
罵声とともに懐から拳銃を抜き放ち、冷や汗に濡れた手で握りしめる。
パン、パンと、乾いた二発の炸裂音。
恐怖に震えた腕での射撃だったが、二発のうちの片方が運良く相手へと命中する。
着弾の衝撃が、相手の持っていた包丁を取り落とさせた。路面に軽い金属音が響く。
けれど。
「ふざっ……ふざけんなよ、死ねよ! 当たっただろうが! そもそも、何でそれで生きてんだよテメェは!?」
何事も無かったかのように、『それ』は動いている。
確かに銃弾は命中した。相手の皮膚は弾け、肉が破れ、骨も砕けている。常人なら激痛にのたうち回り、まるで動けなくなるほどの傷。
だがそもそも、右腕のみで浮遊する『それ』が、常人であるはずがない。人であるはずがない。
「有り得ねえ、あんなモンただの都市伝説だろうが! なんなんだ、この、化け物ぉッ!」
浮遊する右腕が包丁を拾い直し、男へと刃先を向ける。
「なあ! 誰かいねえのか! おかしいだろ、街のド真ん中で銃ぶっ放したんだぞ!? まだ夜の八時じゃねえか、なんで誰もこねえんだ! おい!」
街は異様なほどに静まり返っていた。男以外の人影などどこにもない。
男は袋小路へと追い詰められる。金切り声で狂ったような罵声をあげる男の右肩に、勢いよく包丁が叩きつけられた。
拳銃を取り落し、男が悲鳴を上げる。喉を切るような絶叫を気にも留めず、浮遊する腕は再度包丁を男に叩きつける。
叩きつける。
叩きつける。
ぶち、と音を立てて男の腕が千切れた。
激痛にのたうち回る男の脳天へ、ぞんざいに包丁が突き入れられた。
隣町を牛耳るヤクザの使いっぱしりだったその男は、それで絶命した。
「…………」
静寂が何秒続いただろう。
千切れた男の右腕が小さく震え、浮遊した。
男の腕は取り落した拳銃を拾い上げ、包丁を持つ腕と同じようにふらふらと路地を飛んでいく。
『足りない』
何かがそんな声を発した。
『足りない。足りない。人手が足りない。人の手が、足りない』
『あの青い少女を殺すには、まだ腕が足りない。腕が、足りない』
二本の腕が、夜闇に紛れ消えていく。
――その【街】には、数年前からある都市伝説が存在する。
それは我々を殺す、人ではない何かだと。
それは我々を滅ぼす、化け物ですらない何かだと。
それは我々を終わらせた、一本の腕しかない何かだと。
"一本腕"と呼ばれる何かが、まだこの【街】のどこかにいる。
※
※
その日はゴールデンウィークの開始日だったらしい。
らしい、なんて他人事みたいな言い方をしたのは、ゴールデンウィークに興味がないからだ。ぶっちゃけた話、私ってば年中全休のクズニートなので世間様の連休事情なんざ知ったこっちゃない。
むしろ私にとってはゴールデンウィークなんぞ街に人が溢れかえる最悪の週でしかない。「連休中は絶対に家から出ないぞー!」と干物女子一直線な目標掲げちゃうレベルだ。
というか、このままじゃ女子って名乗るのもおこがましくなってくる。あーあ、何もしてないのに来年でもう二十代前半って名乗れなくなっちゃうよ。どうしよう。仕事なんてしたことないし。結婚なんて無理無理の無。死のっかな。常に持ち歩いている小刀を指先で弄くり回す。人の肉なんて斬れそうもない、肥後守みたいにちゃちなナイフだ。
意味も無い思考を繰り返していると、お母さんからお呼びがかかった。ポケットにナイフを仕舞い、ゆらりと立ち上がって部屋を出る。
廊下を歩いていると、扉の隙間から洗面所の鏡が目に入った。不健康そうな女が鏡面に映っている。我ながらひどい顔だ。なんだこいつ、死体か? 白いワンピース着ればそれだけで貞子のコスプレが出来るねこれは。今日も自虐のキレが良い。
さて、そういうわけでお母さんに――おや、おめかししてる。お出かけかなこれは。もう大分遅い時間なのだけれど。
「旅行よ。深夜バスしか取れなくてね。ゴールデンウィーク中は帰って来れないわ」
さいで。単身赴任中のお父さんのところに行くのかな。それとも上京したお姉ちゃんのところかな。まあどっちでもいいか。名古屋や京都なんて大都会、この関東の半端な地方都市から出たこともない私には完全に未知の世界だし。
「あと、今日からゴールデンウィークの間、お父さんの知り合いの娘さんを預かることになったから。中学一年生だって」
「ふうん」
「お世話よろしくね、セツナ」
あ、うん。……うん?
「無理」
「その知り合いの方、お父さんの恩人らしいのよ」
「無理無理無理! ていうか、えっ、今日!?」
「今日。具体的に言うと一時間後」
「なんで先に言ってくれないの!?」
「言ったわよ、先週ぐらいに」
言ってないよ。あれ、言ってないっけ。そういえば言ってた気がする。言ってた。
「でも、無理だよ……! だって私料理とか出来ないよご飯とかどうするの、死んじゃうよその子!」
「ごめんなさい、もうバスが出る時間だから、ツッコミを入れてあげる時間がないの」
別にボケてるつもりじゃないけどそんな寂しいこと言わないで?
そしてお母さんは家を去っていった。無慈悲。
…………。
「どうしよう……」
ああ言ったけど、数日分の食費ぐらいなら普通にある。
お母さんに貰ってるお小遣いとか(二十四にもなって親からお小遣いて)ブログのアフィリエイト収入とか(月に平均八百円ぐらいだけど)全然使わないまま数年間貯めっぱなしだし、毎食出前とかじゃない限りは問題ない。
問題があるとすれば私のコミュ力だ。
「この数年間家族以外の人間と会話していないこの私が子供の、しかも思春期の子の面倒を」
くっ、胃にダメージが。まだ始まってもないのにこれにて終了って感じ。死にそう。
「死んだ」
しかし死んでる場合じゃない。なんとか生き返って衝撃に備えないと。胸に手を当てて心臓マッサージ。巨乳。いやふざけてる場合じゃないって――うっわ車のエンジン音響いてきたよやだやだ怖い怖い! 来客怖い! ニート特効!
カーテンの隙間を覗くと、タクシーの中から小柄な人影が現れるところだった。ううぅ、というか親御さんはどういうつもりなんだ、こんな時間に中学生の子を一人で外出させて外泊させるなんて。
ぴんぽーん、とドアチャイム。まだ一時間経ってないよ心の準備出来てないよ勘弁してよ。ぴんぽーん。追撃のドアチャイム。あーもうわかったどうにでもなーれ。はいガチャリ。アンロックからのオープンセサミ。
――唐突だが、私は青が好きだ。
私自身は顔が青白いだけの白と黒とグレーしか似合わないような地味女なのだが、それでも私は私のイメージカラーを青色だと思っている。ラッキーカラーも青だ。特に占術的根拠は無いけど。
で、玄関前に立っていた少女の瞳は、とてつもなく鮮やかな、美しい青色だった。
セミロングの髪は艶のある黒色で、顔立ちも純日本人的なのに、虹彩が青い。ラピスラズリみたいに。
日本人で青い瞳というのは珍しいが、ありえないことじゃない。例えば九州地方なんかじゃ偏在的に碧眼の人がいるらしいし。
美しいのは瞳だけじゃない。目鼻立ちの整った、明るい雰囲気の美貌。それも太陽とかヒマワリとかそういう明るさじゃなくて、星とか紫陽花とか、そういう、華やかだけどどこかお淑やかな感じ。将来美人になりそうっていうかもう美人だ。まだ可憐さが上回ってはいるが、来年か再来年には綺麗って単語が似合うようになると思う。
そして、私は干物女であるからしてファッションにはさほど詳しくないのだけど、トップスを白、ボトムを浅葱色でまとめた巫女さんみたいな服装が可愛らしく、かつ神秘的で――いや、ここまで言っておいてなんだけど、ちょっと描写がくど過ぎる。
端的に言おう、美少女だった。
なんていうかインスタ映えしそう。いや、ここまで俗な言い方をするのもそれはそれでダメか。そもそもインスタやってないし。
でも、それとは別に、ちょっと撮影したいな。なかなか映えそうなものを携えてるし。顔は写さないようにするから、私のブログに上げさせて欲しい。
「あ、うぅ……っ」
うん。
ここまでコンマ一秒ぐらいで考えたわけだけど、なんでこの子泣きそうになってるわけ?
「え、えっと、どうしたの?」
「ひぃう……!」
びくりと震えて涙目になる少女。いやもう私も涙目だよ。どっちが先に泣くかのチキンレースしちゃう? どちらが先に泣いたところで私の負けになるんだけど。
とはいえ、流石にここまで怯えられるいわれは無い。確かに私は女にしては背が高い方だし、死人みたいな顔をしているけれど、それで初対面の少女に泣かれるほどじゃない。
だからきっとこの子は――ああ、なんか面倒になってきた。
写真撮ってからにしようと思ったけど、もういいや。これ以上怖がらせるのも可哀想だし。
この子は可愛くて人も良さそうだからね、殺すか。
「ちょっとごめんね」
警戒している少女に向けて一歩踏み込み、右手でポケットからナイフを抜いた。
とはいえ、この子には私が刃物を持ったことすらわからなかっただろう。
斬、と。
少女は抵抗も反応も出来なかった。
――そして少女に憑いていた悪霊もまた、抵抗も反応も出来なかった。
核となっている部分を斬り祓う。悪霊の幽体が消し飛び、私の持つナイフにまた一つ穢れがこびりつく。
わかってはいたが、随分と格の低い霊だ。私みたいなアマチュア退魔師に無抵抗で消し去られるなんて。
ああ、そういえば自己紹介がまだだった。
私の名前は片霧セツナ。
職業:無職、趣味:悪霊狩り。
霊感を持っていて、心霊写真ブログの管理人をしているだけの、ごく一般的なぐーたらニートだ。
少女の表情がすっと落ち着いた。思春期の子は感受性が豊かだから、とかく悪霊に障られやすい。結果として、精神に悪影響を及ぼすこともある。中学生の情動が不安定なのは、何もホルモンバランスの変化によるものだけじゃないのだ。
「ちょっとゴミ憑いてたから、取ったよ」
とはいえ、普通の人には悪霊なんて見えやしない。抜き放ったナイフも、既にポケットの中に収められている。抜刀から納刀まで、誰にも見えない神速の一閃……完璧だ。我ながら惚れ惚れするね。
「お姉さん今、霊を祓いましたよね? ね?!」
普通に見られてるじゃーん。
「私、霊感あるんです。見えましたもん、霊がバシュって消えるところ!」
「えっ、ああ、そう」
そう、じゃないが。こりゃ予想外の事態だ。どうしよう。
「弟子にしてください!」
ああもう、なんか面倒臭いことになっちゃったぞ。